「日本人論」、「日本人とは何か」、「日本文化論」などの書籍の類は結構ある。書かれた時代もまちまちだが、日本人は不変ということなら、1000年前に書かれたものも戦前のものも戦後のものも同じ日本人について書かれていることになるが、日本人が変わってないことはない。変わっていても日本人であるから、変わる前と変わった後の日本人を比較すればよい。
何事においても、何かについて考えることは、「比較」することである。日本人について考えることにおいても、日本人と西洋人、日本人とアジア人を比較する。または、かつての日本人とこんにちの日本人を比較する。日本人同士を比較すれば、マイノリティな日本人、マジョリティな日本人論が生まれる。信長も秀吉も家康も日本人であって、何かが違えど日本人である。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の…」と書いたとされる聖徳太子であるが、これも中国との比較のうちに自分の国を意識したようである。日本という国は、生れ、存在した。在るには在ったが、どのように日本が在ったのか、どのような人たちの日本が在ったのかについての関心も、日本人を考えることになる。日本という物語の日本人という役者に興味は尽きない。
日本とそれ以外の比較が本格的に始まったのは、19世紀の半ばの日本の開国以降だった。それまでは新井白石のように外国事情に通じた大知識人の頭には、他の国は民族の比較は始まっていたが、多くの日本人が外国に強い関心を抱いたのは、ペリー来航後に日本人が自らを開いた時からである。朝鮮、中国、オランダなどの交流はあっても、日本人を考察する必要はなかった。
日本人を他国人と比較する必要はなぜ生まれたのか?凡人には分からないが以下記されている。比較の必要が生まれるのは、「開国以来、欧米の中に伍して、「唯一」、非西欧の文化・社会であることから生まれる不安の解決のためで、その不安は日本を低いと見るだけでなく、高すぎると見ることによっても起きるが、当時の日本は技術や自然科学分野で立ち遅れていた。
西田幾多郎や田辺元ら京都学派の哲学者による著作は哲学故に抽象度が高く、「日本人論」とは呼べないが、日本を題材とした。同じ哲学者でも九鬼周造の、『「いき」の構造』や、和辻哲郎の『風土』は、こんにちも読み継がれている、「日本人論」である。桂離宮を称揚したドイツ人のブルーノ・タウトによる『日本文化私観』も、「日本人論」に加えられる。
坂口安吾はタウトの『日本文化私観』について、彼らしい反骨な言葉を投げている。「タウトが日本を発見し、その伝統美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることの間には、タウトが全然思いもよらぬ隔たりがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。
我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。(中略) けれども、僕自身の『日本文化私観』を語ってみようと思うのだ」。と、落ちが入っているのも安吾らしい。
最後にこう結んでいる。「祖国の伝統を全然知らず、ネオン・サインとジャズぐらいしか知らない奴が、日本文化を語るとは不思議なことかも知れないが、すくなくとも、僕は日本を『発見』する必要だけはなかった」。安吾は、①「日本的」ということ、②俗悪に就て、③家に就て、④美に就て、などの4篇の表題による彼なりのユニークな文化私観を書いている。
もし、自分なりの日本文化私観を書くとすれば、何を真っ先に述べるだろうか?おそらくは、「恩」とか、「義理」とか、そうした負担になるようなものをしょい込んでいる日本人について書くかような気がする。親への恩や孝行を、子どもの義務とばかり言われ続けた母親とはいったい何だったのだろうか?どれだけ子どもに嫌われているかを、どの程度把握していたのだろう。
世の中には不思議な人や奇特な人もいて、こちらが嫌っているにも関わらず、それを一切気づかぬような鈍い人間がいる。決してこちらが嫌ってないような態度・素振りをしていないにもかかわらず、それを感じない人間は、強烈な自己愛に縛られている。自分は嫌われるような人間ではないと、そうした自尊感情の持ち主か?どちらにしろ、洞察力の希薄なバカである。
あまりに気づかないなら、言葉に出していった方がいい。それほどに気づいてくれないのは迷惑以外の何ものでない。同じような事例は結構耳にした。誘われたい相手じゃないのに、誘ってくる。友人とも思っていないのに、友人面をする。あげく、「お金貸して!」となる。女性に多いが、相手のそうした態度からして、どこか相手に媚びている自分に気づいてないのでは?
「結局、君は相手の都合で利用されてるんだよ」などといってはみるが、「そうなの?」と、自分が利用されてるなどと感じていない女性は多かった。そもそも、女性の人間関係がそういうものであるとの土台があるのかも知れない。「お前、自分の都合で人を利用していないか?」くらいは男なら普通にいえる言葉であり、言われた側とすれば考えざるを得ない。
言っても分からないバカもいるが、やはり対等で負担のない人間関係を善として構築するなら、「No!」はハッキリ言うべきだろう。「藪から棒」という言葉がある。藪と言うのは草木が生え茂っている場所だが、そんなところから急に棒が突き出されれば驚くに決まっている。草木は草や木であって棒ではない、だから驚く。誰が考えたのか面白い表現だ。
ところが、そんな話を耳にするほど、人間関係はユニークである。「いきなり、金を貸せって、藪から棒になんだ?」というようなことも言えないような相手と見越して言う側の行為であろう。遠慮はいらない、そういう相手には冷たく対応すればよいし、それで当然だと思わせればよい。まさに「藪から棒」なのだから。ところが、日本人はそういう相手にさえいい顔をする。
嫌われてはいけないという思いが過る。これを「日本人のお人よし」という風に解釈するが、「お人よし」と「やさしさ」は違うし、節度をもたない「お人よし」というのは思考が足りないという点でバカであろう。どちらであれ女はそういう男に「やさしいのね」などという。これを言う女は意図がある場合がある。何の意図もなく、思わず口に出る女もいるにはいるが…
口に出さなくてもいい言葉を口に出す場合、その意図を読んだ方がよい。例えば男が、「かわいいね」と女にいう。自分が相手をかわいいと思うのはそれでいいが、あえて口に出して言うところに意図がある。思わず言ってるようでも、それは女性に長けた男の無意識の、「ちゃらさ」である。自分に負担を強いてくる相手を嫌う勇気を人は持つべきであろう。
アドラー心理学を基本とした、『嫌われる勇気』なる書籍がある。読んではないが、おそらくこういうことが書かれているのだろう。帯には、「自由とは他者から嫌われることである」とある。つまり、嫌われるのを怖れるのは、拘束されているということ。自分は嫌っても相手から嫌われたくないというほどに憶病なのだ。嫌われるとどんなに楽か、それが自由である。