思春期にもなると男も女も自分の容貌を気にしはじめる。これも第二次性徴の一環だが、先日あるところで小学6年生の女の子に、「かわいいね。男子にモテるだろ?」とお世辞気味に言ったところ、「そんなことないです。わたしはこの顔で人生おわってますから…」と、あなどれない小学生に驚いたが、咄嗟の応答に怯む自分ではないし、すかさずこう返した。
「自分で自分を決めたらダメ。自分のことは人が決めるから」。というと、「えっと、自分のことは自分で決めないんですか?」と可愛く返してきた。「ちがうよ。人が決める。自分のことをいやだと思っていても、人が好きよっていってくれるだろ?そんな風に自分のことは人が決めるから…」。「へ~~~」と、顔が不思議がっているので、追い打ちをかけておいた。
「君の知ってる子で、自分で自分を可愛いと思ってる子いない?そういう子っていやじゃない?きらわれてるだろ?いくら自分が自分を可愛いと思ってても、人はその子をきらうしね。」。その子は、初めて耳にする言葉をその場で全理解はできないにしろ、家に帰ってゆっくり考えればそれでいい。最後に、「だからおじさんはあなたを可愛いって思った」とくくった。
最初はとがった少女に笑みがこぼれたが、「ありがとう」とまでは言えなかった。この年代は自己否定と自己肯定が入り混じった二律背反期でもある。その子の性格の度合いにもよるが、気の強い子は人から、「かわいい」などと言われても絶対に否定する。いわゆる反抗期でもある。「ぜったい、かわいくないから」と頑張る子も珍しくない。まあ、てれもあるから…
自己愛が芽生える過程においては自己批判が伴う。本当はかわいいと思いたい、そう言われたい反面、それを認めたくない自分もいる。こういう心理は子どもに限らず大人にもある。大人の場合は、「そんなお世辞は言わなくてもいいです」と返す女性もいたりするが、「せっかく褒めたのに、可愛くないね~」などと腹で思う男は、人にお世辞をいう資格はないな。
「ありがとうございます」だけしか期待していない。「お世辞ってわかった?」などと返す男もいるが、これもデリカシーのない男だろう。かと思えば、「お世辞じゃないよ。ほんとにそう思ってるんだから」とムキになる男もかわいい。女性は褒めれば喜ぶものという幼児的発想である。男もいろいろなら、女もいろいろで、世辞の類に返す言葉はバラエティに富んでいる。
「(お世辞いったって)何もでないよ」は結構多い。「ありがとう」にも二種類ある。①社交辞令、②素直に喜ぶ、「ありがとう」。①は礼などいいたくないが、その様にいうのがいいなどと本から得た素養。②屈託なく心から喜ぶ女性は、少女のようで可愛い。それとは別に、「ありがとうございます。お世辞でも嬉しい」と返す女性がいた。瞬時にどう返答するのがいいか迷った。
迷っている場合でもないので、瞬時に最善の返答を選択しなければ信憑性は薄くなる。相手がとりあえず自分の言葉を率直に受け入れた場合は、むしろ恐縮気味の方がよい。さもしてやったりの雰囲気はアホ丸出しである。「まあ、自分が腹で思っていればいいことだけど、口が滑るというか、つい出てしまうこともあります。その点許されよ」などと、さりげない言葉で返したりする。
自分の場合、これを恋愛のテクニックというより、人格的なものだと思っている。本心から出る言葉に思うが、無意識の人たらしの部分かも知れない。無意識ならなおさら分からない。が、無意識であるなら、「そうじゃない。あくまで人格的なもの」という断定もできない。人は無意識すら使い分けるものかも知れない。そう考えると人間は摩訶不思議な動物である。
思春期~青年期に容貌も含めた自身のことに関心をもちはじめるのは、急速な自我意識の敏感さもあるが、それとは別の身体的な発育や性ホルモンによる変化に伴う影響もあろう。人は目につくものを気にするのは自然なことだし、急速な自我意識はまた、他人と自分の比較から、自己認識を強めていく。比較はよくないとはいいつつ、比較をしなければ定まらぬこともある。
心理学者や教育評論家らが口を酸っぱく、「他人と自分を比べないよう」などと言ってはみても、慰めでしかない。他人と自分との比較というのは、さまざまに存在する。容姿・容貌に始まり、学力、家庭環境、親の職業などを基準にし、細部に入り組んだ多くのそれこそ識別可能なこと以外の些細なことでさえ気にする子もいるからだ。青年期の特徴である競争心といえる。
さらに青年期は、道徳や人格的価値にも目覚め、高い尺度を自らに当てはめるように、美的価値にも著しく敏感になる。これについても高い尺度を当て嵌める。クラスの男子などには目もくれず、ジャニーズ系男子に憧れるのは、集団風邪のようなもので、誰でも一度はかかるものだ。他人と比較しての高望みではなく、自分自身の高い欲望と比較した劣等感の裏返しであろう。
高邁な理想や欲望はこの時期の特徴でもある。先の少女の、「自分は可愛くないし、この顔で人生おわっている」などの思いも半分は本心である。自身の容貌への劣等感も高すぎる欲望からのものだ。ありのままの自分を認識できないのもありがちな時期で、高望みの自分を真の自分と考えるあまり、自分の顔はもっと良くなるのが当然と考えるあまり、無理をしてしまう。
この時期の女子がどれほど自分に高望み的な要望を持っているか、女子経験はなくとも想像は可能だ。その点男は楽かも知れない。容姿が悪かろうが、学力が低かろうが、あっけらかんとし、遊びに夢中になる。男にとっては遊びこそが生きる価値である場合が大きい。女子は自己の内面にこだわるあまり外見を気にするが、男の子は自分は自分、他人は他人と考える。
「自分はあくまでも自分なのだ」という裏には、「他人はあくまでも他人である」ということになる。自分と他人を同一視するから、さまざまな悩みが生じてくる。「自分には自分の人生がある」ということに早く気づけば、「他人には他人の人生がある」ということになる。先に述べた、秀才には秀才の、美人には美人の、ブサイクにはブサイクの人生がある。
それぞれに自分の人生があって、何もが同じである必要はどこにもない。これこそが、「自分はあくまでも自分」という考え方の根本に気づくことがすべての基本となる。「ありのままに」という言葉が流行ったが、人は「あるがまま」の自分に気づくのは、流行り廃り以上に大事なことだ。「くっつかぬことの幸福」という表題は対象を、「人」に限定していない。
つまらぬ考え方に寄り添わない(くっつかない)ことである。そのためには、つまらぬことをつまらぬと見極めることだが、多感な思春期に道しるべとして導いてくれるのは、よき親であったり、よき師に巡り合う、よき友を持つなどがあろう。それらの他によき書物に出会う場合もあるが、確率でいうなら、「良き本」がいいのではないか。よき親、よき師、よき友より主体性がある。