自由な心を得るにはどうすればいいか?「捨てきる心」を所有することにある。一切の名誉も権力も財産も、何もかも捨て去ることができたらその人は自由となろう。乞食は生活に不自由しても精神的に自由である。が、小学高学年で母親を捨てる決心をしたとき、自由になったとは思わなかった。母親の返報感情がしつこく自分に向けられ、苦しい日々を耐えていた。
母親は精神的自由を拘束するのを止めず、真に自由になるには同居する母から離れる以外にないと感じていた。後年、「自由の哲学の父」と称されるジャン=ポール・サルトルを知り、「自由とは捨てきる心」であるのを認識した。サルトルが、ノーベル文学賞を拒否したのは1964年10月22日だった。そのことでフランスの知識階級の間で議論が巻き起こった。
もらえばもらったで叩き、辞退すればしたであれこれ叩く。人の世とはそうしたものだ
賛成派反対派がさまざまな意見を出しあい、反対派の中には、「やつは燕尾服の着方を知らないから拒否したんだ」と揶揄した人もいた。いかなる賞を貰おうと、名誉に押し上げられようと、自分の人生としてやるべきことをやることはできたかもしれないが、サルトルは辞退した理由の一つを、「全てを変えてしまうだけの自由と力を自らに保存するため」と述べている。
が、そういった力に自身の自由が左右されるという、「自由の哲学」は、どこか矛盾がある。サルトルは、「いかなる人も、生きている間に神聖化されるだけの価値のある人はいない」とも述べている。イチローがかつて国民栄誉賞を辞退した理由を、「まだ現役なので現役を引退した後に国民栄誉賞の受賞にふさわしい人物か判断してほしい」旨の言葉を残している。
イチローはサルトルを知っていたのか?自分は自分の生き方を模索してきた。必ず自分に合った生き方があると信じ、それに向かって邁進した。したがって、その障害となる人間を求めなかったし、そうだと感じた人間とは離別したり、決別した。自分の信念や理念に合わない恋人には何の価値も見いだせなかったし、相手に合わせて自分を変えることもしなかった。
啓発されるものがあれば変えることは吝かでないが、気の合わない相手に媚び諂うなどあり得ない。「捨てることで自由の心を得る」のは、サルトルに出会う前から講じていた。言葉というのは実に無責任なものだと思っている。主義・主張(言葉)も同様で、自分なりの考えを持たぬ人の主義や主張は、こうした無責任な言葉に操られているという自覚がないのだろう。
空き缶ポイ捨てを、「自由な生き方」などというのはチト違う
主義や主張と責任感は一体のものでなければならないが、言うだけの人はなぜか多い。他人の人生にまで口を挟む人間も少なくない。人が他人の人生にどう責任を持てるというのか?なのに他人を批判する。そういう輩は自らの人生に責任を持たないのだろう。自分が意図しない考えの相手を非難し、罵倒し、軽蔑する。「あなたってケチよね」と言った女がいた。
どこにもいるタカリ体質の女性である。自分の金を使わぬを最善とし、男に身勝手な論理を振り回す女性は少なくないが、あからさまに相手をケチと詰る羞恥心のなさであろう。ケチな人間は他人をケチといい、欲な人間は他人を欲だというように、嘘つきは他人を嘘つきという。これが人間社会の悪しき図式である。そうすることで自身の本質を隠し、逃れようとする。
他人を軽蔑するのは、自の本質を軽蔑するのと同じこと。不倫を非難する者に隠された不倫願望があるように、ケチが人をケチと非難するのは、自分を責めるよりは他人を責める方が楽だからである。自分の中にある嫌な部分を他者に投影し、それを非難しているにすぎない。それで一時的に自我を回復できたとしても、落ち着きのある自分を持つことはできない。
言葉だけが無責任に発せられると、こういうことになる好例である。考えの合わない女を捨てようとしたら、こんな風な言いがかりに満ちた言葉を吐かれた。「あなたはいつも一人ぽっちな人。誰とも上手くやっていけない」。別れ際にいう女の捨て台詞はいろいろ聞かされたが、価値観が合わぬ相手との別れは必然である。誰でもいいから相手を求めるわけには行かない。
失恋は必ずしも悪いことではない。別れも同様…。今の幸せがそのことを教えてくれている
誰かと一緒で自由に振る舞うのは気も使う。完全自由でいたいなら一人に限るが、人といるのは嫌じゃない。社会性を身につけた人間は適宜に振る舞える。見抜けないのが不幸のはじまりというが、人を簡単には見抜けない。ある駐日アメリカ大使が、「日本人は自己欺瞞の天才」といった。自己に都合よく現実を解釈し、そう思い込むのはナルシストと同じことだ。
日本人の心に八百万の神はいるが一神教信仰はない。その場その場で自分の都合のよい神をもってこれるが、一神教はこんな都合のいいことを許さないし、唯一神ヤハウェ(エホバ)神に誓いをたてる。くっつく愛もあれば、くっつかない愛もある。醜い別れもあれば、別れが成長させる愛もある。理想の相手とは何か?男もいうが、こういう言葉はむしろ女性に多い。
ちまちまこういう言い方を聞くが、理想の女性なり、理想の男性なりは、本当にいるのだろうか?これについて自分は答えを持っている。いわゆる理想の相手というのは、自分にとって都合のいい相手ということだ。それが幻想だったり思い込みだったりすると別離となる。そうなった時点でどういうのか?「理想の相手ではなかった」といえば済む話である。
「見誤った」でも同じこと。「一緒にならないで良かった」を、一緒になって気づくことも、一緒になる前に気づくこともある。少し前にこの場に書き綴った45年前の恋人のこと。45年前のその彼女は控え目で地味で素朴で、その意味で自分の理想であった。もし、一緒になっていたら、45年後の彼女と同じようになったのだろうか?それとも違う成長を遂げたのか?
美とはエネルギーである。受け止める容量なくして、美とは感じない
分からない。すべては、「たら」に帰結する。分かっているのは現実である。それ以外の全ては空想である。まあ、理想に目がくらんで失敗した奴はいた。青春期のあり余るエネルギーと無知が交差して選んだ相手がどうであっても、自分の選んだ相手である。たまたま上手くいくのか、たまたま離別となるのか、どちらが本筋であろうか。眼鏡に適った相手を得るのは幸運である。
服飾デザイナーのコシノジュンコは、「私は容姿がよくないゆえに美への執着心が強かった」といった。桂由美も同じようなことをいっていたが、ハンデを長所に変えた人たちである。自らの劣等感の裏返しが、相手への賛美となることはある。学力に劣等感があるものは学力を過大に評価し、容姿に劣等感を抱くものはそれを過大評価する。「ブスのイケメン好み」は、心理学的に正しい。
が、あまりに執着する、いいことにならない。例えば、学歴に異常な執着心を持つものは、他人が如何に自分の容貌や人格を褒めても、学歴への劣等感が和らぐことはない。自分が褒めて欲しいのは人格や容貌ではなく学歴であるように、卑屈なまでの執着心はいいことにならない。太った女性には、「健康的ですね」が常套句とされるが、それで相手は満たされるのか?