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「拭き掃除ロボット」の怪

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仕事は、「迅速」、「丁寧」、「正確」といわれるが、顧客の立場でこのようにされたら誠実さを感じるはずだ。上記のことを習慣づけておけば間違いなく顧客の満足度が得られる。自分についていえばまずは迅速で、これは心掛けというより、せっかちな性格から起こる事だが、意識して心掛けるのは、「正確」、「丁寧」の方で、こちらは気遣い、心遣いの問題である。

「善は急ぐべし」、「今できぬ事を明日やれるはずがない」をモットーにすれば、自ずと仕事のできる人間になるが、そういう意識のない人は自らを鼓舞するところから始めてみる。時に横着な気分になることもあるから、「疲れた」、「忙しい」、「面倒くさい」を禁句に自己啓発をしている。人間は自分に甘いので、自分に都合のよい言い訳を用意するものだ。

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毎日のことだからそういうこともあろうが、仕事は遊びではないので自己啓発は大事。趣味のウォーキングや将棋やブログを書いたりの日常だが、頭の冴えない日も体調思わしくないときもある。将棋も冴えないし、ブログの文章にも精彩がなく、ウォーキングは疲れが大きい。238段の階段のところで体調の良し悪しはすぐに露呈するから、自らに喝を入れてみる。

「お前はそんなにダメな男なのか!」という自問し、激をとばす。自己啓発の方法は人によって喝をいれたり、鼓舞したりするが、自分の場合は自問することが多く、長年そうしてきた。以前はなかった外出前の電灯の消し忘れが目立つこの頃だ。「こんな簡単なこともやれないお前は、どんだけバカか!」と自分を責める。上辺ではなく、心からその様に思う。

「電灯の消し忘れ如き…」などということはない。仕事としてみれば、こんなお粗末なことは羞恥としか言いようがない。意識しないでやれたことを、意識しなければできなくなったなら、それは仕方のないことだから、出来るように自分を変えていくのが変化への対応である。それでも、意識のない日、薄い日があって、外から帰ってみると煌々と灯りがついている。

腹も立つし、悔しくてならない。老いのセイにはしたくはないが、この変わりようはまさに老いの賜物である。「若い時と同じようにはいかない」と、それはそうである。事実はそうでも、自身を甘やかせる言葉としては使いたくはない。もはや進歩や向上はなくとも、現状維持の努力は続けたいものだ。それが老いに対する向き合い方であり、無理をせぬ方法であろう。

イメージ 2基本は、「自分らしく生きること」。自分らしさとは自分が一番分かっているのだから。若者とそうでない者の違いは、年齢の他に何があろうか。ベーコンという哲学者はこう述べた。「若い時は一日は短く一年は長い。年をとると一年は短く一日は長い」。若さにかまけて一日はあっという間に過ぎるのは経験したし、一年は長く、10年先のことなど想像もつかない彼方であった。

それに引き換え、年をとると何もすることがなくなるからか、一日は長く感じられ、一年はあっという間に経ってしまうということだ。が、自分はやることに事欠かないからか、一日が長いと感じない。あっという間に終わってしまうのでベーコンの言葉とは相容れない。自由度に関しては、若い時分にくらべてはるかに増している。束縛を受けるものなど何一つない昨今の情勢。

束縛がないということはストレスがないことになる。ストレスがないということは、だらけてしまい易い。人間はだらけやすいので多少のストレスがある方が、やる気と集中力を生むから、ストレス皆無は決していいことではない。だから自らが何かを強いて、多少のストレスを生まなければ、人間は抜け殻になってしまう。そういう自分もストレスを生みながら生きている。

ウォーキングもブログもそうかも知れない。しなければ、音楽でも聴いてうっとりしたり、考え事をしたりの時間も苦にはならぬが、そうした以前と違って格段に身体のメリハリは向上している。「最近体を動かさないからなまって仕方がない」の声はしばしば聴くが、「なまって」は、「鈍って」である。にぶくなるということだ。動物としての生体反応として当然である。

人間は動物で、動かねばならないが、近年は人間を動かなないでいいものが、生活必需品として多く出回っている。「自動式掃除機」を見たとき、こんなものを買う人の心を自分なりに読んだ。電気掃除機では不満というから、それを見越してお掃除ロボットが作られたのだろう。最近もっと驚いたのが、「自動拭き掃除機」という商品で、「こんなものまで?」という感想だ。

「拭けば済むことだろ?」が実感。なのに、自動でなければならないのだろう。自動ドアが出現したとき、文明の利器に驚きもした。大方のデパートやコンビニストアが自動ドアだから、そうではないと、「なんなんだこの店舗は!」と思うようになった。ドアは手で押したり身体ごと当たって開けたりだから、さほど力はいらない。が、客を迎える姿勢としての自動ドアであろう。

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客に店舗に入るための労力を使わせない点において、優れたサービスツールであろう。洗濯機も炊飯器も掃除機も確かに生活面ではこの上ない便利機器である。これなくしては原始時代に戻ると思わせるくらいになくてはならぬもの。近年で最も重要かつ絶対に手放せない発明は、自動洗浄便座である。拭きが悪いと痒みなどの障害があるといっても、尻を洗うことなどできなかった。

出来ないし、やりづらかったが、今やそれをしてくれる機器は優れモノだ。ところが自動拭き掃除機の出現は、やれることをしないのだから、誰がこんなものを考えるのか腹も立ち、こんな不埒なものを買う人間の顔が見てみたいであった。お掃除ロボットの時も同じで、親の顔も見てみたいすら思った。ある日、長女宅にそれを見つけてドキっとした。親の顔も知っている。

済んでしまったことは仕方がないが、拭き掃除ロボの購入を知った暁には、「親子の縁を切る!」と口に出す気でいる。どんな子も親の子どもゆえ、子ども批判は親批判となる。といいつつ、思いつつ、親の子、子の親批判は絶えない。だからというわけではないが、「親子といえど他人」と思うに限る。血は繋がるから、「アカの」とまで言わずとも、他人である。

世の若い主婦は便利に慣らされてしまっている。「お掃除ロボ」や、「拭き掃除ロボ」を必要とする時代を嘆かわしいと思う古い人間かも知れぬが、おそらく娘も、「こんな便利なものはないよ」といいそうだ。決して拭き掃除という行為が不便ではなく、単に横着を便利といってるに過ぎない。便利といえば、尻を洗ってくれる便座だが、あれほど優れた発明はない。



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