『二十歳の原点』の著者は高野悦子となっている。1949年1月2日に生を受けた彼女は、1969年6月24日に世を去った。『二十歳の原点』の著者といっても、1969年1月2日(大学2年)から同年6月22日(大学3年)までの、立命館大学における学生生活を中心に書かれた日記を父の意向で出版となったが、母は反対をしたという。おそらくタイトルは編集者(出版社)がつけたものだろう。
『二十歳の原点』にはどういう意味があるのだろうか?「原点」とは、物事のはじまりや基(もと)、基準、根拠となるところ。などの意味があるが、人の人生や企業などの歴史を振り返る際に出発点という意味で、比喩としても用いられる。最初の日記は上記した1969年1月2日で、彼女の20歳の誕生日から始まっているからして、『二十歳の原点』というタイトルに相応しい。
今回の記事のタイトルを『人間であることの原点』にしたのは、「出発点」という比喩的な意味より。基準や根拠となるものを洗いざらい書き留めておこうと考えた。人間という大きなテーマを扱うことにさほど躊躇いはない。気負うこともなく自分なりの思いや考えを記せばいいだけだが、人間が何であるかも実は難しい。種としての人間というより、本質としての人間だ。
「本質としての人間が何であるか」とはいえ、本質は目には見えないもの。人間という個体は実存するが、人間の本質をあえていうなら、人間がもつ本性であり、人間の本性とは、すなわち、「人間本来の自然なかたち」という意味であろう。そうした人間の自然な本質が、個々の人間の実存に先立っているとしたのが、「本質主義」。それに対抗して生まれたのが「実存主義」。
戦後間もない混乱期の1945年の10月、ジャン=ポール・サルトルはパリにおける、「実存主義とはヒューマニズムである」と題した講演で、「実存」という概念を世に広く知らしめている。講演のなかでサルトルは、「実存主義はヒューマニズムである」としたが、講演にはいくつかのポイントがあり、実存主義を分かり易く説明する二つの定式が提示されている。
・第一の定式が、「実存は本質に先立つ」。
・第二の定式は、「人間は自由の刑に処せられている」。
第一の定式である、「実存は本質に先立つ」とはどういうことなのか──。「実存」というのは、現にこの世界に現実に存在するということ。他方、「本質」とは、目には見えないものであり、それが物の場合なら、その物の性質の総体をいう。つまり、どんな素材であるのか、それはどのように作られるのか、何のために使われるのか、といったことの総体のこと。
サルトルは、ペーパーナイフを例に挙げて説明した。その製造法や用途を知らずに、ペーパーナイフという物を作ることはできない。ペーパーナイフとはどういうものかを、あらかじめ職人は知っている。だから職人はその本質を心得ながらペーパーナイフという実際の存在(実存)を作ることとなる。つまりこの場合においては、「本質が実存に先立つ」ことになる。
ペーパーナイフに限らず書物や洋服や机や家や橋でも同じこと。では、人間の場合はどうか。神が存在し、神が人間を創ったと考えれば、ペーパーナイフとまったく同じで、神の頭の中にまず、人間とはどういうものかという本質があり、それから人間の実存が創られる。この、「本質が実存に先立つ」という考え方は、実は18世紀になってからの無神論でも同じことである。
18世紀はルソーらによる、「自然」が尊ばれた時代。哲学者たちは、「人間は人間としての本性をもっている」ので、「それぞれの人間は、人間という普遍的概念の特殊な一例である」と考えた。「本性」も、「自然」も、フランス語では同じ、「ナチュール」で、「ナチュール・ユメーヌ」というと、「人間本性」すなわち、「人間本来の自然なかたち」という意味となる。
この場合においても、人間の自然な本質が、個々の人間の実存に先立つものとした。ところがサルトルは、「人間の場合はそうはならない」と主張。まったく逆の、「実存が本質に先立つところの存在」こそ人間であると宣言した。彼は1945年のパリでの講演の翌年、『実存主義とは何か』を著書を出版した。下はその中の一部を描き出したものである。
1945年といえば、第二次大戦が終結した年。日本の終戦は同年8月だが、フランスの終戦は日本より少し早い5月であり、サルトルのパリでの講演は終戦から数か月後におこなわれたことになる。敗戦国の日本とは違ってフランスは戦勝国であり、ナチス・ドイツの占領から解放されたことで、フランス国民の自由を謳歌する気分は、当然にしてあったことになる。
その一方で、現実はそれほど明るいものではなかった。戦争による破壊の爪跡も大きく、生活面や物資が滞り、食糧難が続いていたし、国民においては失業者や困窮者で溢れていた。なかでもとりわけ大きかったのは、時代に対する人々の不安であった。そうしたなかでサルトルは、自ら主体的に生きるという、「主体性」の概念を実存主義に盛り込んでいる。
人間はまず先に実存し、したがって、「自分の本質というのはそのあとで自分自身で作るものだ」というのがサルトルの考え方であり、「人間は自らつくるところのもの以外の何ものでもない」とした。これが、「実存主義の第一原理」である。自らを作るということは、未来に向かって自らを投げ出すこと、即ち、自ら斯くあろうと、「投企」することだと考えた。
「主体性」や、「投企」という概念において、そこから何かを、「選択」する、「自由」という概念、あるいは自分で選ぶということに伴う、「責任」。そのことへの、「不安」、また自分ひとりで決めることの、「孤独」、そうした一連の概念がずっとつながって来て、「実存は本質に先立つ」という、「実存主義」という考え方の核となる基本的図式が浮かび上がってくる。
「人間であることの原点」については、実存主義を踏まえながら、自由精神と主体性に満ちた、ニーチェの『人間的、あまりに人間的』、あるいは禅思想に通じる「精神の自由」などを無神論の立場で眺めてみたい。「何故、人は神様という装置を生み出したのか」、「人間は宗教なしで生きてはいけないのか」、「人間が信じて生きていくべくものは何なのか」。
ユダヤ・キリスト教圏に生きるある種の人々にとって、唯一絶対の神とは信じられないほど脅迫的な重圧のようであるが、神の拘束を求める人たちの心は、神を信じない者にとっては理解に苦しむ。宗教的拘束と精神の自由はどのような関係にあるのかについても耳を傾けてみたが、「精神の自由と信仰の自由は同じもの」といわれ、ますます理解を得なくなったことがある。