自己顕示欲が強いと、自分自身を大きく見せるために無理をしたり噓もつかねばならなくなる。「身の丈の自分を知れ!」というが、虚栄心を少なくしていこうとする生き方を求めないと、人は虚栄のドツボにハマってしまう。他人の評価を謙遜したり否定したりの必要もなく、自己向上を目指すならふんわり聞き流せるはずだ。大切なのは自ら向上することである。
地元の中小企業の子会社の社長になった知人だが、子会社に飛ばされたことを知らなかった。故意に隠していたではなく、親会社の取締を外されたのは彼にとって不名誉だったとしても、子会社に転属など必要もなかったこと。彼はいつも、「忙しい、忙しい」を口にする奴だった。関係のない部外者の我々に対しても、「忙しい、忙しい」を口癖のようにいう。
何がどう忙しいのかを知る由もないし、寒い冬に、「寒い、寒い」と口に出る程度の忙しさだろう。「忙しい」とはどういう状態なのか、自分は知らない、分かってもない。「猫の手も借りたいほどに…」という忙しさは一度も体験がなく、仕事は普通にこなせた。かと思えば別の友人は、顔を合わせば、「暇だ、暇だ」という。確かに彼はまったくの暇であった。
暇な人間は、「暇、暇」というから、暇であるのは分かるが、忙しい人間が、「忙しい、忙しい」と部外者の我々にいったところでそうは見えない。なのに、「忙しい」を連発する彼は、"忙しい=重要なポジションと、人から思われたいように感じた。他人に見栄を張る小物的性格は、言葉以外からも伝わる。「暇、暇」の友人は見栄と無縁の屈託のない性格である。
実態はともかく、「忙しい」と「暇」という言葉の両極分化も、人間の面白さを現わしている。「過敏」と「無関心」という二極分化は、もとは同じところに原因がある。「協調心」と、「闘争心」が両立するようにである。協調と闘争が一緒というのは疑問に思うだろうが、「人間は強調しなければならない」ということ自体、人間に闘争心があることになる。
どんなスポーツにおいてもだが、将棋を例に考えてみる。相手と将棋を指すということは、闘争心を満たすことになるが、二人は棋譜を作るという協調を行っており、そこには友情すら芽生えている。心無い一部の人間は負けると相手に腹を立てて憎むのは危険である。自らに腹を立てるならまだしも、相手の健闘を称える度量がない人間は、自分のことに躍起になる。
セリーナ・ウィリアムズが2018年3月21日のマイアミ・オープンで、大坂なおみと対戦したが、コート上での動きやラリーで精彩を欠き、21年ぶりの初戦敗退を喫した。試合後の会見を拒否したセリーナには、約100万円の罰金が科されるという。対戦相手を憎むというより、元女王として敗戦ショックの大きさを物語っており、会見拒否は自らに正直な行動だったろう。
人間は感情の生き物であるがゆえに理性を必要とする。将棋のタイトル戦七番勝負で、3連勝後の4連敗は一度もなかったが、初めて実現したのは、2008年の『竜王戦』である。この不名誉な体験を喫したのが、誰あろう棋界第一人者の羽生善治であった。これが何を物語っているのだろう?一つ言えるのは、この屈辱を糧に羽生は自らを高めることになったと推察する。
多くの将棋ファンはそのように感じているに違いない。3連勝後の4連敗という羞恥は筆舌に尽くし難いが、思いは番勝負が進行中の渡辺竜王にもあった。彼はその時の気持ちをこう述べている。「3連敗して、恥ずかしく申し訳ない気持ちになり、逃げるように帰った。次で最後になるかもしれないという思いで、4局目からは悔いが残らぬように思いきりやろうと思った」。
土壇場に追い詰められての開き直りの心が好結果に結ばれたのだろう。他方、羽生は口にこそ出さぬが、のっけから3連勝という慢心が、意識・無意識を問わずあったと想像できる。土壇場の人間の底力というのは、中国の史記『淮陰侯伝』にもある。韓信があえて川を背に陣を敷き、兵士達が退けば溺れるほかない捨て身の態勢で勝利したことが思い起こされる。
勝負師が勝った相手を憎んでいては大成などあり得ない。他人への軽蔑は自身への軽蔑である。傷つきやすい心の持ち主に顕著なのは、他人から嘲笑されて傷つく前に、他人を嘲笑することで自我を保つ。対話や論戦の最中に人格攻撃を始めるのは女性に多い。その時点でもはや議論は終わっている。不毛な罵り合いなどせず、店仕舞して去るのが賢明であろう。
相手が人格攻撃を始めたらそう決めている。以前にも書いたように、ケチな人間ほど他人をケチというが、ケチでない人間が言われて腹を立てる理由はなく、「あなたってケチね」といわれたら言葉を返さず腹で笑っている。ケチで心卑しい人間が、それにあやかれないことでケチと相手を罵り、改めさせようというキツネの悪知恵であろう。無用の女と映るだけだ。
「他人が自分を判断してくれる」、「他人の見方を尊重する」という姿勢を尊重するなら、自分をケチだという女にとって、自分はケチと映っている。彼女は自身の卑しさなど感じていないので、相手の何を指摘しようと憤慨するだけだし、言った言葉を根に持たれると面倒臭い。「ケチというお前がケチだよ」は子どもの喧嘩。こんな言葉を言うは性悪女と判断すべし。
問題なのは、口には出さず腹で思う女。これも、付き合いの中で洞察力をもって覗き見ることは可能である。人の心を読むのは、慣れると難しいことではない。ある種の傾向があり、必ずやそれに合致するからで、それを上手く隠す奴と、そうでない奴がいるだけである。自分を誤魔化すのは人間の常であるが、同じ誤魔化しといっても、誤魔化す理由は一つではない。
なるたけ多いのは自己妄想により誤魔化し。誇大な妄想癖女性に顕著である。不器用な誤魔化しもある。生きることの真実の喜びと苦しみを受けるのをなぜか怖れて誤魔化している。例えば以下の事例。女があるタレントに恋をした。それが妄想であるのは、話すことも会うこともままならないテレビの相手である。その恋は妄想であっても、まさしく恋にちがいない。
しかし、真実の恋が持つような喜びもなければ悲しみもない。すべては作られた一人芝居の恋であるが、芝居をやってるうちに本当にそうだと思い込む。多くの女性が、はしかのようにかかるジャニーズ男子への憧れがこれである。彼女たちはその恋によって、何ひとつ真実の恋の喜びに胸を奮わせることも、悲しみに涙したこともない。一切が虚構のなかで彩られている。
普通は中学生辺りで目が覚めるものだが、抜けきれない倒錯に悩み後悔する苦しみは、素直でいようとする苦しみより大きい。素直でいたいと思うなら、自身のひねくれた心と闘うことが先決となる。そうした心と格闘し、もがき苦しんでこそ、素直な心に至ることができる。何事も、「産みの苦しみ」であろう。これは自分経験したことだからよく分かっている。
「素直になりたい」、「ひねくれた心を葬りたい」などというが、念仏のように唱えたところでどうにかなるものでもない。自己変革は大変な作業である。人から批判され、非難されてやっと気づき、そこから険しい自己変革が始まる。「批判するのやめて」、「非難しないで」と制止は止めて、他人の視点に心当たりを感じるなら、「良薬」と信じて飲んでみることだ。