そもそも人間は自然のままに生きることはできるのだろうか?適応障害という疾患があるが、自らの欲求が、自分の外的・内的状況にうまく適応できないなら、自然のままでいるということは、適応パーソナリティの条件に思える。ただし、自然でいるということがいかに難しいことであろうか。人間は、いつ、どこに行っても、自然のままでいられるということは大変である。
いかなる場においても、いかなる相手を前にしても、緊張も委縮も興奮も上気もなく、常に冷静で自然にしていられる人はいるかも知れない。ただし、冷静が自然であるか否かは分からない。もっとも、人間には誰にも外面と内面があり、それがあること自体、人間は自然ではないということになる。人為という言葉が示すが如く、人間にとって作為は切り離せない。
自然の対義語が人工(人為)であることからしても、やはり人間が自然に生きることは至難である。人間が自ら作られたイメージによって行動するのはごく自然なことであろう。それを自然という言い方をする以上、人間の自然さとは人為ということになる。ならばなぜ、「人為を排して自然に生きよう」などと言うのか?そんなことできるわけはないのではないか?
吉田拓郎のあまりにも有名な『イメージの詩』の一節に、「誰かがいってたぜ 俺は人間として自然にいきているんだと 自然に生きてるって分かるなんて何て不自然なんだろう」。〇〇キャラというのは芸能人の虚像をマスコミが大衆に植え付けたものだが、それが当たり前に言われるくらい、ネコもカシコも、「〇〇キャラ」ブームである。有名人という人たちは一瞬である。
生きの長い人もいるが、概ね同時代的である。過去の有名人など、新しい世代はまったく知らないものだ。結局マスコミは、自分たちのメシのタネとして有名人を作るが、しばらくすると自分たちのメシのタネのためにその有名人を殺してしまう。如何にマスコミという世界が軽薄であるかを示しているが、新陳代謝の激しいそういう世界こそがマスコミである。
ベッキーや乙武に大騒ぎしたと思えば斉藤由貴や山尾志桜里に騒ぐ。つい先日の小泉今日子の文字は見ることもないし、政治家今井絵理子はどう活躍してるんだろうか?今井の、「イ」の字もみられない。軽薄なマスコミにつられてか、人々も軽薄になっていく昨今だが、不倫が騒がれるのは、興味の矛先が下半身の問題であるからで、人間は下世話好きである。
自然であることと自由であることは違うが、自分を作ることは人間の自然の営みとしても、自由であるとはいえない。人間は誰にも自由への欲求はあるが、人間はどこまで自由なのかという問題はある。なぜなら人間は解放と抑圧の間を生きている。苦しみを望む人間はいないが、人は苦しみを失うと、「生きてる」実感を失うようで、人間にとって天国とは同時に地獄でもある。
好きなものばかりに囲まれた人生が楽しそうに見える。だから人は趣味をみつけて熱中するが、好き嫌いがあるからこそ生きる面白さがあると思っている。なぜなら、「好きだ」、「好きである」の裏には、「好きではない」、「嫌いだ」ということが存在する。「ある」ということは、「ない」があって、はじめて、「ある」ことになる。その意味で表裏は一体でもある。
時々思い浮かべるのが、サルトルの『嘔吐』の一節、「自由である。それはいささか死に似ている」というくだりである。何事も裏なくして表がないように、人間にも表があり裏がある。人間を正面から見るのが表で、くるりと背中が裏とはいわない。人間の表裏とは心の中をいい、表の顔、裏の顔などというように、精神のことである。人はみな表と裏を使い分けて生きている。
そうした裏の顔、裏の心を偽善という。偽善とは偽の善と書くが、善で無いことを善と騙すこと。上辺だけ良いことだと見せかけること。善人だと思われようとすることなどをいう。人間が悪の心を持つ以上、偽善を必要とする。偽善をまったく必要としない真の善人はいるのだろうか?いるかも知れないが、いない確率が高い。なぜなら人間には様々な欲求があるからだ。
他人を偽善という偽善。何が偽善、どこまでを偽善?一例をあげると、愛情を失ったと知りつつ生活を続ける夫婦は偽善者か?そうした夫婦生活は価値のないものなのか?だとすれば、不倫は実に生き生きとしているではないか?なぜに他人がいちいち口出しをせねばならぬのか?他人の不倫にゴチャゴチャ言う人間の、いかにも正義感ぶったしょぼい自己満足である。
たまたま自分たちの夫婦関係が壊れることなく続いているなら、それは結構なことだが、だからといって、そこからはみ出した他人の生活の実態を知りもせず、不倫を非難すれば良識になった自分になれる。他人の不道徳を指摘するだけで、誰もが良識となる滑稽さ。自分たちは価値のある夫婦というが、毎日の生活の中で平凡という偽善を行っていることに気づかない。
アメリカの心理学者で、人間の同調行動の研究を確立したG・オルポートはこのように述べている。「人間は自分たちの同類の仲間になっていて、その中で食べたり遊んだり居住したりする。自分の同類を尋ね、一緒に礼拝もし、その中で生活を営む。こうしたことは何故かといえば、ただ単にその方が便利だからである。わざわざ友好関係を外の集団にまで向ける必要はない。
何故なら自分のそばにそうした人々がいるのに、どうしてわざわざ新しい言葉とか、慣れない食べ物とか知らない習慣の人々に、どう適応する労を取る必要があるのだろうか」。だから人は同じ習慣を身につけている人とつるみ、一緒に生活したり結婚したり遊んだりする。所詮、我々は文句をいいながらも、結局は慣れた安易なことだけをやる人間に過ぎない。
これを平凡なる偽善というのは間違いではなかろう。そうしたことから、真に良識ありたい人間は、自分のやっていることを道徳的だとか、正しい生き方であるとか、何だカンだいうのは止めにしたらどうだろう。他人の生き方や生活に口を挟むことが、どれだけ愚かであるかを、わざわざ示す必要はない。一億総評論家時代にあって、余計な口出しをする人の多きこと。
すべては自己の問題と考えることは可能である。自己のいいことを賛美し、悪いことは他人事を例にあげて酷評する。人間というのはいかにも合理的にできている。ゆえに、"考える姿勢"が問われる時代である。芸人タレントの言葉に振り回されぬことだ。彼らは目立ってなんぼの世界に生き、目立つことで需要が増すのを知りつつ、他人を餌食にコキ降ろすハイエナである。
かつて日本人文化を、「たこつぼ文化」と称した学者がいた。ネット時代になってその傾向は強まったのではないか。情報を共用し合うことで、あちこちにタコが出現し、同じようなツボを探し、そこに入って、「いい湯だな」と…。現代人はもう少し、主体性を育んでいく必要がある。同じ情報を共有しても、人間は個々に違う考えを宿すべきではないだろうか。
社会で起こることや事件について、誰もが同じことを書くのがつまらない。同調行動をとる自分を嫌悪する。誰も書かないことを、誰も気づかぬ視点で、あるいは気づいても書くのを躊躇われるような怖気づくこともなく、怖れず書くように心がけている。自分のブログへのあり方は、そういう挑戦でもある。自らが自らに挑戦しないでいて、何が楽しい人生であろうか?