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blogで教養を学んだか? ③

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こんな相談を受けたことがある。「自分の気持ちをどうしたら伝えることができますか?」。「そんなの簡単、口でいえばいいじゃないか」、「…それができなくて」。「だったら紙に書け。メールのアドが分かってるならそれもいい」、「それもちょっと」、「なら一人で想ってるしかないな」。「何かを贈るってのはどうですか?気持ちを書いて…」、「物はいらんよ。想いだけ伝えたらいい」。

相手に対する気持ちが真であるか否かは自分に分かるはずだが、相手に伝えたい、分からせたいのは気持ちを受け止めてもらって見返りの愛を得たいということだ。「贈り物は愛を形にする」といわれるが、何かを貰ってくれた相手に気持ちがいくこともないと思うが、「女は物で釣るに限る」という男もいる。こんなのはヤリチンタラシ男、恋愛なんか望んじゃいない。

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「クリスマス、バレンタイン、バースデイにプレゼントを贈り合うとか、お互いナシにするけどよろしいか?」。これが自分が女性と付き合うとき、最初にいっておくこと。なぜそんなことをいうのか思う相手もいるが、おいおい分かることだから理由を説明したりしない。「なぜなの?」と聞いてくる女には、「生身の相手を一生懸命愛したい。相手にもそれを望む」などという。

プレゼントを交換し合うのは大事という人はいようし、止めはしないやったらいいが、自分の相手がそんな風にいえば、「考えが合わないから付き合うのやめよう」という。自分に合わせではなく、どうしても必要な事かどうなのかについて考えて欲しいだけ。その結果、どうしても必要というなら付き合いは止めるべきだ。「そんなこという人って珍しいね」などという。

誰もがやることを否定するのではなく、これが良い関係を作るという自分の思索の結果である。相手に金品を貢ぐ人間を愚かと思うが、貢がせる男から毅然として去って行けばよいのに、ズルズルと利用される女は多い。その逆もあるが、どっちもバカだろう。「特別な日の贈り物と貢ぐことは違うだろ?」という奴はいたが、物品のやり取りしなくても付き合いは可能だ。


ずい分前のことだがこんなこと (↑) があった。12年も前のことだが、“若さはバカさ”、女のズルさを知らぬ時代の息子の懐かしき思い出である。多くの女と出逢いもし、別れもした自分だが、男女の別れはスマートなのがいい。で、スマートな別れとは?出逢いまで否定するような別れはしない。「こんな男(女)と出逢わなきゃよかった」というような憎悪に昇華させない。

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破局を迎えた恋人に対し、あるいは離婚する相手に対して、プレゼントした指輪を返せ、バッグを返せという男がいる。こういう男の内心は食事代やホテル代も返せと言いたいのだろうが、何とも情けない。こういう性格をどう表現すべきなのか?適当な言葉が浮かばないが、「しけた男」とでもいっておく。女はこういう男と出逢ったことすら後悔するしかなかろう。

「どうしたらいいですか?」と問われ、「叩き返してやったらいいんじゃないか!」といったことがある。「私もそうしたい」というのはまともな女である。「べつに返す必要ないんじゃない?貰ったものなんだから…」という女もいる。前者は愛情を大事にする女、後者は物欲志向の女であろう。一般的にはそんな手垢のついた汚れた物など持っていたくないと思うが…

「愛とは後悔しないこと」と何かで読んだが、「愛は感謝」といいたい。戴いた物にではない愛情への感謝、好意への感謝である。教養はものを識ることとは関係ない。人の心がわかる心だと自分は考える。「教養を涵養する」というように、愛もまた涵養である。水が自然に染み込むように、無理をせずゆっくりと養い育てることを涵養というが、好きな言葉である。

教養ある人をどこか大きく感じるように、教養なき人はすべてが小さい。ハートも小さい、ケツの穴も小さい。教養ありき人はいろんな要素をもっているから、どっしり大きい。それほどに教養というのは生活の中に充満し、人間内部の明晰さをあらわすもの。普段は見えずとも何かあった時に露呈するもの。yahooblogが終焉と告示があったときにもそれを感じた。

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文句や不満は少なくなかった。毎日通った定食屋が閉店の告示を出した時のようなちょっとした騒ぎであった。過去の記事が消えるという不満なのか、サービス提供側の一方的都合は許せんとばかりのこうした受け手の言い分は、相手に依存した都合であって文句を言うのは筋違いだろう。我々は恩恵に預かったことの感謝をすればいいだけの話と思われる。

綺麗事ではない至極当たり前のこと。人は浮かれてばかりではいられない。いろんな覚悟をもって生きるべきである。自分の都合しか頭にないなら不満ばかりの人生となる。平生は口先で隣人愛とか人類愛とかいいながら、自分の命を守る点にかけてはエゴむき出しの宗教教祖にうんざりしたことがあち。自分ができぬこと、やらぬこと、しないことを綺麗事という。

教養と健康の関係

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表題に何をもってくるか、気まぐれで決めている。小説のタイトルに思うは、タイトルとは目的でも結果でもなく、膨大なストーリーの中から両手ですくいあげたオアシスの水のようだ。山ほど存在するタイトル候補から、すくいあげた水を最終決定とするのだろう。最近、タイトルで騙された書籍があった。加藤諦三の『自分に執着しない生き方』(1988年:大和書房)である。

中身は『かしこい生き方』(1985年:大和文庫)そのまま。『かしこい生き方』は『体当たり人生論』(1970年:読売新書)そのままだ。『自分に執着しない生き方』、『かしこい生き方』、『体当たり人生論』は同じ本である。同じ中身でタイトルバラバラなら、タイトルなんかどうでもよいことになる。『自分に執着しない生き方』に何が書かれているかと買ってみたが騙された。

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『幸福論』にお金持ちになるのはどうすればよいか書いてあるようなもの。加藤諦三の名にあやかった小賢しい手法である。加藤の新装丁書籍はすべて過去に出版されたもので、今回を機に買うのは止める。同じタイトルで新装版と明記されているのは、装丁が新しくなったと感じとれるが、タイトルを改題して中身が同じというのは、同じ本で儲けようとする汚い商法である。

加藤に罪はなく出版社の言い分は、「中身を読んで購入して欲しい」であった。こんなことでは近年のネット通販時代に対応していない。ネット通販の特定商取引には、「誇大広告などの禁止」、「前払い式通信販売の承諾などの通知」、「契約解除に伴う債務不履行の禁止」などの規制がかけられているが、タイトル改題で中身が同じという著書の法的規制はどうやらなさそうだ。

通販を開始するにあたって許認可はないので誰でもできるが、かつては詐欺取引の温床でもあった。業者もいろいろ、顧客もいろいろ、人間社会に問題の発生しないことはない。それはブログをやった人なら判ろう。狭い社会でも人のいろいろなら、ネットはその比どころではない。人の被害もあれば商品の被害もあり、中でも笑ってしまうのは健康食品による健康被害の実態。

健康食品に、「医薬品に該当する成分を配合したり、医薬品と紛らわしい効能を表示したり広告などは薬事法で禁止されているが、各メーカーはギリギリのところで上手い表現方法を用いてCMなどをやっている。もっとも顕著なのがサプリメントで、この用語には行政的な定義はなく、通常の食材から菓子や飲料、医薬品と酷似した錠剤・カプセルまで多岐に渡っているのが現状。

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ビタミン、ミネラル、アミノ酸という語句は使用されるが米国ではこれらを、dietary supplementsと定義、ヨーロッパでは、food supplementsとする。どちらも意味は、「栄養補助食品」。日本も含めてサプリメントは、「健康食品」と考えて問題ない。誰もが自身の身体の健康を重視する時代にあって、健康食品市場は拡大の一途だが、「健康にいいですよ」というCMを信じる人は多い。

何のためらいもなく購入する前にこそ、教養を発揮せねばならない。この場合は教養というより知識だろうが、「健康食品で病気が治る」わけないし、「健康食品は病気の治療に使えない」という知識に加えて、「薬を一緒に使うとダメ」というのは重要なこと。健康食品に添加されている成分と医薬品の相互作用の組み合わせから様々な疾患や副作用があらわれることがある。

あるサプリメントや健康食品が、本当に自分に必要かどうかをどうやって知るかは難しい。それならと安易に健康食品に飛びつく前に、本当の健康とは何かを考えてみたとき、自分の場合は過食改めと運動が身体によいと結論した。「健康に勝るものなし」というが、「歩くに勝るものなし」ともいう。地道だが血流が促進され、脳にも酸素を含んだよい血が届く。

脳の衰えは人さまざまだが、せめて脳卒中や痴呆で他人に迷惑をかけたくないものだが、つまりは自分の健康=他者の心の健康である。脳は人間の司令塔であるから、脳が元気になることは体にもいいばかりか、ウォーキングなどをすることで、景色や空気や触れ合い、べっぴんさんが目や肌を刺激し、それがさらに脳への刺激となって神経細胞を活性化してくれる。

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「どうすれば痩せられるか」の理屈満載本も多い。ボクサーを見ればわかろう、体重を減らすのは食べるのを減らすが理に適っている。ジョギングやウォーキングなどの運動による消費カロリーなど微々たるものだから、食事制限すれば確実に痩せられる。ところが横着で欲な現代人は、生活を変えずに魔法の言葉や方法を求める。努力しない方法を模索する。

一事が万事の時代である。理屈を記した書籍は山ほどあるが、理屈どうりに行かない。食べなきゃ痩せる実践はしないで理屈に頼るのは、食べる欲求を変えることなく、何かいい方法はないかを模索する。現代人は家事や交通その他とにかく楽をしたい。「苦痛を伴わぬ悦びはない」という教えは過去のもの。現代人は、「苦痛を伴う悦びなんか冗談じゃない」となる。

宗教も手っ取り早い幸福願望に映るのは、「入信したら幸福になりますよ」と言い含められら信者は多う。宗教がどう人間をどのように幸福にするかを知らないが、神仏に助命嘆願を祈りて戦場に赴き、人を殺して生きて帰れば神仏の前にて感謝の祈りを捧ぐ。なんとも穢れた行為であろうか。宗教が人間を汚すのか、それとも人間が宗教を汚しているのか?

宗教は教養か?宗教についての知識は教養であれ、信仰を教養といわない。キリスト教を止めてマルクス思想に入った亀井勝一郎は、マルクス思想からも脱した。「自分の信仰や思想に危険性について常に疑いの目を持つべき」と、遠回りながら辿り着いた境地。信じたものの否定は自己否定とは思わない。人間は過ちを犯すもの、過ちに気づくのは勇気である。

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幸福者には不幸も必要

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ビル・ゲイツは2013年から毎年、レディット(英語圏のwebサイト)のAMA(Ask Me Anything:何でも聞いて)に登場し、世界中の誰からの質問に応えている。最近彼は、「ビリオネアでいることはミドルクラスの人より自分を幸せにする」と応えた理由を、「医療費や大学の費用について考えずに済むからね。お金に関する心配をせずに済むことは、本当にありがたいことだ」という。

ビリオネア (billionaire) とは、1,000,000,000 =one billionで10億長者となるが、そんな日本語はな「億万長者」。billionaireという単語はなく millionaire (百万長者)であったが、それでは足りない金持ちが存在し始めたということから、billionaire という造語が生まれた。我々が子どもだったころは確かに「百万長者」といった。西日本宝くじの一等賞金が100万円だった時代である。

今では「百万長者」はそこら中にいる。誰が問うたのか、ゲイツに「お金持ちで幸せか?」と聞いて「不幸だ」とは答えないが、彼は上記の理由を述べたが、「もちろん、そのために10億ドルを手に入れる必要はない」とも答え、さらには、「(このサイトに)誰もがアクセスできるよう、わたしたちは医療や教育にかかる費用がこれ以上、上がらないようにする必要がある」とも答えている。

お金があればある面幸せであるが、巷いわれるように、お金があれば絶対幸せということはない。生活できるだけのお金があればとりあえず幸せな人はいるし、生き甲斐とか人生の楽しさにウェイトをおく人も少なくない。噛み砕いていうなら、「(お金は)ないならないなりに暮らせる」というのは実感すること。かつてこんな風にいわれていた。「一人口は食えなくとも二人口なら食える」。

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なかなか良い言葉である。「お金もない預金もない給与も少ないが、独りでいるより二人が経済的にも得」との意味だが、「二人は何かと幸せ」という意味も隠されている。この言葉に推されて結婚に踏み切った者も少なくなかろう。ところが、今時の独身男は、「お金がないから結婚は無理」などと腰砕けで、いろいろ聞くと今の時代はお金がかかるらしい。さらには…

「こんな安月給の男と結婚したいという女はいないですよ」などとしょげた夢もロマンもない若者。「同情するなら金をくれ」といわれそうだが、なぜに時代は若者から夢やロマンを奪ってしまったのか?「糟糠の妻」という言葉も耳にしない昨今だ。「貧しいときから連れ添って苦労をともにしてきた妻」をいうが、「お金なんかなくとも愛情があれば幸せ!」を信じて疑わない女である。

昔はこういう女が溢れていたが、昨今は少なくなった。だからか、贅沢志向や物欲の強い女、見栄っぱり女は結婚相手に考えなかった自分だ。もともと地味タイプが好みだったが、結婚を考えていた女のある言葉で気持ちが醒めたのを覚えている。「2~3週間に一度は美容院に行きたい」といったからである。彼女は美容師だったこともあるが、それにしても贅沢である。

彼女が勤務する美容室は、麻布にあって芸能人が来店していた。それもあってか、フェイシャルや爪の手入れなどが女の楽しみという。想いが醒めた理由はいわないままに少しづつ距離をおく自分に彼女も気づいていたかも知れない。自分が結婚した1年後に、病院経営を父に持つサラリーマンとお見合い結婚をしたが、恋人は終えたが友人として続いていたので、そういう情報は知ることになる。

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結婚前には相手との種々の相談事にのったが、「子どもをお父さんに取り出してもらわなきゃいけないのかな?それはイヤだ」などの心配がユニークだった。結婚後は交流を止めたのでどうなったか知らない。何処にいるか分かっているが、会えばやはり40数年ぶりである。会いたい気持ちがない事もないが、懐かしさだけを満喫の出会いに意味はなく、会わぬがよいとの判断。

45年ぶりに逢った恋人の悔いもある。変な終わり方をしていないので逢えない状況ではないが、「あの日のことはあの日のこと」を確信する昨今だ。レディットの別のユーザーはゲイツに、「自分を幸せにしてくれるものは何か」と尋ねた。ゲイツは、「自分の子どもが元気なら、それはとても特別なことだと誰かが言っていた。1人の親として、わたしも全く同感だ」と回答している。

確かに、人間の目的の一つに子孫を残すことがある。が、それはあくまで婚姻経験者で、婚姻経験のない人や子どもに恵まれない人には別の思いがあろう。価値観を限定すべきでなく、ゲイツは自分の思いを述べたに過ぎない。イギリスの学術誌『Nature Human Behaviour』で、2018年に発表されたある最新の研究によると、人生の満足度は9万5000ドル(約1050万円)前後と試算された。

精神的な健康は6万~7万5000ドル(約660万~830万円)でピークに達することが分かった(これらの金額は世帯年収ではなく個人の年収である)。これを超えると人生の満足度も精神的な健康も逆に低下する傾向にあるという。これから、お金が必要以上にあっても何かと問題もあるのだろうか。具体的な人生の満足度が何に合致するのか分からぬが、超えると低下する何がしか理由があるのだろう。

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ゲイツはこんなこともいう。「もっと運動をするといった自分との約束を守ることも幸福度を上げてくれる」と、運動が常態化しない悩みが伺える。「人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である」という言葉に頷かされる。幸福ばかりの人はむしろ不幸であり、「苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって常に必然的なもの」にも納得する。

物事を幅広く考えることでいろいろ納得させられるが、「納得できない」、「つまらない」、「楽しくない」、「不幸である」が口癖の人がいる。不満をいうことでむしろ人生を楽しんでいるようだが、他人から見ると愚痴ばかりで歓迎されない。「運命」という口実を捨て、自分の前で起こる一切は自分が作る。すべての責任を自らが負う。これこそ、「生きた」といえる我が人生哉。

名作『滝の白糸』に寄す ①

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13日にWOWOWで舞台中継『滝の白糸』があった。同作品は泉鏡花の『義血侠血』を原作とする新派劇で、映画やオペラ、テレビドラマなどに脚色されている。映画では1915年に第一作がつくられ、計6作品が製作された。今回の放送は2013年に舞台中継された唐十郎書下ろしの『唐版 滝の白糸』で、蜷川幸雄演出、大空ゆうひ、窪田正孝、平幹二朗らの出演で話題となった作品。

1975年に蜷川幸雄の演出にて初演された『唐版 滝の白糸』は、大掛かりな舞台装置を必要とすることもあって、大映・東京撮影所で行なわれた。1989年には日生劇場、2000年のシアターコクーンを経て、今回が4度目の上演となる。蜷川が死ぬ前に何としても再演したかった作品と述べていたという。その蜷川は2016年5月他界し、唐作品は初出演だった平も同年10月に他界した。

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2012年に宝塚歌劇団を退団後、女優として初舞台に立つ元宙組トップスター・大空ゆうひの主演に加えて若手の注目俳優窪田正孝も話題となる。唐版ということもあって、従来の『滝の白糸』とは内容がガラリと変わっているが、さすが唐十郎といえるほどに面白かった。『滝の白糸』といえば新派、新派といえば水谷八重子といわれ、劇団新派のサイトには以下の紹介がある。

『滝の白糸』は新派劇作家の花房柳外が脚色したもので、明治28年川上一座が駒形浅草座にて初演、翌年の暮れに喜多村緑郎の白糸役が賞賛を博した。昭和になり花柳章太郎、そして初代水谷八重子へと引き継がれ新派の当り狂言となった。劇中の水芸の華やかさ、卯辰橋の見染めの場、そして大詰の法廷の場面に観客は心を打たれる。八重子の初演は昭和15年3月東宝劇場だった。

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ストーリーを簡単にいえばこういうことだ。水芸を出し物とする寄席芸人一座の座長滝の白糸は、偶然にも経済的な苦境から東京で法学を勉強することを諦めかけていた青年村越欣弥とめぐり逢う。白糸は欣弥に惹かれ、彼のために学費を出すパトロンとなるも、教養も身分も違う欣弥と結婚を夢見てはいなかった。そんなことは欣弥の出世の妨げでしかないことを白糸は知っていた。

夏場に人気の水芸も冬場は見向きもされず、白糸は欣弥の学費の工面に苦労する。商売敵の南京出刃打の寅吉一座に刃物で脅され、欣弥に送る最後の金を奪われた白糸は、高利貸しに助けを求めるも、はずみで老夫婦を刺殺して金を奪う。現場に寅吉所有の出刃が残されていたことで寅吉は犯人と疑われた。見せ場は、晴れて検事代理として着任した欣弥と白糸が法廷での対峙場面。

寅吉は逮捕されるが、事件のことを一切知らないといい、金をとられたこともないと言い張る白糸が怪しいと供述し、自分の嫌疑を晴らそうとする。証人として出廷した白糸は金沢の法廷で欣弥と対面するのだった。白糸は法廷で3年前に浅野川の河原、卯辰橋の下で生涯を誓った或る男(実は欣弥のこと)に学費を送り続けているなどを話すが、男の名を断固秘す白糸のいじらしさ。

裁判長の尋問に白糸は、将来を約束もし、男も他人じゃないといい、手を取り合うも、「それは、あんまりお月様が綺麗だった上での浮かれた酔狂でした。だからあの時の言葉きりと思っております」という。それなら「なぜに三百円を超える送金を続けたのかと裁判長に問われた白糸は、「ですから幾度も申し上げております。すべては私の酔狂でございます」とにべもない。

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村越に真実の大切さを説かれた白糸は、凶行を自白した後に法廷内で舌を噛み切って自決し、後日村越も銃で彼女の後を追った。愛する男を一人前の検事にするための最後の仕送金を得るために殺人を犯した白糸は、愛した男によって至福の裁きを受け、死刑判決を受ける。彼女は愛する男に金も命も差し出すが、悔いなき僅かばかりの人生と、後を追った村越もその心は白糸と一つであった。

被告の援助金で法を学んだ検事が、その被告を裁くという不条理は、なんという運命の悪戯であろうか。男女の清くも美しき関係が観客の涙を誘わずにいられない。『滝の白糸』の人気の秘密はそうした古びた純愛である。『唐版 滝の白糸』には別次元の面白さがあった。映画では若尾文子が白糸役の1956年版が人気で、無罪となった白糸は村越と一緒になる設定も好評の要因であろう。

水芸芸人と法律家をめざす苦学生の切ない恋の終焉か、それとも観客に至福感を与えるハッピーエンドか、泉鏡花もさすがにビックリの後者の脚色である。原作の小説『義血侠血』は短編であるために映画化するに当たり、創作部分の挿入は止むを得ないが、これほどのどんでん返しも可能となる。映画があまりに悲惨に終わってしまっては観る側の感情は昇華されないこともある。

どちらの結末も甲乙つけがたい魅力に溢れるが、いずれにせよ白糸と村越の二人は人間として芯の通っているところが魅力的である。自分を守るためなら嘘もつくし、何でもべらべらと喋る女にあって、「お月様があまりに綺麗だったので、つい浮かされての酔狂だったんです」という白糸はたばかった物言いをするが、「酔狂」なる言葉に真に男を愛する女の情念としての美をみる思い。

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名作『滝の白糸』に寄す ②

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泉鏡花(本名は鏡太郎。1873年11月4日 - 1939年9月7日)は金沢市下新町に生まれた。尾崎紅葉に師事し、怪奇趣味と特有のロマンティシズムは近代における幻想文学の先駆者としても評価されている。代表作として『高野聖』、『婦系図』、『歌行燈』などがあるが、『滝の白糸』の原作となった『義血侠血』は、鏡花の21歳時の作品である。舞台は彼の生地金沢となっている。

白糸が南京出刃包丁の芸人寅五郎と反目し合う原因は、北陸路を旅回りをする滝の白糸一座の世話役お安に、寅五郎が一緒に興行しないかと申し出をした。「俺たちが手を組めばもっと客を集めることができる」という寅五郎に対し、「人様の力を借りたんでは、御贔屓筋に申し訳ありません」と滝の白糸は断ると、「なんだと。覚えていろよ。今に見ていろ」と寅五郎は怒る。

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滝の白糸一座は金沢行きの乗合馬車に乗り込むが、先に金沢に行って良い興行場所を目論む寅五郎は、白糸一座の馬車の車輪に出刃包丁を投げつけて、馬車を壊す。悔しがるお安は何としても白糸を寅五郎より先に金沢に着かせたい。そのとき乗合馬車の御者は、「どんな辛いことも我慢できますか?」と問い、「先に金沢に着くならどんなことも我慢します」と応える白糸だった。

御車は白糸を馬に乗せて一路金沢へ。白糸は必至で御者にしがみついていた。これが白糸と欣弥の馴れ初めである。金沢に着いた白糸は見事な水芸で観客の喝采を浴びるが、御者のことが気になっていた。「初めて会った人にこんなに気がひかれるなんて…これが初恋なのかしら」とお安に打ち明ける。ふと夕涼みに川岸を歩いた白糸は、小舟で寝そべる御者を見かける。

「あの、あたしを覚えてます?」、「どっかで見たような気もするけど」、「あたしを抱いたくせに。しっかりと馬の上で」、「ああ、そうか。月の光で見ると、前よりよっぽど綺麗だな」、「まあ嬉しい!」。白糸は御者から煙管を借りて一服する。「あなた独り者?」、「働き手のない者に嫁の来てはあるもんか」「でも、あんたは馬車会社に」、「クビになりました」。

客をほったらかして歩かせたからという。「まあ。それじゃあたしのために。で、あんた、これからは?」「馬方じゃどうせ勉強もできない。僕は法律を勉強したいんだ。母が僕の成功を待っている」、「学問ならこんな田舎より、東京のほうがいいでんしょう?どうして行かないの?」「行けないんだ。親父さえ生きていてくれたら…」。白糸は御者の事情が呑み込めた。

イメージ 3「それでは」と立ち去る御者に白糸は、「東京へおいでなさい」、「何だって」、「お金があればいいんでしょう?」、「ないからここにいるんだ」、「お金なら私が持っています」、「僕は乞食じゃないよ」、「人間に生まれて一度はためになることをしてみたい。そう思っただけ。お願い、学校出られるまで仕送りさせてください。あんたを立派な人にしたんです」。

「わからん。どうして君がそうしてくれるのか」と訝る御者に、「訳も何もありません。私の気持ちです」と白糸。「君は誰なんだ」、「名前なんかどうでも馬の上で抱いた女でいいじゃありませんか」、「そうはいかん。見も知らぬ人から情けを受けるのは嫌だ。僕は村越欣弥。君は」「水島友。またの名を滝の白糸」、「滝の白糸。そうか、君が今評判の水芸の太夫か」。

援助の申し出を計りかねていた欣弥に白糸は、「私はあなたが好きです」と打ち明ける。「ただ好きなんです」、「そうですか」、「ここに三十円あります。これですぐ東京に行ってください」、「恩に着ます」。立ち去る欣弥を見送る白糸は返し忘れた煙管を胸に抱く。それから二年。人気の外国のマジックに押されながらも滝の白糸一座はなんとか興行を続けていた。

白糸は苦しい中から欣弥に送金を続けた。「あと一年だけ我慢して」、とお安に詫びる白糸。二人は文を交わし心が通い合っていた。そんな中、富豪の上林は興行主になりたいと寅五郎に持ちかけるが、条件は滝の白糸一座と一緒になることだった。白糸は一座の窮状を救うため寅五郎一座と一緒になり、上林の資金援助を受け入れを了承する。前金三百円を貰った白糸は二百円を欣弥に送る。

欣弥の母は、欣弥が卒業して金沢に戻ってきたら息子と結婚してくれと白糸に頼む。「そんなこと言われても、欣弥さんがどう思っているか」、「いいえ。息子は自分の嫁はあなたしかないと書いています」。母は手紙を母は白糸に見せた。欣弥の手紙にこう書かれていた。「一度しか会ったことのない友さんにこれほどの愛情を感じるのが不思議ですが、想いは日々募るばかりです。

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今では友さんと結婚したい想いだけで勉強に励む毎日です。しかし友さんの気持ちはわかりません。それとなく母上から打診してくれませんか」。欣弥の手紙を胸に抱く白糸。「興行で儲けようと思ってない」。上林の目的は白糸だった。一座を東北巡業させるが寒い地方で水芸など誰も観にこない。そこで白糸はお金を求めて自分になびくという思惑だった。

客の不入りで進退窮まった一座に上林は寅五郎に命じて欣弥に送る二百円を盗ませた。困った白糸は上林の元に駆け込み借金を願う。上林は金を貸す代わりに身体を求めるが、「私は芸は売っても身は売らない」と拒み抵抗するが、勢い余って上林を刺し殺してしまう。白糸はお安に上林殺しを打ち明けるが、お安は二度と欣弥に会えなくなるからと自首を止める。

これが前半のあらすじ。1956年製作の若尾文子主演の映画はDVDにもなっていず、なかなか見る機会がない。1973年には岡田茉莉子主演でテレビドラマ化されたが、新派看板女優で人気演目『滝の白糸』も水谷八重子の年齢から望めない。最近は現代風にアレンジされた唐版に人気が集中しているが、この名作が50年近く映画・ドラマで製作されないのが腑に落ちない。

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     『滝の白糸』昭和47年の国立劇場公演。初代水谷八重子は66歳。欣弥役の吉右衛門は28歳だった

名作『滝の白糸』に寄す ③

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めぐり逢いとは何とも不思議な人間ドラマであろうか。滝の白糸と村越欣也が出逢うことがなかったら、二人は死ぬことはなかった。二人の馴れ初めからの一連の流れの中、白糸の自決にはいろいろ考えさせられるものがある。物語の圧巻は最後の法廷場面にある。尽くしてきた愛する男の手で裁かれるという不条理にあって、自らを保つことがどれほど苦しく酷であるかが伝わる。

これほどの極限状態にありながらも、凛とした姿を崩さぬ白糸の芯の強さは、ほとばしる愛情からいずるものであろう。さらには欣弥との金網ごしのけなげなまでの言葉のやりとりに涙を誘われぬ者はいない。先ずは裁判が始まり、証人として出廷する白糸は、検事席にいる欣弥を目にし驚くところから始まるが、白糸を尋問する欣弥との二人の経緯を知る者などいない。

裁判長はこのように質問をする。「証人は被害者上林から受け取った二百円を東京に送ったと言っておるが、それに相違ないか」、「はい」、「寅五郎に金を奪われなかったのだな」、「はい」。「嘘をつくな!」と脇から怒鳴る寅五郎。裁判長は続ける。「その金は東京のどこに送った」、「それは言えません」、「隠していては、金を送ったのは嘘ということになるぞ」。

そして欣弥が白糸を尋問をすることになる。欣弥にとっては白糸への感謝と愛情を隠すことなどできない。欣弥は誠実に心を込めて白糸に語り掛けるが、周囲の誰にもそれはありがちな検事の被告へのは尋問でしかないない。「送り先の名前を言いなさい」、「どんなことがあっても申し上げられません」、「証人が言えぬというその名を本官は知っている」。これは驚くべき発言である。

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欣弥は法廷の場で自分の名を白糸にいわせようとするのは、そのことが真実であるからだが、白糸は相手の名をいおうとしない。欣弥はそんな白糸の心を慮りながらこう諭す。「証人は偽りを言ってはならぬ。証人は滝の白糸と呼ばれる立派な芸人ではないか。濁りなく澄み渡ればこそ白糸と申すのであろう」。白糸には欣弥がこの場で自分への敬愛心をひしひし感じたであろう。

つづけていう。「その白糸が罪もない人に罪を着せたとしたら、多くの贔屓はどう考える。もし本官があなたの贔屓であったら、愛想を尽かして道で会っても見向きもしないであろう。真の幸せを得るなら心が正しくなくてはならぬ。わかったな」欣弥の言葉に心洗われた白糸は事実を申し立て、寅五郎に金を盗られ、上林に借金を申し込むも上林に体を要求され、抵抗の結果に殺害したと告白する。

欣弥は正当防衛でなく殺意があったものと懲役八年を求刑する。閉廷後、欣弥は獄舎の白糸と面会する。「元気ですか」、「はい」、「それはよかった。とても心配してたんだ。僕のためにこんなことになって」、「いいえ。そんなこと」、「君を検事の立場で厳正に求刑しなければならないとは」、「あたしがこんなことをしなければ、あなたをこんなに苦しめなくて済んだのに」。

検事と被告ではない、人と人の会話である。恩人を法廷で裁くような巡りあわせとなったが、これも白糸と欣弥のめぐり逢いが生じさせた。欣弥は自分の辛い思いを打ち明ける。「恩人を鞭にあてるような自分の立場がつくづく嫌になった。この事件が終わったら僕は辞職するつもりだ」。仕事とはいえ、割り切れないやるせなさが法律家に向かぬ自身を悟っていた。

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そんな欣弥に白糸はこう言い含めた。「それはいけない。そんな気の弱いことでどうします」、「わたしはあなたに裁かれて嬉しいのです」、「僕を許してくれますか」、「許すなんて」、「僕はあなたに妻になってもらいたい。母とも相談の上だ。この婚姻届に判を押してください」。といいながら用紙を出して白糸に判を押させる。この上ない喜びと悲しみが入り混じって涙する白糸。

法廷内で舌を噛み切って死ぬ白糸、後に拳銃自殺をする欣弥という原作と変わって、判決は正当防衛を認めて白糸を無罪とした。あくまでおそらくであるが、日本人的な心情として、8割方がこの結末を望むだろう。欣弥が白糸に述べた、「もし本官があなたの贔屓であったら、愛想を尽かして道で会っても見向きもしないであろう」と、これは是は是とし非を非とする男の愛の形である。

「真の幸せを得るなら心が正しくなくてはならぬ」と、これは自身の妻としてあるべく女の正しい姿を述べている。信頼に値する人間というのは、何より正直であるべきであり、人は利害でなく真実の中で生きるべきとの考えにある。都合のいい事は表に出し、悪いことは隠すではなく、善いも悪いも真実なら受け入れるべきというのは、自分の理想とする生き方でもある。

白糸の像は金沢市浅野川左岸の、「鏡花の道」にある。子どもの頃、どさ周り劇団の人気の出し物だった水芸は子ども心に本当に不思議だった。あれこそが手品(昔はマジックといわなかった)の原型であった。大人になった今、その仕掛けを知りつつも不思議さは変わらない。女性が主役の水芸は女性の凛とした美しさを醸すが、当時23歳の若尾文子の白糸の美貌は絶世の感があった。

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「成功」も一つの人生

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世の中には成功した人がいる。周囲は羨ましいなどというが、本人が満足ならそれでいい事。成功した人生も人の人生の一つに過ぎないが、幸福とか成功についての一定のイメージができあがると、外れた人は不幸の烙印を押されかねない。そんなの気にする必要はない。何の成功もない自分は何の不満はないし、不幸と思った事もない。世の中の多くの人は成功なんかしていない。

成功者を羨ましいと思えば不満も出ようが、大事なのは自分の人生を楽しく生きること。成功しても大変だろうし、そんなのより少しばかりの蓄えと自由な時間があるのがいい。決して負け惜しみではない実感だ。もっとも、自分が成功者ならその運命を生きるが、何もないならない人生を生きればいい。自分の人生こそが大事であって、だから、「成功も一つの人生」とした。

多くの人は成功を願い夢を見るのか?だったら努力がいる。自分は自由に生きることが目標だった。だからそれを叶えたが、そのための障害排除はしたろうが、辛い努力はしていない。本人が成功の夢を描いて、そのために奮励努力をするなら分かるが、親が必死になるのはバカげたことよ。親の描く成功の道しるべは、一流高校⇒一流大学⇒一流企業なのだろうが、これは親の夢では?

親は親、子は子という欧米の個人主義と違って、日本人の親は子を所有物とみなし、何が何でも親の価値観で縛ろうとするが、それを正しいとする風土かも知れない。が、考えてみるに、風土とはなにか?和辻哲郎に『風土』(1935年)なる著書があり、サブタイトルは『人間的考察』。和辻による「風土」とは、単なる自然現象ではなく、その中で人間が自己を見出すところの対象である。

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フランスの地理学者ラ・ブラーシュも、自然環境はただ人間の活動のための、「可能性」を与えているに過ぎず、この自然風土に働きかけて文化・社会を構築する人間の能動的役割を主張した。つまり親が子を支配するのは日本の風土といっても、子どもがそれを認めず、反抗すればその子にとっては風土とならない。つまり、そのように生きた自分にとって親の子支配という日本の風土は他人事。

もちろんこれは自分が親になってもである。ところがこういう風土は引き継がれていかないところが、人間の多様性である。長女は孫を自分の意に従えたくて仕方がないようで、そういう言動を見ながら視野の狭さにうんざり。男親と女親の支配力の差なのかどうかは分析できぬが、自分の祖父も父も放任だった。放任というのは悪い意味ではなく、自由を尊重してくれていた。

しかし祖母は違った。支配するというより、何事にも口を出す点においてやはり母親と同じ系譜。となると、狭量な母親の方が子どもに暴君になりやすい。親心の激しさというのは、意識して自制しないと歯止めが利かない。「親の責任とは何か」という根本的な思索がなされない限り親は暴君と化す。ならば親の責任とは何であり、それを考える上での根本的施策とは何か?

思いつくのは、「独り立ちの辛さ」を教えることかと。群れる人間、群れたがる人間が集団行動に殉じるのは大事なことだが、上辺の協調ではなく、真の協調というのは自立した人間がなし得られる。上辺の協調・真の協調の違いを考えるくらい誰にもあろう、だから省くが精神的に自立するというのは大変なこと。なぜなら、どのように考えても親は子どもより先に死ぬ。

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だからか早くから親を失った子は当然にして自立が促進される。子どもを甘やかせる親というのは実は子どもに甘えている親だろう。ならば、「親が子どもに甘えていいものか?」という思索も必要となる。「いいわけなかろう」という答えを導きだせて初めて親は子に甘えなくなれる。それを思索しない親は卑怯であり、ズルい親、共依存体質になりやすい親である。

子どもが親の意になるのを日本的風土といったが、背景にあるのは親を大事にしなければの考え。親に限らず他人を大切にするのは悪いことではなく評価されるべきだが、誰より自分を大切にという前提があってこそだ。真に明晰な親というのは、子どもが自分の意のままになるより、子ども自身を捨ててまで親を大切にして欲しいなどは願わないだろう。

願うというなら強いエゴを持った親だ。親に育ててもらったという意識は自然に芽生えるが、「そんな意識などもたなくていい」といえる親こそいい親であろう。なぜなら、あまりに親の恩を強く意識すると、子どもは親の期待に応えたいと思うようになる。そのことが、自分の適性が何であるかも分からず、探すこともせず親の願望を叶えるだけの子どもになりやすい。

こういう子どもを自分は望まない。だからそういう教育する。望む親はそのようにもっていくだろう。親のいう通りにしていれば間違いないといわんばかりの子育てをする。価値観は多様化する時代、子どもは自分の適性が何かが分からない。ならばそれを一緒に探してやるのが親ではないのか?子どもと向き合い相談にのり共に考える。それを親の責任というのでは?

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適性が分からないことをいいことに、だったら勉強さえしていれば間違いという歩留り論が横行したが、これが保険という思惑である。自分は保険をかけるより、やりたい人生は自由に生きるであった。「自分は何者で、何がしたいのか分からない」という時代は誰にもある。青春期はそういうものに圧し潰されかねない過酷な時期でもあるが、親がそれでいいものか?

「適性が分からない」はあってもいいが、親が子どもの適性を失わせてはダメだ。子どもの適性=親の適性と思う親が子どもを支配する。他人の親子の善悪を他人が論じる必要はないが、子どもの立場だけ考えれば、平等に与えられた人生という観点からそういう子は不幸だと思う。親の熱心さで難関校を卒業したとしても、それが親の望む人生なら子どもは不幸である。

「結果よければすべて善し」もなければ、「成功すれば幸せ」という打算を排すとこういう考えになる。「子どもは親の望みを叶えるために生まれてきたのではない」のは当たり前だが、それを当たり前と思わぬ親の行動を批判すれども、親子の数だけ親子の考えがある以上、普遍性より功利主義重視の親もいる。どちらにせよ親が子の責任をどう取るかの答えは難しい。

「中卒・東大一直線」 豊橋・磯村家その後… ①

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「戸塚ヨットスクール」が新聞や週刊誌などで叩かれたとき、戸塚宏校長は毅然たる態度で、「恐怖心を与えないと親や目上を舐めた人間は更生しない」と述べていた。同じ愛知県で起こった「名古屋教育虐待殺人事件」では従順であり続けた子どもを刺殺した。反抗するから勢い余ってではなく、親が子どもを意のままにせんと関わり過ぎたことから起こった悲劇である。

1980年代から1990年代前半、「東の千葉、西の愛知」といわれた管理教育県にあって、愛知県豊橋市の私塾経営者の息子兄弟が親の意向で制服を着用しなかった。それが問題行動児とされ、内申書評価のある高校進学を断念、大学入学資格検定に挑戦、1982年に長男が東大医学部、1983年に次男が京大経済学部、1987年に長女が京大文学部に合格し話題になった。

人間には他の動物にはない格差意識がある。動物の「血統書」は動物たちの格差意識でなく、人間の見栄や欲を満たすものである。ペットをはじめ、多くの物品や出身校や職種にまで及び、そうした優越感が差別意識を助長する。「日本一の桃太郎を探す」触れ込みで始まった“健康優良児”は、昭和30年から始まったが、個人単位の表彰は1978年で廃止された。

生まれつき体格のいい子供が選ばれ、さらには生まれ育った環境が少なからず影響し、不要な優越感や劣等感を生むとの批判が強まったことで学校単位の表彰も1996年廃止された。飽くなき人間のブランド志向は「お受験」と揶揄され、名門幼稚園から同小学校~中学と狭き門の受験地獄に突入する。それは高校~大学、さらには入社試験へと人間の学力仕分けが続く。

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これらが、「人間の価値は学力」という信仰を生んだ。人間の価値が学力だけで選別、判別されるというなら、人間は出身校や成績を書いたネックストラップを下げていたらよい。そんなものに影響されることなく人は人と交流し、中卒や高卒であっても魅力ある人間はいくらでもいる。なのに子どもを持つ多くの親は、斯くも付け焼刃的学力を身につけさせんと奔走する。

「学力とは何か?」、「人間の本質的な頭の良さとは?」。ごく少数だがこういう問題意識を持った親もいて、彼らは子どもの学力自慢をしない。こうした親の理解を得た子どもたちが、スポーツや文化・芸能の世界で花を咲かせる。学力のみに特化した人間の行き場は特定されぬが、真に学問を愛す子どもは学者の道をゆく。それはスポーツや芸能にもいえること。

「好きこそもののなんたれ」という。好きなことに邁進できるのは本人の幸福である。上記した愛知県豊橋市の私塾経営者の息子兄弟のその後について調べてみた。豊橋市で英語塾を経営していた磯村懋 (つとむ) 氏 (2003年に67歳で他界) は、管理教育が子どもの正常な学習や学びを妨害すると考えていた。愛知県は全国でもなだたる管理教育県であった。

1970年代半ば~80年代に吹き荒れた校内暴力は、特に公立中学で生徒の非行や犯罪が社会問題になった。それに呼応して文部省は全国の教育委員会などを通じて管理教育を徹底させる通達を出す。私立中学受験に拍車がかかったのはそういう事情もある。管理教育は、生徒の髪形や制服、持ち物にまで徹底され、教師による体罰も「指導」の名のもと、エスカレートしていく。

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ナイフなどを所持した子どもの凶悪事件の続発で、文部省は学校が子どもの、「所持品検査」実施を容認した。教育現場では、「検査は不信感を生むだけ」、「本来は家庭で管理すべき問題」と戸惑いもあったが、家庭が子どもの管理機能を失っていた。当時の新聞社説を読むと、父親が粗大ごみ化された家庭では母親が荒れる子どもに対処しきれなくなっていた。

そこで母親は学校に子どもの管理徹底を求め、学校は親の要望を担おうとする。「何という家庭の無力」と、自分は所持品検査には真っ向反対だったが、周辺の問題ではなくなっていた。こうしたことから子どもの非行防止目的で、親は学習塾や習い事へ通わせ始める。「バカげたこと」としか言いようがないが、バカげたことしかやる手立てがなかった。

豊橋の磯村氏は息子と話し合った末、私服で公立中学に3年間通学した。「制服は管理教育の象徴」とする父の教えだが、学校は内申書をちらつかせ、制服着用を命じるも2人が制服を着ることは1日たりもなかった。内申書の悪評価は想定済みで、2人は父と話し合った末に高校進学を止めた。これは内申書を人質にとったゲスな指導に対する異議・抵抗であった。

父は当時、世間ではあまり知られていなかった大検を奨め、息子はそれを承諾して受験をし、1年で合格した。その後、兄は1982年に東京大学理科Ⅲ類へ、弟和人は1983年に京都大学経済学部にそれぞれ現役入学した。磯村兄弟家族は、1984年に放送されたドラマ、「中卒・東大一直線 もう高校はいらない!」(TBS)のモデルとなり、ドラマは高視聴率をあげた。

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       右の表紙は実際の磯村家の子どもたち。左上長男、右上次男、真中長女、左下三男、右下次女

「中卒・東大一直線」その後… ②

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ドラマは磯村家の奮闘を描いたもので、俳優の菅原文太や坂上忍が親子役となり、敵対する中学校の教師役として長塚京三さんが出演したらしいが、これを書くにあたるまで自分はそのドラマを知らないし観てもいない。連続ものというのがどうにも好きでないから、朝ドラや大河ドラマですら大義くなる。長塚京三が主演の『ザ・中学教師』という映画はビデオで観たが結構面白かった。

共依存の母子家庭親子に向け、「断ち切るために子ども出すかあなたが家出するしかない」といい切り、母親が数日間家出したのに笑った。あれから40年、現在中央大学教授の磯村和人氏(53歳)は、「管理教育と闘う父」をどう見ていたのか?父は、学校との闘いや息子への思いを「奇跡の対話教育―高校へ行かないで、東大・京大に合格するまでの記録」(光文社)に書きあげている。

懋氏の真の思いは、子どもの学びとは本来どうあるべきかを、磯村家での実体験をもとに訴えたのだった。同じような体験は自分にもある。町のピアノ教師の態度や方針に疑問を抱いた自分は、楽譜も読めないピアノも弾けないにもかかわらず、子どもの師を買って出たのは、何はともあれ教師への反動である。音大出のピアノ教師が何だというのか、楽器を弾けるのは習わなくたってできる。

自身の経験と信念に基づいて熱心に取り組んだ結果、それなりの技術を習得することが出来た。コンクールでピアノ教室の生徒たちの演奏を聴いても、こんなものか?と感じたのは自分の耳が肥えている証拠であり、音大出はただの暖簾でしかなかった。親と子とどちらが熱心かといえば子どもそっちのけで前者であった。懋氏の反骨心や男としてのロマンや熱意は手に取るようによくわかる。

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中卒で東大?京大?なんら不思議なことではないと思うのは、楽譜も読めないピアノも弾けない自分の熱意は、長女を小6、中1、高1の三度にわたって、中国地方のピアノコンクールの頂点に立つことができた。単純な比較はできないが、多くのピアノ教室の子たちがムキになって賞を狙うことを思えば、かなりの関門だったかも知れない。もう一度あれだけのことをやれる自信も気力もない。

あった事実だから決して自慢ではなく、「町の教師よ、今にみておれ」というバネや反骨心がなければ絶対にできなかったことで、それは磯村懋氏も同じであったろう。音楽を職業にする気は毛頭なく、子どもを犠牲にした悔いも覗いて唯一得るものがあったとするなら、どんなに難しいことでも一生懸命に取り組めば身につく。著名なギタリストもドラマーも技術とはそういうものである。

「父は意志が強くブレない人でした。明確な考えを持ち首尾一貫していたし、責任感や使命感も強く、「独立自尊」という言葉がふさわしい感じでした。一方でよく考え抜き、準備を抜かりなくして行動をとっていたのだろうと思います。あの頃(1970年代後半)、兄や私が通学していた中学校の管理教育への抵抗も、父としては決して思いつきや衝動的な行動ではなかったでしょう」と和人氏。

「今、会社に勤務されている方は、私の父のようにはならないほうがいいと思いますよ。もし、父のようになるとご本人もご家族も大変なことになるかもしれません。自分の考えや思いを大切にし、筋を通そうとすると敵が現われるかもしれませんね。そこで多くの人は、ある種の妥協をして生きていくのではないでしょうか。おそらく、父はそれができなかったのだろうと思います。

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ただし、父は慎重なタイプですから、家族を養えるだけの経済的な基盤をきちんと固めたうえで行動をとっていました」。懋氏の長男が小学6年生のころに生徒指導の教師が、「我々は子どもが中学にいっても不良にならぬよう厳しく指導する」という言葉に対し、「あれが教師のいうことか!」と立腹していたようで、軍隊のような厳しい規律のある組織にも好意的でなかった。

ふと松下村塾の吉田松陰が過る。彼は塾の規律を書くには書いたが、机の引き出しにしまったままだった。その松陰はこんな言葉を残している。「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」。それ以上に印象的な松陰の言葉は、「諸君、狂いたまえ」であろう。こんな言葉を吐く松陰は奇人である。

磯村懋氏もある種の奇人であったように自分も奇人であった。人と同じことをしないという意味において…。イチローの父も申し分のない奇人である。イチローは、3歳~7歳まで一年の半分を野球の練習に費やし、小学校低学年の時は放課後にお父さんと毎日練習。小学校高学年になると毎日バッティングセンターに通い、ついにはイチロー専用のバッティングマシンが出来たという。

奇人で有名なのがスティーブ・ジョブズである。「Stay hungry, stay foolish」という言葉は常人にはいえるものではない。経営者時代のジョブズは部下に対し、「お前の仕事はクソだ」と平気で口にしたという。こんな言葉を普通は口に出していいわけないし、口先まで出かかっても理性で止める。いじめのようにもとれるし、「クソ」なんて言われて相手との信頼が築けるとは思えない。

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その言葉をあまりに頻繁に口にするジョブズにジャーナリストが尋ねた。「『お前の仕事はクソ』とはどういう意味か?」。「仕事がクソだって意味。でも、僕が正しいとは限らない」としながらも、「はっきり伝えて理由を説明し、そして本来の軌道に戻す。相手の能力を信じていることを伝えながら、解釈の余地を残さないよう指摘しないといけない。すごく難しいことだ」と説明する。

回りくどさより率直は大事。汚い言葉だがジョブズは感情的にならず、効率重視であった。「お前の仕事はクソだ」と言われたら大抵の人は自分の能力を疑われたと思う。上品とはいえず正当化される言葉ではないが、この言葉が見かけほど悪くない場合はいくつか考えられる。例えばすでに多くを達成したキャリアな人物には、その能力を認めるがゆえ容赦ない。

「中卒・東大一直線」 豊橋・磯村家その後… ③

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20代半ばで地元豊橋市内で英語塾を開設した磯村氏の学習法は、映画やビデオなどを教材に使いながら英語に慣れ親しむことを重視した。磯村氏一人に小学4年生ぐらいから高校3年生まで60人ぐらいの生徒がいた。1教室は10~20人程度だが全教室は常に満員。塾を開設した直後から指導方法などが高く評価され、入塾希望者が絶えず入塾が難しかったという。

管理教育と称して生徒を枠にはめ込み、従わない生徒の頬をビンタで従わせるのがまかり通る時代だったが、磯村氏は生徒一人一人と向き合うことを大切にした。次男の和人氏は、強権・傲慢な姿勢に憤りを覚えた父の言葉として、「あんな教育に従ったら、自分で考える力が身につかない』と言っていたのを覚えている。教育に問題意識を持つ人の観点は同じものがある。

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皆が制服を着用し、同じことをしなければならない全体主義の学校にあって、親の指示とはいえ校則違反であることには変わりない。本人たちは多少なり肩身の狭さがあったと推察するが、当時のことを和人氏はこのように述べる。「兄と私は私服とはいえ黒色のブレザーを着ていました。髪の毛を染めることも、校内暴力を起こすこともない。毎日時間通りに通学し校則も守っていました。

成績もよかったし、教師に逆らうこともない。学校の秩序を乱すことは一切していない。こんな私たちの行動に理解をしてくれる教師や生徒もいましたが、立場上教師は私たち側に立つことはできなかった。ある方から聞いた話ですが、教師の中には私の兄が東大を受験するときに、試験に落ちることを願っている方もいたといいますが、事実ならば残念ですね」。

小1から1年間通ったピアノ教室を辞め、父子でピアノに取り組んだはいいが、教師はまさかこれほど上達するとは夢にも思っていなかったろう。毎年開催される、「中国ユースピアノコンクール」には発表会のつもりで参加したが、初出場の低学年の部でいきなり予選通過、本選で二位の成績を教師はどういう思いだったろう。ピアノ教室生徒で予選通過者は一人もいなかった。

これはピアノ教師の知識や技量というより、教え方や子どもの熱心さの差であろう。毎日の2時間練習は欠かさなかった。確かに練習は大事だが、練習を好きになることはもっと大事である。楽譜も読めずピアノも弾けない父はこれといった何かをしたわけではない。一緒にCDを聴きながら耳を肥やしたくらいだが、心当たりといえば、子どものそそのかしたことくらい。

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“そそのかす”というのは言葉が悪いが重要なこと。子どもに限らず女性をその気にさせるための話術と何ら変わらぬそそのかし術。「昔取った杵」ともいうが、そそのかしは受ける側からみると魅力となる。自分がやったことは、それくらいしか思い浮かばない。「子どもをやる気にさせる」のも、「女をやる気にさせる(別の意味)」のもそそのかし術といい切る。

そそのかしに大事なものは相手の腹を読むこと。有能なセールスマンも個々の顧客の腹を読むからこそ、その場に最もふさわしい口説き文句を発することができる。口説き文句は山ほどあるが、今この時点でこの相手に何が相応しい言葉であるかを読み取り、言葉に変える能力で、別の言葉で洞察力というが、自分の生徒が素人なんかに負ける筈がないと思っていただろう。

遂に認めざるを得なかったのか、ピアノ教師は長女の同級生四人を引き連れて最優秀記念演奏会に来た。どんな演奏、どんな技術、彼女自身の目で確かめたかったこともあろうし、父を認める必要などない、本人を認めればいいこと。男に女の自己顕示欲はなく、そそのかし役でしかない父からすれば一切は子どもの手柄であり、灘高~東大三兄弟の母のように前には出ない。

磯村氏は管理教育への反発をどう現すか。学習塾経営者として中学卒業でも大学に行けるし、それも東大・京大といった難関大学であるからこそ説得力となる。管理教育批判=学習能力向上とはならぬが、目にみえない人格形成を周囲に示すことは出来ない。そういう自分も、「教師に習わずともピアノは弾ける」の意気込みで取り組み、気づいたら上達していた。

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事実はそれだけのこと。おそらく磯村氏も目的と行動と努力だけが主体で、結果は後からついてきたのかも知れない。学習技術は教えられるものかも知れぬが、ピアノの技術は教えるよりも訓練である。あとは音楽への感性である。コンクールや発表会で分かるのは、ピアノを弾くことだけに必死な子の演奏に何の感動もない。やはりピアノは音楽を表現するための楽器である。

体罰容認管理教育を好む者は、あきらかにコミュニケーション能力に自信がなく、威圧でいうことを聞かせようとするが、それを手っ取り早いと思うところが無能である。人と人には便利な言葉がある。鉄拳制裁を誇示した星野監督もそれが許された時代だった。今季11連敗の原因と目される広島緒方監督による野間選手への暴力行為だが、「お前のプレーはクソだ」というべきだった。

『進撃の成功人』 諌山創 ①

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唯一絶対主義や画一主義を肯定する者もいるが否定派もいる。価値観多様化の時代にいろんな形の幸せが見つけられ、どんな境遇であれ「自分が好きだ」ということは、唯一絶対に抗うことになる。勉強より野球が好きだったり、漫画を描くことが好きだったりは、親の絶対的権威に抵抗するパワーとなり、反対されても止めないことこそがその人の夢を叶える原動力になるのだろうか。

何がしかの成功を果たした人には、「これが好き」、「これをやりたい」などが明確にある。自分が好きな何かに邁進することは幸せなことだろう。今年の巨人の大進撃は原監督に変わったこともあるが、カープの弱さも原因であろう。そのことはいいとして、『進撃の巨人』の原作者諫山創は、紙に漫画を描くのが仕事であるが、彼こそ成功を絵に描いた人物である。

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「小学校低学年の頃、避難訓練で行った公民館のテレビで、偶然『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』という映画を観たんです。2匹の毛むくじゃらの怪獣の片方が木を根っこから引き抜いて、片方の怪獣をガンガン殴るシーンが凄く怖くて…。昔のことなので正確な記憶ではないかもしれませんが、影響を受けていることは確かです」と子ども時代を回想する。

これが諫山の原点といえるだろう。彼の成功の鍵はこうして植え付けられたと考える。幼少期から、「グロテスクなものに惹き付けられてきた」と語る諫山は絵を描くことも大好きだった。「小学校や中学校の教科書は、落書きで真っ黒でした」と語る彼にはこんな記憶も蘇る。「原チャリで高校に通っていましたがある日の下校中、ふと泣きそうになったことがありました。

ハンドルを握りながら漫画家になる自分をイメージしてみたら、『絶対になれない!』という結論が出た。当時の僕は、自分の描いたキャラクターを他人に見せるのが苦手でした。自分の内面をモロにさらけ出してしまう気がして、凄く恥ずかしかった。でも、そんなことでは一生漫画家になることはできない。今思えば些細な事ですが、あの時は目の前が真っ暗になりました」。

内気でナイーブな少年だったが、「これではダメだ」と悟り、自己変革の努力が彼を押しあげていく。夢を諦めきれず、福岡県内にあるマンガ専門学校に入学した。同じ道を志す仲間と巡り会い、他人からの評価を受け入れられるようになった。「初めて人に見せたのは、専門学校の授業のお題で1コママンガを作った時で、そのとき描いたのがアンパンマンでした」。

イメージ 2専門学校在学中の'06 年、東京の出版社へ作品持ち込みを兼ねた旅行で、諌山はデビューのチャンスを摑む。講談社に投稿した60ページの短編マンガ『進撃の巨人』が、『週刊少年マガジン』のマンガ賞の佳作に選ばれたのを機に上京。読み切りマンガの執筆を経て、'09 年10月号の『別冊少年マガジン』から、連載向けに練り直した『進撃の巨人』をスタートさせた。

担当編集者は、初めて諫山氏の作品を読んだ時のショックをこう振り返る。「原稿用紙から、『オレはこれが描きたいんだ』という情熱がほとばしっていました。絵はヘタだったけど、他の作品にはない抜きん出た才能を感じました」。才能の本質は「無比」なのかも知れない。その人にしかないもの、誰にも真似できないもの、それを個性というなら、個性こそが才能である。

広い視野を持つ諌山はこんなことをいう。「『進撃の巨人』は司馬遼太郎の『坂の上の雲』に影響を受けています。絶対的不利な相手に立ち向かう人間の描写が参考になりました。この世に100%オリジナルの創作物なんて存在しません。名作といわれるものほど他の作品からよいエッセンスを吸収しています」。「無から有を生む」のではなく、「有から個を創る」という。

漫画家の仕事は大変な労力が必要で、原稿用紙を前に。下描き→ペン入れ→消しゴムで下書きを消す→効果線を入れる→ベタ塗り→はみ出し線の修正→トーンを貼る→セリフを入れる。さらにはテーマから始まり、ストーリーや構想、コマ割りなど気が遠くなるような作業である。実際に漫画を描く現場を見て、よほど好きでなければあんなことはできないだろう。

好きなことを職業にするのは一見幸せなことのようだが、締め切りに追われて徹夜が続いたり、納得の行くアイデアが出てこない苦しみもある。それでも「好きなことを仕事にしたい」は誰もが考える。だからといって、「明日から好きな事だけやります」というほど甘いものではない。したがって、好きなことはあえて職業にせず、趣味にとどめておくのがいいとの考えもある。

何事にもメリット、デメリットはあるが、才能というのは永遠に評価されるものではないし、職業に限らず読書でも運動でも奉仕作業やサークル活動など、どれをとっても永続するものは日々の労苦の上に積み重ねられるものだが、同じ労苦とはいえ積極的な労苦と消極的なそれとでは大きくことなる。自分の好きなことは労苦の度合いが少ないとなろう。だから、好きなことは続けやすい。

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『進撃の成功人』 諌山創 ②

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諌山氏は数ある成功者の一人だが、彼を語る際に彼の父を抜きに語れない。諌山はいう。「俺がすごく覚えているのは、高校生の時に部屋に入ったら父がいて、テーブルの上の描きかけの原稿を見ているんですよ。父はそれ見て、『お前はマンガ家になれねぇ』っていうんです。でも父の言葉は全く自分に響かなかった。何を根拠にって思ってた」。下手にヨイショしない父は彼の刺激となる。

磯山の成功後に父は以下のように語っている。「『進撃の巨人』で思ったのは絵が下手、読みづらい、見にくい。ビックリしたのがこんな表現こんな言葉こんな発想を本人がしている事。親の世界から見えないじゃないですか。誰かゴーストライターがいるのかと思っていました。『漫画家になれん』って息子にいったのは記憶にない」。諌山は父の反対をバネにした、それも彼の才覚である。

諌山にとって父は壁だった。障害というより越えるべく壁で、その壁を壊して進撃する巨人でありたかったのだろう。専門学校のマンガ学科に入学したが、親には嘘の学部といって入学したが、書類等が家に届けば直々わかること。が、入ったらそれはしめたもの。やりたいことに手段を選ばぬ芯の強さも感じられるが、マンガ専門学校を出て漫画家になれないのが世間の常識だった。

彼はその常識を変えたが、絵を上手く書く技術よりも、様々な教養や素養を身につけ、それらがストーリーに生かされているのだろう。かつてしきりにいわれたのは、「ピアニストになるためにはピアノの技術を向上させるだけでなく、文学や哲学の本を読め」などといわれた。アインシュタインも「物理学者になるためには靴磨きになること」といったが、これは固定概念に縛られるなである。

最近、「褒めない教育(躾)」が見直されている。現代の社会構造が甘え志向であり、さらに甘やかせても効果もなく、お世辞で付け焼刃的な学力・能力を身につけてもでは、生きて行けない世の中か。誤魔化しのきかぬもの、本物以外はいらない時代である。有名大学のブランド力より中身を求められる。そのためには本当に自分がなりたいものになるような、主体性ある人間を造る必要がある。

絵が下手でも感性があれば売れるというのは、絵が凄く上手くても売れないということ。感性はスパルタで育たないし、人と同じ映画を観、同じ音楽を聴き、同じものを食っていては身につかない。人食いの巨人が地上をのし歩きまわる時代に、残されたわずかな人類は大きな城壁の中で怯えて暮らすが、大型巨人の出現で壁が崩され、巨人と人間による生き残りをかけた壮絶な闘いが始まる。

『進撃の巨人』のような斬新な発想はある意味スゴイし、これほど絶望的なストーリーを描く漫画家もいなかった。人類生き残りの命運をかけた壮大なスペクタル劇は、『スターウォーズ』に匹敵する。今となっては、『はだしのゲン』も、『ハレンチ学園』も『ドラゴンボール』も、『進撃の巨人』の前にひれ伏す。漫画に詳しくないが、テレビで放映された『進撃の巨人』は面白かった。

絶望に打ちひしがれて「すねる」人間がいる。絶望をネガティブに捉えるとそうなるのだろうが、「すねる」人間に味方をする者はいない。体験からしてハンディも能力となるように、絶望はプラスに変えられる。小学生で母親に絶望した自分は、彼女に支配されたら自分は不幸になると感じたし、反抗しないで自由は得れないと思った。だから母を捨てられたし、とにかく自分が大事であった。

母の思うところの成功や幸福の基準は、なぜにこうも自分とは全く違うものだった。見栄っぱりな母は、「社会認知」意識が強かったが、そんな母親の親の見栄を満たすことに自分が利用されていると子どもながらに実感した。子どもの立身出世こそが親の見栄であるのを感じ取れたのはそれほどに露骨だったからだ。それ以外は「絶望」と言い含めたが、言い含められることはなかった。

父と違ってキャンキャン吠えるだけのうるさい犬である。絶望から逃れる人の多くは初期行動におうて、「すねる」らしい。どんなに嫌なことを言われようとされようと、「親だから仕方がない」とすねて我慢する人間がいるが、こんなことですねてる場合だろうか?「親から必要とされていないのだ」と自らに言い聞かせた。そうではない気持ちの葛藤はあったが、断定したのは勇気であった。

相手を見切るその前に必要なことは自分を見切ること。だから勇気が必要となるが、その勇気を持つことで新たな展開となる。自己愛というのは他者から愛されたい、必要とされたい気持ちから派生するが、そうした勇気が、「親から嫌なことをされてなぜ我慢しなければならない」という疑問となり、最終的には、「敵を受け容れることなどない」と戦う勇気につながっていく。

親への反感をもっても、我慢するのは養ってもらっていることへの恩義、食わせてもらってることへの感謝であり代償だろう。これとてオカシくはないか?食わせてやってるんだから黙って従えというのは横暴である。こんな横暴な人間は良識がない、賢くない、バカであると思うべきだ。そうすれば闘う姿勢が起きるなら、吉本興行のバカ社長にひれ伏することもなくなる。

親は子どもを無条件に養わねばならない義務を負うものだから、「育ててやってる」などの恩着せがましい言い方には悪意すら感じる。親の恩は持ってもいいが縛られる必要もなければ見返りを求められるものでもない。同じことは将来的に自分に返ることだから、批判すべきは批判しておくのがいい。親に限らず人間関係のなかで、善意な親切を恩を着せるのを自分は「毒饅頭」と思っている。

『菊と刀』の著者ベネディクトは、日本人は親への義務意識を暗黙強制する文化といった。「どんな親でも親」と無条件の感謝を説く儒家思想だが、「ヒドイ親」の実態が叫ばれるようになった昨今だが、現に五賢人の皆が母親への辛辣な体験を語っている。彼らはそうした批判から思想を育んだように、障害を怖れることはない。障害を踏み越えてこそ強く逞しくなると信じて突き進むこと。

人間関係さまざま ①

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あるとき、ある男が、ある奴に挨拶をしたら、挨拶を返さなかったと腹を立てたという。ソクラテスはその男にいった。「そんなことは笑い飛ばせばいいこと。君は身体に障害のある人に出逢って何の腹も立てないだろう?」なるほど、さすがにソクラテス先生は上手いことをいうものだ。人間はいろいろだから、こちらの思いや先入観・期待感でもって他人を眺めても仕方がなかろう。

非常に粗野な言葉を返す人間がいる。ブログをやっていると、初対面ながらこちらの意見に文句をいい、考えにもクレームをつけ、人格批判をし、荒々しい言葉で毒づいたりと、バカ丸出し行為を気づかずやっている。バカにバカだと知らせるのも無意味だから軽くあしらうのがよかろう。そんな相手にムカつくようならソクラテスの言葉を噛みしめたらいいし、凡人は賢人から学ぶに限る。

他人と上手く付き合うのは易しくないというが、ツボを心得ていればそうでもない。犬は心置きなくつき合える動物である。犬はワガママをいったり、問うたりもしない、余計なことはいわない。要求もしない、批判もしない、見え透いた世辞は口が裂けてもいわない。あげくに外出先から帰ると満面の笑みで喜んでくれ、嬉しきに吠え立てあり得ないくらいの尻尾を振ってくれるのだから…

人間が犬を愛する理由がわかるが、猫にも魅力があるというが、好きでなかった猫の魅力が最近分かるようになった。おそらく岩合氏の番組のせいかも知れない。大きな目、ふわふわな毛並み、愛くるしい動き、尻尾をとがらせこれ見よがしに歩くさま…、猫は魅力満載であるという。「なぜ猫がかわいいのか」について説明するのは難しいが、可愛いと思えば理屈をいっても仕方なかろう。

犬や猫はともかく人間について考えてみる。言葉の通じないペットが可愛いのは、言葉が通じない赤ちゃんの可愛さに似ている。つまり、一方的な愛を供与できる可愛さであろう。とりあえず犬や猫たちはその愛らしい鳴き声で応えてくれるが、言葉を話せない赤ん坊も泣き声や言葉にならぬカタコト言葉で応えてくれる。言葉が通じない彼らが可愛いのは誤解の危険がないこともあるだろう。

会話もできない彼らの正体を突き止めることは至難である。であるけれども、彼らが何を考え、何を欲しているかについて、分からないなりに想像力を働かせ、彼らの気持ちに応えようとする。まったく分からない相手というのは、本来なら付き合う上で難しいものだが、想像力がそれをカバーしてくれる。つまり、こちらのさじ加減で判断できるし、そうした能力は高めることも可能だ。

人は人から命じられるのを好まない。上目線で物をいわれるだけでも反抗的気分になる若者は多い。ところが犬や猫や赤ん坊がつきつける欲求は、「ああしろ」、「こうしろ」の命令と違って、我々の自律的・主体的判断を強いられる。自らが自らに折れ、率先して相手の意に応えようとする心地よさでもある。「世話のし甲斐」というように、ペットや赤ん坊にかまける楽しさであろう。

ペットの可愛さ、赤ちゃんの愛くるしさの、「なぜ?」ついて考えてみたが、「可愛い」の理由はいろいろあろうが、対等でないが故の可愛さというのが分析の結論である。分からぬことを分かろう・分かりたいと突き詰める性分で、何かを説明する際も、対象が限定されない老若男女なら、どれだけ分かり易く、懇切丁寧に説明しても、「やり過ぎ」ということはないと考える。

理解力旺盛な人は、「そこまでくどく言わずとも分かる」と思うだろうが、そこまでいって、それでも分からぬ人がいるのを経験した。分かったふりをする人も含めた、人の理解能力の差異が伝える事の難しさを表している。だからか、「そこまでいわせなくても分かれよ!」という捨て鉢な言い方を自分は好まずしたこともない。あくまで分からせるのが伝える側に課せられた使命である。

伝わらないからと腹を立てるのは、挨拶を返さない相手にと腹を立てるようなもので、我々はそうした様々な人たちに対処していかねばならない。伝える一点に限っていうなら、労力を惜しんでははじまらない。「人づき合い」というのはそういうものだと理解するが、「そこまでいわなくても分かりますよ。バカにしてません?」といわれたこともあるが、腹は立たない分かればそれでいい。

何かを分からせるのが目的であるなら、相手が理解を得ているならこの上ないこと。子育ては、「力仕事」というのが実感で、人間関係というのも広義の「力仕事」と考えるなら、「力」を惜しんではならない。なにごとも全力投球なら悔いもなかろう。「そんな風に生きてて疲れませんか?」と皮肉半分にいわれるが、疲れると思う人は手を抜けばいいこと。人の推奨や節介は無用である。

人は行動の多くを自分を基準にするが、それを超えた人を評価する人も、皮肉る人もいる。どちらの側にも適宜に対応するも人間関係である。自分が一生懸命にやってることを批判されたり、皮肉られたりで腹を立てる人もいるが、自分に言わせると自分のためにやっていないことになる。10年以上ブログをやっているが、友人、知人に教えたのはこれまでに心ある2~3人しかいない。

「いろいろ書いてるので見てよ」など思わない。「よくまあ面倒くさいことやれるね」といわれて然り。教えられた迷惑もあろうし、評価も批判も無用が基本にある。褒められて喜ぶ人ほど批判に挫け、批判を気に病む人ほど評価を求めるもので、どちらも無用なのが自然な存在と考えるようになった。他人の軌道の上に立つより、自らが敷いた軌道の上を、自ら生きるのを目標とした。

ブログの、「いいね!」や、「ナイス」がなくなるとざわついていた。「それらの数がやる気に反映していたのに…」と文句をいうのは、それが彼らの支え・依存と知った。人はいろいろだから批判はない。そのことがモチベーションであるなら、その人にとってのやりがいであって、自分に関係ないと批判するのは間違い。偏ることなく世の事象を眺めることが大事である。

人間関係さまざま ②

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ヤフーブログの終焉が発表され、少しばかりの意識変動があり、これまで書かなかったこと、書くのを躊躇われるようなこと、そういう垣根を取っ払って書く意識が持ち上がった。あくまで自らの意思や気持ちに素直に書こうというのが強まった。不思議だがこの変節は期限を切られたことの影響だろう。ダラダラ書いてきたわけでもないが、以前よりも凝縮度が高まってきた。

自分を誇示するとか自慢とか、誤解を与えかねることは避けてきたが、終わるというなら、「どうとでも思え!」と、開き直りが芽生えたかも知れない。他人の思いに関心はない方だが完全無欠というわけでもない。拘りなく思う存分きがねなく書こう意識の強まりをpositiveと捉えている。が、自身の中にある、「謙遜」という日本人気質は間違いなく存在する。

意識の変化が文章にどう現れるか自分にも分からない。人は時に自身を鼓舞し、なだめたりする。鼓舞もいいが、自分自身と上手く付き合うには、「なだめ」が大事なのは、人間は感情の生き物だからである。自分をなだめすかす最良の手段は趣味を持つこと。そちらに費やす時間や空間が自分をリフレッシュさせ、人によっては現実逃避と感じることもあるだろう。

電車でスマホを眺める人は珍しくないが、かつては週刊誌や小説や趣味の雑誌を読む人が多かった。あるとき目の前の二人の男の一人が三流週刊誌を、片方は将棋雑誌を読んでいた。娯楽に善悪優劣はないが手前勝手な視点でみると、将棋雑誌で棋譜を追う男に軍配があがる。ゴシップとスキャンダル、エロと犯罪記事の三流誌を読む男はいろんな空想をしているだろう。

比して将棋の棋譜を追う男は思考を働かせ、彼という人間を統一している。飛車や角をどう使うか、囲碁なら白石と黒石が盤上で繰り広げられるさまを、電車に座って一生懸命に考えるなどは、見方によれば滑稽といえるが、これは石川啄木のいう、「悲しい玩具」であろうか。自分自身をなだめすかすことの重要性を教えてくれるのは、モンテーニュもそうであった。

彼は自分自身をどうなだめるかに取り組み、『エセー』なる随想録を書き上げた。一巻の第八章にはルカヌスの「無為の精神があちらこちらに追い散らす」を引用、「彼が余りにも奇怪な妄想を後から後からと、順序も計画もなく産み出すので、私はそのとりとめのなさやその物狂おしさをとっくり考えてみるために、それらを一つ一つ書きつけてみることにした」と記す。

ブログを13年続けたのは自身をなだめ、何かを書きつけるのが自身との上手い付き合いと感じた。自らに正直に背伸びをせず、知ったかぶりをせず、知らないことは調べて知識として蓄えるなら、知らないことは恥どころかむしろプラスに作用する。「そんなことも知らんのか」と口幅ったい奴に、「お前はどんなことも知ってるのか?」と言葉をつきつけたことがある。

「何でもってわけじゃないけど…」と突っ込まれて怯む彼に、「お前が知らぬことを笑う奴に好意を抱くか?」といって黙らせる。知ったかぶりを罪とは思わない。「ブラックホール知ってるか?」と聞かれ、「知ってるよ」と答えるのは名称だけの場合もあり、必ずしも相手を欺くことではない。嘘もついていないし、大して知らぬことを知っているよう見せかけるだけのこと。

「知っているか」と聞かれて、「知らない」と答えるのを嫌がる人がいる。どんな物知りであれ、知らないことは山ほどある。「知らない」ことは教えてもらう方が得なのに、自尊心が邪魔をする。知ったかぶりすぐにわかるが、さほどの罪はないと考える。自分がもっとも忌み嫌うのが、知らないことを「知らない」とさも自慢げにいう奴は少なくない。この心理は後で記す。

「知らなきゃいけないことか?」「知らない。だから何?」などと角の立った言い方を得意とし、挙句、「わたしはおバカなのよ」と、恥を打ち消すためのキャラを演出するが、決して自己卑下ではなく棘すら感じられる。自尊心が壊れるのを未然に防いでいるつもりが、今風とはいえど良い印象を与えない。会話で大事なのは、知識量の争いというよりエッセンスである。

「何か食べる?」→「食べない」。「映画でも観る?」→「観ない」。「〇〇知ってる?」→「知らない」。こんな人間とは会話をする気も失せよう。なぜかといえば、相手は会話を拒絶しているかのような印象を与えている。だから話をする気がなくなる。「捨て鉢な言い方をするね」というと、「食べたくないから食べない、知らないから知らないといって悪いの?」と返された。

「君は塾育ちなんか?」と皮肉をいってみた。「なによそれ?」というので、「問いに素早く答えを出すが、会話は学習塾じゃないからね」。彼女は不機嫌そうだったが、嫌味をいったのはそれっきり逢わない覚悟だったから。何事も正直、何事も正解がいいことではない。会話はエッセンスであり、気配りの有無が如実に表れるのも会話だがまるで答弁、そんなのを会話といわない。

正しい受け答えより、「あや」も必要である。「あや」を上手くは説明できないが、「物の表面に表れたいろいろの形・色合い。模様。特に、斜交する線によって表された模様」とある。人間関係とは、縦横プラス斜めの関係であり、さらに人間はそれほど単純ではないということ。付き合いとかの難しさは、人間は単純なように見えて、実は単純ではないことにある。

もう一つ会話で大事なのは言葉づかいで、慣れ合った関係は別としても人は言葉づかいで多くを判断される。この国では目上に敬語は常識とされるが、目下に対しても丁寧語を使えばいい。目下に対して極端な見下げた物言いをする人間は、体育会系体質か教養のなさであろう。教養を一言でいうなら、「知的な魅力」であろう。それがない様は言葉に如実にあらわれる

人間関係さまざま ③

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人と上手くつき合うなんて生易しいことではないのは多くが実感する。前回述べた「あや」についてだが、あらためて、「あや」とはタテ・ヨコではない関係のこと。上下関係は、「上意下達」というように率直であるべきであやの必要はない。同僚同士の横(水平)の関係もあやの効用は少ないが、縦でも横でもない斜めの人間関係が大切であり、またそこは、「あや」の宝庫となる。

一筋縄ではいかない関係ながら拒否のない関係も「あや」とする。例えば、「異質な人」、「変わり者」、「出る杭」、「個性的な人」、「奇抜な人」を尊ぶ関係でもあるが、「異性」の関係も縦、横以上に斜めが多い。中島みゆきは、貴方は縦の糸、私は横糸というが、二人の世界は実は斜めが多い。なぜめぐり逢うのか、いつめぐり逢うのかだけは誰にも分からない。
 
こちらはこちらの都合で動き、相手は相手の都合で動く。こちらの気持ちは相手に伝わらず、相手の気持ちを理解するのも難しい。伝わったとしても聞き入れられず無視されることもある。要求を遠慮なく押し付ける相手もいて、自分と他人はどこまでいっても自他でしかないが、折り合いをつけるために必要なのが、「あや」ではないだろうか。「なだめる」も、「あや」の範疇と考える。

「自分をなだめる」、「互いをなだめあう」。「なだめる」は気晴らしだけでなく自分を正しく知ることになる。だからか、自分について何かを書けば自分を客観的に見つめることになる。人は毎日同じ生活の繰り返しで、同じ電車に乗り、同じ駅で降り、同じ会社で同じ同僚や上司と顔を合わせ、家に帰れば同じ住人がいて、同じ妻とベッドでお決まり行為を繰り返している。

普通は飽きるだろうが飽きてはならない定めが一夫一婦制だ。だからか自分をなだめる必要あり。野菜を売る八百屋がいい加減飽きてきたからと明日から肉を売りたい、金物を売りたいという訳にはいかない。妻や夫をとっかえひっかえできないから不倫が横行する。相手を変えても違うのは最初だけ、慣れれば同じ相手となる。束の間の刺激がささやかな楽しみか。

友情という関係がある。友情を育てるには互いに尊敬の心をもって接することだが、キケロ(前106~43)はこう述べている。「友情において次の掟を守るべし。恥知らずなことを要求せず、要求されてもこれをせざること」。例えば、友人に借銭を頼まないし頼まれても断る。では借銭が恥知らずなことではない人間ならどうすべきか?恥知らずだと教えてやればいい。

紀元前からいわれることを2000年経っても守れぬ愚かなる人間。堀秀彦は『友情論』の中で以下の3つの愛情を示す。① 一つになりたい愛情、② 離れたくない愛情、③ 平行線を保つ愛情がそれで、それぞれを恋情、母性愛、友情と定義した。確かに恋情は生活のすべての点で相手と一つになりたいと願う。愛は惜しみなく与え、愛はまた惜しげもなく奪うというように。

相手を独占したい相手を自分に隷属させたい、あるいは相手の奴隷になってもいいと、きわめて視点が狭く閉ざされた愛情である。これにくらべて友情は、互いの独立した人格を認めて尊重し、敬愛心からしても相手を独占するなどは考えず、相手の精神の自由を認め合う。ありのままの自分を示して励まし慰め、人間として成長することに喜びを見出す愛情であろう。

哲学者カントは友情を、① 生活の必要を満たす愛情、② 趣味の友情、③ 心の友情の3つに分けている。さらには哲人アリストテレスも、有用性、快楽、徳をそれぞれ目的とする3種類の友情をあげているが、一般的に友情とはそれぞれが一番後のものだと考える。友情とは友人と醸し合うものだが、友人といっても遊び友達ももいれば職場仲間もいて、友情はそこを出発点とする。

心と心が混じりあい、少し大げさにいうなら真理の探究において共に語り学び合うが、共に学ぶというのは若い世代の特徴として共に迷うことでもある。そうした迷いのなかに結ばれた友情こそが深いというのが、自分の経験則である。いろいろな型の友情が浮かぶが、エベレスト登頂を成し遂げたヒラリーとテンジンの友情は、小学校の頃に本で知ったが今でも心に残っている。

彼らは1953年5月29日、エベレスト人類初登頂に成功した。冒険の話が大好きだった自分は、誰も興味のないこんな本を沢山読み、人に話したりもした。おかげでヒラリーとテンジンや、南極探検のアムンゼンとスコット、深海艇のバチスカーフ号などは小学生時代から知っていた。バチスカーフ号はフランスの深海潜水艇で、1958年日本海溝に潜水し深度3000メートルに達した。

未知への好奇心が人一倍強く、宇宙のことも含めて人と話が合わなくても知りたいことだらけで、なかでも冒険者の伝記は読み漁ったが、ヒラリーとテンジンのように死に直面する局面にあって、友情の結びつきは一層強まろう。エベレスト初登頂後、どちらが最初に頂上に足を乗せたのかは、当時マスコミの大きな話題となったが、二人はお互いに、「同時」としか答えなかった。

ニュージーランド出身のヒラリーは冒険家の肩書を持っていたが、チベット人のテンジンは、シェルパ(登山支援を行うネパールの高地民族)である。二人は主従の関係にあったが、この世界的な偉業を二人が分け合ったことに感動させられた。「優れた師は、弟子を友人のように扱う」という言葉があるが、上下関係や主従意識の強い日本人にとって、先生とは偉いの代表格。

『徒然草』の第十三段。「ひとり灯のもとに文をひろげて、みぬ代の人を友とするぞ、こよなう慰さむわざなる」。意味は、「ひとり灯の下に書物を開いて、自分の知らなかった時代の人の書いたものに接し、心と心とのつながりを味わうことほど慰められることはない」。これこそ読書の本質をあらわす言葉で、「みぬ代の人」と友情を結ぶのが読書の楽しみであろうか。

人間関係さまざま ④

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タイトルにしたほどに、実にさまざまな人間関係が存在する。加藤諦三の『若者の哲学』に、「『関係』ということ」の表題で以下のように書かれている。「われわれ現代人にとって、『関係』と呼びうるような関係が、どれだけあるだろうか。例を性関係にとって考えてみよう。いかに多くの性関係が、実は真に『関係』と呼びうるものでないかがわかる」との書き出しは驚きだった。

加藤氏のいう、「関係」とは、“真に関係の名に値する関係”をいい、それは、「明確な意志」を必要とするものでなければならないという。「あなたあの女性と関係したの?」などの言い方をする場合、「関係」が何を意味するかは誰でもわかる。セックスしたかどうかを、「関係」という言葉であらわすが、男同士なら、「お前あの女とやったんか?」となる。下品だが率直で的を得ている。

そういう意味の、「関係」を下品とは思わぬが、「関係」とは人と人が何らかの関りをもつことをいう。加藤氏は男女の性的関係についても以下述べる。「性関係と呼びうるに値する関係とは、社会の禁止にも関わらず、いや禁止されているかを度外視して、自らの明確な意志によって、一切の偶然を排して行われる関係である」。自分が読んでも堅ぐるしく若い人ならさらなりか。

いいたいことは分かるがいかにも古い。加藤氏は率直を好み、普遍的な言葉を信条とするも、さすがに男女のことについては古風である。加藤氏と心を同じにする若者が皆無とはいわぬまでも圧倒的に少ないだろう。馬耳東風の『若者の哲学』が、現代にはさびれた感がある。男女の関係を否定すべくもないが、互いの明確な意志と了解のもとで、「やれ」とはいうが…

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あまりの率直言葉は女性に負担である。「そんなつもりじゃなかったけど、お酒を飲んでいたから…」、「あなたが余りに強引だったから…」、「仕事でつまんないことがあったから…」などの言い方を女性が好むくらい加藤氏は知ってはいるだろうが、『若者の哲学』は1971年発刊だから約50年前である。それでも回りくどいことをせずに正面からぶち当たれと理想論をいう。

率直な欧米人と奥ゆかしさを善とする日本人の文化の違いもあれば、50年前とこんにちの社会状況の変化もある。それに伴い若者の思考や行動も大きく変わった。石坂洋二郎の『青い山脈』が朝日新聞に連載が始まったのが1947年。1949年に原節子主演で映画化され、57年には司葉子、63年版は吉永小百合。「変しい変しい(恋しい恋しい)」と書かれたラブレターの場面が懐かしい。

今どき、「恋しい恋しいあなた…」などのラブレターを書く者などいないし、そもそもラブレターなる言葉がもはや死語である。堀、坂口、林田、亀井、加藤らの五賢人が、今の若者に受け入れられないなら、彼らは誰を賢人とするのだろうか。堀江貴文、西村博之、村上春樹、斎藤孝、宮台真司あたりが浮かぶが、まったく想像つかない。「友情」なる言葉もこんにちてきには死語なのか。

組織や学校や家庭の中の人間と我々は結びついているが、雑多な人間関係の中で一番確実な結びつきが友情である。遊び友達や酒を酌み交わす程度の友人はいても、友情で結ばれた友人関係はどうであろう。友情といえども視野を広げると、例えば夫婦であれ、親子であれ、兄弟であれ恋人であれ、どこかに友情感が入ることで関係は柔軟性を帯びてくる。こういう場合の友情感とは具体的に…


人生を生きる上においての共同者としての友情感とでもいってみるが、友情には当然ながら敬愛心が不可欠。いろいろな苦労をしながら共に生きて行くという連帯感的な結びつきと同時に、それぞれが個々の人間として目覚めるということにもなるのではないかと。書物ですら友人である。或る本に親しむことで、その著者を心の友人といって何ら差し支えない。

著者の求めていることと同じことを読者が求める、それこそ兼好のいう心の最大の慰めとなるはずだ。現実に友人を求め得ないなら、われわれもひとり灯の下に書物をひろげれば、心の友を見出すことになる。だから、「本が友人です」といえばいい。近年は携帯やスマホが友人のごとき重宝されるが、彼らは情報の奴隷になっているよう自分には見受けられる。

こんにち最も大切で離せないものを、スマホと答える人はいる。そんなに情報が必要なのか?それなくば時代に取り残されるのか?我々の時代に、「青春に最も大切なものは友情と恋愛」といわれた。人間は一人で生きるではなく、自己に目覚めて道を求めるも先師や同時代人の助けによる。だから良き師、良き書は大事だが、そんなのは昔人間の戯言と嘲笑されるのか?

同様に異性(恋人)の影響も大きい。良き相手と良い恋愛をすれば、心慰み人生に花を咲かせられる。たとえ愛が終焉してもプロセスは消えない。だから自分はめぐり逢いや愛の過程まで壊しかねないような、否定しかねない別離はしない。その場は終わることになろうと、いつかどこかで躊躇いなくめぐり逢えるような、そんな別れを心がけた。それは相手を憎まないことである。

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例え別れようと出逢いは感謝。「人は恋愛によっても満たされることはない」と、これは坂口安吾の『恋愛論』の一節。恋愛は一時の幻影だから必ずや亡び醒めるものだと分かっている。人間は恋愛によって心は満たされるものではないことを知っていても、恋する異性を求めてしまう。すべての出会いは遅かれ別れを必然とするが、何事にも結果以上に過程重視の自分である。

人間はその習性から四季のごとく移り気であり、結婚したところで他人に目がいかぬわけがない。他人に手を出さぬを道徳というが、人間のどこが道徳的か。倫理にそぐわぬ人間をいちいち罰したなら、社会は混乱し人間は暴徒と化す。「神の名において汝は汝を終生愛せよ」と命じれど神に従わない。人間すべてが神の命に従うなら人間社会の破綻は間違いない。

人間関係さまざま ⑤

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一口に「人間関係」というが、人間と人間の関係がどれだけ多岐に渡るか。ある人は大都会に生まれ、ある人は地方都市に生まれた。ある人は人口5万人程度の市や町に生まれ、別のある人は自然の恵み多き田舎に生まれた。同じ田舎といっても人口は牛や馬の数もいれて4~5千人の、いわゆるド田舎生まれの人もいる。こうした育った環境が人間に大きな違いをもたらすのは間違いなかろう。

普段考えないことを考えたり書いたりがブログの面白さ。大都市、地方都市、市町村や寒村育ちに分けて人間関係を考えるとどういう違いがあるか。たとえば小さな町や村で育つと、行きかう人みんな知り合い感覚になる。そうした町村では、日々交際するいろんな相手は知るつもりになれば、その素性さえもハッキリする人たちで、狭い地域だからどこかで顔を合わす。

病院であったり、駅や郵便局や学校、公民館、役場などのコミュニティなどで出会うが、そうした環境で育つと、あまり好ましくない人や相手であっても、自ずと親近感のようなものがわいてくる。ならば交際の仕方もあまり気をつかうことなく、それなりに上手くつき合っていけるだろうが、人口の多い大都市でこんなことは有り得ない。往来のなかで出会う人すれ違う人は見らぬ人ばかり。

田舎には田舎の付き合いの流儀が、大都市や都会ではそれなりの付き合いの流儀がある。生活状況のちがいが性格の差となり、それが人間関係の在り方に影響する。それでも同じ人間だから大都市育ちと田舎育ちの人間が付き合えないことはないが、田舎人と都会人の成育環境の違いは、市町村役場と大都市の区役所の公務員という、同じ職種にあっても職場の人間関係事情も変わってくるだろう。

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小さな市町村役場の職員の同僚がどんな家に住み、どこの中学高校を出たかを知るが、都会の職員同士は、聞かないかぎり分からない。したがって、まるっきり知らない正体不明同士の人間関係ということ。上手くは表現できないが、こうした田舎人と都会人のズレが人間関係の感覚の差ということはできよう。適当極端な事例かもしれぬが、徳仁天皇と雅子皇后が育った環境はまるでちがっていた。

雅子妃がハーバード出身のキャリア女性でも、環境のちがいに卒なく対応できる能力は別。だから彼女は長期間適応障害に苦しんだ。「人間関係とは何か?」といえば、「交際とは何か?」ということになる。居住地、家庭環境や職場環境などによって生じた価値観の違いは交際に影響を及ぼす。田舎の居住環境になれきった人が都会に住めば驚き、都会人は田舎に居住して驚く。

驚きの中身はあまりの生活環境の違いで、10代で地方都市から大都市に出向いた自分が最も驚いたのは言葉だった。言葉の差が田舎人に劣等感を与えるのはいいとして、都会に出た女性が妙な男にひっかかった後に転落していった話は多い。そのことを知った者は誰もが、「何というバカな女」と即座に決めつける。しかし、彼女がバカである意味について深く考えてみたことがあるだろうか?

田舎育ちの彼女が田舎流の交際感覚と、大都会における付き合い方の感覚に大きな違いがあるなど思ってもいなかったろう。田舎から都会にでてきた無知で素朴な人たちを恰好の餌食として待ち構える悪人がいる。「こんなに親切にしてくれる人はきっといい人にちがいない」と思う彼女が、それほどに愚かでバカなのか?そういう視点で見なければあまりに可哀相。

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「ローマ日本人女子大生6人強姦事件」という事例もある。1993年1月にイタリア・ローマで起きた日本人短大生の強姦事件で、発生当時、日本国内でマスコミ・識者らによる男に声をかけられて自宅までついていった被害者への危機管理意識の無さに対するバッシングが加熱した。詳細はWikiに載っている。日本人のナンパトークは、「ね~彼女、お茶しない」が基本フレーズという。

「お茶」で誘ってついてきた女性をあわよくばいただくというのが日本人的下心だが、それを承知でついて行く女性もいれば、お茶や食事をご馳走になって、「バイバイ」の女性もいる。ところが外国で、「お茶」は暗黙の、「やる」で、「あわよくば」なんてものじゃない。お茶をOKしたら最後もOKと判断されるが、これは文化の違い。だから6人の女性は現地でも非難された。

彼女たちは親切な外国人と映ったのだろう。これを機にツアーを企画する旅行会社の搭乗員は、「お茶=SEX」ですよと具体的な文化の違いを日本人女性に植え付けるようになった。しかし2012年8月、ルーマニアのブカレストで聖心女子大2年生の益野友利香さんの悲劇があった。「No!」がいえない日本人が被害にあうことは珍しくない。「断る」ことは相手に悪いという意識があるからだ。

「嫌だ」、「結構です」、あるいは「ゴメンナサイ」でもいい、ハッキリと意思表示をすればいいが、それができない。大体において、断る場合は最初にいうのがよい。何かを頼まれいきなり断るのもソッケないからと引き受けてしまい、途中で断る場合は最初に断る何倍もの負担になる。セールスマンに断り切れず、不要な物を買った人の多くは、「何でこんなもの買ったのだろう」と嘆く。

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しかし、その時は買わなければその場を逃れられなかったのだ。それほどに精神的に追い詰められ、買うことでしか解放されなかったことをしかと肝に銘じるべし。もうあのような嫌な気持ちにになりたくないなら、最初に心を鬼にして、「いりません」という。セールスマンたちは、「いらない人に買わせるのが最高の技術」と腹で思っているので、そこを見透かせば餌食にならないで済む。

「断られてからが勝負!」という彼らはだからしつこい。なだめたりすかしたり威圧したりのあの手この手で挑んでくる。断固断るコツは、この人に好かれようと思わず、むしろ嫌われてやろうの心。「この人はヒトがよさそうだ」と思わせないこと。セールスごときに嫌われるのを楽しむ人間を、性格悪しといわれる筋合いはない。だれかれ好かれたいと思う心の卑しさの自覚こそ必要。

母・逝去

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・6月29日に妻より連絡あり。母は医療老人介護施設に入居中だが、医師の見解ではもうダメかも知れないと。

・8月3日朝、大阪・茨木市在の叔父貴(母の弟)より電話あり。「元気してるか。9日の金曜日に同窓会で広島に帰るから会おう。老人施設にも顔を出して見舞いたい」。

・8月3日午後「危篤状態だそうです」と妻より連絡。9日に叔父がくるので、その前になくなれば事後報告で線香でもあげてもらう。危篤の報もいわない、葬儀の連絡もしないが、9日まではもちそうもないとのこと。

・8月4日朝、昨晩未明に他界したとのこと。葬儀は出ないのは妻は承知済み。家族葬を命じ、妻の親兄弟も呼ばぬよう指示。

医療老人介護施設に入居して3年か?5年か?記憶がまばらだ。それくらい顔を合わせていない。互いが自分に正直を通したということで、死んだから葬儀には行かない。死なない葬儀はないし、だから死んだから葬儀にはいかない。行きたいでも行きたくないのでもないから、行かないという選択をしたまで。行く選択もあったかもしれぬが、どちらかに傾きが強いわけでもないからどちらでも同じ。

出席したことの悔いもない、しなかった悔いもない前提での選択だ。今の気持ちをメッセージとして発しなければならない立場ならなんというだろうか。「母が死んだ。次は自分だ」の10文字か。叔父貴の突然の電話は虫の知らせか不思議と感じた。何もいわずに仏壇の前に通し、そこで詫びるつもり。叔父貴は生前に母と顔を合わせたかったか分からない。もしそうなら、会いにきただろう。

来ないから会いたくなかったというではないが、人は人が死んで大騒ぎをするものだ。死なない前に取り立て会おうなどはせず、死ねば死んだで何かをいう。みんなが自分の生活を中心に、大事に生きているわけで、それでいいとしたものだ。だから、芸能人のように、死んで大騒ぎすることも、取ってつけたようなお悔みの言葉も必要なかろうが、あれはマスコミ用、対外的なものだ。

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自分の中の心の問題とする人は、出席しても黙して退席するだろう。マスコミのカメラを意識してか大袈裟な文言を用意の人もいるが、それなら死ぬ前になぜ合わない?「亡くなる前に会いたかった」というなら行けばよかったろう。死んで騒ぐのを偽善者とは言わぬまでも、自らの心に問えばいいこと。それがすべてではないか。2~3日もすれば忘れようとも、その場で故人を讃えるのは礼であろう。

死んだから葬儀に出なかったというのは、死ぬ前に会わなかったと整合性が取れている。死んでいそいそ出てくるくらいなら、死ぬ前に出てくるべきではないか。これをへそ曲がりな言い方と受け取る人は、読解力なき人である。影響されたというのではないが、似た考えだと思ったのは、坂口安吾の『私の葬式』という短文だ。「私は葬式というものがキライで、出席しないことにしている。

礼儀というものはそんなところで出席するとことにあるとは思っていないから、私は何とも思ってないが、誰々の告別式に誰々が来なかったなどと、日本はうるさいところである。(中略) 死んだ顔に一々告別されたり、線香をたてて蝋燭をもやし、香などというものをつまんで合掌瞑目されるなどと、考えても浅ましく僕は身辺の人に、告別式や通夜は金輪際やらぬことと固く私の死後を戒めてある」。

行きたくないところに行かない、出たくないところに出ないを実行できる人間は、よほどの我儘か強い意志かのどちらだろう。他人から見ればどちらかに思われるわけで、だから自分の意思がどちらかなど関係ない。相手が判断することだ。白洲次郎の遺言「葬式無用、戒名不用」は短きにて有名だが、永井荷風もちと長いがこんな遺言を残している。「一、余死する時葬式無用なり。

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死体は普通の自動車に載せ直ちに火葬場に送り骨は拾うに及ばず。墓石建立亦無用なり。新聞紙に死亡広告など出す事元より無用。一、葬式不執行の理由は御神輿の如き霊柩自動車を好まず、又紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環を嫌うためなり」。しかし、故人の意に敵わず、天皇より祭祀料、文化勲章などを飾った仏式葬儀は行われ、墓も作られた。なぜ故人の遺志を尊重しないのか。

葬儀というのは、死ぬものの都合でやるのではないからだが、著名人というのは死して讃えられねばならず、荷風は自分がもっとも忌み嫌うことを死後にされたのはさぞや無念であったろう。自分の遺言は白洲次郎でと決めており、断固従わせるつもりだ。「いう通りにしないと呪ってやる!」と、ここまでいっておけば大丈夫だろう。折角文書を残す以上、死んでも実行してもらいたいものだ。

親の葬儀に出ない理由は自分だけのものならなぜ相談欄に書くのか?肯定してもらいたいのか?①「縁を切ったのだから行く必要はありません。私なら行きません」。という回答もあれば、②「まあ最低な親だとしても、絶縁しても、死んだら次はないからね。最後の仕事として葬儀だけはやってやりなよ。あなたが最愛の奥さんや子どもに会えたのは両親が産んでくれたからだからさ」もある。

こんな意見聞きたくもなかろう。②のようなことをいう人間は結構いるが、子どもを殺して人生を奪うような親に何をいうつもりだ?他人が他人に意見するのは何かと矛盾が出る。だからか、「あなたの好きにやればいいのでは?」と回答するのが正しい。どういう相談であれ、本人の自己責任なのだから。他人が他人にあれこれ言うのは、他人のためではなく所詮は自己満足だろ。

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他人への敬愛心 ①

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「親を敬え」というのは、秩序道徳を求める儒教思想である。それに対比する老荘の思想は、「無為自然」を説き、人間本来の生き方を求めるものである。だからか、それらは個人の本来の生き方を追求する思想になったり、管理社会批判となったり、統制的社会への敵対思想となったりした。現実的でないということから、単に処世術として読まれたり、革命思想として解釈されたりした。

老荘思想とくくっていうが、老子は現実の社会や政治に関心をもっていたこともあり、超俗的で奔放な荘子の思想に比べて政治的解釈をされたりした。タオイズムといわれる彼らの思想の、「タオ(道)」という概念は捉えにくく定義するのは難しい。頭のなかだけで観念的に捉えようとしても捉えにくいもので、それの達するように体得しなければ絵に描いた餅にすぎない。

孔子や孟子が人の守る規範に関心を示し、実践したのに対し、老子・荘子は宇宙万物の根源と統一の原理(タオ)到達を追及した。孔孟の書は論語一冊のみだが、数冊の老荘思想は理解を得るために読んだし、愛読する五賢人の思考には孔孟思想批判が多かったこともあって、儒教思想は自分から消えていく。亀井勝一郎には『現代青春論』という著書がある。

「自己の自由を守る精神」という項目に、統制の危険性について以下の指摘がある。「さまざまな統制を試みようとするとき、まずは弱い部分から、あるいは裏側から徐々に首を絞めつけていく」。統制賛同の学者や知識人を利用し、統制に危惧を抱くものたちを槍玉にあげる。倫理概念の危険性にも指摘がなされ、「発禁本」についての考えが閉塞的であるなどが挙げられる。

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「猥褻」は刑法対象だが、何が猥褻かとの判断が難しい。1959年、マルキ・ド・サドの長編小説『悪徳の栄え』の翻訳が猥褻書とされ、翻訳者澁澤龍彦と出版社の現代思潮社社長石井恭二らが、刑法175条違反で起訴され有罪となる。1952年には、ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家の伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎が同罪で起訴された。

亀井は、「政府や取締まり当局が、倫理観念を振り回すことを危惧したのはいわずもがなである。権力と結びついた官製の倫理観念は危険である。これは戦時中の軍人たちが国家神道と結びついて絶対主義として強制されたことを怖れるものでもある。亀井は、「若者に批判精神がないなら死んだも同然」と鼓舞するのは、保守攻勢下にあって、青年は自己の自由を守るよう諭す。

さらに亀井は日本人に欠けているものとして、社会生活におけるユーモアの効用をあげている。なぜなら、ユーモアの根本には奉仕の精神がある。奉仕とは、人々に親切に尽くす、人々を喜ばせたい、楽しませたいという気持ちから派生するもので、抽象的な観念的思考からは決して生まれない。ユーモアとは具体的なものであり、大声で唾を飛ばす演説や下品なヤジとは一線を画す知的なものである。

神聖がよくて獣性が悪いのではない。人間性の醜悪さを深く考察・実感なしに、清純や聖化という観念は成立しないからだ。つまるところ、抽象道徳が危険であって、かつての女性にのみ求められた人間性を無視した、「純潔」、「貞潔」、「清純」がどれほど人間性を歪めていたであろうか。高村光太郎の『智恵子抄』の主人公を純粋で清純というより、あれは浄化された愛の形である。

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しかし、光太郎には智恵子への紛れもない敬愛心があるのはわかる。敬愛心とは何か?そんなものを深く突き止めなくとも読んで字の如く人を敬う心である。尊敬と敬愛は似ているが意味は違う。「私はペットの犬を敬愛する」というが、「私はペットの犬を尊敬する」といわない。このことから理解すればいい。また、敬愛心は思想書や哲学書を読んで身につけられるものではない。

敬愛心は自然と身につくものだが、自分が人に敬愛心を抱く理由を聞かれて何と答えよう。「人間が好きだから」とでも答えるのか?敬愛心の欠片もない人がいる。人を見下げ、バカにした態度からてき面わかる。他人をそんな風に思う者を敬愛できるか?答えは、「NO!」。特段敬愛の条件を満たす必要はないが、敬愛されるに値しない人間を敬愛できないのは当然だ。

ちょっとしたことで相手に食ってかかる人間がいる。彼らとは気をつかわなければ付き合えない。付き合わなければいいが、無理して付き合う者もいる。子どもを虐待する親はどうか?虐待は親の権利と思ってはいないだろうが、子どもは自分を養育してくれる親から逃げることはできない。これは付き合うとか、付き合いを止めるとかでなく、権利と義務の関係である。

子を持った親は親権者の義務を果たさねばならぬが、育てるけれども感情まかせに子どもの人権を踏みにじったり、正常な発育を害するような言動したりの親は少なくない。それでも黙って従う子どもは何なのか?親への敬愛心か?抗えぬ道理として受け入れるからなのか?哀れ子どもにそんな親を、“動物レベルの非道な親”という知識も、知恵も、認識もない。

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他人への敬愛心 ②

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自分の過去を思い起こせば目の前の親が親。良いも悪いもなく何をされてもただ従う対象でしかない。すべての動物は生まれて目の前にいる大きな生き物を、自分の保護者と感じるが、それが親の実体である。子を生んだ猫の親がいなくなり、目の前に成犬がいれば猫の子はそれを親と認識する。学校に行くようになっていろいろ友人と話をしたり友人宅に行ったり、彼らの母親に接するようになる。

誰もが思うことながらなぜか他人の母親はやさしく感じる。友人たちも自分の親の不満をいうことはなかったが、自分は母親への不満があり過ぎた。「いいな」と思う事は多く会って、例えば文房具やズボン一着買う際、親からお金を貰って好きなものを買ってお釣りを渡す友人が羨ましかった。「いい親だな」といっても彼には普通でしかないが、そんな主体性は自分には考えられなかった。

鉛筆一本、ケシゴム一つ自分で買ったことはなく、家のなかはおろか、外で吸う気行くまで母親に支配されているようだった。すべてが彼女の息がかかったものでなければ認められない。女の子はそれでいいが、自立心の高い男の子の育て方は完全に間違っていると今なら思う。しかし、そうであったから一層自立心が強くなったようにも感じる。すべては子どもの感じ方、学び方であろう。

何から何まで支配する母を友人と比べることで、自分の母親は普通でないとだんだん思うようになった。こういうものを情報といい、情報を仕入れることで物事の判断基準を人間は掴んでいく。何事も有無を言わさず子どもに命じ、逆らえば暴力で従わせる親を普通ではないと感じ、反抗が始まった。当時は分からないことだが、子どもの深層心理というのは、反感の多さに比してよく分る。

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「顔見知り」という言い方をされるが、これとて専門的にいうなら子どもの「母親認識」である。母親を絶対視し、一人の人間として他のなにびと、なにものにも替えがたく大切なものとし、心が健康に育っている証拠である。しかし、ここまで子どもに絶対視され、頼られもすれば、どんな母親とて子どもは自分に絶対服従するものだと思ってしまうのだろう。この思いが母親の最大の汚点となる。

乳児期・幼児期・学童期と育っていく過程で子どもが母親に対する意識や接し方が変わるのを当たり前と考えない視野の狭さ思い上がりが親子の不幸の原因となる。自分は小津安次郎の映画『一人息子』から、芥川龍之介の『侏儒の言葉』を知ったが、映画の冒頭テロップで、「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている」の言葉に深い感慨を受け、同時に親と子の心理のあやをみた。

他の一文は、「親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。成種牛馬は親の為に養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪結婚を弁護しなければならぬ」。古い文語体様式だが、これくらいの日本語を理解できる日本人であってしかり。

『侏儒の言葉』には人間関係の本質エキスが詰まっており、次の言葉も一読後にため息が漏れる。「強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れ、弱者とは友人を恐れぬ代りに敵を恐れる」ただし、名句・名言を知るだけでなく、それを生かすことだ。銀行に預けた大金は精神的な安定にはなるが使うべき時に使わないものを、「宝の持ち腐れ」という。不思議なもので、人間はなぜ宝を持ち腐らすのだろう。

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しみったれ、みみっちい、とそんな言葉が浮かぶが、目減りするのが嫌なのだろうが。今、役に立つもの、自分の今を満たすものに惜しみなく投資すべきを明日の不安が優先する。「宵越しの金は持たない」という江戸っ子気質、その日の儲けはその日に使えば、明日また稼げばいいのエネルギー。自分は100円玉、500円玉を集めているが、預金と思った事はない。

そこに入ってる硬貨はお金というより、溜める面白さであって、貯める面白さとは違うそれを見て、「こんなにあるなら何で銀行に預けない?」と人はいう。面倒くさいからいちいち説明しないでいる。人の思いを変えることはできないし、何かをやる際に、やっているのは自分であって、他人の出しを無視することが真に自分の生き方であるが、無視を上手くとりつくる術を身につける。

「親は子を生み育てるのだから尊敬すべき」、「どんな親でも親は親」、「親不孝は自分に跳ね返る」誰がいったか慣用句となっている。親が子を生み育てるのは当たり前で尊敬というより義務であって、親になってもその考えを変えない。どんな苦労をしようと、親は子育てを天から貸与された至福と楽しむべきだが、自分が親を尊敬したから子どもにそうされたいって、「なんじゃそれは」。

性行為の証といううしろめたさを、美辞麗句で隠そうとするところに欺瞞がある。動物の子育てを見てつくづく思うのは、彼らは自分(親)のための子育てなど一切していない。それをいえば、「人間と動物は生きる世界が違う」というから、「欲の度合いが違うのでは?」といったことがある。「苦しいことをやった人は立派」というが、そんな風に思ってもらいたいものなのだろうか?

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女親一人で3人、5人の子育てをした話を聞くが、立派というより楽しんだと自分は思う。苦しさにかまけて同情などに寄り添う人は自分を誇るだろうが、そういう人にそんなものはおそらくない。苦しみのなかで充実することこそが幸福である。苦しみを経て、あるいはそれを済ませてから幸福の日を迎えるというより、苦しみながら、その苦しみのさなかに喜びを求めているものだから…

「子どもを沢山抱え、汗して働いている時が何より充実していた。苦しいというよりすべてがハリとなっていたし、幸せだった」。こんな言葉を耳にしたとき、我々は人に同情をすることで、自己の現状を幸せと感じるように感じた。他人へ情を向けるのは無意識の浅ましさがある。そうした人に敬愛心を抱くなら、無用な同情など口にせず、だらけた自分を叱咤すべきではないか。
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