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人間であることの原点 ⑥

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人間について、人間社会について、人間関係について書こうと思えばいくらでも書くことはある。なぜなら、半世紀以上も人間と接し、人間界に籍を置いているのだから、書くことに尽きないのは当然かと。昨日まで、そして今日、明日からも死なない限り人間界で生きていく。あの世があるのかないのか、あってもあの世にネットはないだろうし、パソコンも売ってないな。

当然だろうし、服とて売ってない。あの世でいつまで生きるのかわからぬが、年がら年中同じ服を着たきりスズメなのだろう。着替えのパンツもないし、一体どこに住むのだろうか。定住なのか、放浪なのか?など考えると不思議過ぎて、あの世なんか「あるわけなかろう」となる。素朴な疑問はつきないが、あの世に文明はあるのか?文明は時代と共に進化するのか?

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500年前のあの世に電話もテレビも飛行機もないとして、現在のあの世はそれらがあるのか?携帯があるとして、使い放題ということはないし、おそらく有料であろう。飛行機があるなら空港もあり滑走路もある。で、飛行機に乗ってどこに行く?携帯で誰と話す?甚だ原初的な疑問として、あの世の人たちは何を食べ、どこで排泄する?霞を食って野糞たれるのか?

自分の奇抜な発想力からして、あの世のことなど考えられない。考えられないから存在も認められない。あの世の人たちがどこに住み、誰と話し、誰と酒を酌み交わすなどを考えるとマンガチックになってしまう。それよりなにより、死んだ人間はあの世で死なない限り、あの世人口は増えるばかりで考えられない混雑ぶりが想像できる。あの世肯定者はどう考えるのだろう。

「ない」とする方が合理的だが、「ある」とする人には都合のよい論理があるのだろう。人はみな死ぬけれども、人は誰も死を恐れる。やはり現世に生を受ければ、現世に執着するだろう。宗教は死を楽にするためにある。人の現世への執着心をなくすように説いていく。つまり、楽に死ねるように導くが、死に対して過度に気を使ってみても仕方がないと思っている。

自分の体が確実に衰弱して正常な機能を果たさなくなり、生命維持は難しいとなれば、それが死期であろう。いつかその時は訪れるのだから、死ぬまで生きようというのは自然な発想だ。死ぬまで生きるという個人的を超えて、死ぬまで生きようと、勝手に声を誰ともなくかけている。死ぬまでは生きられるのだから、死期を早めることもないと思うが、他人には事情もある。

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死にたい人には理由があるのだろう。が、そういう自分も、ある日突然死ぬかも知れない。ある日突然、二人黙るの…という歌詞がある。それならまだしも、ある日突然死ぬのは困るが、死んだ以上は困るということもない。死ぬということは意識もなく、動くこともなく、心臓は止まって、この状態こそが死だということも認識もないままに死んでしまった自分である。

死んだ自分を憐れむことも悲しむこともない。ある日突然死ぬなど情けないが、その後悔すらもないまま、突如一生を終えてしまうこともある。こればかりはどうにもならない、避けられない。ならばせめて、そうなってもいいように準備はしておけるのか?と考えながらも、準備とはどういうものかが分からない。なるほど、これも気を使うことの一環なのかと…

身体の健康に気を使うのもそういうことか。倒れたら倒れたで、その時に考えればよいと思っても、倒れてどうすることはできない。そこでウォーキングなどをしてみたところで、いつどこで倒れないとも限らない。倒れない保証はなにもない。健康のために〇〇する、〇〇飲み、〇〇食べるのが、よりよい死の準備といいつつ、本当に予防か準備かの確信はない。

何をしていようが究極的に人間は、死ぬ時がきたら死ぬのだから、「死ぬ時がきたら死ねばよい」との意識でよかろう。牢獄に繋がれた死刑囚は刑務官の足音に敏感という。かつて死刑執行は前々日に知らされていたが、今は受刑者自殺防止とかパニックを防ぐとかの理由で、当日の午前中に知らされる。それでも恐怖のあまり自力で刑場まで歩けない者もいる。

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凝縮した日々を送る死刑受刑者にとって、「死ぬ時がきたら死ねばよい」という心境にはなれないだろう。それに比べて無駄な日々を過ごす我々は、「死ぬ時がきたら死ねばよい」の境地になれる。そのために、「どう生きるか」を探すことも可能だ。宗教に頼る人も、自力で悟りを探す人もいる。生きることが楽しい自分には、「〇〇はつまらない」ということがあまりない。

もともと、あまりそういうことを思わなかったし、どんなものにも価値は見出すことはできる。「学校はつまらない」、「人生はつまらない」あげくは、「生きてることがつまらない」という人がいる。つまらないならつまらなくないようにすればいいのに、そういう発想がないのだろう。「毎日がつまらないので、何か生き甲斐をみつけたい」などと愚痴をこぼす人は結構いた。

そういう人が何を探し、何をし、何をしなかったか?知る人もいれば、知らない人もいる。知る人の多くは何もしていなかった。何もしないから愚痴をこぼすのだろう。奮起して生き甲斐と見出した何かをやろうとするも挫折し、「ぜんぜん楽しくなかった」と愚痴をこぼす。なるほど生き甲斐とは、楽しくなければならないようだ。何事も最初から楽しいことってあるのだろうか?

ないと断言はできないが、最初だから楽しいとうまやかしの楽しさはある。これらは人間関係や恋人や結婚生活などにもあてはまる。確かに始めたてなら楽しいことは多いだろう。生き甲斐という何かを自覚したことも求めたこともない自分だが、生き甲斐はどうあるべきかを考えてみた時、あるプロボクサーの言葉を思い出す。「ぼくは苦しむためにボクシングをやっている」。

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そのあとに、「この苦しさがなければ、ぼくはボクシングを続けられなかったろう」。彼にとっての生き甲斐とは苦しむことだったようだ。そのことからしても、生き甲斐とは楽しいことでも、楽をすることではなく、厳しさを生き甲斐とする人もいる。それがボクサーの道かも知れない。ボクサーに限らず、多くのアスリートたちにとっても生き甲斐とは、厳しさなのだろう。

平々凡々と生きる我々は、厳しさなど求めず、楽しさを生き甲斐にしようとする。だから少しの嫌なこと、面白くないこと、楽しくないことがあると、嫌になって投げ出し、別の楽しいことを求める。それが悪いとは思わない。いろいろなことがあるなら、いろいろやればよかろう。他人はともかく、自分が生き甲斐を求めない理由は、生きること自体が生き甲斐と感じるからだ。

生き甲斐とは、「生きる甲斐」。「甲斐」とは、1.行動の結果として現れるしるし。2.期待できるだけの値うち、との意味がある。あまり値打を求めすぎると生き甲斐の選択にすら挫折する。生きること自体が楽しいのは、世の中が雑多で面白いからであって、「何か面白いことない?」などは、口にしたこともない。世の中は頻繁に何かが起こっているが、そこに目がいかないのか?

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