長年日本の国技は相撲と思っていた。が、日本相撲協会の広報部は「相撲は国技ではありません」と言っている。ならば本場所が行われる両国国技館という名称は?ここは相撲だけが行われるところではない。ボクシングやプロレスなどの格闘技の会場となり、2020年の東京オリンピックにおいてはボクシングの競技会場となる。ならば日本の国技は柔道?剣道?それとも羽根つき?
残念ながら日本に法令で国技と定義されたものはない。国技とは、一般には、その国の特有の技芸、ある国の代表的な競技のことである。たとえば一般的には、スポーツ競技や武術等々である(Wikipedia)。なんだ、そういうことか。相撲は国技ではないが、自称国技といったとして、自称である以上お咎めはない。国民の間では相撲を国技と思っている人は多いのではないか?
なぜ相撲が、「日本の国技」と呼ばれるようになった?明治42年に東京・墨田区東両国に相撲興行場が完成した際の開館式の式辞文中に、「日本の国技」という言葉が出てからだという。この興行場の名は『両国国技館』と呼ばれた。そうした理由で、誰が決めたわけでもないのに相撲を国技と呼ぶようになった。広辞苑の、「相撲」の項では、"国技と称される"とある。
もっとも日本で最初に国技という言葉が使われたのは江戸時代の化政年間(1804年-1830年)で、このとき国技と称されたのは相撲ではなく、「囲碁」であった。その理由は、当時隆盛をみた囲碁を武士階級が国技と称したことによる。近年はプロ野球協約においても、「野球を不朽の国技」と書かれている。いずれにしても、日本に国技といわれるものはない。
国技はさておき、「吾輩は日本国に生れた日本人である」。とはいうものの、日本人でありながら日本人が何であるかを知らない。せめて、死ぬまでには日本人のことを知っておきたいものだ。他にも知りたい、知っておきたいことは山ほどあるが、優先順位からして「日本人は何であるか」である。人間も奥が深いが、日本人といっても多様で、知るのは大変である。
自分を様々な視点で見ることがある。ある時は人間として、男として、夫として、父親として、(孫にとっての)祖父として、友人として、変人として、悪人として、バカとして、ブロガーとして、日本人として、広島県人として、(将棋相手の)好敵手として、(趣味の)ウォーカーとして…。さらに細かく分類できるが、上記は時々に思うこと。何と肩書の多い自分である。
自分をさまざまに認識するというのは、その時点において自分を客観的に見ることでもある。客観的に眺めることで、普段はとして生をうけたのか、あの両親を親にもったのか?これは宿命的なもので理由は分か見えない(考えない)自分を発見したり、見つめ直したりする。なぜ人間に生れたのか、日本人らない。自分が上記したさまざま何であるかを知るのは自己満足?
そうではなく、大事なことだと思っている。他人にとっては大事でなくとも、自分に大事ならそれでいいのだろうが、自分がどんな男で、どんな親で、どんな友人であるかを知るのは対象が存在する。に比べて日本人であるところの自分を、日本人として解明したところで、然したる対象はない。対象はないけれども、日本人としての自分を考えることに興味は尽きなかった。
日本人である自分を知りたいと強く感じたのは、20代後半に仕事でアメリカに行ったときに強くなったのは、異人さんと日常で触れることがきっかけだった。そこで、日本人である自分をどう知るかとなるが、そのためには学者や識者、専門家と称する人たちによる日本人についての研究や思索という業績に触れるのが、凡人にとって最善であるのを分かっていた。
世俗に生きる者として、世俗のことは体験的な思索は可能だし、「日本人とは何か!」という漠然とした命題においても経験は役に立つが、学術的研究にあっては学者の領分である。日本人である自分を理解できなければ、外国人を理解することはできないと考えた。外国人を理解するためには外国人を知るだけではだめで、日本人である自らを知る必要があった。
これも、「孫氏の兵法」にいう、"敵を知り己を知る"であろうか?敵と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負けることはないと孫氏は書いている。好んで生まれた日本人ではないが、日本人が日本人を知らないのは、あまりに身近であるからで、人間は誰も自分のことを知らないということにも通じ、自分を誰に教わるか?相手に教わるものだと思っている。
頭の良い学者たちの日本人研究に加えて、自らによる日本人との交遊体験から、摩訶不思議なる日本人について考えることはあったが、記述するのは初体験である。外国人による日本人論といえば、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』や、ロシア人ジャーナリスト、フセワロード・オフチンニコフの『一枝の桜―日本人とはなにか』などがある。
彼ら以外にも日本人の思想を、"他者の立場"から分析し、日本人自身が容易に気づかない特性や資質を指摘する外国人による優れた研究は多いが、なかでも1946年に発表された『菊と刀』ほど多くの物議を醸した著作はあるまい。ベネディクトは、一度たりと日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。
日本文化を捉えるうえでベネディクトは、日本人の生活様式などの細かい要素を子細に研究するのではなく、日本文化全体に一貫した特徴を見出そうとしている。そうしたところから日本の文化を、「恥の文化」と定義づけた。「恥の文化」の対比として西洋の、「罪の文化」を置いた。両者のちがいは、その社会に「集団と個人の関係」がポイントとなっている。
日本文化の価値体系の独自性を強調する『菊と刀』も、さまざまに研究された結果、懐疑的傾向も指摘されている。すなわち、日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれているところにおいても批判の目が向けられている。上記した、「恥の文化」、「罪の文化」の定義についても批判は少なくない。ベネディクトは、「日本には善悪の絶対的基準はない」とした。
それを記した文中の語句は以下。「日本人は失敗が恥辱を招くような機会を避ける。彼らは人から侮辱を受けた汚名をすすぐ義務を非常に強調するのであるが、実際にはこの事柄が彼らをして、できるだけ侮辱を感じる機会が少なくなるように事柄を処理しせしめるのである」(『菊と刀』長谷川松治・訳)。文中語句をさらに分かり易く説明すると以下のようになる。
人が、「こうあらねばならない」あるいは、「こんなことをしてはいけない」という善悪の判断をするとき、その基準はどこにあるのか。この基準の違いが、両者の文化の違いである。即ち、「集団に悪く思われることが悪い」という集団優先である。この場合の集団は、"他人の目"と置き換えられる。これをベネディクトは、「恥の文化」と称したようだ。
一方、「良心に反することが悪い」とし、自身の内面的道徳心で善悪を決めるのを、「罪の文化」とした。したがって、「恥の文化」は、個人よりも集団を優先し、個人は率先して集団に合わせようとする。他方、「罪の文化」はその逆で、個人の意思が尊重される。「恥を知る」、「名誉を重んじる」など、他人に無様な姿を見せまいとする意識が日本人に強いとした。