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求道的変人・将棋界

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将棋の羽生善治と囲碁の井山裕太がともに国民栄誉賞を受賞した。40代の羽生はさておき井山は28歳だった。若いというならマラソンの高橋尚子も受賞年齢は28歳、レスリングの吉田沙保里は30歳、同伊調馨は32歳で受賞となる。文化勲章はジジババが多いが、国民栄誉賞は年齢に関係ない。第一号は41年前の王貞治だった。各界からこれまで26人が受賞している。

羽生も井山も共に史上初の全タイトル制覇(七冠)ということでの受賞であるが、国民栄誉賞に相応しい将棋界の巨人といえば、大山康晴十五世名人や升田幸三実力制三代名人が浮かぶ。大山は1992年、升田は前年の1991年に他界したが、王貞治が1977年に初受賞したように、国民栄誉賞は存在した。囲碁界に詳しくはないが、坂田栄男や藤沢秀行らは有資格者かもしれない。

俳優・歌手では、長谷川一夫(1984)、美空ひばり(1989)、藤山一郎(1992)、渥美清(1996)、森光子・森繁久彌 (共に2009)らは理解できる。サザエさんの長谷川町子(1992年)は死去の2か月後に受賞。藤子・F・不二夫や手塚治虫も賞に相応しいが、手塚は長谷川以前の死去ということで、タイミングの問題もあったろうし、アトムが受賞なしならドラえモンの受賞は難しい。 

26名中12名が死後受賞となっている点が、皇居で陛下から授与される文化勲章とは異なる。国民栄誉賞を選ぶ基準は実は明確でない。規程には、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」を目的として時の内閣総理大臣が、「適当と認めるものに対し」、「随時」、表彰することとされている。

同じように、顕著な業績があった人に贈られる文化勲章は、有識者による審議会や文部科学大臣の推薦などを経て閣議決定されるなど、審査や手続きがより複雑となっている。それもあってか、国民栄誉賞をめぐっては選考基準のあいまいさや授与のタイミングもしばしば議論になる。上記した手塚や藤子は好例といえる。あってはならない政治利用の懸念もいわれている。

平昌五輪フィギュアスケート金メダルの羽生結弦選手(23)の祝賀パレードが、22日午後、仙台市青葉区の東二番丁通で開かれた。4年前のパレードよりさらなる観客数が見込まれ、宮城県警や実行委員会は、「過去最大級」の態勢で臨むが、これだけの実績からしても国民栄誉賞に該当すると思うが、授与を決めた安倍総理には、「疑惑隠し」ではともいわれている。

羽生結弦選手の、「国民栄誉賞」授与には、国会が紛糾しているという時期も批判の要因となっている他、「国民栄誉賞のレベルが下がっている」、「他にも授与すべき人はいる」などの不満・批判・否定意見が国民に多い。同じように将棋の羽生氏や囲碁の井山氏にも批判はあった。が、天才棋士集団のなかで、1年間に七大タイトルをすべて制覇というのは信じがたい偉業である。

が、歌手や俳優やスポーツとと違って、将棋・囲碁の愛好家人口は少ない。偉業ではあっても将棋に関していうなら、国民に広く愛され、注目されている点においては、羽生永世七冠よりも藤井聡太六段であろう。そうはいっても、藤井六段が国民栄誉賞にはならない。広く愛されてはいるには違いないが、彼はまだ15歳であり、「長く愛されて」の部分から言っても該当しない。


「碁打ち・将棋指し」という言葉がある。現在では、碁や将棋が賭博でなく深遠な頭脳ゲームであることを疑う人はいないが、かつて碁打ちや将棋指しは、特殊な遊戯を扱う博奕者であり、盤上の遊戯をなりわいとする人々であった。一部の国民には愛されたが、「碁打ち・将棋指し」と蔑まされた棋士たちへの世間的なイメージはこんにちに比べてあまりよいものではなかった。

将棋界、囲碁界においては、時に求道的天才のような人物が現れる。変人ともいわれる彼らであるが、映画『聖の青春』の故村山聖九段や、大山と死闘を繰り広げた故山田道美九段が即座に浮かぶ。生前山田はこんなことを書いている。「将棋とはしょせん娯楽であり、棋士とはその娯楽に寄生する賭博師ではないか。将棋によって金を得ようとする不純なものがある。

自分は何のために将棋を指しているのだろうか。盤に向かって苦闘することに、何の意義があるのか。どんなに一生懸命指しても、苦闘の末に作った棋譜は観戦記と言う有り合わせのボロを着せられ、死骸のように新聞に載って捨てられた。将棋を指すことは、自分の一生を打ち込むことに値するのだろうか」。報われることのない苦悩と懐疑の心情が伝わる文章である。

山田九段は棋士を志すも世間的なイメージの悪さもあって親に大反対された。山田は反対を押し切ってプロ棋士養成機関の奨励会に入会したものの、さっぱり勝てず、生活のためのアルバイトは辛く、ようやくプロになってもその貧しさは大差なかった。そうしたもろもろの苦しさもあって山田は、果ては将棋を指すことそのものを懐疑するようになってしまったという。

山田は打倒大山を胸に当時の一流棋士の立場でありながら、自身が用意した部屋に奨励会員を集めて研鑽した。それは後に、「山田教室」と呼ばれ、現代のプロ棋士の間で盛んにおこなわれる研究会システムの先駆者であった。無敵時代の大山名人に果敢に挑戦すること三度、1967年第10期棋聖戦で大山を下し、初タイトルを獲得した山田は、次期には中原を避けて棋聖位を防衛した。

大山には常に闘志をむき出しに挑んだ山田は読みに集中すると、姿勢がどんどん前のめりになる癖があった。ある対局のとき大山が、「(盤面が影になって)暗いから頭を引っ込めてくれないか」と一喝したところ、当時すでに頭髪がすっかり薄くなっていた大山に向かって、「まぶしくてかなわん。頭巾をかぶってくれないか」と言い返したエピソードが残っている。

山田は酒も飲まず、賭け事も一切しなかった。打倒大山の担い手として二上達也、加藤一二三と共に期待され、当時では数少ない研究派の山田は、対振り飛車急戦の山田定跡等を残している。1970年に現役A級在位のまま特発性血小板減少性紫斑病により36歳の若さで急死。6月6日の対大山戦が最期の対局となった。現役A級で逝去した棋士は山田の他に大山康晴、村山聖がいる。

山田は将棋道に邁進する求道者であったが、すべての棋士に、「求道者」という語句が当て嵌まるかといえばそうでもない。佐藤天彦名人はクラシック音楽を親しみ、ブランドで固めた洋服の井出達から棋士の間で、「貴族」と呼ばれ、将棋の研究に余念はないが求道者のイメージはない。加藤一二三もかつては求道者といわれたが、将棋から離れただの変人として人気がある。

将棋はそこそこに株式で資産を築いた桐谷広人七段も求道イメージはあった。彼は高校時代、二宮金次郎ばりに将棋の本を読みながらの通学スタイルだが、将棋から離れるとただの変人である。現役最強棋士羽生善治も、国民栄誉賞授与式に寝ぐせはなかったが、将棋のタイトル戦でいまだ寝ぐせを治さないのは、一般人と乖離した点において、やはり変人であろう。

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