渡辺崋山は三河国田原藩(現在の愛知県渥美半島)という小藩の武士であるが、海岸を管理する仕事に就いたのを契機に、海防問題に目覚め、蘭学を始めた人である。崋山は蘭学研究の中で、「欧州では政治体制などの社会システムを時勢に合わせて工夫し改良努力をすることで大発展を遂げている」と分析した。これは、硬直した徳川幕藩体制に対する明らかな批判である。
「欧州では雷が鳴っても耳を塞がない。なぜ雷が鳴ったか、原因を突き止めようとする」。崋山は、欧州強大化の要因は、自然科学や科学技術の進歩と分析し、自著『再稿西洋事情書』において、「強大国になるためには自然科学的探求の精神が不可欠」と説いた。徳川幕府の官学である朱子学用語の、「窮理」という言葉を、"自然科学探求の精神"を表わすために使った。
これらが講じて、天保10年(1839年)5月高野長英らとモリソン号事件や江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど言論弾圧を受けた(蛮社の獄)。その後、極貧生活を余儀なくされた崋山は、幼少のころから生計を支えるために画業を志していたが、絵を売って生計を立てているとの風聞に耐え切れず、謹慎生活を送る田原の池ノ原屋敷で切腹した。
崋山は人類の思想基盤を、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教の五つと説明するなど、開かれた頭脳の持ち主だった。この考えは当時の日本では画期的で、当時の日本常識では中国哲学である儒教のみが唯一の思想基盤であり、儒教以外の宗教思想を儒教と同列に考えるなどあり得ない。崋山は五の世界宗教を並べて相対化することで、儒教絶対批判を行った。
幕末から明治時代初期になると国防事情から神国思想が廃り始めた。福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、日本人に学問する自由と平等を説いたが、その一方、国際政治哲学的には極端な論を展開する。彼は、日本が千年以上にわたり、思想的・文化的交流を続けてきた中国・朝鮮を、「悪友」と呼び、絶縁して欧州諸国と同盟を結び、その立場から両国に接するべきと訴えた。
福沢の論拠は現実的であった。事実、欧州諸国の方がアジア諸国よりはるかに国力が強く勝っていた。さらには欧州の帝国主義諸国は、露骨なアジア侵略を目論んでいたことを看破し、「日本が中国・朝鮮と同類と思われたら、日本も侵略を受けてしまう」という切羽詰まった恐怖感に襲われていた。人類の文明発展過程を、「野蛮⇒半開⇒文明」の三段階と福沢は捉えていた。
そしてこの発展は端的に、「国力の増強」であり、「文明」は、「野蛮」より強いとした福沢は、欧州列強国の文明の高さを熟知し、日本国を守るためにも中国・朝鮮と手を切ることを説いた。福沢の現実論には、「暴力による侵略は許されない」との平和主義的な思考はまるでなく、「強いものが弱いものを食い物にする(侵略する)のは仕方がないという割り切りがあった。
福沢のこうした考えは、1894年(明治27年)の日清戦争を、「文明と野蛮の戦い」と意味づけ、日本側からこれを肯定した。こうした福沢の思想を非難するのは簡単であるが、当時の欧州帝国主義の傍若無人の振る舞いの前に、「暴力反対」の掛け声が何の役に立ったであろうか。「アヘン戦争」は、イギリスが麻薬のアヘンを中国に押し付け、難クセをつけて中国を潰してしまった。
列記としたそういう事実を周知の上で福沢の中国・朝鮮蔑視は、日本国防というリアリズムから発していた極めて便宜的な姿勢であり、国学などの観念的な神国思想とは、明らかに一線を画すものだった。福沢は「惑溺」した精神を粉砕するために、「実学」を通じてより「強靭な主体的精神」を形成し、近代社会の「関係性のジャングル」を生き抜くことの必要性を説いた。
「強靭な主体的精神」を形成するとは、目前の課題を乗り越えるための価値判断を不断に流動する心構えを持つことである。言い換えるなら、「自ら自己の視点を流動化する」力を持つこと。彼はこの、「強靭な主体的精神」を、「独立自尊」もしくは、「独立の気象」と呼んだ。改めて福沢の偉大さ、明晰さに感服させられる。『脱亞論』の中で福沢はこう論じている。
「我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず。寧ろ其伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣國なるが故にとって特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接する風に從て處分す可きのみ。(略)亞細亞東方の悪友を謝絶する」。以来、脱亜意識が国民意識を次第にとらえ、日本人の対アジア認識をリードしていくことになる。
福沢諭吉は日本の最高額紙幣である1万円札の人で、かつては聖徳太子であった。太子といえば、「和をもって尊しとする」であるが、それが福沢諭吉になったことで、こんにち日本国民に求められているのは、独立自尊の精神ということであろう。諭吉に、「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず」の有名な言葉があるが、これは生まれながらの平等を説いている。
が、諭吉は決して、「人は一生を通じて平等」とは言っていない。「ただ学問を勤めて物事をよく知る者は、貴人となり、無学なる者は貧人となるなり」というように、「人はどれだけ勉強したかで差がつく」と明確に断じる。学問は学校の勉強だけにあらず。さまざまなものを吸収することで、それがさまざまに役に立つ。受験学力は受かれば無用というのは何と侘しき哉。
「独立自尊」を簡単に言うと、「何かに依存するな。自分の力で生きろ。」という意味。我々は空気と水の恩恵に預かってはいるが、他のことはなるべく自分の力で生きた方がよい。「這えば立て、立てば歩めの親心」といったが、近年は何かと、「這えば手を貸し、立てば歩めに手を貸す親心」になっているようだ。これは親の方から子どもに依存を持ち掛けている。
諭吉が明治8年(1875年)に書いた『文明論之概略』は、日本人論として今日でも高く評価されている。福沢は明治維新以前にアメリカにもヨーロッパにも出かけ、日本人としては当時最も西洋を知っていた。その彼は維新前に大ベストセラー、『西洋事情』(初篇慶応二年、1866年)を記している。彼は箕作阮甫と共に蕃書調所にいたこともあるが、自分のことを「翻訳の職人」といっている。
蕃書調所とは江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。そうして学問も商売と同じであり、学者も一種の職人に過ぎないという意識を持つ人であった。そうした福沢が明治の新政府にも仕えず、爵位や勲章ももらわずに、終始、民間の一学者、一私人としての態度を一貫して通した。福沢諭吉の先駆性というのは、そうした自由な立場・境遇からもたらされたものだろう。