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誠実と不誠実の狭間で…

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行動しない、動こうとしない人間には腹をたてたりした若き日の思い出が懐かしい。仕事を命じる立場にいる時は、そこの点は厳しく指導するよう留意していた。言い含める言葉はあるにはあるが、自分の場合は部下に、「迅速・丁寧・的確」は、「誠実の証しである」ことを頭と身体で分からせようとした。その際に、「誠実」の対義語を、「だらける」と説明したりもした。

「言葉」は人を裏切るが、「行動」は人を裏切らない。口ばかりで行動しないのを、「言行不一致」といい、本人にどうあれ、他人には不誠実と考えている。約束を守らないばかりか平気で反故にする人間は、嘘つきで不誠実であるのは間違いない。頼んだことをキッチリやってくれるのは、人への最大の信頼となる。そうである人間とそうでない人間の差は責任感だろう。

「信頼のおけない人間とは付き合えない」。このことを重視しているが、不思議にそういう人間がいる。女に多いが男にもいる。自分にはないことなので不思議というしか言いようがないし、いい加減な人間とインプットされる。約束を破る人間は、「ごめん、忘れてた」などというが、「忘れる」こと自体が無責任で、こんな言葉は絶対に吐かないと肝に銘じている。

イメージ 2「忘れてました。ごめんなさい」というのは謝罪なのか?そうは思わない。自分に対する言い訳であって、これほど人をバカにした言葉はない。子どものときにたくさん、たくさん、母親からそういう行為をされたのを忘れない。あげく母親は一度も謝罪はしなかった。自身のための言い訳をしなかったのは、言い訳をも無視するほどに子どもを愚弄し、見くびっていた。

子どもは親から嘘をつかれると、哀しみにも似たやり場のない気持ちに襲われる。「子どもがウソばかりつくので困っている」という親がいた。おそらく、その親は子どもに嘘をたくさんついたのではないだろうか?つまり、親子間に信頼がなくなっていることが、子どもに嘘をつかせる。子どもに嘘をつかれた親は、信頼を裏切られた気持ちになるが、同じように親から嘘をつかれた子どもは、親に信頼をなくしている。

子どものウソは親へのシグナル、警告とみるべきで、早急に適切な対応をとるべきである。素直な子、自信や勇気の持てる子どもに育てたいなら、親は子どもに誠実に向き合うことが何より大事ではないか。子どもが親に嘘をついた時に、「ウソをついてはいけません」と頭ごなしに叱る親がいるが、これほどバカげた言い方はない。なぜなら、それで解決がつくはずがないからだ。

そういう親は、「嘘=悪」と思っているのだろうが、そんなことを子どもにいえる親が、子どもに嘘をつかない親なのか?ということもあるが、そんなこと以上に大事なのは、「なぜ、子どもが嘘をつかねばならなかったか?」である。子どもに限らず、自分は相手が嘘をついたとき(明らかに嘘だと分かる嘘)に、同じように考える。「なぜ彼(彼女)は嘘をつくのか?」と…。

約束を忘れていた場合、本当に忘れていた時の、「ごめん、忘れてた」と、忘れていないけど実行しなかったときの、「ごめん、忘れていた」は中味が全然ちがっている。それを見極める洞察力を先ず自分がもっているか。正しい判断ができるかも大事なこと。人間だから忘れることはあろう。そこはお互い様というのが寛容である。自分に絶対そのような非はないというのは思い上がり。

そうでなければ、「それ見たことか」ということにもなり兼ねない。今回の貴乃花の一件はまさにそうであった。「ミイラを取りに行って、自分がミイラになった」話は少なくない。何だカンだと他人の批判する人は、間違いなく自分を差し置いている。利口な人は自分の生き方に誠実であろうとする。「言う者は知らず、知る者は言わず」という言葉を噛みしめる必要がある。

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批判の本質は自己向上の枷とすべきで、他者批判する人間は人格者でも何でもない。相手と交わした約束を本当に忘れてしまうことはある。他人との約束を軽んじたり、責任感の強い人間でも、「絶対」に忘れないことはないが、忘れた人間にとっては本当にショックとなる。彼は言い訳も弁解もせず、ただ自分を責める。付き合うべき人間はこういう人間でありたい。

妻にし、夫にして人生を共に歩む人間は、こういう相手であるのが望ましい。子どもにとって、本当に価値のある親はこういう親であるのが望ましい。「価値」の大切さでいうなら、友達の多さ自慢し、優越感に浸っている人は憐れである。本当に気が合ったとしても、価値観もまったく同じ人間がこの世に何人もいるわけがない。確かに異なる価値観をぶつけ、戦わせるのは重要だ。

それができるのは若い時である。若い時分、自分と考えが相反する友は、むしろ必要であろう。が、30歳、40歳を超えれば、そういう相手と無理をして合わせ、無意味な時間を過ごす必要性を感じない。自由に生き生きと生きようとするなら、惰性の友人なんか必要ない。いつもの相手と、いつもの場所で、同じ話ばかりするのは残り少ない人生にとって無駄である。

子どもの嘘、大人の嘘を思考するに、大人の嘘に比べて子どもの嘘は純粋で、自分の身を守るための嘘であることが多い。「子どもが嘘ばかりつくので困ってる」という母親に、「何をどう困ってる?」と問い返すと、返答に困っていた。大人と違って子どもの嘘というのは、実は本音の裏返しと考えるべきだろう。「叱られたくない」、「親が怖い」、だから嘘で逃れようとする。

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それを叱りつけても問題は解決をしない。だからシグナルと捉えること。大人の嘘は不純である。純粋な嘘をつく大人もいるが、邪悪な人間は嘘をつくことで相手を陥れようとする。なぜ、嘘までついて相手を陥れるのか?自分のためにつく嘘は、自分を甘やかせる人間だが、他人に罪を着せようとする嘘つきは要注意人物である。「45年前に恋人」の記事はそのことを指摘した。

彼女はなぜこのような言い方をしたを種々思考してみた。それで得た最終結論は、彼女は今の自分の境遇や日常や、生活のことで頭が満杯で、それ以外のことになど誠実に対処する必要を感じなかったと判断した。65歳で仕事をし、40前の娘と同居し、それが彼女の人生の何よりの優先順位であり、昔の恋人に再会した感激に浸る自分の純粋なひたむきさには及びもつかない。

そう結論すればすべてが理解できた。こういう場合、むしろ男の方が感激する者というのもよく分かった。男のロマンに対し、女にとって大事なのはやはり現実であるのを、『マディソン郡の橋』が教えている。あまりの環境の変化に対応できない女性の保守性というのは、心理学的考察である。彼女の視点に立てば責めることはできないが、だからといって嘘や不誠実さは別。

無邪気な男は女の思慮の浅さを責めるが、責められるべくは男の無邪気さでもある。冷めた見方をすれば、昔の恋人に再会して悦にいってるバカ男ともいえるのだ。彼女は自分の生活を寸分乱したくなかった、それほどに重い日常を送っていることに比べると、自分の日常の軽薄さである。冷静になれば見えないものも見えてくる。相手のことも、また自分のことも、である。

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