などと思いを書いてみたものの、決して離婚を奨励するものではなく、離婚を真に望む人は、離婚をためらう理由やその他もろもろについて、しっかりと背筋を伸ばして考えることを奨めている。そうすることで問題は解決するのではないかと…。自殺を考えたことはあるが、幸か不幸か自殺の経験はない。いや、幸であろう。おそらく自殺した多くの人は後悔していると思われる。
「なぜ自分はあのとき死んだのだろうか」という後悔と想像する。というのも、死は後悔してもどうにもならない行為であるからだ。人間は時々に迷うものであるからして、自殺という行為も一時的な思いつめたものではないかと。自殺を図って運よく命をとりとめた人は少なくないが、彼らのその後の動態をみるに、本当に死ぬ気だったのか?と訝しさを感じることがある。
そもそも、「幸運にも命をとりとめた」との言い方が変だ。死ぬ気で自殺行為を行い、それが果たせなかったから幸運という言い方をする人は、自殺を行為したことを過ちだったと述べてることになろう。したがって、命をとりとめなかった人は、「幸運」を味わうこともなく、不幸にも死んでいったことになる。もっとも、本気で死にたいなら、死んで不幸もなかろうが…。
離婚は自殺と違うが一時的な発作のように、「ああ、もう離婚だ。離婚、離婚、クソったれめが!」というような短絡さではなく、それこそ自殺と同様、行為に後悔はないだろうに至るまで考え詰めてみるべきかと。将棋の格言に、「下手な考え休むに似たり」というのがある。考える以上は、真摯に、真剣に、身の振り方を考えるべきで、同じことの堂々巡りでは休むに似たりかと。
思うに離婚の渦中にいる女性も男も、その多くは落ち込み苦しんでいると思われる。夫の暴力や借金、妻の家事・育児放棄、あるいは双方の浮気などは配偶者を苦しめる。なぜ、私は人生を共に歩まんとする相手に苦しまされなければならないのか?なぜ、嫁いだ先の夫の母に辛い思いをさせられるのか?これらはどう考えても理不尽であり、忍従するより解決すべきである。
悩みの本質は、解決できないからであろう。解決できないから悩むのであって、そこに我慢という解決法を充てることもできるが、より積極的に解決する方法を人は考えるべきである。例えば姑に小言をいわれる場合で言えば、言われた側としては、「そんな言い方をしなくてもいいのでは?」と思うのではないか?だったら、正直に、「そんな言い方を…」と言ったらどうか?
最初からビビるとか、合わないとか、相手の立場が上とか、そんな風に思わず、自分の母親と同じように対等な気持ちで、納得いかないことには疑問を呈すべきではないか?それを、「言い返す」という風に取らず、あくまで、「疑問」という形で処理する。女性はすぐに感情的になる性向であるが、それを訓練で止めて、冷静に理知的に、「疑問」という形で相手に向ける。
感情的な気持ちで言おうとするから、言う側にも、「しこり」を考えてしまうが、冷静に、素朴に、疑問として対応する。例えば3月3日の記事にある姑の言葉、「何でそんなまずいものを食べるの」について、その場の物の言いや雰囲気は分からないが、姑にとって素朴な疑問だったかも知れない。我が家の子たちも回転寿司でチョコケーキを食べることがあった。
それもデザートではなく、いきなり最初の一品の場合もある。そんな時に親からすれば、「何でいきなりチョコレートケーキを?」と思うだろう。せっかく回転寿司に連れて来て美味しい(?)お寿司を食べさせたい親心を裏切られた気にもなろう。だからか多くの親は、「だめだめ、チョコケーキはお寿司を食べた後にしなさい」といいたくなるのも無理もない。
これが大人(親)の傲慢であって、子どもが何より食べたいものがチョコケーキであるなら、子の心親知らずの強制となる。多くを子ども目線で考えれば、自由にさせておけるはずだが、どうしても大人の論理で子どもを見てしまうのだ。子どもはどこに行こうが、そこに食べたいものがあればそれを食べたいのだから、寿司を食べたい子なら、しょっぱなから寿司を食べるだろう。
我が家には4人の子どもがいたから、それぞれに問うと何を食べるかはまちまちとなる。そういう場合は、二者択一にするが、例えばケンタッキーとマグドナルド、さあ、どっちがいい?それでもマックが3、ケンタが1に割れる場合がある。そこで自分は問う。「一人でもケンタに行って食べたいか?」、「うん」といえば見上げた奴である。お金を渡して一人ケンタに降ろす。
みんなと食べたいという環境より、自分の食べたいものを食べたい、一人でもいい。これは自立精神であり、だから自分は評価をする。皆で和気あいあいの家族ごっこをしたいのは親であって、そんなのは家庭でやれること。その時、長女は姉風を吹かせて言った。「何でみんなと同じにしないのよ」。いかにも長女らしい、親の意を汲んだ言い方である。
兄弟は長兄や長姉を中心に自治が生まれる。、それを「長幼の序」といって憚らないが、個人主義というより、儒家思想的統率である。個の主体性を重視する自分は、一人ケンタに行くといった長男を擁護した。普通の親なら、面倒臭いと思うかもだが、面倒臭い以上に大事なことがそこで起きている。子ども時代を思いだすと、親の権威や傲慢への不満は子どもにあったはずだ。
その点を批判して子ども目線に立てば、その子が親になっても個の尊重を大事にするかも知れない。ただし、頭のいい子との前置き付きだ。頭のいい子、感受性の研ぎ澄まされた子は、必ずそのことを覚えており、それが自分に何をもたらせたかすらも忘れない。親はズルく、傲慢で、横着で、合理的な大人の論理を捨て、子どもを大切に捉えた方がいい。
躾や子育てにまつわる教育は、確かに面倒といえばそうであろう。であるからこそ親は、少なくとも、「面倒くさい」という身勝手さを排除し、本当に子どもにいいことは何であるかを、その時、その場で考える親は役目を果たしている。己の都合のいい論理や欲目で子どもを利用し、接する親には、親のかけらも感じない自分である。非難はしないが批判を糧にする。
子が親から離れるのを淋しいという親はいるが、これが共依存の基であろう。自分の大切なものを離す、あるいは離れていくことをむしろ善しとして、喜ばなければならない親の宿命である。子どもが離れないなら、突き放すのも親の役目である。総理も市長も親も教師も役目といったが、そうであるなら役目をしかと認識し、仕事として実行しなければならないのでは?
子どもが親から離れるようにするのが親の仕事であり、役目である。淋しいなどと情緒的なことを言っても仕方ない。子育てという任務を終えたら、終えたなりに、あらたな自己啓発なり、楽しみなりを自ら見つけるころこそ我が人生。共依存関係親子の屁理屈に説得力がない。「いいとは思わないが、よそに比べてウチはまだいい方…」などと言って自己肯定する。