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日本人であることの原点 ④

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日本人論」を語る上で、福沢諭吉を外すことはできない。福沢が明治維新を迎えたときは33歳であった。彼は、明治34年(1901年)に66歳で世を去っているから、人生の丁度前半分が徳川時代、後半分が明治時代ということになる。維新という大きな変革期を生きた彼にとってみれば、何の転換期もなく平穏な生涯を送った人とは何か違った考え方を持っていたのは想像できる。

諭吉は維新当時に残る日本人の封建意識をなくす必要性を最優先事項と考え、そのための方法論を種々思いめぐらせていた。当時の封建意識とは、藩閥(派閥)意識のこと。明治新政府には、倒幕の主勢力となった薩摩、長州、土佐の旧大藩を中心にした強力な藩閥があった。藩閥とは福沢の言葉を借りれば親の仇である。彼は藩閥を、「親の仇」と思って対抗すると述べている。

諭吉は、『学問のすゝめ』の中で封建制を批判した、「楠公権助論」を書いている。これは、「主君のために自分の命を投げ出す忠君義士の討死と、主人の使いに出て預かった一両の金を落とし、申しわけなさに並木に褌をかけて首をくくった権助の死を同一視し、私的な満足のための死であり、世の文明の役には立たないと論じている。この一文が大いに批判の対象となった。

諭吉自身は楠公(楠木正成)にはまったく言及していないにも関わらず、正成公の討死が無益な死と論じたものと解釈された。同じく赤穂義士の討ち入りについても、私的制裁で正しくないと論じたことも批判対象となった。「藩閥親の仇」や、「楠公権助論」、「赤穂浪士不義士論」などの痛烈な封建制批判で、諭吉はこんにちでいう非国民的な断罪を受けてしまう。

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明治維新という大変革はなされたが、これほど大きな社会変革にも関わらず、日本人はどうしても封建制から脱しきれない。これが変わらない限り、近代国家日本の文明は開かれないという諭吉の、「日本人不変説」。明治政府の方針は、文明開化の推進を基本としたことで、西洋人が優秀で日本人は劣等とする、「日本人劣等説」が横行することになる。

西洋人と日本人の比較について諭吉は明治20年4月、時事新報に、「日本人と西洋人と内外表裏の別」と題する文章を載せたが、これは物の取り扱いの面から観察した評論である。人間的な面について諭吉は、日本人と西洋人の旅に対する考え方や行動を例に論じているが、内を重んじて外を見ない日本人について、「家内の人ではなく戸外の人」になるべきという。

日本人の行動が一朝一夕に変化することはないが、諭吉は自身の考えを実践する手段として教育を取り上げた。その彼が慶応義塾を創設したのは知られるところである。諭吉は、「天下後世のために記すのみ」の信念のもと、政治の世界に身を投じようとはせず、宗教にも重きをおいてないことから、日本人が変わる唯一の手段として教育を選んだのは必然であろう。

福沢諭吉の記述が長くなったが、彼の文明論や日本人論には、思いつきの域を脱した閃きが見られるのは、苦労して西洋に出かけて西洋文明を自身の目で見たこともあるが、自然科学を勉強したことで、合理的・論理的に物事を思考するという、当時の日本人にしては稀な資質を備えていた。それらからしても彼の、『文明論之概略』は単なる思いつきに終わっていない。

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改めてベネディクトの『菊と刀』に戻ろう。同著は、西洋人の論じた日本人論として評価が高い。批判もないわけではないが、日本人を論じるうえで同著を避けては通れない。同じ外国人による、「日本人論」は、フセワロード・オフチンニコフの、『一枝の桜―日本人とはなにか』もある。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの、『日本史』は、戦国時代研究の貴重な資料となっている。

1823年に来日したドイツ人医師シーボルトは、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎・出島のオランダ商館医で、オランダ領東インド植民地総督府にあてた報告や関連資料は、『シーボルトの日本報告』として残っている。明治以降、西洋人の見た日本人ということだけなら、明治天皇の侍医だったドイツのベルツ博士の日記や、モースの『日本その日その日』などがある。

エドワード・S・モースはアメリカの動物学者で、1877年(明治10年)6月、腕足動物の種類が多く生息する日本に渡り、翌月には東京大学の教授に就任した。彼は日本に、「進化論」を紹介したことでも知られている。一度日本を離れたが1878年家族を連れて二度目の来日をし、1879年9月に東京大学を満期退職後に離日した。1882年には単身で三度目の来日、翌年日本を離れた。

大森貝塚の発見で知られるモースは、東京大学教授として滞在する間、膨大なスケッチと日記を残しており、その記録には、科学者の鋭敏な視線と、異文化を楽しむ喜びが満ちている。明治初期の文化風俗を語る際に欠かせない示唆に富んだ重要資料となっている。これらはいずれも日本人の実態をある側面から綴ったもので、日本人を研究の対象にするものではなかった。

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日本人を様々な角度から論じてはいるが、学問といえるべく一貫性のある方法論は駆使されていない。日本人に対する鋭い観察やユニークな視点はみられても、あくまで、"論"としての面白さであり、日本人研究の、"学"となってはいない。戦後、駐日大使を務めたライシャワーは、日本人妻を娶ったことで日本国民に人気もあり、『ライシャワーの見た日本』を残している。

ライシャワーの同著は、歴史学的な方法論を用いた記述ではなかった。それらからしてもベネディクトの『菊と刀』こそが、西洋人によって書かれた日本人研究における古典的名著といわれる。個々に性格や性質の異なる人間を民族として束ねて論じるためには、方法論としてのパターン設定の有無が問題となる。一つの社会における構成員足る人間の行動は様々である。

しかし、一定の型とか枠のようなものは社会には存在し、人々がいろいろな行動をとっているようでも、そこには自ずから統合や統一が見られる。そうしたものが、いわゆる生活様式(ライフスタイル)であり、文化(カルチャー)というものである。ベネディクトはカルチャーについて、「一個の個人と似ており、考えや行動は多少なり一貫したパターンを示す」と述べている。

したがって、ベネディクトのいうカルチャーとは個人のパーソナリティの拡大したようなものであり、そのパーソナリティをパターン化していくことで、そこから民族の社会や文化が浮かび上がってくるという。例えば日本の社会の中では日本人が様々な行動をする。これを現象として観察すれば極めて多様に見え、個々の行動の間には何の脈絡もないようである。

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ベネディクトは文化人類学者であるからして、動物学者がサルの行動からサルの生態やサル文化を見出すように、人類学者は人間の共通性概念を炙り出す。上記したように一つの社会には全体を統合・統一するようなパターンが存在し、人々はそれに沿って行動している。日本人のいろいろな行動の中から、共通するパターンを割り出すというのがベネディクトの手法だった。

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