「くっつかぬことが幸福な場合」についてあれこれ書いているが、書きながら少なからず疑問は生じている。つまり、「行動しなかったことで、よかった」、「彼(彼女)と一緒にならなくて本当によかった」ということは、行動しないで分かるものなのか?という疑問。例えば、自分が乗ろうと思っていた飛行機便に乗らず、墜落したというならそれは幸福(幸運)と感じる。
他にも、何らかの結果が分かったあとで、「あの時、ああしなくてよかった」ということはないとはいえぬが、それが人であっても同じことになるのか?Aという女性は、Bという男性、Cという男性のいずれと一緒になっても、同じ振る舞いの女性ということか?そうであるとも、そうでないともいえないと思うが、実際はどうかといっても、やらずして確かめることはできない。
ある女性が他人と結婚したことで、「(あの女と)一緒にならないで良かった」という友人がいた。「なんで?」と問うと、「浮気しまくり女」というので、「それって、お前と結婚していてもそうだったってことか?」と、素朴な疑問だった。誰と一緒になってもその女はそうなのか?結婚していないからそう断定するのだろうが、相手が違えば違うのではないか?
つまり、自分が実際に一緒になっていない相手を、「一緒にならないでよかった」と、本当に言えるのかどうかは不確実なものと考える。同じような思いの男女がいるのかを知りたく、ネットを検索してみたところ、「別れて正解!『結婚しなくて良かった』と思う昔の恋人の特徴8つ!」というサイトがあり、何やらあれこれ書かれていたが、真に受けることはできない。
実際にしていないことを、しないでよかったと肯定はできないが、AはAで誰といてもAに変わりないという見方も間違いとは思わない。似たような例を言えば、「あの女と付き合わない方がいい」という忠告を受けることがある。実際に話してみたり、付き合ってみると、忠告の懸念に当て嵌まらぬことがある。他人の視点や思いは自分とは違うということだ。
反対もある。A公民館のBさんは好々爺と思いながら将棋を指していた。ある日、B公民館のCさんが、A公民館のBはクセ者だから、気をつけた方がいいと忠告をくれたが、自分は全然そんな風には思っていなかった。ところがある日、Bさんがいちゃもんをつけてきたので、根拠のないいちゃもんに反論した。するとBさんは、「お前みたいな奴は将棋を止め~!」といい出す。
あまりの高飛車な物言いのBさんに黙る自分ではない。「誰に命令してるんだ?大勢いる中で声を張り上げるなら外に出たらどうだ?」とけしかけた。自分にそこまで言わせる一癖も二癖もあるBさんの態度に、なるほどCさんの忠告が理解できた。80歳を超えた一見紳士風のBさんがそれほどに豹変するのに驚きもしたが、つくづく人は分からないものである。
次に会った時に、「無理にとはいいませんが、一局指しますか?」と声をかけたら、一言も発さずにすっとぼけた態度がすねた子どものようで傑作だった。「この爺さん、つまらないままに年を重ねたのだな」そう思うしかなかった。いい具合に年を重ねた爺さんもいるが、つまらんままに年を重ねた爺さんもいる。言うまでもないが、前者のようでありたいものだ。
人の数ほど人生がある。自分の人生とは言え、それはまた取り巻く環境の中で、他人に影響を及ぼす自身の人生である。その意味で自分の人生は社会にあっては、自分だけの人生とは言えない。自分には自分の人生があるのはそうであっても、他人に悪影響や害を及ぼす人生であってはならない。どうしてBさんはあのようなのかは、結果だけしか分かり得ない。
つまり、何がBさんをあのようにしたのかを知ることはできないが、Bさんのような人間を批判することで、あのようにならないようになれる。その意味で、多くの人への批判は大事である。自分の内なる苦しみから逃れるがために、他人を非難したりは一時的な自我回復にはなるが、それだけのものでしかない。批判は自分を向上させるためになされるべきである。
ゆえに、批判は悪口であってはならない。自身の中にある嫌悪する部分を他人に投射する悪口は無様である。他人へのそうした軽蔑は、自身を軽蔑してることになろう。他人から軽蔑されないようビクビクする人もいるが、そういう人が周囲から軽蔑されないために先手を打って相手を軽蔑したりすることもある。人の視線を怖れる前に、自信をつける生き方を見つけることだ。
自信があれば自慢も無用となる。着実なる自分の人生を、自分のために生きることもできる。そうであるなら他人の賞賛に依存することもない。ロシュフーコーは面白いことを言っている。「賛辞を受けて謙遜するのは、二度賞賛されたい願望なのである」と。これは的を得ており、思わず笑ってしまった。ある種の能力があれば、それを人にひけらかしたいだろう。
他人に認知されたいというのは自然な願望であろう。が、「自分の能力を隠すことができるのは素晴らしい能力」というのを知っている人と知らぬ人は人格の差となって現れよう。必要以上に謙遜する人も不自然だし、他者の賞賛はさらりと聞き流せばよい。ただし、「それはどうも…」くらい言った方が、「せっかく褒めたのに…」と、相手の気持ちに沿うことになる。
身の丈以上のものを自分にくっつけると、メッキが剥がれぬように苦労することになる。欲を出していろいろなものをくっつけたいなどは止めて、身軽でも自信が持てるならそれに越したことはない。「何かを持ってそれを自慢したいなら、むしろ持たぬ方がよい」と老子がいうように、これが無為自然の境地である。凡人である以上、人から認めたいと思うだろう。
凡人たる自分もそういう気持ちはないではないが、人が人を認めたところで、せいぜい数分の間である。人は一日中、目の前の相手を認めているわけではない。だから、せいぜい数分くらいは自己を認めてもいいが、長い時間固執しないことだ。「何かを持つことで自慢」ではなく、「何かを持つことで自信」となるなら、何かを持つべく努力は惜しまぬことだ。
人から認められることより、先ずは自分が自分を認める何かの方に自分は興味がある。思い起こせば、確かに青年期はそういう気持ちに蹂躙されていた。それは青年期が不安と不満に満ちたからであろう。誰においても。青年期の理想主義は、不安や不満の裏返しではないかと。石川達三の『青春の蹉跌』ではないが、青春期というのは、悩み、苦しみ、つまずきのときである。
大きな理想を持っていなければ自己崩壊もあり得る。他人のことに腹を立てるのはいかにも正義感であるかのように思い込む人もいるが、正義感だけが原因とは思わない。なぜなら、正義感だけならイラついた暴言なんかしないだろう。不倫を社会道徳に反すると激しい怒りを向ける人が、プライベートでは自分勝手で他人に迷惑をかけるなどもよくある。すべてとは言わないが…
どっちみち立派な人は他人の非難などはしないもの。他人をイライラ批判する輩は、自身の内面の不安や抑圧された欲求の現れである。すべきことはいろいろあるだろう。やるべきことをやらず他人の非難ばかりの人間は決まっている。他人は他人を生きるように、自分は自分を生きればいいこと。生きるということは、たった今から自らに行動を起こすことだ。