イヌやネコのように、ただ生きる事だけが目的の動物は純粋である。そういう彼らにおいても生存のための小さな知恵はあろう。ネコはイヌと違って素っ気なくて警戒心が強く、譲り受けた飼い猫であっても慣れるまでに時間を要す。が、すべてのネコがそうともいえず、最初からべたべたと甘えん坊タイプもいるが、やはりイヌの屈託のなさに比べるとネコは用心深い。
人間にも様々な資質や性格はある。思うに人間というのは、生きるために多くの手段や選択があり、それらを実行するためにあらゆる方法を取る。したがって、"すべてのことは人間次第"といえる。自己啓発のためには、「他人と自分を比較すべきでない」とはいうものの、「人を見習ってはいけない」ということではない。授かった方がいいものは大いに授かるべきである。
ヒドイ試合をした選手に激高する外国人。ヒドイ試合をした選手を思いやる日本人。
ネガティブに自分と他人と比較をしたり、ない物ねだりをして卑屈になるのがよくないのであって、他人を見習うのは大切なことである。そうすることで自分の生き方の大切な何かに気づくこともある。これらも含めて、"すべては人間次第"である。人間関係は多岐に及び、友人や恋人や同僚、親子や師弟も人間関係である。職場における上司と部下も人間関係である。
人間関係には、対等も上下関係もある。高校のころだったか、「友情」が何かを模索し、それで武者小路実篤の『友情』を借りて読んだ。表題から爽やかな青春小説を想像していたが、描かれているのは夏目漱石の『こころ』と同じような、ドロドロした三角関係だった。太宰の『走れメロス』の方が、友情が何かを分かり易く捉えていた。友情を言葉で説明するのは難しい。
好意を抱く友人がいたとする。果たして自分はその友人の心を分かっているのか?見通せているのか?そういうことも分からぬままに、さも友人のことを分かった素振りをしたところで、それが友情だろうか?また、友人のことを理解していたつもりでも、不信に陥ったり、裏切られたりの経験をする事はある。裏切った相手を、「友人ではなかった」というのは容易い。
裏切る前までは友人で、裏切った後は友人でないというなら、友人とは結果の産物ということになる。そうではなくて、「友人に裏切られた」といえばよい。この世の一切は不確実なものである。青春期に、「男の友情」、「女の友情」について話し合ったときにある女性が、「男の人はいいよね。もし生まれ変わるなら、わたしは男に生れたい」と、男世界を羨んだ。
自分の都合で他人を利用する、活用するのは友人といえない。友人を自負するならすべきではない。
女性は上辺だけの付き合いが多く、相手に心無い同情をしたり、いつまでも憎みあったり、じめじめした世界という。男の世界は、「カラっとしてていいね」などを耳にする。男をやったことのない女性の、そうした口ぶりの根拠はなんであろう。女性の目ざとさか?自分は女性同士の人間関係についてあれこれ説明を聞かない限り、その陰湿さを知らないでいた。
いろいろ見聞きをしても、「そういうものなのか?」という程度で実感はわかなかった。「女性に真の友人はいない」という比喩的な言い方がある。年月を重ねて、友人という確信を得るに至った女性もいるが、小中学生時代に、「永遠の友」と契りあったものの、席替えで疎遠になったと聞いて笑ったことがある。青少年期と壮年期で、「友人」の意味は違うだろう。
青年期は何かと理想に燃えている。過多と思われる程に相手にも自分にも潔癖を求め、客観条件が満たし得ない高い理想を掲げ、「理想社会ではない!」とか、「人間は腐っている!」とか、「綺麗な人間はいない!」などと非難する。こうした綺麗すぎる青年の一面を別の言い方でいえば、「寛大」でないということだ。壮年期に許せても青年期に許せないことは多い。
事例の一つに親の離婚がある。「何で大人は自分勝手なんだろう」としか子どもは考えない。子どもに大人の都合が理解できないのは、子どもであるがゆえにである。大人の都合を理解するためには、子どもが大人になる必要がある。青少年の理想主義の多くは、「不安な心」、「不満な気持ち」の現れであり、青年期の理想とは、現実を踏まえた理想でない場合が多い。
「大人ってどうして勝手なんだろ!」。子ども時代に思ったことは、絶対に忘れないことだ。
「現実を無視した理想」という言い方もできる。「現実」と、「理想」が対義語である以上、二つは相反するもの。夢にも大小があるように、現実を踏まえた理想もあれば、空想に近い理想もある。それらから、青年期というのは、完全なる友情を求めすぎるきらいはあるだろう。女の子はしばしな親友に対して、「親友だから何でも打ち明けて!」などの言い方をする。
それが行われなかった場合、「なんで親友なのに打ち明けてくれなかったの!」などと怒りだすこともあるというが、こんなのは男に分からない情動である。仮に、「親友だから何でも打ち明けてくれ」といったとしても(あまりこういう言い方はしないが)、打ち明ける、打ち明けないは相手の判断によるもので、打ち明けられなかったといってヒスを起こすなどはあり得ない。
自分の都合で相手を拘束するようなことを男は求めないし望まない。ところが、女性の親友の定義は、「何でも話してくれる自分は相手にとっても特別の存在」というしょぼい優越感があるのだろう。自分は友人という意識のない相手から、「これから話すことはお前だけにで、誰にも言わないでくれ」などの、勿体付けた言い方が好きでなく、拒否することにしていた。
「ちょっと待った。誰にもいうなといわれても、ポロっといったりするかもしれないので、そういう前置きは責任持てない。」と伝える。言葉の真意は、あまり友人向きと思わぬ相手から、勝手に秘密を聞かされることで友人面などして欲しくないというのを、やんわり突きつけている。友人を選ぶ都合はこちらにもあるわけだから、自分に合う相手を見極めねばならない。
友人からの借金をどうしても断れない人。こういうことがいえるならあなたもマンザラではない。
勝手な押し付けに自己責任など持てようはずがないのに、そういう人間はいる。絵に描いた完璧な友情などないと思っている。友情とは、自らの主体性で自然に発揮されるもので、押し付けであってはならない。友情を押し付けられるのは迷惑である。巷に存在する多くの、「友人」や、「友情」に自分は懐疑的だから、「友人」も、「友情」も枠に嵌めて定義することはない。
青春期には相手にすべてを要求したりするが、これとて押し付けである。なぜなら、自分も相手に要求をしかねないからだ。無知で心の不安定な青春期において、相手に寛大になるなどはあり得ない。したがって、青年期の特徴は相手に対する、「非寛容」さであろう。相手に完璧さを要求するから、少しの嘘も少しの不誠実さも許さない。それが一般的な青年期である。
完璧さを求めぬなら相手に非寛容であるべきで、これが青年期の純粋さである。寛容できもしないのに、器の大きいところを見せても無理をしても行き詰まる。寛容になれる年代というのはずっと先のこと。正しい知識をつけておこうとする過渡期にあっては、他人が話す言葉にはこだわらないで、ふんわり、やんわり聞き流すくらいがちょうどいいんじゃないかと…。