親子が支配的でなく対等関係の場合、子どもはどんどん自信をつけて行く。なぜなら、権力で頭を押さえつけられた人間は、傷つきやすい性質になる。同様に甘えた人間も、"弱さ"という点において傷つきやすくなる。弱さの中には劣等感の強さも込められている。ようするに、人は受け身で甘えているからこそ傷つくのだが、こっらすべては親によってつくられる。
だからか能動的な人間はさほど傷つくことがない。受け身の人間にくらべて、傷つく理由がはるかに少ないからであろう。一例をあげると能動的な人間は、これがしたいということを人に頼んで断られたからといって、受け身の人間のように傷つかない。誰かに、「好き」と告白し、断られたからとめそめそ傷つくこともない。能動的だから別の誰かを見つけようとする。
「教育とは、何をするべきか?何をなすべきか?そして、それはなぜか?…を本人が自ら気付けるように関わること」。「躾けとは、教育を受けた結果、得た学びを実践する過程において、常に正しく実行できるように、習慣化させること」だと考えている。傲慢で強圧的な親が子どもを受け身にし、心配性で過保護の親が子どもを甘やかす。すべては親の責任である。
教育と躾は同義とされるが、あえて自分の考えを言えば、躾は裁縫のしつけ糸にあるように、ある決まった良いとされる法則、親が正しいと判断する法則に従わせることであろう。故にか、親の価値基準によって、家庭ごとに親の意に沿う躾が存在する。親の意に沿う躾でいいのか?との疑問もあろうが、躾の実行者が親である以上、親の意を汲むのは当然である。
「躾」といっても、時代背景や文化や親の価値観によっても変わってくる。昔は、食事時に喋るのはよくないとされ、それこそお通や状態だった。口の中に食べ物がある時に喋るのは行儀が悪いということで、この考え方は欧米では理解されない。あちらの食事というのは、食ってる間中会話をするのを、戦後に輸入されたアメリカのホームドラマを見て驚いたりもした。
茶道や華道においても格式が重視され、寡黙に事が進んでいく。欧米人なら、わいわい、がやがやのティータイムである。生け花を習う時に聞かされる利休の逸話がある。「茶道の名人利休の庭には朝顔の花が美しいことで知られていた。太閤秀吉がわざわざその花を見ようと、指定の日の朝、利休の庭にやってきたところ、朝顔が一本残らず切り取られているのだった。
驚きもし、腹立たしくも茶室に入ってみると、そこにはたった一本の朝顔の花だけが生けられていたという。もっともすぐれた一茎の花の美しさを強調するがために、利休は庭にあったすべての朝顔を犠牲にしてしまったのだ」。茶席に参加する人は、せいぜい五人程度、昼の茶会でも部屋はほの暗く、部屋の造作は洗練された単純さでしつらえてある。
様々な日本的美意識のなかに、「寡黙」というのは重要な要素なのだろう。食事時に喋らず、厳かに進行するのも、喋るのは行儀悪いという美意識である。欧米のような食事=交流ではなく、あくまでも礼節を重んじる。また、食事時に席を立つなどもご法度である。いったん膳の前に座ったら、食事が終わるまでテコでも動いてはならないこれもしきたりである。
ましてや立ち食いなど、きつく戒められた。日本におけるマグドナルドの一号店は、1971年7月20日、東京・銀座の四丁目の交差点にオープンした。広さ45平方メートル、椅子席なしの小さなテイクアウト専門店は、馴染みのなかった日本人に本場のハンバーガーが手軽に食べられると、行列のできる大人気店となった。この辺りから日本人の意識構造が大きく変わっていった。
銀座の歩行者天国を、マクドナルドのハンバーガーをほおばりながら歩くことが、当時のトレンドとなり、あれだけ禁止された立ち食い、歩き食いというとめどない解放感に満たされたのをしかと覚えている。まさに、"味なことやるマグドナルド"であったわけだが、それでも初めての食い歩きの際は、「こんな行儀の悪いことしていいのか?」という戸惑い感もあった。
何より礼儀作法を重視された食事時間だったが、こんにちは作法などあったものではなく、家族で楽しくおしゃべりしながら食べることをよしとする傾向に変わっている。それでもやはり昔の人間なのか、あるとき吉野家で牛丼を食べていたところ、隣のお兄ちゃんの携帯が鳴り、食べながら電話で会話するのには驚いた。携帯が普及し始めたころのことである。
おそらく自分は今でもそれはできない。というより、携帯を持ち歩かない性分である。食事時の携帯など何のその、今は女性ですらトイレで、「unchingケータイ」など何でもないこと。かかってきた相手にでさえ、「今、トイレ!」といえるところがもはや文化である。外食時、用足し時、いずれも経験ないのは持ち歩かないからで、もし、トイレで鳴ったら出るかも…
息子が携帯を持った時、「クソし垂れながら電話するのだけは止めれ!」と注意したのを覚えている。もう十年も前だが、正直こういうことは許せないと思っていたが、今はそれほど行儀の悪いことだと思わなくなっている。なぜか?これも文化であろう。躾というのは、その子にどう育ってほしいのか、何を身に付けてほしいのか、何をしてはならないかを教えること。
それが10年でこうも変わったのは、文明のスピードの速さであろう。日進月歩どころか、秒進分歩の時代である。世の中が変われば親の意識も変わってくる。つまり、これが世代間格差といわれるものかと。子どもをもって、乳児から立って歩く幼児へと成長すれば、親は様々なことを子どもに教え込む。一人で洋服を着たり、一人でトイレにいくこともである。
こうした、いわゆる基本的な生活習慣の自立を思い描く親は多いだろうが、何でも一人ですること、できることが自立というのは少しばかり違っている。本当に社会的な自立行動のできる人というのは、人との調和で何かができる人である。これが、「他人と協調できない人間は自立ができない」といわれるゆえんである。それにはチャンとした理由がある。
他人と協調できることは、即ち人との関係で何かができるということであり、それはつまり相手を信じることであり、信じる必要性が生まれるということ。親子関係に於いても同じことで、子どもが親を信頼し、親との人間関係をしっかり作ることが大切だ。そのためには子ども自身が価値ある存在として認められていると実感できるよう、無条件で受けいれることだ。
「無条件」ということが大事であって、「〇〇したら…」、「〇〇になったら…」というのが、こどもにとって最もよくない物言いとなる。バカな親は、そのことで子どものやる気を出させ、ハッパをかけているのだろうが、なにごとにもこうした交換条件を出すと、子どもとの信頼関係を損なうことになる。無条件こそが、子どもが親からの無償の愛を実感する。