子育てには養育と教育がある。範囲が多岐に及ぶ教育の方が難しい。教育には躾も含まれる。躾とは文字通り、人間としての正しい言動、つまり、社会人としてのマナーやモラルを教えること。学校教育にも道徳の授業があるが、教育を受ける以前に家庭での躾が大切で、家庭での躾が身に付いていないと学校や社会での団体生活でわがままで人に迷惑を掛ける人間になる。
学校は教育をするところなのに、ウチの子は挨拶もできない、偏食は多い、勉強もできないなどと、すべて学校の責任にする親がいる。結論をいえば、「その親にしてこの子あり」で、オメデタイ親というしかない。親にどつかれても、教師はあまり反論しないが、腹のなかでは上記の思いを抱いている。自分たちが子ども時代の教師は威厳もあり、親に率直にものを言った。
だからなのか、母親は教師の悪口ばかり言っていた。自分がどれだけバカな親であるかも知らず、教師を目の敵にしていたことで板挟みにあって不憫なのは子どもである。言うまでもないが、「親は我が子を教え導かなければならない」。教師はどうか?「教師は生徒を教え導かなければならない」。と、自分は親と教師の違いを感じている。これに説明は不要だろう。
教師と生徒は対等ではないが、孫の行事で合唱コンクールなどに出向くと、教師と子どもは対等関係であるような印象を受ける。生徒が教師を茶化すような光景は50年前にはあり得なうが、教師は生徒から茶化されて楽しんでいるようだ。これは一体…?昨今のこうした教師と生徒のあり方に驚かされる。昔は教師に怯えていたが、どちらも楽しそうで結構なことだ。
親子関係はどうなのか?ここに書く記事の多くは、親子は支配関係にあるという前提でいるが、最近の親は子どもに遠慮し、子どもも親に対して友達感覚なのかも知れない。個々の家庭の問題だから一概には言えないが、友達関係の親子は多いかも知れない。親子は、「対等関係」がいいのか、「支配関係」がいいのか、度合いにもよるが、一般的には対等がいいとされる。
が、自分なりに考えてみる。親は子どもに様々な期待を寄せるもの。「将来はいい大学、いい会社に入って欲しい」、「立派な人間になって欲しい」、「家業を継いで欲しい」、「人から慕われるような人間になって欲しい」などなど。そのためにどうするか、てっとり早いのが早い時期から塾に押し込むという方法がある。そうでもしないと子どもは遊んでばかりいる。
子ども支配が顕著な親は、子ども主体に物事を考えないし、母親が子どもに伝える言葉ですら、「いい学校に行きなさい」、「偉くなりなさい」などと、命令口調である。すると子どもは知らず知らず親の言葉に蹂躙され、自分の意思や考えを押し殺して母親の期待に応えようと一生懸命になる。反面、その場を適当に取り作る子もいれば、あからさまに反抗する子もいる。
親に盲従タイプの子はひたむきな努力をし、後者の子どもはとりつくろうのが上手くなる。子どもの性格はまちまちだから、自分独自の考えを持つことを許されず、黙して親に盲従する子に親は満足する。母親の押し付けを避けて親の意思とは反対方向に行く子に親は腹を立てるが、自我形成期に反抗期のない子は、他人に自分の人生を支配される点において危険である。
息子3人を医学部に行かせるのが親の使命という親がいた。その子たちは親の意思に応えたが、それが自らの意思であったかは疑問である。自らの意思といいつつ、他の選択を葬り去られていたのなら、言わずとしれた暗黙のレールである。結果主義に照らせば目標達成されているが、小学生の卒業文集に、「将来は野球の選手になる」と書いた子とは大きく隔たっている。
支配関係がよくない最大理由は、子どもの意思が反映されないこと。親が子どもを信頼していないことがあげられる。つまり、母親が自らの全てを投げうって、必死で導かねば、子どもはどんな方向に向かうのか、不安な思いに駆り立てる。我が子に尽力するよき親とするのか、憐れな親のロボットと見るのか、他人の評価はどうあれ、すべてはその親と子の問題である。
母親の自己イメージや理想が高いゆえに必死に躍起になるが、そもそもにおいて、母親の理想に合致する子どもなどいるはずがないのである。したがって、その様に人為・作為で持っていけば母親の願い適ったりの子どもにはなるが、そこまですべきかという考えはある。アスリートやスポーツ選手を育てた父子鷹は、主が子、従が父という点において教育ママとは違う。
子どもを東大医学部に行かせるのと、イチローや松山英樹にするのと、どちらが至難かの比較は無意味だが、東大医学部入学者の数と単純比較から見えてくるものはある。東大に行けば名医になる保証はないが、どこの三流大であれ、高卒であれ、努力でイチローや松山は存在した。東大に入るための努力と、イチローになるための努力と、どちらの価値が高いのか?
あえて愚問を提起したのは答えがないからで、受験のための一時努力と、大器になるための継続努力とはまるで違う。大雑把にいうなら、受験は歩留り論であるから、受験で苦労しても後で楽という考え方である。子どもが社会に出て、苦労せずに順風満帆を願うという、いかにも母親らしい発想だ。ずっと努力し続けろ、うかうかしていて未来はないというのが男の発想である。
子どもに対する男と女の発想はこうも違うものだ。支配的な親から叱られたり怒鳴られたりで、自信をなくした子どもは多い。親の理想を適えられなかった子が果たして自分を大切にし、自らを尊重できるのか、という危惧を抱く。これが支配関係親子のリスクである。子に理想を掲げ、一途に求めた親であるが、親子双方に人生上の失敗という禍根を残したことになる。
理想が適えばいいが、適わなかった責任を親は子どもに取りようがない。息子三人を東大に入れた親ですら、決してそれが勝利とは言えない。親の望みは子の望みであったか、子には別の生き方の可能性もあったろうし、最高学府というステータスを得たのだから善しとすべきとの肯定論に騙されない。たとい何になろうと、自分の生き方こそが自らの人生である。
「諸君、我々は生きなばならぬ。生きるために常に謀反しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して…」。これは徳富蘆花の言葉のアレンジ。母親の横暴に苦しんでいるとき、この言葉を見つけた時の感動は今でもくっきり覚えている。この言葉は大逆事件の指導者として死刑になった幸徳秋水を讃えたもので、蘆花が第一高等学校(現・東大教養学部)での講演で述べたもの。
蘆花の正確な言葉、「幸徳君らは時の政府に謀反人とみなされて殺された。が、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である」。自らに道を作るのが人生なら、他人の敷いた軌道を走る人生はつまらない。親の言葉は至言にあらずとし、いかなる至言も耳に逆らう。これが謀反の極意であろう。