書けど書けども尽きない日本人論だが、日本人であるがゆえに見落としがちな日本人らしさと言うのは確実にある。外国人に指摘されて、「なるほどTHE・日本人」を意識させられる。例えば次の記述など…。「姑と嫁の間には非常な反目がある。嫁は外来者として家庭の中に入ってくる。嫁はまず姑の流儀を学び、次に万事をその流儀に従って行うことを学ばねばならない。
多くの場合、姑はずけずけと、嫁は到底自分の息子の妻になる資格のない人間であると主張する。またある場合は、相当激しい嫉妬を持っていると推察されることもある。がしかし、日本の諺にもある通り、『憎まれる嫁が可愛い孫を生み』であって、したがって、嫁と姑の間にも常に孝が存在する」。と、日本人にとってあまりに当たり前のことをあらたまってみると、なぜか可笑しい。
ベネディクトの日本人に対する慧眼は続く。「嫁は上辺は限りなく従順である。ところが、このおとなしい愛すべき人間が、世代が変わるにつれてつぎつぎと、かつて自分の姑がそうであったと同じように、苛酷な、口やかましい姑になっていく。彼女たちは若妻時代には、その実意を表に現すことはできないが、それだからといって、本当におとなしい人間になりきるのではない。
彼女たちは晩年になって、いわば、その積もり積もった宿怨を自分の嫁に向けるのである。こんにちの日本の娘たちは公然と、跡取りでない息子と結婚する方がはるかに得策だといっている。それすれば、威張りちらす姑といっしょに生活しなくともすむからである」。とここまで詳細に書かれた、日本人の至極当たり前に生活に触れ、思わず笑わないでいられなかった。
外国人であるからこそ、こうも真面目に当たり前のことを書くのだろうが、なぜそんな風な視点で日本人を見るのかを考えれば、やはり彼らにとってこういう日本人は奇異以外のナニモノでないからだろう。日本人には書けない文章が、こうも具体的に書かれることは可笑しくもあるが、改めて納得させられる。次男や三男が楽という事実についての記述の仕方が面白い。
いかに底意地の悪い姑といえども、彼女自身にもかつては、うららかな若妻時代があったということを、ベネディクトの指摘によって想起されられる。結局のところ嫁姑問題は、女と女のあくなき連鎖であるとベネディクトは捉えているようだが、男には分からぬ女対女の機微であろう。虐待の連鎖というが、幼少期に虐待されたものは同じように我が子を虐待するといわれている。
これが自分には理解できない。自分が虐待されたからこそ、同じような親には絶対にならないという気持ちが養われたように、その様になると思うのだが…。自分が苦しい思いをしたからこそ、他人にやさしくできる。相手にも同じような思いを味わせたいというのは、真っ当な人間というより屈折した人間であろう。そのくせ、我が子には苦労をさせたくないと手厚い加護をする。
嫁という外敵に対する姑のつれない感情というのは、愛する我が息子がそれと同等の愛を母親に向けるべきはずなのに、嫁に分散させるということへの嫉妬心であり、ベネディクトも同様の指摘をする。嫁・姑問題が女の醜い嫉妬心から派生するなら、途絶えることはないだろう。義理の母には義母の意識はあっても、姑に義理の娘という感情はなく、あくまで敵対する女である。
嫁はしばしば姑を、「おかあさん」と呼ぶ。自分の妻もそれ以外の呼び名を聞いたことがないが、孫が成長した際には、「おばあさん」となった。が、姑が嫁を娘と呼ぶにはあまり耳にしない。義理の娘には違いないが、娘などという心境には死んでもなれないのだろう。嫁はどこまで行っても嫁である。問題なのは呼称ではなく心であるが、心の無さが呼称にでるものか。
例外というわけではなかろうが、「実の親子のように仲よし」という嫁姑がいる。一般的な嫁・姑問題は、「ドロドロした関係」、「ネガティブ」なイメージがあるが、外国人と日本人の大きな違いは、何か言いたいことがあった場合に日本人は直接本人に言わずに遠回しに伝える。アメリカ人はハッキリと自分の口で伝える、もしくは、ジョークにして笑い飛ばしてしまう。
ハッキリと直接伝えることで、言いたいことはきちんと相手に伝わるが、遠回しな言い方は、返ってイヤミと取られたり、陰険さを助長する。嫁はなぜ姑にハッキリと物が言えないのだろうか?これは、嫁・姑問題に限らず、日本人がハッキリ物事を言わない国民性でること。それプラス嫁にとって姑は義理とはいえ、「親」であり、親には黙って従うものという慣習がある。
親に手なずけられた夫(息子)が姑(母)に頭が上がらない、意見できないのに、嫁が姑に意見(反抗)するなど、もってのほかということになろう。日本人の世界観には、「忠の世界」、「孝の世界」、「義理の世界」、「人情の世界」などの他にも、多くの世界が成り立っているが、多くの人間は他者に対して、全一な人格の持ち主として判断することをあまりしないようだ。
人間の一面や一部をとって全体像を判断する傾向が強い。例えば、「ケチだ」、「欲だ」、「美人だ」、「ハゲだ」などと、日本人には何事も、「一時が万時」の如く、短絡的に捉える。同じように、「孝を知らない」、「義理を知らない」というような判断を、姑は息子や嫁に持つのである。ベネディクトは日本人のそうした視野の狭さについて、以下の様に指摘をしている。
「日本人はアメリカ人のように、ある人を不正であると非難する代わりに、その人間がなすべき務め(義務や恩)を果たさなかった行動の世界を明らかに示す」。つまり、「義務」とはある人に対していかに困難な要求であっても、身近な肉親の世界の中には生れ落ちると同時に結ばれる強力な絆という風に解釈され、人間が当然のように果たさなければならない義務となる。
「嫁は姑の介護をしなければならない」というのはかつての日本人の強力な義務感であった。それをしない嫁は、姑は当然のこと周囲や何の関係のない部外者(世間)から不作の嫁と断罪された。親を養老院にやることさえ、不届きな息子、不届きな嫁と愚弄された時代。それが間違ったことであるは誰もいわなかったが、自分は妻に「それは嫁の義務ではない」と伝えていた。
自分は親に反抗していたことで、親不孝の烙印を押されていたこともあってか、世間の物の見方には馴染めなかったし、自由を得るためには、誰を敵に回そうと自身の生きる方法であった。欧米人は親から義理や義務を押し付けられることはないが、もしそうであったら激しく怒るであろう。もっとも、子どもの生活を犠牲にしても親の面倒を見ろという考えは親にない。
ベネディクトは言う。「我々アメリカ人は、人から手紙を貰ったとか、贈物を贈られた、時宣に適した言葉をかけられたからいって、利息の支払いや、銀行からの借入金の返済の場合に必要な厳格さをもって、その恩義を返さなければならないとは考えない」。日本人の親は平気で子どもに、「淋しい」などと同居を迫ったりする場合もあるが、これは完ぺきなる親の都合(エゴ)である。
そういう言葉を発して子どもを忘恩から逸脱しないようにとの、暗黙の拘束を投げかけている。たとい我が子とといえ、子には子の生活や人生があり、そこに親が自身のエゴを持ち込んで子どもを苦悩させるべきではなかろうに。子どもに生活費を無心する親もいる。本当に困窮し、それでも子に迷惑をかけないようにと配慮する親なら、子どもとて自然に救いの気持ちにはなろう。
義理でするのか真心でするのかには大きな違いがあるが、日本人意識には親の側が義理でも務めを果たせという考えに陥る。親子が共に自立して生きるという考え方は決して非情ではなく、義理とか恩とかに蹂躙されない、誰にも迷惑をかけない明晰な生き方と考える。「恩」という負担や苦しみをを解消させるためにも、自己責任論を信奉して止まぬ昨今である。