自分は日本人である。ならば自分の心理(ものの感じ方)や、論理(ものの考え方)は日本人的であるはずだ。して、それらはどういうものかを客観的に説明することが難しい。が、しないことには、「日本人は何であるか」を述べたことにならない。ここに鳴かないホトトギスがいたとする。鳴くまで待つのか?鳴かせようとするのか?こんなホトトギスは無用と葬るか。
同じ日本人に違いはないが、この有名な三者の意識構造は随分違うようだ。ひとくちに日本人といってもたったの三人だけでこれほど違いがあるわけだ。それを踏まえてわれわれ日本人とはいったい何なのか、何をもって日本人とするのかである。こうした、「日本人論」という名に値する業績は、江戸時代はもとより、先ずはそれ以前まで遡ってその思想を温ねてみる。
そもそも思想とは、「何を善とし、何を悪とするか」の判断である。悪を単純に分類すれば、「罪=人間の犯罪」と、「不幸=自然災害や病気などの悪い運命」に分けられよう。が、古代日本においてはこの二つを区別しない。生活を脅かす忌むべきものは、犯罪であれ自然災害であれ病気であれ、ひとくくりに考えた。つまり古代日本人にとって、「罪」とは埃のようなもの。
したがって、取り除くことは簡単だった。この、「罪を取り除く作業」を、「禊(みそぎ)」や、「祓(はらえ)」と呼んだ。何とも簡単に罪を消す方法だが、この二点が古代日本人の罪の捉え方の特徴である。禊やお祓いは、こんにちでも用いられているが、これらは決して罰や裁きではなく、単に、「穢(けがれ)」を消す行為に過ぎず、禊なんてのは人を煙に巻く行為と映る。
「禊を受けた」、「禊は済んだ」などとほざいて国民を煙にまく政治家がいるが、彼らにとって罪とは自身の責任というより、ひいた風邪が治ったかのような言い草である。古事記には、「罪は容易く洗い流すことができる」と記されている。やがて外国から仏教思想が入ることとなり、罪を犯した者が罰を受けるという古代日本にはなかった地獄の発想を知ることとなる。
時は南北朝時代。公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために吉野朝廷(南朝)の正統性を述べた歴史書『神皇正統記』を著した。その中に、「大日本は神国也。天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝給う」とある。日本の神国思想は、日本という国土そのものを、「神の国」と説明するところが特殊であったが、神国日本を強力に日本人に信じ込ませた事件があった。
鎌倉幕府末期の、「蒙古襲来」である。モンゴル帝国が日本へ覇権を広げるべく軍団戦船を二度にわたって送り込んできた。軍事力では圧倒的に不利だった日本だったが、二度とも台風によってモンゴル軍は打撃を負い敗走した。日本人はこの台風を、「神が日本を守るために吹かせた風」と解釈し、「神風」と称した。この事件を機に、「神国思想」は一層流布することとなる。
「神国思想」では国土を、「神州」、国民を、「神裔(神の子孫)」、国権を、「神授(神から委託された権利)」などと説明する。数百年後の明治政府時代になっても、神国思想の政治理論を最大に利用して国家形成を行っていく。明治四年にはそれまでの藩を県とし、「廃藩置県」を行った。ちなみに、「県」は、「あがた」と読み、古代の皇室(=神)の料地を意味する。
江戸中期の国学者賀茂真淵は、国学の基礎を確立した人物である。彼は『万葉集』の研究家であった。真淵は日本と中国を比較し、中国は様々な王朝が権力抗争を繰り返してきたが、日本は古代から大きなトラブルもなく、大らかで自然な皇位継承が行われてきたとして高く評価した。その理由を、日本人が道徳的に優れていたからと考えた真淵は、中華思想を批判した。
「中華思想」とは、「中国こそが世界の中心で周囲の国も人間も野蛮人」という思想である。自己主張が激しく他人に思いやりがない中国は、理屈っぽく規則のうるさい国となった。それに引き換え日本人は、謙遜を旨とし習慣化したことで、細かい規則がなくても立派に人倫の道を行った。真淵は、「儒教や仏教などの外国思想の輸入は、日本人の美しい心を乱す」とした。
仏教や儒教を安易に受け入れた過去を反省し、国意(日本人の美しい心)を取り戻すことを求めた真淵は、具体的な方法として『万葉集』を学ぶことを奨励した。『万葉集』こそが国意を後世の日本人に伝えるテキストであるとした。教育者としても長じた真淵には多くの弟子がいたが、中でも本居宣長は有名である。平田篤胤も真淵や宣長と並び称される国学者である。
国学とは、「日本だけが特別な神の国」という一種の選民思想である。それを徹底的に突き詰め、宗教にまで引き上げた平田篤胤である。中国には、「天帝」、インドには、「梵天王」、西洋には、「ゴッド」なるこの世を作った神の信仰がある。篤胤はこれら一切は日本の皇産霊神のことと説く。地域の特徴に合わされて微妙に形を変えるが、すべての元は日本の神とした。
篤胤は、死後に霊魂が行く世界を、「幽冥界」とし、それは地上界と密接につながり、大国主命が主宰する国とした。大国主命は、人が生きてる間の善悪の行動を把握し、死後はそれに合わせて賞罰を与える。これは、「死後のために善を重ねよ」という宗教的な教えである。篤胤は、「幽冥界」の説明から、「貧しさは悲しむことではない」という結論を導いている。
「貧しい者はそれゆえ罪を犯すこともなく、死後の世界で賞せられる」と説いた。死後に安心を与える篤胤の思想は、江戸時代末期当時の多くの庶民に受け入れられたが、1841年(天保12年)1月1日、江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に故郷の秋田に帰るように命じられ、以後の著述を禁止された。秋田に帰った篤胤は2年後68歳で病没する。
どんな思想や論においても、それらが生まれてくる背景には、その時々の社会や時代の要求が介在するのは間違いない。日本の変革期に当たって、「日本人論」が試みられる所以だが、いわゆる、「日本人論」が明確な形ででてくるのは、江戸時代中期以後となる。日本人省察はさらに時代を遡れるが、西洋人を意識したうえでの日本人論は江戸中期から幕末であろう。
江戸時代の長き鎖国政策といえ、西洋の情報は少しづつ日本に入っていたことで、西洋の学問を知った日本人が西洋について書くようになる。1883年、新井白石による『西洋紀聞』はもっとも早い時期のもの。こうして、西洋vs日本、東洋vs日本という対照において、日本人が自らを意識し始めると、これまでにはなかった新しい日本人論が生まれることになる。
日本人が何であるかは、比較・対照あってこそ真の省察を得ると考える。男が何であるかを女との対比で論じるように、人間が何であるかを動物との比較で論じるように。そうした、西洋対日本の対比を明確に意識したうえで、日本人を論じた一人に司馬江漢がいる。彼は浮世絵師の弟子であったが、日本人で初めて洋風の絵を描くなど進歩的な考えを持っていた。
江漢は自著、『春波楼筆記』のなかで、「吾日本開闢甚だ近し。故に人智も浅し。思慮尤も深からず。人工欧羅巴に及ばず」。人工(技術)面ではるかに遅れていると嘆いているが、当時はこういう考えを持つ日本人は少なかった。江漢におくれて洋学研究に勤しんだ渡辺崋山や高野長英たちも同様の見方をしていた。彼らは日本人論を展開してはないが、洋学の必要性を説いた。