「周囲を気にしない」。「他人に自分を支配させない」。「自己肯定感を持つ」などの言葉は、自己啓発本の常套句。それらは決して間違いではないが、そのような前の段階があることを忘れてはならない。どうしようもない人間のままで自己肯定に生きてどうなる?周囲を気にせず、自分勝手に生きたらどうなる?足りないままの自分を自己支配で生きてどうなる?
抜け落ちた自分の何かに気づかず、改めることもなく生きてどうなる?人は自分なりの(節度ある)考え方や生き方ができるまでには、自分なりに生きていくことはできない。必ず行き詰り、失敗するのは目にみえている。失敗とは他人から敬愛されて社会を生きていくことはできないということ。どんなにいい大学を出ようが、いいところに就職しようがである。
いい相手と巡り合って結婚してもである。自分が潰されるか、もしくは相手を潰すか、どちらも不幸なことになる。自分なりに生きていける何かを身につけるまでの人生は不安なものであろうし、だからこそ、不安をなくすためにはどうすればいいかを考えなければならない。他人を軽蔑する人間は自分を軽蔑するのと同じといったが、その意味を理解することも大事かと。
「他人を見る目は、自分を見る目」という簡単な図式に気づかない。「人のふり見て我がふり直せ」というのは逆にした同じ意味。他人の悪口ばかりの人間に、「自分を見てるのか?」と誰が諭そうとも無意味なのは、自分のことは自分で見なければ見えてこないからだ。自分が不完全であることを自覚し、不完全なものをよりよくしていこうという気持ちが大事となる。
他人の悪口ばかりいってる暇などないのに、その手の人間は自己向上などとは無縁であろうし、実際に悪口好きに善い人間などいたためしがない。悪口好きだから自己が向上しないのか、自己向上させたいという啓発心がないから悪口好きになるのかわからないが、「類は友を呼ぶ」がごとく、悪口好きには同じ類の人間が集まってくる。これが女のコミュニケーションという。
「人の悪口は私のモチベーション」と平気でいう女がいた。彼女を担ぐ女が周囲にたむろしていた。悪口を好まぬ女性は、そういう中には居づらく、少しづつ距離を置こうとするも、「他人の不幸は蜜の味」という誘惑に、知らず知らず染まっていく。孤立するのでメンバーから脱せないという女性もいたが、男はそれができる。基本的に男は孤独で、無理に他人と合わせようとしない。
孤独を善とする男は他人を所有物とみなさない。恋人も妻も我が子も、互いに一個の人格者としての自由をもち、独立して愛する対象で所有物ではない。孤独を善とする者は、他人は他人という考えとなり、他人を尊重できる。恋人が自分を裏切ったとする。自分という相手がいるのに他人を愛し、好きになった恋人を裏切り者と喚くが、どこが裏切りなのか?
相手を一個の自由人と認めれば、その選択は相手の自由である。孤独の視点からみれば相手も孤独者であるが、恋人を同士愛と錯覚するから、相手を「同士」という枠に嵌めて束縛する。自分は不倫や離婚を批判しないのは他人の事情である事と、人はみな独立者とみなすからだが、不倫批判の人は、「結婚しているのに…」という。結婚生活は愛情で続けているのか?
愛情がなくても不倫はしないという誇り。それが不倫批判となる。愛情で婚姻継続の夫婦は、他人の不倫に何の興味もない。人には人の理由や事情があると考える。確かに結婚は愛情より契約の側面が強い。アメリカ人は愛情なき結婚生活を無意味と考えるから、夫が浮気をすればたんまり慰謝料をふんだくる。愛情がなくても夫の浮気を精神的苦痛という日本人。
愛情の欠片もない妻が夫の浮気で精神的苦痛ってあり得る?自尊心からの怒りであろう。「精神的苦痛」という情緒の方が被害者ぶれる。女性は被害者ぶるのが好きだ。アメリカ人のように、銭にもならない情緒よりも、離婚もビジネスと考える発想がない。誠意なんてのは所詮は、「銭」と割り切ればいいのよ。夫が誰と寝ようが、「お好きにどうぞ」という妻もいる。
もっとも、「つまみ食い程度」の不倫や浮気もある。離婚覚悟の上といえないものも少なくないが、つまみ食いであれ、自尊心を傷つけられれば腹も立とう。それへの対処法もいろいろであって、どちらにしても外野がとやかく言うことではなかろう。なのに、我こそはとちゃちをいれたくなるその心理は何であるか?出てきた答えは、「他人事は酒の肴にすれば面白い」。
「人間なら、人間らしく生きよ!」という人に、「人間らしくとはどういうことか?」と問うたことがあった。どう答えたかは覚えていない。それほどに胸を打つ言葉でなかったのだろう。人間といってもいろいろだから、少なくとも自分の背丈に見合った生き方をするのが分かり易いし、正解だろう。自分なんかよりはるかに偉大な人のような生き方はできない。
かと思えば、自分と同程度に人間であっても、他人の生き方の真似をすることもない。不具である人にはそれなりの、病気である人にもそれに見合った生き方があるから、「人間らしく生きよ!」は、つまるところ、「自分らしく生きろ!」と解釈すればいい。そのためには、自分の持っているもの、足りないものに気づくことだろう。気づく人は自分なりの生き方が可能である。
他人を羨ましく思えば嫉妬し、他人を蔑むと傲慢になる。どういうものを排除する生き方は、自然で楽な生き方に思う。確かに嫉妬に苦しむ人は不幸である。人を見下げ、蔑む人も、人から嫌われる点において不幸である。敵意も持たず、欲求不満から自分に無理をすれば、それで何かが実現できようとできまいと結局は不幸なように思う。向上心を持って努力するのはいい。
努力といっても、物質的努力もあれば精神的努力もある。人にはそれぞれの目標があって努力をするのだろうが、自分の経験からして精神的努力目標があると、自己変革途上の苦しさはあっても、少しづつ充実感を得られるものだが、そうした精神的な努力目標を持たぬひとは、糸の切れた凧のように、どこかに飛んでいくか、宛てもなくさ迷うなど、充実していなかった。
人はその人が生きたようにはなるもの。強い気持ちで生きる人、弱いなりに生き抜いた人、互いが生きていればいろんな人に遭遇する。どれもその人の生き方である。ただ生きる事だけが動物といった。ならば人間にはそうでない生き方があるのだろう。見つける人もいれば、見つからない人もいる。「見つけた人は幸福」などの言葉を見るが、見つけなくても幸福な人はいる。
自分は、「~ねばならぬ」というのを好まなかった。そういう価値観もあるが、「ねばならぬ」という強制は、他人の決めたものである。仮にそれが正しいものであっても、「ねばならぬ」以外のものが正しくないと分からないではないか。だから自分は宗教を排除する。「幸せになるためには、〇〇ねばならない」という押し付けの宗教はもっとも忌避したいもの。
神の教えを守って幸せになるといっても、自ら求め、見つけたい。禅思想に、『行雲流水』という言葉がある。大空に浮かぶ雲や、流れゆく水はこだわりなく進んでいくように、自由に生きて生きよという意味である。ジョブズは禅思想を愛し、僧侶の作務衣のようにいつも黒いタートルに身を包んでいた。禅思想に強制はなくシンプルな生き方を教えている。