離婚は自立という解放への旅立ちである。30年前の自分ならこんなことは絶対に書かなかったろうし、離婚に偏見を持っていたのは間違いない。「善とはなにか、後味のよいことだ。悪とはなにか、後味のわるいことだ」と誰だったかいっていた。つまり、善も悪も行為して分かる事なのかも知れない。やった後で何かが分かってももはや遅いということはあるだろう。
などと言いつつ、だったら結婚はどうなのか?してもみないで善悪が分かるハズもない。と、このように人間は綺麗ごとが好きなようだ。因習や、慣習や、道徳や、そういった社会的拘束に無意識に影響を受けている。本当は離婚したくて仕方がないのに、踏ん切りがつかないのは、後味の悪さを考えてしまう。結婚よりも何倍も大変なのが離婚であり、エネルギーも必要という。
のっけに述べたように、離婚が自立への解放というなら、解放とはどういう状態であろう。おそらくそれは自己をより深く探求していく過程でもたらされるものではないだろうか。人は誰も自分を規定する何かがあるはずで、規定の中味は社会的・文化的な条件であったりする。そうしたものを突き抜けて自己の深部に突き当たるまで探求することで解放されることになる。
経験的にいうなら、自分が怯えるものは何か?今のままで満足なのか?本当にこれでいいのか?別の何かに足を踏み入れたらどうなるのか?などを探求しつづける過程において解放はもたらされる。「自分の殻をつき破る」などと俗な言い方をするが、身構えたり抵抗感を強めたりするので、それほど難しく考えず、偏見や拘束を断ち切って、純粋に自己を深く見つめてみる。
自分はしばしばそれをやった。なぜあの人に強い言葉がいえないのか。なぜ言うのを恐れるのか。などと自問して要因を探ると、必要以上に相手の視線を恐れていたりする。だったらそれを捨てればいいし、それなら何でも言えてしまう。つまり、これを言うと相手が自分をどう思うかという怖さ、それこそが恐れるものであるのがわかる。それを、「憶病風」などという。
臆病風に吹かれる原因は、傷つくこと、失敗する事、何かを失う事を恐れるからである。人から良く思われたいということもある。それらから守りに入り、見て見ぬふりしてしまった結果、前より状況が悪くなったりする。ある女性の手紙を紹介する。「私は自由になりたいのです。どんなにそれが忘恩の行為であり、非難さるべきことでも、すべてを無視して自由になりたいのです。
お兄さんからも、父からも、そして自分からも、この自分を自由にしたいのです」。人間のこういう決意というのは美しい。「どんなにそれが忘恩の行為であれ…」というところが光っている。「親への恩をないがしろにするのか!」という呪縛はおそらく誰にもあるだろう。が、自由を得るというのは、捨てなければならないものもある。それができる人が強い人。
誰から一切の非難を受け入れるという強さである。上の言葉を痛いほどに理解できる人も強い人である。反対に批判する人は自由を求めていない人であろう。決まった器の中に自分を組み込んで、その中で生きて行こうとする人である。それが悪いとは言わない。自分がいいたいのは、自由を求めるなら、自分が自分を支配しなければならないということだ。
手紙の主はおそらくこれまで兄や父に支配されていたのだろう。それに対する決別の言葉である。自分が自分を支配できる人間というのは、意志の強い人間である。なぜなら、自分で自分を支配するというのは実は苦しいことだからで、だからこそ、自分からも解放されたいと思うのだ。自らが自らを支配するという苦しみを味わった人間であるがゆえに自らの解放を望むのだ。
サルトルはノーベル賞を辞退したことで知られるが、その理由の一つに、「名誉の奴隷になりたくない」というのがあった。彼の名著、『嘔吐』のなかに、「自由である、それはいささか死に似ている」の言葉がある。父の権威が絶対という時代はあった。新民法の時代になっても父は威厳に満ちていた。小津安二郎の『彼岸花』には父親の権威を揺るがせる描写がある。
小津一人が時代の変革者たり得ないが、彼もまた時代の変革を担った一人ということになる。昨今の離婚の多さは、見合い結婚が衰退して恋愛全盛の時代となったからか。あるデータによると見合い結婚の離婚率10%、恋愛結婚は40%となっている。そもそも見合い結婚の理由は恋愛が苦手と考える。そうはいっても、離婚が多い恋愛結婚は避けたいという若者はいない。
近年、離婚以上に問題なのは非婚・未婚である。若い人が結婚をせず、高齢者の平均寿命が延びれば医療費が増大し、年金がパンクするのは自明の理。そんなことは知ったことではないとばかりに若者の非婚率は上昇し続ける。かつて日本は皆が結婚する皆婚社会であった。国勢調査が始まった大正9年からのデータをみても一貫して生涯未婚率は1990年まで5%以下である。
こうした驚異的な婚姻率が明治8年には3340万人だった人口を、昭和42年頃には1億人を突破する原動力となる。100年前の日本では全員が結婚できた時代だったが、見合い結婚から恋愛結婚へと移行し、離婚の増加した。それでか近年は見合い賛美の兆しがみえるが個人的には反対だ。離婚が少ないからとの理由で、見合い結婚がいいといえるのだろうか?思わない。
なぜなら、恋する女は美しい。見合いする女は汚いとは言わぬが、一般的に女の幸せは結婚することである。それが女の幸せといわれた理由はなぜか。「男の幸せは結婚すること」などと言わない。「結婚は人生の墓場」と思うからか、元SMAPも一人を除いて独身だ。結婚して不幸になった人はいるが、だったら独身に戻ればいい。反対に独身で不幸と思えば結婚すればよい。
早くから人生を諦めることはない。他人によって不幸な人生を強いられるなら、その相手と離れることだ。忍従が美徳でないように、相手のために生きるという道徳は戦前の古い考えだ。相手に尽くすことが喜びというならまだしも、不幸でありながらも相手にために身を引けないというのは、諦めでしかない。人生を諦めるより、新しい人生を模索すべきである。
結婚も大事だが、これだけ離婚が常態化した昨今にあっては、結婚と同等もしくはそれ以上に離婚について語られるべきであろう。つまり、どこら辺りが離婚の境目であるか。どこまで我慢をし、どの辺りから離婚に踏み出すべきかを定義するのは難しい。結婚同様、相手のどこに妥協すべしかの定義づけは難しい。どちらも個々の判断によるしかない。