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他人への敬愛心 ③

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「人間は動物から学ぶところが多い」というのが持論だが、「人間と動物は違うだろ」と反論するのも分からなくもない。人間は絶望の果てに自らの命を絶つが、「動物に絶望という感情はあるのか?」と考えたことがある。ただし、動物にも絶望の意識が芽生えたとしても、自らの命を絶つことはなかろう。死に方を知らないというより、彼らには生きる本能だけがプログラムされている。

「窮鼠猫を噛む」といい、猫は犬を噛む。人間はガムでも噛むのか、いじめで自殺するなら相手に噛みつけばいいのに、命を守りたい意識が感じられない。それで「絶望」というならなんとも甘えた絶望だろう。絶体絶命に追い込まれた動物の闘うさまを見て、何としても命を守ろうとの意思が伝わる。人間がそうならないのは勇気のなさと、「絶望」という二文字への憧れか。

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抵抗なしに死にゆくものの絶望を、“甘えた絶望”といったが、絶望と思い込んでいるなら仕方がない。自分が思春期に絶望感を抱いた相手は母であった。母は自分を徹底支配し、苦しめたが我が子の苦悩には気づかない。絶望感をどうすれば排除できるか、徹底して抵抗するしか方法がなかった。苦しみを訴え、母にはあれこれと嘆願するも、まったく聞く耳を貸すことはなかった。

「人を変えることはできない」とつくづく感じさせられた。親に絶望すれども人生に絶望しなかったのが救いであった。人生への光を失うことはなく母という障害を排除すればよかった。それで分かったことは、「絶望とは何かに向けて懸命に努力すること」。自分でいうのは憚るが、バカではなかったと当時を思う。いじめに抗うことをせず死に向かうなどは、絶望というナルシズムか。

真の絶望というより、感傷的な自己愛の発露ではないだろうか。絶望への努力を放棄し、自らのナルシズムに酔えば死への憧れを抱いても不思議でない。なぜ頭を働かせて絶望を解決しようとしない?強い気持で人生を広範囲に見つめない?これが自殺者への疑問である。絶望体験は大事で、そこから立ち直るところに人間形成の基本がある。幾度か書いたが中一の時も級友に絶望させられた。

クラスでもっとも知能の低いMから、投げやりな言葉を向けられるなど夢にも思っていず、それはショックであった。鼻っ柱をへし折られ、いいようのない屈辱と羞恥を忘れることはない。家に帰りこれまでの自分を思い浮かべて、それはそれは嫌な自分であった。Mはそのことを何気に自分に伝えた。『罪と罰』の売春婦ソーニャから啓示を受けたラスコーリニコフのようだった。

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ソーニャは文豪ドストエフスキーの観念の所産であり、「聖なる娼婦」などといわれてきた。自分は今でもあの時のMを思い浮かべる。知能の低い彼を見下し、放言した言葉の数々、それに対するMの仕返しであったろうし、それが咄嗟に言葉にあらわれた。Mに初めて噛みつかれたことへのショックもあったが、「こんな奴にこんな風に思われていたのか?」という羞恥心の方が勝っていた。

あの時、あの場面のことは、Mの顔つきも、言葉の投げ方も、映像のように頭の中に残っている。ラスコーリニコフはソーニャにひざまづき、彼女の脚に接吻をするが、自分を見下ろす偉大なるMに自分は精神的にひざまずいた。Mの言葉を一蹴していたら、自分は何も変わらなかったろう。「誰がいったかではない、何をいったか」を大事にするようになったのは、この時の体験による。

誰がいったではなく、何をいったかを感じ取るのは素直な心。同じ言葉でも人によって受け方を違えるのは自尊心のなせる技であろう。心の持ち方一つで人間は大きく変わるものだ。権威には迎合するが、自分以下レベルにはつけあがる。こういう人間を揶揄し、「上にへーこら、下にオイこら」といい、周囲にわんさといる。目にすれば、「何とも浅ましい奴!」と腹で笑う。

動物の親は見栄や欲のために子育てをしない。彼らはそんな理由で子育てをする必然性はないが、人間は見栄と欲の塊である。だから人間と動物は違うが、本当は同じであるべきとの理想を描くが故に人間は動物から見習うべし。どう育てれば子どもが幸せになるかの思考は動物にない。「お金持ちになる」ことも、「社会的地位を得る」必要もないが、人間はそれを目的とする。

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それが悪いとは思わぬが、親の意志であるべきなのかどうなのか?自分の産んだ子をどうするのも親の権利だが、リスクや子どもの性格も含めた、正しい権利行使か否かの疑問はもつべき。自分は、「自信」や、「信念」という言葉を疑っている。「自信」のようなもの、「信念」らしきものに常に疑いをもちながら生きているのは、それらが一種の空想のようであるからだ。

どんな人間であれ本当は、「自信」などない。本当の、「信念」などもない。一時的にあっても、すぐに壊れてしまう代物だ。人間は常に動揺し、変化している。だから、「自信がある」と口にして強める。「信仰」も同じで、そもそも、「信仰」そのものが迷いの所作である。神仏を思うのは解き難き人生の深さゆえの嘆きでは?それとも迷いや苦悩を捨て去るための幻影か?

信仰を疑うべきなのは、宗教や神を創った人間を疑うことにある。「神を疑う」のが心苦しいなら、「人間を疑う」と思い直せばよいが、神は人間が創ったものではないと絶対的に信じる人はそれができないだろう。神はそれぞれの人の心に宿るものだから、自分の心を疑えばよいが、神は天のどこかにいると信じる人は、神を疑うことは自分の存在を疑うことになり自己嫌悪に陥る。

それでは信仰の意味がないのだろうが、信ずることによって盲目になるのではなく、信ずることで明晰になるべきではないかと。信仰を明晰にするためには、「救済観念」を捨てよといわれるが、これは自己救済の放棄である。ドストエフスキーの遺作『カラマーゾフの兄弟』に有名なセリフがある。「もういっぺん最後にはっきり言うてくれ。神はあるのかないのか、これが最後だ」。

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人間の存在する限りこの叫びは永久に絶えないだろう。親鸞もこのように述べている。「我に救いありと思った時が即ち人間の堕落した時である」。彼は自我を捨てて真理に向かうよう説くが、自分など到底理解・実践できるものではなさそうだ。親鸞は人間をこよなく愛し、また理解をしている。なぜなら、あまりに厳しい戒律のもとにおいては、人間は偽善者になるのを見抜いている。

いかにも口幅ったい物言いをしながら、陰では別の人格を楽しんでいる。見方を変えるなら、あまりに厳し掟や厳しい道徳観が、人間に偽善性を強いることになる。親鸞が肉食妻帯を善としたように、パチンコ、競輪、ソープを合法とするのは、人間の生きる糧をを失わせないため。自分は神を最高の規範者とせずとも、人間を規範にして不足はない。「五賢人」に近づくだけで大変なこと。

他人への敬愛心 ④

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人は一人で生きていないゆえか指摘されて気づくこともある。人はいつもこちらを見ている。「あなたはどうして人にやさしいの?」とか、「人への接し方がちがいますね」などといわれてハタと気づく。「何でそう思う?」と聞き返さないのはくどくなるからで、敬愛心をもって他人に接する自分は分かっている。意識してでなく、自然にそういう風になるのが敬愛の心。

普段考えない敬愛心について考えてみる。このようなことを考えるのもブログをやっているからで、自分と向き合い自らを分析するのも悪くはない。他人への敬愛心というのは、人は誰も優れていると感じるからで、それが心の底にあるのだろう。自分のことくらい判る。人は誰にも優越意識があって、他人よりいくつかの優れた点を自覚をするがすべて自分が優れていることはない。

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そんなのは当たり前であっても、人は自分の優位と他人の劣位を比べて自尊心を満たそうとする。30歳になったかどうかの頃だったか、何かにつけて他人を見下す奴がいた。どこにでもいる、“何様”的な奴だが、誰もがそんな奴と心得て放っておくが、ある時自分は友人のことを偉そうに卑下する彼が許せなかったこともあって、黙っていられずこんな風にいったことがある。

「黙って聞いてりゃ人をボロクソにいってるけぢ、そんな言い方ばかりしてないで少しは相手のいいところを見ようとしろよ。彼は結婚もして子どももいるのを知ってるんだろ?独身のお前にくらべてその分人生体験してると思わないのか?チョンガーごときが偉そうにいうことか?」突然の思わぬ攻撃を受けた彼は、その場を黙してすぐに席を立って出て行った。

あのことがあって以後は彼は自分を避けたが、それは彼の都合でありバツの悪さであって、悪いことをいったとは思わなかった。自分の本意が彼にどう伝わったかは分からないし知る由もないが、「どんな人にも自分にはない優れた点がある。自分にない体験もある。人をそれほどバカにすることもなう」という趣旨でいったつもりだ。独身と既婚というだけでも人生体験の差は確実にある。

彼は自分が独身なのをバカにされたと思ったかも知れない。それならそれでいい。彼が既婚者たる相手をバカ大卒と詰ったように、独身が彼の負い目ならそれも事実だ。人をバカにする人間にだってバカにされる要素はあるが、人がそれをしないからいい気になっている。近年はそれらを、“ブーメラン”という言い方をするが、誰がつけたか上手い表現である。

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「俺をバカにしたいのか!」とはいわなかったがいわなくて正解で、「だったら人を見下すな」と追い打ちが待っている。人ってのは自分の利するところだけで人を眺め、見下したりバカにするが、相手がいないところでそれをやるのは姑息で卑怯者である。「チョンガーが偉そうにいうな!」とは勢い余った言葉だったが、それで反目するか反省するかは彼の問題である。

彼が見下した自分の知人はその場にいなかったから、陰口という恰好だが、彼の名誉のために自分が代弁をした。独身をチョンガーという差別用語を使ったほどに腹を立てた自分である。最近は耳にすることがなくなったチョンガーとは、未成年者や独身男を意味する言葉。いうまでもない朝鮮語からの借用語で、かつての大韓帝国において、未婚者はチョンガーと呼ばれて非常に軽蔑されていた。

この手の人間は昔も今もいる。むしろ現代の方が多くなっているのか、それともSNS全盛の時代だから目にする機会が増えてそう感じるのか、ツイッターやブログのない時代は、心に隠していることは分からなかったが、最近はSNSであからさまに他人攻撃をする。そんな人間は自分に自信もなく、必要以上に他人を怖れる小心者であろう。最近その手のコメがきた。

一読して思ったのは、何故にこれほど人間に怯えているのかである。人間を恐れるから必死に我が身を守ろうというのがありありで、悲愴感さえ感じられる。よほど精神が脆弱なのか、必死でこちらに噛みつくさまが憐れですら感じられた。「あなたを刺激したなくないからこれ以上は書かない」と、収束を図ったのは、「あなたを傷つけたくない」の言い換えである。

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何を言おうが返そうが傷つくしかない人間は、それほどに人に怯えて生きている。「なぜ人を怖れるのか?」について、そういう人間を目の当たりにしたときに考えたことがある。普通人は相手が自分に調和してくれるように望みはするが、ゲーテはそのことをを、「非常に愚かなこと」という、賢人の考えの深さを知った。なぜそれを愚かとするのかについて、彼はこう述べている。

「私は各々を独立した一個人として見、その人を研究し、その持ち前のままでつき合おうと努めはしたが、その人からそれ以上の同情など全く求めなかった。そうすることで私はどんな人とでも交われるようになった」。ようするにゲーテは、人が自分に調和してくれるよう望むのは、ある種の同情と考えているようだ。いわれてみると広義の同情と感じられなくもない。

人が自分の意見や主張に合わせてくれるのを人は喜ぶのは分るけれど、それらは相手の自発的・主体的な気持ちからもたらされるもの。卑しくもそれを望んでいる気持ちが察知されるなら、相手は同情心からそのようにする。年端もいかぬ年代ならともかく、成熟した大人にとってはあまりにつたないことだ。ゲーテは人は成熟した大人であるべきといっている。

こういう深い考えに触れると、「相手が自分に調和してくれるのを望むのは愚かなこと」だと分かる。早いうちから知ることになれば人はそれを目指す。だから人間には賢人が必要だ。賢人から学ばないで、しょぼい凡人のまま生きていたくはないが、賢人のエキス100あるうちから、10~20でも学べたら幸便だ。人に学ぶ力はあっても、欲や利害が障害となるようだ。

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他人への敬愛心 ⑤

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他人は自分とは全く別の存在であることを認識し、肯定もし、その上で相手を知ろうとするのが正常な人間関係と思う。相手を知ろうとしないことには何も知ることができない。初めから自分の気に入った相手、自分に似た相手や自分の心に合致する相手をわれわれは求めたがる。それは分からなくもないが、人と人との交わりの基本は異なる個性のぶつかり合いだろう。

その認識がないと人づきあいが苦手となり、気づかぬ間に人付き合いが不得手と感じるようになり、ネガティブな人間になっている。他人との付き合いも大事だが、より自分との付き合いが大切なのかも知れない。一度くらいはそういうことを考えてみるのがいいのだろう。「自分に忠実であるべきか、他人に忠実であるべきか」ということは人間にとって重要かも知れない。

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そんなことを考えるのが好きだったことでいろいろな問題意識を授かった。何より先ずは問題意識を持つことで、それに対する答えなり方策なりを少しづつ考えていけばいいし、しかもその答えは年齢を重ねるごとによって変わってもくる。例えば、「自分の気持ちに忠実であるべき」などと声を大にしていわれるが、見方を変えるとワガママということにもなる。

自分の感情や考えを尊重し、相手を尊重しないというこなら人から好かれることはないだろう。反対に、「他人に忠実になる」という生き方は、主体性がまるっきりなく他人に害はないので嫌われないからと、こういう生き方を好む者がいる。一般的に人間は他人を偽る動物で、他人を偽ることは自分を偽ることであって、人間が生きて行くための知恵でもある。

「自分を偽る」といえば聞こえは悪いが、自分を偽ってまで他人と上手くやるというのはそんなに悪いことか?多かれ無意識でそんな風にしている筈だ。「何事において自分を隠せない人は大成しない」。これはカーライルの言葉で、大成するしないは別にしても、自分の気持ちを隠すというのは、自分を抑制することでもあるなら、批判されることもなかろう。

自分の感情を抑制できないと何かと不都合となり、理性のなせる技だ。自分の心のなかは案外と他人から見透かされるもの。「今日は楽しそうだけど何かいい事でもあったのか?」などと問われたりする。「いや、特になにもない」というのと、「昨日はとてもいいことがあったんだ」とアレコレと説明するのとでは後者の方が面白みのある人間で、話も弾む。

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どっちがいいかの問題でなく、どう答えるかは相手によって決める。性格的にどちらかに偏る人間もいるが、自分はその時の気分や相手によって変える。自分に忠実、相手に忠実ということより、柔軟に相手との人間関係を深めていく。「あのことをあんな奴にいわなきゃよかった」という後悔は誰にもあるだろう。そうした失敗も含めて人は人間関係を学んでいく。

つくづく人間はいろいろである。いいこと、嬉しいこと、楽しいことは率先して話す人間もいれば、そういうことはあまり口にせず、不愉快なこと、悲しいこと、苦しいことを好んで話したがる人間もいる。そのどちらにも相対するのも人間関係で、人と上手に付き合う術があるとすれば、自分自身に折り合いをつけ、自分と上手く付き合うことが大事だろう。

出会った人についていろいろ考えるのは好きかも知れない。たとえば臆病で小心な人間は大抵の場合「調和」を求める。人間を極度に怖れ、怯えを感じる人間は、「自分の悪口は許さない」などという。今回久々その手の人間にでくわした。こういう人間への対処法は、とにかく拘わらないこと。相手を嵌めて楽しもうとするところもあるから注意がいる。

「自分のブログで悪口をいうな」とワザワザ言ってくるのには驚く。行ってもいないのにアクセス解析で判明したというが、完璧なフライングである。しかも、二度と来るなといいながらブログのURLを知らせてくるって…?もし、クリックしようものなら、「来るなといったのになぜに来たのか!」ということか。こういう罠をかけて何がしかの気晴らしをする倒錯者であろう。

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小心で孤独な人間は、「調和」してくれる相手を探し、世の中を楽しく生きて行こうとするが、ロジカルを好む人間は議論や言い合いを吹っ掛けて楽しむ。「同じ穴のムジナ」というように、同種ばかりを求めて異質を排除すれば、交際範囲は狭まるばかり。考えに同調するのは悪くはないが、同感すれどもう一度考える。同感しない場合も、もう一度考えてみる。

賛同する自分は本当に正しいのか?反対する自分も本当に正しいのか?人間は正しいことも行うが基本は間違うもの。だからか、人間の最大の誤りは、犯した誤りを誤りと知りながら謝らない改めない。別の言い方をするなら、罪を犯しながら、その罪を悔い改めないことこそ最大の罪。勇気のいることだが、そのことで自分の皮が一枚むけることになる。

他人への敬愛心 ⑥

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われわれの精神を鍛えようと思うなら、常に語り難いものに直面していくことではないか。語り難きをあえて語ろうと努力を重ねることで強くなる。極度に人間を怖れる人間は、甚だしき自己妄想に陥ったりもする。自分を非難する人間に内心びくびくしている人間を滑稽と感じるが、本人にとっては笑いごとどころではなさそうだ。人は愛すべきもの、怖れるのは理解しがたい。

人を怖がる理由もない、あげつおうなどと考えたこともないが、それでも自分は他人からみて怖い人間となるのか?それほど人を怖れるなど、バカげたことと思うが、どう考えても臆病で小心さが災いしている。臆病者は人を怖れると同時に自分さえも怖れている。自身の孤独であるのと孤立するのを怖れている。そんなでは生きていけない。治す努力をすべきだろう。

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相手を怖れるなどの臆病気質は、自己過保護から派生するが、改善努力を怠るなら仕方なかろう。生活を共にしようとする相手を怖れていい事などない。言葉づかいや、身なりや、生活態度に嫌味のないことを教養というなら、ムダ話ができるというのも大事な能力と考える。ムダ話がムダ話として意味をもつのは、それが用談や重要な会話のところどころに挟まれるからだ。

汚い言葉や暴言は罪深いが、ムダ話に罪はない。言葉はその人の心の入り口であり、精神の脈拍である。病的なまでに精神が衰弱した人は言葉も狂ってこようし、精神を病むというのは自身の内的自由のなさではないだろうか。人間関係に会話は重要だが、上手い話し方とは、いろんなことをいろんな風に考えられる能力であるから、最初から最後までムダ話というのとは違う。

「相手の立場に立って考えなければならない」。人は誰でもこういう。我々もそのようにしたりもするが、相手の立場に立って考えるということは、必ずしも相手の立場、相手の気持ちを充分理解していることと同じではない。または相手の気持ちを理解していなくても、相手の立場に立って考えることが出来る。このように考えてみるのも必要であり大事なことだが難しい。

なぜなら我々は相手の立場に立って考えることは、相手の気持ちを理解してると勝手に思い込んでいることもある。相手の気持ちを理解するのはそんなに生易しいことじゃないのよ。では、本当に相手の気持ちを理解するとはどうすればいいのか?これは相手の気持ちを真剣に聞くしかない。しかも相手が本心を述べるような雰囲気づくりがなされていなければならない。

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これをして初めて相手の気持ちを理解し、その上にたって相手本位に考えることこそ、相手の立場に立つことになるのでは?「相手の立場に立って考えろ」と上司や目上の人にいわれながら、相手の気持ちをどのように理解していいのかを誰も教えてくれない。仕方なしに自分なりに相手の気持ちになったつもりで考えるしかないが、躊躇いなく上手くやれる人がいる。

それを能力といっていいだろう。だから、できる人とできない人がいる。自分は相手の気持ちに立って考えるのが少年時代から好きで、おそらくは人間そのものへの好奇心が強かったこともある。人はいつ、なんどき、どんなことを考えているのか、隣で一緒に散歩する彼女は何を考えているのか、あいつは、こいつは、彼は、彼女は…、そんなことを考えるのが楽しかった。

だから、知らず知らずのうちに訓練となっていったのかも知れない。人の気持ちは分からないもの、だからその人の気持ちになって考えるしかない。それがもっとも人の気持ちを理解する方法である。無意識に習得する能力の陰には無意識の訓練がある。だから、人の気持ちを理解する方法は、一にも二にも訓練だろう。「あなたはわたしの気持ちがどうしてわかるの?」

しばしばいわれた。理解した自信はないが、「どうしてわかるの?」といわれて、「本当に分かっているのか?」と自問するも、半信半疑でしかない。が、相手がそのようにいうなら分かっていることになるのか?と納得する。不確かで確かなものなどない人間関係の基本とは、“相手の価値観を理解する”ことだが、幅広い価値観を持っていれば無理に合わすこともなくなる。

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例えば他人に親切にする。相手から感謝される。そのことですら、どう感謝されているのか、相手の気持ちはどういうものかを知るすべはない。が、感謝されているくらいは分かろう。同じように、自分が相手から親切を受けた場合、自分が相手にどのように、どの程度の感謝を感じているかは分かる。そうした自身の体験から、人は相手に対する想像力を磨いていく。

他人の心の中を覗くことなどできない。だから、わかったふりをして付き合うことになるが、人間関係には社交辞令や、本心を偽る気持ちや、世辞の類などが混じり込むから本当を感じ取るのは至難である。真の関係を願うなら、少なくとも自身の表裏を無くすこと。誤解を怖れ、誤解なきよう己を偽り修飾するより、自らに正直であればいつしか相手の理解を得られよう。

一期一会を叔父貴と…

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明日をも知れぬ運命にある戦国時代武将達。彼らは茶道で一期一会を体感しながら日夜武道の稽古に励んでいた事だろう。そんな、「一期一会」の語源を知った時に少しばかりの感慨があったのを記憶している。現代においても、「人と人との出会いは一度限りの大切なもの」という意味で使われたり、「生涯に一回しかないと考えて専念する」という意味で使われたりするようだ。

茶の湯といえば千利休だが、その弟子山上宗二(やまのうえそうじ)の本に、「これから幾たびも茶会を開く機会があっても、この茶会と全く同じ茶会を二度と開くことはできない。だから、茶会は常に人生で一度きりのものと心得て、相手に対して精一杯の誠意を尽くさなければならない」とある。母の逝去は4日の記事に書いたが、9日には叔父貴が同窓会で来広することになっていた。

同窓会は夕方には終り、本来なら有志数人で二次会へとなだれ込む手筈だろうが、83歳の高齢ともなればそうもいかない。終了後そのままホテルに戻って部屋で休んでいた叔父貴に会いに行く。前回会ったのは京都の叔母の葬儀だったと記憶するが、その年月も曖昧で、15年くらい前だったかも知れない。前日、叔父貴の次女より連絡があり、一人では不安なのでエスコートをするとの申し出だった。

叔父貴は大阪市在、次女は東京在だが、何とも父親思いの彼女である。元気な頃の叔父貴しか知らぬ故か、エスコートは意外だった。久々の再会を楽しみに宿泊先のホテルに行き、現れた叔父貴を見たときにさすがに80歳の年齢を感じさせられ、次女の要エスコートには納得できた。叔父貴と自分の年齢差は変わりようがないなら、叔父貴と同じ年齢を自分は加算されていることになる。

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人はみな自分のことは棚にあげ、なぜか他人の加齢に驚くようである。当たり前とはいえ、誰もが“老い”を生きなければならぬ宿命にある。だとすれば、叡智から老耄への幅広いスペクトルのなかで、豊かなる生をどう生きるかが現代人の課題となっている。人が老いや加齢に抱くイメージはネガティブなものが多いが、老人自身が老齢に対して抱くイメージもネガティブであるのが問題か。

名匠ルキノ・ヴィスコンティの『』は、トーマス・マンの原作を映画化したもので、老人が若者のなかに自らを見出そうとするという観点に加え、同性愛という視点を含んではいるが、老いを描いた秀作である。この作品がマーラーの交響曲第五番第四楽章「アダージェット」を一躍有名にした。ヴィスコンティは生涯独身を貫き、バイセクシュアルであるをオープンにしている。

叔父貴は姉(自分の母)を慕っていたようだ。母も7歳下の叔父貴を可愛がっていたことも話の中で耳にする。叔父貴は母を見舞うつもりでいたが、5日前に他界したのを知らせていなかった。折角の同窓会が湿っぽくなってもいけないとの自分の判断である。二次会がないこともあって、その日に叔父貴は母を見舞いを兼ねて介護施設に行きたかっていたが、翌日にということで何とか制止した。

翌日、宿泊先ホテルに叔父貴を迎えに行き、二人を自宅に案内すると、「どうしてここに?自宅にいるのか?」と怪訝な面持ちで聴かれた。「とりあえず中に入って下さい」と押し込み、仏壇の部屋に叔父貴を通す時の言葉にいい現わせない心情。母の遺影を前にし、叔父貴の心は想像するしかない。「申し訳ない」、「すみません」、「許してください」と、叔父貴への謝罪が言葉にならない。


叔父貴は姉の小さな骨壺を抱きしめ、別れを告げていた。人は死を前にすると脆弱になる。死を前にした時の人間の不完全さや弱さを隠すことなどできない。人が死を受け入れるのは他人の死であり、自分の死を現象として見ることも受け入れることも不可能である。人間にとっての死とはすべて他人の死である。他人の死を前に遠い先に訪れるであろう自身のくるべき死を見つめることになる。

老人の多くは己の老いを知らない。このことは理解に及ぶ。こんな言葉もある。「老人たることを知るものは稀である」。自分のこと以外なら何でも知ってるかのような賢者や知識人でさえも、当の自身の老いを知らないでいる。人が老いて死ぬのはある意味幸福で、若くして死ぬ人の悔いは計りしれない。その後、叔父貴と想い出の場を回った後、見送る駅の構内で互いが身体を寄せ合う。

自分は叔父貴の耳元でこういった。「これが今生の別れになるかも知れません」。意外だったのだろう叔父貴は少し間をおきこう風に返した。「そんな言葉はいうもんじゃない」。「今生の別れ」、こんな言葉に釈然としないのは当然だが、心の中の一期一会を自分は言葉にした。この出会いが最後になろうとも悔いが残らぬようにと、全身全霊を込め、力を込めて叔父貴と過ごした自負。

この世のすべては、「一寸先は闇」。元気な人の急死は珍しくない。だからこそ人と会うときには一期一会の気持ちこそが大切だろう。二度と会えない、そんな気持ちが尊いがゆえに再びの出会いが喜びとなる。叔父貴の誤解は分かったが、自身の心底にあるべきものをあえて説明しないでいた。自分はしばしば誤解されるが、誤解を怖れることなく自らの気持ちに正直に生きるを善とする。

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人は人に理解されることが大事でそれがすべて。という考えは大切で理解できる。いかに自分に忠実であっても、他人に理解されなければ身も蓋もない。しかし、他人との付き合いよりも自分自身との付き合いがはるかに大切。人間の中には様々な自分が存在するが、いくつもの自分はみんな同じ性質とは限らない。だからその中のどの自分を選んで付き合うかは大事である。

悪の自分と付き合うか善の自分と付き合うかはまちまちの選択だろう。が、大事な人と付き合う時は自分の中の最善なる自分と付き合う。「こんな歳になりましたが、叔父貴の前では子どもの時のままの自分」と伝えたように、自分の中のその部分を引き出す。子どもは素直だから大人に誤解されるを怖れないが、叔父貴の前でそうありたい心情は幼少期の甘えの名残だろう。

人間関係さまざま ⑥

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親と子、兄弟姉妹、叔父と甥、いとこ同士、友人・知人、上司と部下、同僚同士…、すべて人間関係であり、それぞれにそれなりの人間関係がある。今回、見知らぬいとこと屈託のない人間関係を持てた。存在を知るだけで一度も会話をしたことのない親族でも、話すことで分かり合える。いとことは叔父貴の娘である。どこかで何かのついでに顔だけは見たが10代のころの彼女だった。

血縁というのは意識しないと感じないが、意識して感じたとしても意識だけのもので、血縁以外の人と表面的に変わらない。いとこであれば、親からの何がしかの影響を受け、その想い出なり感謝なりがいとこ関係に連鎖するのを今回感じた。敬愛する叔父貴であればこそ、その気持ちはいとこに向かう。叔父貴から受けた恩の数々をいとこに奉仕の気持ちにおそわれる。

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「時代は変わる」と歌ったボブ・ディラン、「時代はめぐる」と歌った中島みゆき。どちらの詞にも書かれてないが、なぜに時代は変わり時代はめぐるのか?時代を作り、時代を支え、時代を信じた人間が死ぬからでは?人間の組織も古い細胞が死滅し、新しい細胞に生まれ変わるのを新陳代謝というが、時代も新陳代謝の流れの中で死滅し、新たなものが生まれてゆく。

人は生まれる国や場所や親さえ選べないが、どこに生まれてこようとその生は幸せと理解すべきだろう。寿命を全うでき、そのうえに富貴であるを福というなら、福とは禍があることでもたらされるとの考えも可能。様々な禍があるが、死こそ究極のそれである。だから、人の生は幸せであるのがいい。早死にするお金持ちより、貧乏でも長生きを人は選ぶはずだ。

人の生育環境についての結論は、田舎人と都会人は違うことにもある。それらが人間関係や交際の差となってあらわれる。さらには日本と外国の文化の差も日本人と外国人の習慣の違いとなる。同じ人間であっても中身はまるで違った人間だからややこしい。1500年代に渡来したポルトガルのカトリック司祭で、宣教師のルイス・フロイスは、織田信長や豊臣秀吉らと会見した人物。

彼は戦国時代研究の貴重な資料となる『フロイス日本史』を著した。鎖国時代に歴代オランダ商館長による『オランダ商館長日記』、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』は1946年に出版された。ソ連邦の機関紙『プラウダ』の記者だったフセワロード・オフチンニコフは、1962年から68年までの7年間、日本各地を所在し『一枝の桜 日本人とは何か』を著した。


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日本人による日本人論として浮かぶのは、加藤周一『日本人とは何か』、会田雄次『日本人の生き方』、山本七平『日本人の人生観』などがある。日本人の日本的な自己とは、西洋的アイデンティティという自己決定的な自己でも、ベネディクトのいう共同社会の外圧に従って決定される自己でもない。環境の変化に応じて自己を限定し、そのつど自己を作るという自己の在り方である。

山本七平は学者でないが、「日本とは何か」、「日本人とは何か」に生涯格闘した。彼はその傑作書『空気の研究』のなかで、「天皇制は空気の支配」と明言するも、天皇制否定論者ではなかった。「天皇制は消えてなくなるべきもの」と批判した元朝日新聞記者の本多勝一に対しても、「あなたのような考えが日本的ナチズムというべき超国家主義を生み出す」と指弾したこともある。

動物のなかで唯一言葉を持つ人間にとって「秩序」とは、「言葉による秩序」であろう。もし人間から言葉を奪ったなら、動物的攻撃性に基づく暴力秩序となるだろう。喜怒哀楽を言葉で表現するから人間は救われており、それでも暴力に打って出るがもし人間に言葉がなかったなら、あらゆる動物に先んじて人間は滅亡するのではないか。「はじめに言葉があった」ろは聖書の冒頭文。

「言葉は神とともにあった。言葉は神であった」と続くが、人間は時々の都合で神を利用したり神を不要としたりで、日本国天皇もかつては「現人神」であった。権威というものは利用される存在である。利用して最大のものが権威であろう。だから自分は権威、権威主義には反吐がでる。自らの正義、自らの善を疑うことを知らない偽善的なパリサイ人など世界中に散らばっている。

イメージ 3物心ついたころには少数派を自認、行動した自分だが、少数派ゆえの苦悩は少ながらずあった。「多勢に無勢」、「力は数」、民主主義はヒトラーを生み出すパワーを持つ。数は力、集団の力に抗うためには強さを持てばいい。それが「孤立」である。孤立に力はないが強さがある。それを示したのが聖徳太子。日本がアジアのリーダーとなれなかったのは、中韓に臣従した忌まわしい過去がある。
かつて日本人は「孤立」を怖れたが、これを「愚」といわずなんといおう。こんにち、中韓にバカにされまくった様は、愚かな先人政治家がもたらせたものだといっていい。早い時期に聖徳太子のような人物がいればと嘆きたい。日本人は孤立を宿命的なものと合点することで、孤立を怖れなくなる、これが太子の手法だった。「孤立は強い自立である」と、太子の事跡は日本国民の能力として可能と教えている。

「他人より自分との付き合いを大切にする」のが孤立を怖れぬことと理解した。人と上手く付き合うためには刺々しいものがないのがいい。刺々しさを自身にもっては他人と上手く付き合える筈がなかろう、だから身ぎれいにしておきたい。身ぎれいとは嘘の排除も含んでいる。率直に素直に正直に、それだけで十分身ぎれいである。これは自分だけの経験だろうか?

心のなかに平和をもつことが重要なのを分からぬ者多し。世の中には男女関係やらの交際本が多く出回っている。読んだこともないが、付き合いについてごく当たり前の分かり切ったことが書かれているのか?「交際術」などと、テクニックばかりを奨励しているようだが、術よりなにより、「自然」にもとるものはなかろう。相手を知るのは大事だが先ずは己を知ることだ。

人間関係さまざま ⑦

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自分のためなら他人の膿(うみ)まで吸うのが人間という。なにごとも人のためと思ってやると腹の立つこともでてくる。相手を責める気持ちや、恨む気持ちにおそわれることで人間関係もギクシャクする。他人に親切を施す場合も親切と思わないのがいい。相手への思い入れから、それをしたくて仕方がないという気持ちになるのがいい。それらのことを獲得するよう努めた。

八分、九分くらいはできるようになったが、そうした「真心」を行う場合には誤解も生まれるし、真正でなきことはしたくなくなる。無理をして行おうとすると自己欺瞞に陥ることにもなる。人間の行為すべてが真心で行うことばかりでないし、真心でないことをどう行為するかとなるが、義務感しかり、社交辞令しかり、それらも実は人間関係で大事なことになる。

気が進まないがやらねばならぬことはいくらでもある。それをしないとワガママ、自分勝手と名指しされる。「そうではない、信念だ!」といったところで他人はそうは受け取らない。そのような場合における自分なり対処というのは、取り立てどうということのない浅い人間関係なら社交辞令で行えばよい。仕事がビジネスとして割り切れるのはそういうことでもある。

報酬という代償を得る対価として、したくないこともやる。とあるビジネスセミナーで以下の指摘があった。「仕事(職場)が楽しいところなら、コンサートや演劇観覧のように入場料を出していくべき。そうではないから、その代償として我慢料(お給料)を貰っている以上、ブツブツ文句を言いながらの仕事はすべきでない」。なるほど、これも自己啓発法の一つである。

人間関係も割り切れば、社交辞令や義務であれ苦にならない。人間関係の深浅を考慮すれば真心ばかりで接することもなかろう。したくないことを遠慮なくしないでいれる相手を、「深の関係」、したくないことを表向きでやれる相手を、「浅の関係」と区別する。深には素直、正直、真心で接することができ、浅にはその場のでき心で対処する。誰もがやっていることだろう。

今回母親の葬儀に出なかったのは、母は「深」であったからである。絶縁して家を飛び出し数十年になるが、氷塊することなくその状況を貫いた。それはそれで母と自分の想い出となる。理念も信念もないままにくっついたり離れたり、「昨日の敵は今日の友」的な節操のなさを日本人気質とされるのは、狭い世界の中では狭い心をもって生きて行かねばならぬ状況による。

他人の葬儀なら義務や社交辞令で出席できるが、自らの心に忠実に従えるのは「深の人間関係」である。「死ねば確執はごあさんすればよい」という者は多い。「ごあさん」は「御破算」と書く。今までの行きがかりを一切捨てて、元の何もない状態に戻すの意味。それがいいならすればよいが、「善い」と「正しい」は別であって、自らの正直を貫くのもあり。

母の葬儀に出ないことで母との「真正」を保った。誰にも説明する必要もなく、しても理解はされない。本当のものを大切にするのはそれなりに尊い。「頑固」とは言葉を変えると「信念」であり、信念であるかどうかはそれを貫くことで実証できる。後から発生するもので事前にいう言葉ではなう。「自分には信念がある」ではなく、「信念があった」が正しい。

「雪解け」や「氷塊」を大事とする考えに反駁すれば誤解を招くが、誤解とは他人の誤った判断であることを理解すればいい。誤解といえばジャンヌ・ダルクであろう。彼女は世界で最も有名な聖女とされるが生前は魔女とされた。「ジャンヌのような魔女なら喜んで火にかけてやる」といわしめた兵士たちの多くが、真の聖女を殺してしまったことを深く悔やんだ。

悲劇的な結末であったが、わずか二年間の行動でフランスを救った彼女の名は人類史に刻まれ、ローマ・カトリック教会で崇敬されているもっとも有名な聖人の一人となった。他人の口に戸板を建てるのは難しい。他人の心の鍵を開けるのも難しい。人間関係のほとんどは誤解であろう。誤解を解く努力はすべきであるが、真正に生きる気持ちさえあれば誤解を怖れる事はない。

どれだけ多くの恋人たちが誤解で別離となったか。理解力も洞察力も人の能力。ない人にはないのだからないものねだりをしても仕方がない。理解を強制することをせず、相手が主体的に誤解を晴らすことを待ち侘びるのを善とするのが自分の美学である。過去に誤解を晴らさんと努めたことは幾度もあったが、「それって言い訳でしょう?」と、とりつくしまがなかった。

誠実に誤解を晴らそうと思った矢先のそんな言葉。人間は自分の能力以上を考えることはできない。何をいってもダメな人間はいて母はその最たる人だった。そのことで子ども心に「心」を閉じた自分。人間関係に何より重要なのは、「聞く耳」である。「嬰児は知にあらざるなり、父母を持ちて学ぶものなり」と、この韓非子の言葉は経験的からして至言である。

子どもを騙すことは子どもに嘘を教えること。子どもに嘘をつき続けると子どもの心は離反する。信頼できる相手から騙された心の傷は深く、一度失った信頼が回復することはない。「人の悪口いうべからず」は儒教の教えだが、人の悪事を告げるのはその悪事を憎む点において大事である。「罪を憎んで人を憎まず」は賢者の知恵だが、「味噌も糞も一緒」の愚者。

人に直言するときも焦るべからず。人の能力は千差万別だからで、相手の能力をしかと確かめていうべきである。さもなくば「馬の耳に念仏」となりかねない。いったから通じた、伝わったではない。この辺が人間関係の難しいところ、面白いところでもある。人は人のいうことをなかなか聞いてはくれないもの。そこではむしろ伝える側の能力が試されることになろう。

人間関係さまざま ⑧

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この歳まで生きれば人間関係について分かることもある。人は他人しか見えないが、実は問題の多くは周囲や他人でなく自分にある。自分にとってのマイナス点や、いい難い事を素直にいえるかどうか。いい難いことの多くは恥に関わることで、大して恥でないことを恥と思いこむ場合が多い。自慢するのも止めた方がいい。自慢は恥を隠すことになるから、自慢を止めれば恥も薄らぐ。

批判についても、他人の評価を求めるから批判に敏感となる。他人の評価を望まなければ批判も苦にならない。他人を気にせず自己評価や、自己批判も含めた判断基準を持てばよい。「人は人、自分は自分」を志向すれば、他人の言葉に一喜一憂しなくなる。確かに他人から評価は嬉しいものだが、自信をつけることで批判に動じない自分を作る。これらは自分が実践したことだ。

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御都合主義の生き方を改めるには、人為を排し自然感覚を育むのがいい。人間は弱いがゆえに都合のいいことを正しいと思い込むが、自分にとって都合の悪いことに向き合うことで、客観性が身につくのも経験則だ。さすれば他人の自分への批判の前に自身の短所を把握しており腹も立たない。先手で対処しておけば、想定済のことに驚くこともない。先回りして理解しておくのは大事である。

褒められて喜ばないと、「素直じゃないね」という人間がいるが、貶されたら怒れといってることでは?人の軌道の上を走ることもなかろう。褒めれば喜ぶだろうは若い女性へのオヤジの見え見えの下心で、利口な女性は「どうも」といってあしらうだけだ。あしらわれていることにすら気づかぬ下種なオヤジは、相手を喜ばせたといい気になるが、見え透いた世辞は陰口よりたちが悪い。

おだてられて木に登るのはブタもいるにはいるが、こうした光景にはしばしば出くわす。褒めて反応しない女性に、「人が褒めてるんだから喜べよ」とまでいうオヤジも何度か見た。女性のたしなみを教えてやった」といっていたが、バカかこいつと自分は感じた。素直に喜べば「お世辞に喜ぶバカ女」となる。こういう始末におけないような底の浅い人間への対処法として社交辞令がある。

「人のふりみて我がふりなおせ」というが、「人のバカみて我がバカなおせ」と聞こえる。バカを反面教師にするなら、沢山見ておくのがいい。他人の良いところを真似るより、反面教師には即効性がある。シビアに見れば見るほど人間関係というのは、自己向上も含めて学習になる。算数や物理を学習するよりはるかに現実的で深遠で、しかるに滑稽であり、人間関係は眺めていても面白い。

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人間関係とは人間同士の関係をいうが、人間と神との関係を信仰という。自分の理解する「信仰」とはそういうもので、それ以外の実践的な信仰について経験がないし分からない。経験がないということは信仰が何であるかを知らないことになる。憲法で保障された、「信教の自由」であるが、信仰そのものに自由はなかろう。「自由とは信じるものはなにもない」ことだというのは間違い。

人は何かを信じないで生きてはいけないから、厳密にいえば人間に自由はない。自分は五賢人の多くの言葉を信じ、範としつつ頼って生きてきたが、聖人を信じるのも賢人を信じるのも範とする以上は同じというが、自分にすれば大違い。なぜなら、五賢人は何事も命じないし、「自分に従えよ!」などといわない。ところが一神教の多くは、「我に従え」と命じる。なぜにそんなことをいう?

考えるまでもない理由は簡単明白だ。「我は絶対者であり、絶対に正しいからである」。これが宗教の最も危険なところだと思っている。あの麻原彰晃でさえ、「我に従えよ」であった。宗教は自由であるべきか、あるべきでないか、そこらは分からない。カトリックにあまりに自由さがないから他の宗派が生まれたように、宗教が唯一絶対として他を排斥するものでなければならない。

これは宗教に限らずとも、政党であれ思想であれ、自分の信じたところに執するのは、信じる者の定めとして仕方のないことだろう。そうすることで人間は自身の精神を束縛し、どんどん不自由になっていく。不自由と思うか不自由と思わぬか、それを信仰への帰依というが、信仰の是非は信仰者にしか分からぬもの。宗教もしかりだが、信仰とは程遠いりのノンポリ宗教信者もいる。

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ゆえに信仰者と一口にいってみてもピンキリを感じるが、信仰者にとって絶対にないものは、「自分の立場」であり、「自分独自の信仰」であろう。自分を棄てる点に於いて独自の私有観念があってはダメだろうし、信仰者というのは本当に私有観念を捨てられるのか?という素朴な疑問を抱く。私有財産を捨てられないように、私有観念も捨てられないと思うが、信仰経験がないから想像である。

もっとも私有財産の一切を捨てて(教団に寄付して)信仰に入る人がいる。信じがたいが、「信仰とはそういうもの」だと言い含められたと感じる。言い含められたとはいっても行った以上、信仰とはそういうものだと本人は納得した。「言い含められた」は被害者もどきに聞こえるが、本人が納得しようと親・親族にすれば異常となり、多額な財産の教団への寄付は社会問題になった。

人間関係さまざま ⑨

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書けど書けども書き尽くせない人間関係だが、「依存心」というのは重要なキーワード。人間は孤独ゆえに依存を求めるが、依存が自立を阻む。水と空気への依存はさておき、人間の生は楽しみ宝庫だからか様々な欲が助長される。動物は生殖のための交尾でしかないし、生きるためだけに必要な量を食べるが人間は食べ過ぎるし、やり過ぎるし、節制は難しい。

食欲・性欲は人間ゆえの欲望か。ペットの肥満を自慢する飼い主がいる。笑いの種にはいいが、動物の本能習性に人間が手を加えて喜んでいるのはいかがなものか。飼い主が愚かであれば動物にも伝染するだろう。幼くして今川氏の人質として預けられた竹千代(後の家康)は、寒いといえば着せられ、腹がすけば御馳走たらふくの腑抜け教育に甘んじなかったという。

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なんと利発な子どもであったろうか。飼い主がご馳走たんまり餌を与えようと、「その手は桑名の焼き蛤」と遮断した竹千代の理知に驚く。いろいろな視点から動物を眺めていると、なんとも人間は動物より愚かであると感じることがある。動物は人間より偉ぶったりはしないが、心の中で「ホント、バカな飼い主だにゃ」と思うペットがいたら面白かろうに。

「私が人生を知ったのは、人と接したからではなく本と接したからである」という言葉がある。有名かどうかは別にして。司馬遼太郎も、「学校には一切価値がなかった。図書館と古本屋だけで十分だった」と言い残す。教わることも大事だが思索が大事と司馬はいうが、人と肌触れ合わぬ世界に生きたいとは思わない。上の言葉はどちらも後の作家の言葉である。

実体験なくともイマジネーション豊かなら作家になれようが、原体験は人に多くをもたらす。『書を捨てよ、町へ出よう』を著したのは寺山修司、「それを実践すればこの本は読むことが出来ないだろう?」という友人に、「そんなことはない。町へ持ってでればいい」といい返す。書かれた時代は古い(1967年)が、平均からの脱出、既成概念打破への思いは伝わる。

“ああいえば交友録”の懐かしい思い出。本のない世界も実体験のない世界も考えられない。どちらも閉ざされた世界である。時に人は極端なことをいいもするが、極端をそのまま受け入れる必要はない。情報社会である以上、SNSの普及で小さなことにも、ああでもないこうでもないといちいち口出す外野が多く目障りである。が、気づけば自分もその一員だった。

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自立の必要性からいえば依存心が問題となるが、それに気づいたとしても実践できるのか。動物の生態を眺めていると、親が子の自立を非情(人間から見て)なまでに促すさまに感動すら覚え、子育てに活用した。今の時代に教育といえば、勉強以外は見向きもされぬ傾向にある。「教育の目的は子どもを自立させるため」といわれた時代はつい数十年前であった。

志と心掛けさえあれば人間は永久に成長するが、年齢の応じて、それぞれの時期に応じて、自分の成長度合いを知るのは困難だろう。人間が一個の人間として形成されるためには、自分自身の力では及ばない。必ずや外部の誰かの力を必要とし、それが先生であったり、先輩であったり、友人とか仲間という身近な人間関係だったり、さえあには書物だったりする。

人はその生涯において影響を受けた人物や、書物に触れて目が開かれる場合がある。論語にいう、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」というのは、なんと飛躍した言葉と思っていた。これを「死すとも可なり」にのみ重点を置くとそんな風に感じるが、「道を聞けば」に重点があると考えれば、「可なり」は喜びの端的な表現となる。これは孔子の幸福論だろう。

人間関係には一方的な関係もあるが、友人・知人とのもたれ合った関係に深みを感じるのは互いが対等だからだろうか。互いが啓発し合い、支え合い、慰め合うのが良い関係とされるが、ふと疑問に思うのは、人は人を本当に慰めることができるのか?自分は人から慰められた経験がないこともあって、人に慰められるのは、慰めを望み期待するからなのか。

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そういう気持ちになったことがないし、それもあってか、他人の不幸や失意の人に慰めの言葉をかけるのを好まない。ニーチェの言葉に影響されていたのかも知れない。彼は世俗的な善悪の世界を超えた彼方にある世界を求めたが、真に心やさしい人間が時に冷酷と誤解される。ニーチェが本当は心やさしい人間だと知った時、はじめて彼の苦悩の一端が理解できた。

「友人の堅い寝床となれ」には驚くしかなかった。初めて目にし、「そういうものか?」であった。が、成長するにつれ理解を得る。口に出していう慰め言葉の多くには、どこか空虚さが感じられる。たとえば人の死を弔うような場合、どうしたらいいものだろうか。「ご愁傷さまです」、「お悔み申し上げます」などの便利な言葉があるからそれで済ませるが、なければ大変か…

人間関係さまざま 🈡

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なぜ人間は多くの時間を費やして友情論や恋愛論を語るのか。親子・兄弟や師弟の道徳や先輩後輩の礼について論じながらも別れる際には多くを語らないのはなぜか。人間の幸福を考えるなら、別離について真剣に考える必要がある。自分が目指す人間関係は大きく分けて以下の二通り。①相手を楽しくさせ、よろこばせる。②相手の話し方や考え方、方向性をこちらのペースに乗せる。

後の部分は誤解を招く言い方だが、決して無理やりとか強引とかでなく、上手く持っていくという技術であって、それからすると自分はリーダーシップを取りたいタイプかも知れない。別の言い方で、巧妙な付き合い術かも知れぬが、あの手この手の要領や様々な引き出しが必要となる。実はこれはゲーテの言葉からヒントを得たもので、やはり凡人は偉人・賢人から学ぶべきである。

「我々が人間をあるがままに受け取るならば、それはよい取り扱い方ではない。我々が彼らをそうあるべきであったように取り扱うなら、我々は彼らをその行くべき方向へ導く」と、ゲーテはいうが、何かができないことで引け目を感じる相手に対し、「お前はそんなこともできないダメな奴」などは口が裂けてもいわないことだ。できないことをできるかのように取り扱ってやる。

それなら「俺が教えてやろう」の高圧的態度とならない。そんな態度を喜ぶ相手はいない。不良と付き合う時も不良と思わず普通に付き合うようにする。不良たちは警戒心が強く、自分たちを批判し、見下していると思っているからである。思いの他に用心深くこちらの態度を伺っており、少しでも見下げた態度や物言いをすれば、彼らの心は離れていくだろう。

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予断や偏見を持たず、自然な気持ちで人と付き合うために自尊心は無用で、自由な心を持った人間だからできること。キリストは民衆にそういう気持ちで接していたし、親鸞もそうであったと記されている。人と上手く付き合うにはどうあるべきか、相手をこちらに惹きつけることが何より大事。指導といえば語弊もあるが、なだらかにしなやかにこちら側に引き込む。

リーダーシップを取りたい自分は難しいと思わない。人間的な魅力も必要で、蹴ったり殴ったりの指導者がいかに無能であるか、強い言葉で強引に従わせるのもバカげている。良い教師は子どもたちの輪に入り、彼らと同じ視線で立ち回ることで、子どもたちは無意識に教師から影響を受けることになる。相手が無意識のうちに影響を与える指導者こそ、天職とはいえないか?

上記したように、良い指導者は上からでなく内側から啓発する。そのために「敬愛心」が重要で、同僚や目下の人間に対しても丁寧語で接するべきと考えている。上が下に丁寧語で接すればこその敬愛心といえるが、それが人の魅力となれば幸いだ。畏れ多い吉川英治の偉業であるが、「われ以外皆師なり」という彼の言葉にはどんな相手からも自分を成長させる何かを汲み取ったのだろう。

口先だけの人間は誰からも信用されない。「やる」といってやらない、「行く」といって行かない人間は珍しくはないし、そういう人間は決まってしかり。男の一言を自他に全うするには行動するしかなく、それを責任感というのか?「あなたは綺麗ごとが好きですね」という言葉は腐るほどいわれてきた。行動を見ないで口先だけと捉えるのだろうし、そんな言葉は屁とも思わなかった。

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的を外れた他人の言い草は冷静に判断できる。実行できないことを口に出しても何の意味もないのは当たり前のこと。口だけの人生、綺麗ごとの人生のどこが面白いのかである。人間は行動し体験することが生き甲斐となるが、臆病風に吹かれて行動しない人間は、一体何を怖がるか自分にはわからない。最近、「金持ち喧嘩せず」の意味が少し分かりかけてきたように感じる。

吠えまくるのは大概貧乏人で、貧乏とは心の貧しさをいう。だからか、他人のことが気になってしょうがないのだろうし、「金持ち喧嘩せず」はつまらんことにクビを突っ込まないこと。目指すはそういう土台の大きい人間か。人間についてあれこれ考えるのが面白のは人間がみな違うからで、犬も猫もカバもライオンも見た目は同じように見えるが、なぜに人間だけが見た目も中身も違うのか。

経験に照らしていうなら、人間における人間関係の基本は、家族を中心とする人間関係に思えてならない。6月28日のyahooニュースのサイトに「序列のある社会は本来、女性にはプラス」という記事が配信された。発言者は東大初の女性教授で社会人類学者の中根千枝氏(92)である。彼女はそんな年齢かと驚きもし、名著『家族を中心とした人間関係』は1977年執筆である。

「本書は家族についての諸問題を提示する」と中根は書いているが、第一章「家族構成の諸問題」、第二章「配偶者の選択」、第三章「家族内の人間関係」、第四章「家族(ウチ)とソトの関係」に分かれており、第四章は新たな視点を与えられた。彼女には『タテ社会の人間関係』という代表作もあるが、「ウチとソトの壁は厚い」、「学校も社会もウチ」という考えは納得する。

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また、家族の始まりとされる結婚やエクソガミー(族外婚)についての記述もある。配偶者の選択にあたってはどの社会においても「近親を避ける」傾向があるが、その範囲は社会によって異なる。同じ両親から生まれた兄弟・姉妹を除いた近親結婚は、特段珍しくなかった。特に父親が同じ兄弟・姉妹でも、母親が違えば結婚は行われていたが、父親が違って母親が同じ場合はタブーとされた。

古代、近親婚は奨励され、母と息子の婚姻例もある。ヨーロッパ諸国では王族の結婚による領地拡大政策を行った結果として近親婚が増えた。イスラム圏では血縁の濃さを喜ぶ傾向もあり、いとこ婚は多かった。現在の日本では『両性の合意のみに基いて成立』と憲法で規定され、近親者間の性交自体を禁止する法律もなければ近親者間の事実婚認定も阻害されない。

しかし、日本国憲法第24条に基づき制定される法令により、近親者間の婚姻に係る婚姻届は受理されず、誤って受理されても後に取り消しされる。万が一近親者である事実を知らぬままに婚姻関係が成立し、その後で認知等で近親者である事実が判明した場合、婚姻の無効原因となるが、無効主張は各当事者・親族・検察官となる。日本において婚姻届が受理されない近親婚は以下の通り。

 ・本人
 ・直系血族
 ・三親等内の傍系血族(兄と妹、姉と弟、おじと姪、おばと甥)、(養子と養方の傍系血族を除く)
 ・直系姻族(婚姻関係終了後も継続)
 ・養親とその直系尊属及び養子とその直系卑属(離縁後も適用)

近親交配から生まれた子は劣性遺伝子が発現する割合が増える点で好ましくないとされている。遺伝子には優性遺伝子もあり、優性遺伝子は片方でも優性なら特性が発現する一方、劣性遺伝子は両方が劣性遺伝子でないと特性は発現しない。リスク回避から近親婚を禁じているが、四親等(いとこ関係など)を結婚可能なボーダーラインとし、日本もそれをとり入れている。

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独身を貫く覚悟 ①

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先般、上野千鶴子が東京大学入学式で述べた祝辞が波紋を広げた。「2割の壁」を超えない東大の女子学生比率の低さに触れ、「どうせ女の子だから…」と女性の足を引っ張る社会の問題を指摘した。「どうせ女だから」という考えの女性がいないでもないが、10年前の東大大学院の入学式で女性を取り巻く社会環境について祝辞を述べた女性研究者が中根千枝である。

中根の問題意識は上野と同じで、「本業としての研究者や確立された組織の管理職についている日本の女性の割合は先進国などと比べて一番低い」と述べている。フェミニストの上野に比べ、「日本で女性が役職につけない一つの理由は、学がないからです。世間のことと学問のこと。その両方で訓練された女性が日本では全体的に出てこないのね」と中根は手厳しい。

進学における男女差について、「息子は大学まで、娘は短大まで。どうせ女の子だから…」と考える親の意識の結果と上野はいうが、そういう側面もないとはいわぬも、勉強嫌いな娘に親が積極的な時代でもある。向学心の強い女性はキャリアを志向し、短大志向の女性はとりあえず大学行っておこうレベルの頭脳だろうし、向学心の翼を折られたわけでもなかろう。

1926(大正15)年生まれの中根は、弁護士だった父親の仕事の関係で幼少期を中国の北京で過ごした。津田塾専門学校(現・津田塾大学)卒業後、終戦後の1947年に女性に門戸を開いた東京大学に入学。東洋史学を専攻した。父親は、「東大に行くなら法学部」を奨めたが、東洋史がやりたいという中根を尊重してくれたという。中根はそのことに感謝したと述べている。

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中根の代表作は、『タテ社会の人間関係』(1967年)であろう。同著は120万部のロングセラーとなり世界各国でも翻訳された。その中根が東大初の女性教授になった時、「タテ社会のトップに立つ」と新聞は報じている。女性がトップに立つこととタテのシステムはどう関係するのか?これについて中根は、「男女のことでうるさく言う人も、先輩後輩は大事にするでしょう?

後輩が先輩になることはないし、どんなに意地悪をしても先輩後輩の関係は絶対に変わりません。これがタテのシステム。だから、タテのシステム、序列のある社会は本来、女性にはプラスなんです。タテのシステムとは別の話ね。日本は先輩後輩の社会なので、女性だからといって入れないことはないの」。なるほど、中根は自身の経験から独自の見解を述べる。

つまるところ、どんな人にも先輩後輩はある。が、力のあるタテのシステムに入れるかどうかでその後が変わってくる。「東大のシステムに入れなかったというのは、勉強ができなかったからでしょう。私自身は東大の「さつき会」(1961年発会の女子卒業生の同窓会団体)に誘われたこともあったけど、一度も行かなかった。同じ女性だけ集まったってしょうがない」。

中根は自らが、「女」に逃げていない。だから女性に手厳しい。女性に甘く女性の肩を持つフェミニストの了見はどうであれ、フェミニストの本質は女性を甘やかせるではなく、女性に厳しさを求めるもの。以下中根は女性に辛辣に述べている。「私がアメリカやイギリスで大学院を担当した経験からみますと、日本の女性は研究に対する心構えが弱いように感じました。

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私が接した外国の女性たちには、個人を取り巻く障害に対する強さがありました。日本の女子学生にも不利な条件に対して賢く対応する術を持ち、努力をしてほしいと思います」。生涯独身の中根は以下に理由を述べる。「もし結婚していたら、これだけ研究に没頭はできなかったかもしれない。だって、何カ月も一人でジャングルの奥に行っちゃったりするから。

やっぱり相手がいたらちょっと気を使うでしょう。いい人がいたらと思うこともありましたが、1952年に東大に助手になった時は教授会では反対の意見も多かったそうです。『女性は結婚したら、研究をやめちゃう。だから、研究職にしなくてもいいだろう』って。私はたまたまいい相手がいなかったことと、研究に没頭する時期が一致したのよね」と正直に述べている。

彼女の話からして、結婚に否定的でなかったのが分かる。近年は女性も様々な職業につき、独立して事業を始める人も多くなった。結婚して亭主や家庭に束縛されるより、ひとりで自由に楽しくのびのびと暮らす方がサッパリしていいという女性は多い。それでも女性の独身者に偏見が消えない理由は、「女性は子どもを産む機械」という観念が消えないからだろう。

何かを貫くために別の何かを犠牲にするしかないが、貫く何かがあまりに強いと、別の何かを、「犠牲」とは感じないのかも知れない。楽しみが多いと時間を犠牲にしたと思わないように…。独身女性は男と肩を並べて存分に働き、そこに生き甲斐を感じるが、さて家に帰ってひとりになれば、母にもならずに生涯を過ごすのかというような、一抹の淋しさにおそわれることもあろう。

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一日の時間のなかではいろいろな思いに駆られる。結婚を夢見る女性も、束縛のない自由を横臥する女性のどちらの側にも、“ないものねだり”はあろう。幸福には必ず何らかの辛さは必然で、それが人生というものだ。どっちもどっちが選択である以上、結婚した方がよいというのでもなく、独身も結婚と同様に当たり前のこととすべきで独身者への偏見は間違っている。

先日、52歳のとある女性が、「この年になって結婚もせずに…」といった時、何がしら微笑ましさを感じた。自分は既婚であるかを聞かなかったし、気にもしていなかったが、彼女はそれをいっておく必要性を感じたのだろう。そのことに気配りを感じた。結婚も目的なら独身も目的だろうし、どちらも選択であるなら、結婚しない人には少数派として貫く何かを感じさせられる。

独身を貫く覚悟 ②

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年頃を迎えた自分は独身を貫く意思もなく、理由もなく結婚は自然なことと考えていたが、独身でいたい理由があれば貫いたろう。「結婚は全く考えない」という女性と話し込んだことがある。当時自分は30代前半で二人の子どもに恵まれていた。結婚経験者としていうなら、結婚に踏み出す理由は愛情だけではない。男には社会的信用という側面があり、そのことは認識していた。

結婚後の生活は亭主関白というより、夫唱婦随が理想と考えていた。女性もいろいろだから相応しい相手を見つける必要があった。自分にとっての結婚の第一条件は婦随の妻と血を絶やさぬこと。そのこと以外に結婚の目的はなかった。仕事にしろ何にしろ、一切を委ねられ、任せられる方が力を出せるし、失敗の責任も取る性格だからか、家庭もそうあるべきと考えていた。

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生態には種族保存本能というが、自分の子孫を残すこと。結婚すれば幸せになるだろうの意識は特になかった。適齢期になれば自然と結婚はするものと考えていた。例えば仕事と比べてみても、仕事はそれなりの職務をやり遂げる目的はあるが、結婚生活にそうした目的はない。一緒になった以上夫婦仲良く暮らしていくのが目的といえば、結婚式の祝辞は大方そんな風である。

恋愛と結婚は違う。分かり切ったことだが、そう考えない者は少なくなかったが、自分的には結婚をシビアに考えていた。「結婚には愛があってもいいが、なくてもいい」という考えは周囲にはあまり受け入れられなかったが、この考えがシビアといわれたようだ。結婚に楽しさを求めず、その思いはむしろ恋愛に強かった。「愛のない恋愛」は変だが、「愛のない結婚」は肯定される。

お見合い結婚については愛のない結婚の形式であり、愛がなくても結婚は可能であること端的に示す。最初は愛があっても、いつしか愛のない結婚生活を送る夫婦は珍しくない。それでも結婚生活は続けられる。恋愛が恋愛であるのは二人の間に愛があるからで、結婚が結婚であるのは、愛の有無に関係なく制度を維持しているのは間違いないが、それでもやれるのが結婚か。

話が前後するが、「結婚する気はまるでない」という女性のこといったが、結婚そのものに目的はないという考えは自分と同じだった。親しい関係ゆえに、「SEXに便利だろ?」とか、「子どもを欲しいと思わない?」などをぶしつけに聞いたが、「SEXはどうでもよい」と答えたのが印象的。「子どもを欲しいといっても、その前に婚姻という事実が必要となる」などといっていた。

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いろいろ聞いて分かったのは、彼女は自分の母を見て結婚を望まなくなったようだった。男の傲慢主義と母親が自由と主体性を奪われていたことが強く影響したのだろう。「やさしい男もいるとは思うけど…」と彼女はいったが、自分の眼目に適った男が現れるなら、その時に考えると結論した。血眼になってあえて探そう、探したいというのはまるでないのが分かった。

不思議に思ったが、本人になり変わらねば分からぬことだと自分も結論した。多くのことはそういうもので、人は他人のことは根こそぎ理解はできない。分かったような言葉をだせども、妥協の部分が多い。だから、結婚が普通とかも思わず、女は子を産むのが仕事であるなどの機械的な考えは自分にない。結婚はすればしたで、しないならしないで、どちらにも後悔に属すものだろう。

言い換えるなら、すればしたで、しないならしないで満足ということにもなる。婚姻の楽しさ、一人者の楽しさ、これは当該者以外には分からないもの、それが結論である。結婚に倦怠もあるように、独身生活にも倦怠はあろうが、それらは該当者個々が解決する問題だ。ただし、相手のいる場合と一人身の場合と、倦怠の解決が自由に思うようにいくのは後者の方であろう。

夫婦生活に飽きたから、別の異性を求めるというのも倦怠処理かも知れぬが、迂闊にやると身の破滅になりかねない。独身者が恋愛と称して異性を渡り歩くのは特段支障はなかろう。「独り者の身軽さ」と表現するが、夫婦が自由が利かないのは束縛し合う関係である以上仕方がない。それでも近年の不倫天国は、箍が外れて歯止めが利かなくなっている。

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結婚してよかったと思う最大の理由は、母の面倒を見なくてよかったこと。結婚した当初は、そんな先の事など考えることはなかったが、それは考えないというだけで現実問題として覆い被さることでもある。気丈な母ゆえに妻は幾度か涙したことは子どもから聞いたが、そうした労苦も過ぎてしまえば良き想い出か。「良き」というのは、悪い思い出も良い思い出となるということ。

思い出はなぜにか美化されるもの、そこにはどういう心情が働くのか。考えたことがないので考えてみる。悪い記憶が良い方に改変するのもしばしばある。これらは人間の防衛本能と考える。嫌な出来事の記憶は人の心にダメージを与えるし、思い出す度にダメージを受ければ心は壊れてしまうだろう。だから、そのような嫌な出来事は忘れられるように脳が仕組んでくれている。

「いいことは覚えてるけど、嫌なことは覚えてない」という言い方をする者は多かった。そんな風に思わぬ自分は不思議に思っていた。自分はいい思い出も悪い思い出も同じ程度に覚えており、悪い思い出を忘れたい、忘れようなどはしたことがない。どちらかというと、悪い思い出はよい思い出以上に忘れないようにすべきと思うが、意識的にそれを計らなくとも忘れることはない。

「嫌なことは覚えてない」という人は、おそらく心のどこかに、「よい思い出でなければ嫌だ」という気持ちが強いのではないか?転んでもタダでは起きない根性持ちの自分は、経験をプラスにしようと、嫌な思い出も悪い記憶を大切にした。子ども時代の嫌なこと、苦しいことを思い出す度に、「よくぞ耐えたもの」とし、その時の心の動きまでハッキリ記憶に留めている。

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独身を貫く覚悟 ③

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結婚相手で失敗した人は多い。失敗でなかった人も多い。独身を選択して50歳になり、失敗かなと思う人もいるのだろう。なぜに50歳かといえば、未婚率(生涯未婚率)は、50歳の時点で一度も結婚したこと無い人の割合とされているからだ。人の前に二つの道があったとするなら、どちらか選んで進まねばならない。どちらを選んだところで後悔はあるだろう。

それでも自分の選択を善とするのが人間の生き方で、そうでなければやってられない。最善の判断というのは選択した時点においての最善であって、その後に変わることもあり得る。最善が最悪に、最悪が最善に変わることもある。「未来のことは誰にもわからない」には当たり前に思う事。だからか人は占いを信じたり、高いお金を支払って霊能者に未来を聞く。

バカげている。こんなバカげた商売が成り立つ道理がない。人が人の未来を分るだと?こんな疑問の余地もないことを信じるからあこぎな商売が成り立つ。人の未来とは映画や芝居の台本と違って、白紙の便箋に自らが書き込んでいくもの。恋愛の終焉は珍しくないが結婚を終える夫婦も珍しくなくなった。「なぜ離婚したのか?」、「それは結婚したからだよ」。

こんなジョークも通用するご時世のようで、「離婚が珍しくない」ということは、離婚を人生の汚点にすべきではないということでもある。「非婚も珍しくない」ということは、40代、50代の独身者を偏見で眺めるのは時代錯誤ということになる。離婚肯定論者の自分は、明らかに間違った結婚は一日でも早く解消すべきと考える。人間は間違いを犯すもので気づいた時に真価がある。

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間違いを犯したにも関わらず、頑張る理由があるのだろうか?間違いを努力で帳消しにすることは可能だが、間違って選んだ相手の性格は、いかなる努力をしても変えることはできない。意外と多いのは、結婚前に相手選びが明らかに間違ったケースである。それが判明したにも関わらず、「結婚すれば何とかなる」と踏み込む。果たして何とかなるものなのか。

夫の浮気癖、ギャンブル依存、酒乱、暴力、浪費癖、これらが結婚して直るものなのか?相手の性格に起因する問題点が、結婚して直るわけがない。これらを直すには相手が主体的に直そうとの意識と努力でしかない。人の性格が結婚と同時に変わることはないが、結婚を機に発起して自己変革をした男もいるが、責任感が強く紛れもない立派な男である。

離婚の難しさは多岐に及ぶ。共有財産や共有生活を2つに割る難しさ。ゆえに踏みだせないままに愚痴をいいつつ続行する夫婦。また高齢結婚は、一般的結婚生活を送る年齢が過ぎたことでの難しさ。それでも愛が芽生えば残りの余生を夫婦として過ごしたい、そのことに互いが合意し、出産や子育てとは別の結婚生活が始まる。これを「老いらくの恋」という。

「老いらくの恋」の語源は昭和23年、68歳だった歌人の川田順が弟子の鈴鹿俊子と恋に落ちて家出をした際、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことに始まる。どのあたりから、「老いらくの恋」というかの定義はないが、ある人が50歳にて、「老いらくの恋を続行中」といえばそうだろうし、「老い」がいつかというのは個々の主観である。

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若さとは年齢以上に精神の躍動である。もし、今恋をしたなら、「老いらくの恋」という気持ちにならない。「老い」の意識がまるでない自分は、「年齢はただの記号でしかない」の気持ちで過ごしている。「若返り」という言葉があるが、そんなことができるのか?運動して息が切れないようにするには、続けて鍛えるしかないし、自分の考える若返りとは地道な継続だ。

雨の降る日以外は2時間歩くのは日課で、その速さは兎の如くで、歩けなくなった時、無理を感じるようになった時、素直に老いを認めるしかない。性豪を自認する70代もいるが、それは関係ないと思っている。あれは能力以前に飽きの要素が強いから、わざわざ女性とそんなことをしたいと思わない。若い時は女体の珍しさに、わざわざそれをしたいものである。

先月こんなメールが舞い込む。「情けは他人のためならず」といいもするが、いろいろ人の悩みなどに対処したことでの役得(?)なのだろうか?それにしても今どきの女性は堂々と、「秘め事」を申し出るなどいかにも大胆。自分のような昔人間の思いであって、女性が自分の意思を明確に告げる時代は、こんにちは自然で当たり前と解釈すればいいのだろうが、とびつくこともなくなった。

理由は女性は卒業したから。肉体関係より知性沸き立つ会話に刺激的がある。それができる女性であるのでそちらに誘導する。メールは人間関係の距離感を縮める力があり、手紙にくらべて封書も切手も配達時間もゼロ。夫もちの女性だが、所有の携帯は私書箱のようなもので誰に遠慮も気兼ねもいらない。便利な時代に人と人は陰で深く交わることが可能となる。

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独身を貫く覚悟 ④

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善悪はさておき、時代には時代に即した人間関係がある。女性が男を誘うのを逆ナンというが、アンケート調査によると、「逆ナンしたことあるか?」の問いに対し、「ある」の解答は10%以下。逆ナンについての男のホンネは、「積極的でいい」と歓迎するものと、「軽い感じがしてイヤ」が半々で、「自分から声をかけられないからうれしい」と大歓迎派も少なくない。

出逢いというのはどちらからアプローチをかけて成立するが、女の子が積極的では嫌われるという考えは一昔前で、草食系男子の多いご時世において、女性もじっとしてはいられない。恋愛に積極的なのは男女を問わず悪いことではないが、「軽い感じがしてイヤ」という男は、自分から積極的に声をかけるタイプでもないただの真面目男と推察する。自分の想像だが…

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「積極的にアプローチする女とは続かない」という男もいた。ま、それぞれの価値観だから他人がどうこういうことでもないが、こういう常識主義な男とは楽しい交際は望めない気がする。外国映画では女が物怖じすることなく性的な誘惑をするが、男に偏見がないのは相手を対等と見ているからだ。「女から誘われるのは気にいられているんだ」と思えばいいこと。

30~50代の未婚者の半数が、「あえて結婚しない」と、結婚を望んでいないことが、明治安田生活福祉研究所(東京)の調査で明らかになった。この中には、「出会いがない」という事実もあろうし、多少は強がった人もいる。それでも独身者が一生独りでいると決めた覚悟に興味はつきない。この調査は、2017年5月に35~54歳の男女10300人を対象に実施されたもの。

自主的に結婚しない理由としては、「もともと結婚を望んでいない」との回答が最も多く、男性は41.2%、女性が34.9%。「独身は精神的・時間的に自由がきく」が男女とも約2割で、「いまさら結婚するような年齢ではない」、「自分のやりたいこと(仕事・学業・趣味など)に専念したい」が続いた。理由は想定通りで、結婚しないのはそれなりの理由があるに決まっている。

一生独身を決意したのは勇気もいろうが、男女ともに、「自分は結婚に向いていないと思ったから」の理由が最も多い。が、決意や覚悟した後になって、やっぱり結婚したいと思った者も少なからずいて、その理由は、「寂しくなったから」が男性25.8%、女性15.4%とあり、「老後独りで生活することが不安になったから」が、男性24.0%女性35.3%となっている。

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結婚はしたくないが恋人は欲しいとの回答は、男性56.3%、女性52.2%となっているが、これは性的な欲望も加味されていると推察した。ちょいとばかり驚いたのが、「理想・条件を下げるくらいなら結婚したくない」で、その理由というのが、「どうせ下げるなら、もっと若い頃に下げておけばよかった」が男女とも約4割となっているが、これはどういうことか?

今さら下げられないし、下げたところで、「それ見たことか!」と他人からの嘲笑を懸念しているのか。そこら辺は分らない。「若い時に下げられない」のは分かる気もするが、経年とともに人は柔軟になる。それでは自分の何かが許せないのか、あくまでも対外的な意識なのかは不明。「足るを知る」とか、「分相応」とかの感受性が今の若者にはないらしい。

結婚について恋愛について同棲について時々の思いを書いてきたが、読み返すまでは何を書いたか記憶にない。読み返しながらも、「これは自分が書いたのか?」と疑問も湧き出る。過去を思い起こせば、その日と同じ日は二度となかろうし、もう一度10歳から始めようが20歳から始めようが、まったく別の人生を歩むことになろう。同じ人間であっても別の人生となる。

同じ人間が再度同じ人生を生きないのは当たり前。時々の考えが異なり、別の人生とは周囲も環境も別となり、出逢う人間も変わってくる。人間関係や環境が変われば生き方も当然にして変わる。人間は一度きりの人生を生きるということになり、これを貴重といわずいいようはない。若くして自殺をした人は、そういう人生というしかないが、生きていれば以後の人生はあった。

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なくして良かったのか?そこに答えは難しいが、貴重な命を絶ってしまうことへの後悔は死ねばしようがない。後悔がないというならそれも全うした人生である。多くの人間は後悔に苦悩をするもの。生きている限り後悔は途絶えない。しかし、絶望からの新たな出発という生き方もあるわけで、決して絶望が悪いとも限らないが、できることなら絶望ナシの人生を人は望む。


結婚に絶望を抱く人がいる。絶望はなぜに起こるのか?「運命」といえば簡単だが、絶望に至るまでには様々な要因がある。相手の問題、自分の問題、選択や判断の問題などが絡んでいる。結婚とは未知へのスタートというが、人生そのものが筋書きのない未知への旅立ちである。結婚はこれまでにない二者の共同生活という点で大きく影響を及ぼすことになろう。

独身を貫く覚悟 ⑤

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恋愛の末の結婚なら二人の理想を継続しなければならないが、結婚生活に入る時点で互いがそれぞれの希望や信念について話し合ったかどうかである。恋愛は互い価値観について意見を交換する絶好の機会である。お見合い結婚の場合でも、自分たちの理想や価値観について話さないこともない。恋愛、見合いに関わらず、話す者は話し話さぬ者は話さないということになる。

結婚生活に理想を抱くのは当然としてもお伽噺のような理想もある。まともな理想であっても、努力を怠ればも理想を叶えられない。「理想の相手に巡り合った」というのはしばしば耳にした。本人がいうのだからそうなのだろう。しかし、それが数年後、数十年後も継続しているとはいえない。幸せの絶頂時の言葉とはいっても、こんな羞恥な言葉は口が裂けてもいえない。

熱々カップルの末路をいろいろ見たが、人は「今」を語るもので熱々の時は熱々でよい。「あの夫婦が離婚したのか!」などはありがちなこと。人間は愛なしに生きられないと思う反面、憎しみの中に生きることもできる。しかし、愛もいらない、憎しみもいもいらない、そういう人は独身を貫くがよかろう。一生独身でいればあらゆる煩わしさから逃れられる。

「理想の相手」が空想である理由はこうだ。「理想の彼を得た」という花嫁は、一人の理想の男と結婚するつもりでいながら、実はその男の持つ理想と結婚したに他ならない。つまり彼女が愛するのは肉体のない理想である。理想や信念が血肉とならないのが若さであり、単なる抽象的な観念として浮動する場合が多く、恋愛という空想性がこれに拍車をかけている。

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そうした夢見心地な女性ほど結婚に失望するが、彼女たちは口を揃へてこのようにいう。「理想の相手ではなかった」。結婚相手が理想ではなく、自身の描く理想と結婚しようとしたに過ぎない。理想の相手=自分の理想ということ。こういう場合の理想の相手とは、自分の理想を叶えてくれる男でなければならなかった。しかしながら、理想は男の側にもある。

男の理想が花嫁の理想と同じ、“自分の理想を叶えてくれる相手を理想とみなす”であれば、互いの理想はそこでぶつかり合う。片方だけが理想を持ち、片方がイエスマンならぶつかりはないが、どちらも「理想の相手」といっている。結婚の難しさは理想(価値観)のぶつかり合いとなろう。だから、自分は夫唱婦随を理想としたが、婦唱夫随でも同じこと。

夫唱婦随に対抗してか、「何でも二人で話し合って決めた方がいいんじゃない?わたしはそれを望む」という女がいた。夫婦は三人ではないので、二人の意見が違った場合に、多数決というわけにいかない。となると、片方が渋々引き下げるしかなく、これを民主的というが、知識と素養を基もなく、私情や欲にまみれて冷静な判断を欠いた相手と話すのは難儀でしかない。

それでも、「私を無視するの?」という食い下がる女がいる。何事かを任された場合、抜かりのないよう文献を漁るなどし、広い視点で考える。欲や見栄を排除し、何が正しいかを一途に考えるべきだが、「判断」とはそういうものだと思っている。「黙ってついてこい」志向の男には大きな責任が被さる。一見強引で頑固にみえるが、堅実で明晰な判断力が必要となる。

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自分の妻は全権委任をしてくれたが、そういう相手と見定めたからでもある。話し合い希望の女はそれなりの相手を選べばいいが、自身も冷静な視点を持つのが前提となり、でなければ喧嘩が耐えない。理想の相手というのは、自分の理想を適えるためだけでなく、相手の理想に対して譲歩できるか否かの見定めがいる。女の感情に愚弄される男は少なくないが、それが男か?

私情も含む漠然とした観念は単なる思い込みの理想であり、的確な見定めを実行するには協力者が必要となる。傲慢で支配的な母を反面教師にした自分は、心やさしく気立ての良い女性を強く求めた。相手選びに苦吟し、結婚を望まぬ人もいるが結婚をママゴトと考えないのは聡明である。「何となく好き」というのも結婚の動機であるが、それで一切が解決することはない。

「真剣に相手を選ぶ」といえ何を真剣というのかであり、恋愛に理解は馴染まない。「理解」という分別よりも犠牲的精神に満ち満ちた美であり歓びであり、二つの生命が触れ合うことの悦びでもある。中途で離別したとしても、そのプロセスによって自分は生き、生かされてお、結果は結果として受け入れればいい。結婚もそうあればいいが、恋愛と違って現実が押し寄せる。

恋愛と結婚の違いについての議論は言い尽くされた感がある。明日の米を必要とするのが結婚であり、自分の気分がすぐれぬ時でさえ顔を突き合わせるのが結婚である。気分のいい時を選んであっていればいい恋愛とは似た部分はあってもまるで別物と考えた方が正解だろう。が、もっとも問題なのは、「これが結婚だ」という定義に添って結婚した男女かどうかということか。

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それが恋愛の延長が結婚という考えになる。確かに恋愛の延長に結婚はあるが、恋愛の目的が結婚か?というのは自分的には違っている。一言でいうなら、(社会)制度としての結婚はあっても、恋愛に制度は似つかない。そこを混同するから、離婚は増えるのだろうし、結婚=制度という考えで嫁いだ女性は、制度に堪え、制度を守っただろう。但し、その善悪は別として…

つまり、制度としての結婚は当時の時世に大きく左右された。階級制度や男尊思想と結びついた男女差別体制の産物でこうした、「体制的な結婚」を拒否した先駆者の一人にフランスのボーボワールがいた。日本でも、「体制的な結婚」への抵抗が究極化したのが「男の家事の奴隷にはならない」という行き過ぎたフェミニズムで、そういう女性は生涯独身を選ぶことになる。

独身を貫く覚悟 ⑥

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フェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想に基づく社会運動の総称で、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性差別に影響されない男女平等社会の実現を目的とするが、女性差別は女性自らが選択できないものだから、女性が自ら選択したなら専業主婦であろうが、社会で男と対等に働こうが、露出の高い刺激的な洋服を着ようが、自分の選択である以上自由。

そうした根本理解のない自称フェミニストは、自分たちの理想とする女性像を押しつけるが、これでは女性から支持されることはない。自称フェミニストの多くは孤立し、男といい合いすることで何とか体裁を保っている。彼女たちは男に媚びる女性をもっとも嫌うが、夫に寄り添う女性を弁証法的にいうなら、「夫に従属(中心となるものにつき従う)することで、逆に夫を隷属させている」。

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こうした難しい論理を理解せずとも、本能的にそういう特性をもった女性は、男が何を喜びどういう餌を好むかを分かっているからか、「男って単純よね。弄んだりじらしたりすると可愛いくて…」などというが、悪女でもなんでもない。「俺はいつも女に弄ばれ、いつもそれで終わりだ」などの愚痴男には同情するが、相手はその気がないのにあると思い込むのも問題か。

「すべてを自由に選択できるのが女性の権利」と主張するフェミニズムは衰退し、昨今ではフェミニストと自称することが羞恥な時代となっている。女性に支持されない結果、彼女たちは悲惨な生涯(?)となる。似非フェミニストたちの罪は、他人を攻撃することも自分の思想を押し付けることもない普通に活動するフェミニストに対し、社会的偏見を助長させる点においても悪質である。


テレビの討論番組に席を設けられてはいても、完全にイロモノとしてオモシロがられる存在と成り下がっているが、男を敵に回すことが生き甲斐という生き方を引っ込めることはもはやできない憐れさを感じてしまう。「生涯独身でいるのと結婚するのとどっちがいい?」てなことを聞かれて真面目に答えたことも若き日にはあったが、こんなことはどっちもやってみなければ比べようがない。

それでも無節操に答えたりもしたのは若さゆえの無知であった。一度結婚した後に離婚をし、「やっぱり一人がいいわ」という人には説得力がある。話を聞くだけでも男といることの面倒臭さが伝わってくるが、同じ離婚であれそうでない人は、別の相手を探したり見つけて再婚したりする。結婚に離婚はつきもので、“愛情がなくなれば離婚をすべき”は、エレン・ケイの論法だ。

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愛情がなくなるばかりか顔をみるのも嫌という夫婦もいるが、同居だからそうもいかず、まさに地獄の日々。「恋愛時代はよかったのに…」、「こんな人とは思わなかった…」などといっても始まらない。たとえどんな成り立ちから結ばれたにせよ、結婚した以上は本人の責任である。嫌になった相手をあげつらい、悪口をいって癒されたところで、死ぬまでそうしているわけにもいくまい。

ゆえあって離婚をし、社会の冷たい視線をものともせずに生きた佐藤愛子は、20歳で見合い結婚した夫は医師であったが薬物に溺れ中毒となり別居、二人の子どもは婚家が引き取る。このころから文学の素養があったようで、2度目に結婚した夫の会社が倒産し、当時40代にして彼女はその借金を背負うことになる。その顛末を題材に書いた小説、『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞。

時代の労苦は想像するしかないが、「あの時は40代だったからやれたんです」と佐藤はにべもない。強く逞しく生きる人は、女性にひとしおであろうか。夫に依存していれば楽でいいというではなく、依存を強いられた時代が彼女たちをそうさせたのであって、依存心希薄な女性もいたようだ。佐藤愛子にはそれをしかと感じる。11月で96歳になる彼女は、『九十歳。何がめでたい』を著した。

母親に苦悩した少年期、彼女の言葉が支えになったのを覚えている。以後、佐藤愛子の名は頭から離れなかった。自分には生き方の糧とする五賢人がいるが、佐藤愛子はそれに加えて、「恩人」といえる。佐藤は借金返済のためテレビ出演・全国講演を遂行して戦後の世相の乱れ等を厳しく批判したためか、「憤怒の作家」などといわれ、「男性評論家」と呼ばれていた時期もあった。

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彼女は小説のほかにも、身の回りの事件や人物についてユーモラスに描き綴ったエッセイも多く、「娘と私」シリーズがある。 男の子にはあたたかな母性が必須である。母の死を知らせたある人からのメールには、「母上のご逝去、男子にとっては寂しい限りですね。」とあった。自分たち母子の事情を知らぬがゆえの真っ当な言葉であり、差し障りない言葉を返す。

「ひとりで生きる」といっても佐藤の生きた時代と今とでは世相が大きく違う。こんにち「離婚=出もどり女」という烙印が消えたのは喜ばしい。離婚は決して人生の汚点ではない。独身女性への冷ややかな視線も以前より少ない。「結婚=勝ち組」、「非婚=負け組」などとバカなことをいう者もいるが、「人生、覚悟があればそれでいい!」とは、佐藤愛子らしさが漲る言葉。

独身を貫く覚悟 ⑦

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恋愛は結婚の目的ではないが結婚の予備段階として重要だ。こんな一文が頭の隅に残っている。「恋愛とはその人と結婚したいと願う心」。いろんな考えはあろうが、結婚目的のために恋愛というのは馴染めないし賛同しかねる。なぜなら既婚者とて恋愛はする。恋愛相手に結婚を望む気持ちが沸くことはあれ、恋愛の度に相手と結婚を願うなるなどあり得ない。

「恋愛を成就させる」というのは一体どういうことなのか?恋愛の成就が結婚という見方もあるが、「恋愛の成就」について考えてみたところ、意中の相手と相思相愛(いわゆる両想い)になることと結論した。そのようになればどちらともなく結婚を望み、結婚に向かうのは自然なこと。したがって、恋愛の目的は結婚というより、結婚は恋愛の過程によって生じるものと考える。

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結婚の予備段階としての恋愛を否定しないが、結婚の意志に背いて恋愛が進行することもある。にも拘わらず一方的かつ強引に、恋愛を結婚の予備段階扱いされても困ろうし、そういう体験は幾度かあった。付き合ってまだ数日しか経ってないのにいきなり、「北海道の両親に会ってくれない?」といわれたりと、若き自分はどうにも返答のしようがなかった。

気の利いた断り文句も浮かばず、彼女からそそくさ逃げるしかなかった。23歳頃だったと記憶する。恋愛中の相手女性から、「結婚してほしい」といわれて断ると、「遊びだったのね」と女がいう。これは映画やドラマでのお決まりのシーンだが、「遊びだったのね」はどうなのか?いわれた経験はないが、被害者ぶった女が男に加害意識を与えるものではないかと。

こんにち男女同権時代にこんなのは流行らない。最初から結婚相手を目論むからで、「恋愛は結婚目的ではない」と毅然とすればいい。結婚に相応しい相手かどうかの視点で眺めることはあれ、結婚目的ではなく、自分のメガネに適う相手かどうかを見ている。いろいろな結婚動機があるのを体験として聞いたが、緻密な思考でもなく流れで結婚というのも以外に多い。

以下のメールはある女性の結婚に至った状況だ。「結婚は勢いの部分もあります。主人に『お付き合いしてください』と言われたとき、好きでもなんでもなかったのですが「はい」と返事しました。数か月後にはもう結婚式の日取りまで決まっていました。あのときのことはあっという間すぎてよく覚えていません。」この話は何らオカシいと思わなかったが、覚えてないという疾風さがすごい。

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結婚10年になる夫婦で現在幸せかどうか聞いてはないが、特に問題はなさそう。どういう出会い、どういう相手、どういう経緯、どういう挙式をしたかなどは、幸せを得るための条件でも何でもない一例である。が、幸せになる諸条件を自身がかたくなに決めている人がいる。そうでなければ自分に幸せはもたらされないと確信するのを他人がとやかくいう必要はない。

「幸せ」は欲のない人に降りてくるというが、欲もなく小さな幸せに満足するからだ。小さな夢も夢であるように、素朴な幸せも幸せである。高いレベルの幸せを望み求める間にどんどん遠ざかるのが幸せであろう。何億のお金をもっていても人が使えるお金は限られている。使い切れないお金を銀行に預けて幸せと思う人もいるが、自分とは無縁で興味もない。

「結婚したいならすればいいじゃないか、男は腐るほどいる」といった相手は多かった。今に思えば無責任な言葉と反省する。「誰とでも結婚できるわけじゃないし…」と、確かにそういうものかも知れぬが、本人の要求があまりに高望みであるのに気づかぬ者がいる。それに対する忠告の意味もあるにはあったが、何をいっても分からぬ相手にいうべきではなかった。

「私の勝手でしょ?放っておいてよ」といわれるまでもなく、他人のことには関与せず、放っておくのが賢明だ。心配することすら余計なことだと今なら思うが、当時の自分には結婚が当たり前という観念があったのだろう。他人が右に行こうが左に行こうが、上に登ろうが下ろうが、人の人生の関わらないのがマナーと思うようになった。人の人生の責任など誰も取れない。

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子どもに対する親にもいえること。親は自分の価値基準に合致した子どもに満足するが、「あなたがそれをしたいなら応援する」という姿勢こそが親のピュアな愛情と考える。思い起こすは、「親子になったことから悲劇がはじまる」という『侏儒の言葉』の一節か。高い学力、秀でた能力の子どもを愛するではなく、あるがままの子を慈しむのが根源的な愛ではないか。

こうしたピュアな愛情を子どもに捧げられるか?この一点だけとっても親をやるのは難しいこと。秀才の姉とバカな妹のどちらにも対等な愛情を注げるのかは親の試練とみる。親子に悲劇があるとするなら、その一切の原因は親にあると自分は考える。親になることの楽しみはあろうし、生涯独身者はそれを知らない。同様に親であるがゆえの苦悩を独身者は知ることはない。

独身を貫く覚悟 ⑧

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ブログの効用は普段あまり考えないことを考え詰めるところにあるが、周辺でのあれこれを日記として書き綴る人はそれを目的とする。日々のあれこれを自らに問い詰めることはないから、自分のブログは日記形式とは異なる。ブログから判断する自分の性格は真面目で堅苦しく見えるのは問題意識を軸に書いているからで、本来の自分とはかけ離れている。

何事か問題提起をし、その答えを探すのを思考というなら、これがけっこう面白い。ふと、こんなことを考える。「人間にとって純粋な時間とは何であろうか?」。本を読んだり、物思いに耽ったり、考え事をしたり、心にあることを書き綴ったり、などの時ではないだろうか。いずれも思考をともなう時間であって、人間はやはり考えるために生まれ、生きているのかも知れない。

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「趣味は何ですか?」と聞かれて、「思考です」と真面目に答えた時期もあった。好きなことを誠実に答えたつもりだが、いわれた相手も困って反応が難しいようなので、こういう答えはよくないと改めた。真実をいえばいいというものでもなさそうだ。いろいろ考えていると感動が生まれることがある。自分という人間はこんなことを考えていたのかという感動もある。

考えるというのは、それくらい自分を客観的にみているのだろう。他人やあることに感動するのと違い、「お前はそんな風に考えていたのか」という自分自身の発見と共感も含めた自身への感動である。人間理解もあれば、批判もあり、それらを含む、己の心の中の真実に触れる感動である。10代、20代の若き頃の自分については、その無知さや至らなさもあってか批判ばかり。

自身の過去を羞恥で情けないと思えるのは、それだけ成長してるということだろう。成長に気づくのはそうしたこと以外にはなかなか分からぬもの、あれほどバカでよく生きていられたと思うところもある。周囲の皆が若く同じ程度のバカレベルだったということで救われている。まさに同じ穴のムジナどもといえよう。昨今周囲はお年寄りばかり、自分もそうだから当然か。

しかし…といっては何だが、何も成長していないような人たちも目に付く。おそらく彼らは成長の機会を逃したのだろう。自分とて未完成であるが、未完成の自分がみても、「こんなんでいいのか?」という人もいる。人はみな同じように無力で生まれるが、同じように育ち、同じように老いるのではないということ。成長する時期には成長しないとダメだと実感させられる。

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将棋仲間という人間関係がメインで、その中の一人Kさんは昭和21年生まれの73歳になるが、ずっと独身を通しているという。誰もがあくせく嫁探し、婿探しをした時代であるから珍しい部類であり、Kさんはずっと一人でいた理由をこんな風に述べていた。「わしゃあ、1歳の時に観音で被爆してそれで結婚したらイカンのじゃないんかと思うとった。奇形が生まれるいわれて…」

もっともな理由のようでもあるが、爆心地から観音の重工(三菱)社宅までの距離は直線でも5km以上あって被爆線量は微々たるもの。多くの人が問題なく婚姻し子どもも普通に設けている。Kさんは周囲にそう語っているが説得力はないが話を聞けば誰もが耳を傾けるし、「3km、1kmで被爆して普通に結婚した人は多い」などとはいわないのがマナーというものだ。

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Kさんが一人案じて結婚を避けたのかも知れないし、無用な詮索はすべきでない。我々の世代は結婚が当たり前であったことから、独身男には辛辣な言葉を浴びせた。「アッチの具合が悪いんじゃないんか?」などは平気でいった。女性には、「行きそびれ」という心ないことをいう。それらが特段悪口というではなく、離婚者の、「出戻り」同様、普通に市民権を得た言葉であった。

時代が進み、よい社会を構築するために多くの差別用語が撤廃されたが、過渡期には混乱もあった。「こんな言葉が何でダメ?」というのも多かった。「めくら」、「つんぼ」、「おし」、「びっこ」などは、「目の不自由な人」、「耳の不自由な人」、「聾唖者」、「手足の不自由な人」に代わった。他にも、「土方」、「百姓」、「土人」、「ぽっぽ屋」、「パーマ屋」、「ポリ公」、「気違い」などがある。

天気予報の常套句だった、「表日本」、「裏日本」も、「太平洋側」、「日本海側」と改められた事で、「そこまでする?」と感じた記憶がある。「めくら・おし・ちんば」が撤廃されたことで、落語協会からは、「これでは古典落語ができない」といった苦情もあったというが、「おい、めくらのはっつぁん…」というところ、「おい、目の不自由なはっつぁん…」では落語にならない。

2018年版「生涯未婚率」が過去最高というデータがでた。離婚率とか未婚率とかのデータを見るたびに時代は変わりつつあるのを実感する。そりゃ変わるだろうよ、時代なんてのは。平安時代も江戸時代も明治・大正・昭和時代もあったわけで、それぞれが違っていた。思えば、「昭和も遠くなりにけり」、昭和天皇もお亡くなりになったし、平成天皇もそう遠くない。

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様々な視点・観点から一つの話題について熟考すれば、書けども書けども尽きないのは当然かも知れない。それだけ自分の視野も広がろうし、己の視点・観点の度量を試すことにもなる。自分はKさんに、「まあ、結婚は勢いだから」といってみたが、真面目なKさんは、「そうはいっても無責任なことはできん」と踵を返すので、この話はもうすべきでないと感じた。

“結婚は勢い”という面はある。二晩、三晩、半年考えて決断できないなら、突撃精神が必要となる。ただ、「この人と結婚する女性はいないだろうな」と思わせるようなタイプもいるにはいる。しかし、半世紀前の時代では、どんな男、どんな女であっても、周辺の人達は一緒にさせる努力をした。見合い写真に駄々をこねる娘には、「ききまをいうもんじゃない」と叱りつけた。

愛についての与作♪

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同じ表題で飽きたので定食から別メニユーに変える。男女について書けば、すべてが愛や結婚などに繋がるところがアラベスク。アラベスク (arabesque) とは連続模様の一種で、左右上下に折り重なり連続することが必須条件である。楽曲にもあるが、シューマンの、「アラベスク」、そしてドビュッシーの、「アラベスク」、どちらも音程が一方向ではなく複雑に絡み合う。

ということで、久々にドビュッシーを聴いてみたが、『ピアノの森』の、「アラベスク」は別の楽曲ではと思えるくらいに異様に感じた。こんなテンポの遅い、「アラベスク」は初体験。悪いとは思わなかったが、アラベスクのアラベスクたるあの疾走感がなく、こうした表現の幅はアリでも好みとはならなかった。芸術とは善悪よりも嗜好であり、個々の好みが気分に合致する。


さて、愛についてどれだけの言葉を耳にし目にしたことか。幾多の愛があり、それぞれに質も量もあって、正確に把握もできない理解もし得ないとするのが正しいのでは?次の言葉はそのことを示す。「何をいちばん愛しているかは、失ったときにわかる」。それでは遅いのかも知れぬが、自分にも経験があるからよくわかる。自分を本当に愛してくれた女は失って分かった。

比較という意味においてである。その女の持つ愛情の表し方は個々の性格的なものだろうが、そうはいっても感じる側の感受性で判断するものでもある。正直いって実体的な愛が何かわからない。これが愛?あれが愛?程度には分かるが、確信的な愛の理解に自信はない。「愛してるといって」と女性が要求する際、分からぬままに「愛してる」と男はいうのだろう。

女性はそれを愛だと思うのか?言葉を信じるのは不思議でもある。そんなおねだりの記憶はないし、いわない男なのは自分で分かる「言葉に興味はない。行動で示せ」というのはよく口に出したし自分も実行する。言葉は実行ではないし、「不言実行」というのもあろう。目標などを口に出さず、ああだこうだと能書きを述べず、ひたすら実行するのは美しい。

口に出したことを確実に実行するのも美しく、どちらかの比はないがカッコイイのはどちらだろうか?前者は自分のためにだからあえて口にする必要はない。となると「有言実行」は、他人を意識した行為である。「有言実行」という言葉のほうが耳なじみがあろうが、言葉としては「不言実行」が先だった。これは寡黙で実直を旨とする武士の範とするもの。

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「口に出した以上はやる」と、これは責任感ともいえるが、「口に出さずとも黙してやる」は責任感より上位の使命感だろう。責任でやるというより、使命とするの方が自分の好みで、責任感という美名に溺れることもない。「結婚の責任感」と「結婚の使命感」と、人にはどのように響くのだろう。責任感ばかり後手に回って叫ばれている時世に思えてならない。

使命感を喪失した者が責任感を全うするのに躍起になっている昨今だ。ただし、人を愛するのは「責任感」でも「使命感」でもないように思う。愛についての一家言をいえば、「女は愛され、男は愛す」がいいのではないかと。これは受動と能動を区分けしている。女性が能動であるのは性器の形状が示し、反面男は能動である。女性が能動的なのは男がそうでないからか?

事態をそんな風に想像する。なぜ男を超えて女が能動的であるのか自分にはよくわからないし、自分の前に能動的な女性がいたなら、一体自分はどうすべきかを考えねばならない。それもあって、わざわざ能動志向の女性を選んでぶつかり合うのを避け、受動的な女性で自分の特質を生かす。被さってくる女性を払いのける面倒を省くためにも自分の前に置かない。

「私を愛してるといって」などという女は、外国映画の観過ぎだろう。あちらの男は答えて、「愛してる」というが、日本人がいえばマヌケに見える。「LOVE」という日本語はないし、他人はどうだか知らぬが、一番深い愛の形というのは、心の中で想いつめることだと思っている。「心にあることを言葉に出せばいいじゃないか」というが、それが「愛してる」という言葉か?

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愛を言葉にするとどこか嘘っぽい反面、心の中に感じる愛とは、「愛してる」とは違う何かである。だから言葉にせず、心の中にある愛の形がもっとも真摯で深い。そういう考えでいるから、「愛してるっていって」といわれたら、「屁でも喰らえ」といいそうだ。オママゴトじゃない、ムービースターでもない。愛の表現は目にもっとも現れるから、「目を見て感じろ!」という。

「はじめに言があったと」聖書にいうが、日本人的な知性とは、「黙」であり、「阿吽の呼吸」である。言葉は所詮は代用の具、「人は人を愛することによって言葉を失う」と独断的にいってみる。いいあらわされた言葉なんて、心に思うことの何十分の一。恋愛の楽しみは言葉の交換や肉体の交じりを強調しがちだが、プラトニック・ラブの美しさ、儚さ、切なさは忘れようもない。

独身を貫く覚悟 ⑨

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前記したように「生涯未婚率」とは50歳時点での独身者をいい、一昨年末に一般男性と入籍した浅野ゆう子は、57歳で結婚を決意したことで話題になった。美女はいくつになっても引き合いがあるということか。それに反して女性たちから結婚相手として見てもらえないような、「一生独身かなと思われる男性」の特徴について、女性たちの意見を集めたサイトがあった。

以下のようなタイプがとりあげられている。①マイペースすぎる。②自分で何でもできてしまう。③理想が高すぎる。④いろいろな面でこだわりが強い。これを自分に当てはめると、③以外は自分に思い当たるが、これらは一つの要素であり、他の長所で相殺できる。人間はトータルだから意見を気に病むこともない。思うに生涯独身者とは、異性嫌いというしかない。

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何事も決めつけは簡単だから無視すればよい。星占いしかり、血液型しかり、県民性しかり…。自分で相手を捉えて判断する自信がないからなのか、他人のいう「あの人はいい人」が充てにならないもので、自分なりの「いい人」を探せばいいこと。②の自分で何でもできる人が敬遠されるとあるが、結婚すれば、「それくらい自分でやってよ」と妻にせかされる。

結婚に良し悪しがあるように独身者にもある。「精神的な支えがない」というのも独身のマイナス点だが、心の強い人はクリアできようし、一人身で冴えないのはどちらかといえば男ではないか。いろいろ周囲をみて思うことだが、独身男は家でも外でも飲んでばかりが多くてまるで酒が恋人のようで、やはり独身女性の方がさわやかに生きている。独身者の利点も述べられていた。

①自由な時間を過ごしているとき。②お金を自由に使っているとき。③既婚者のトラブルを聞いたとき。④気を遣ったり、相手に合わせたりしているとき。⑤いい彼に巡り会えないとき。などがあるが、⑤の何が独身の利点なのか?つまらん男ばかりが目に付くとき、「ああ、ひとりでよかった」と思うのだろうか。決して理想が高いのではないが、確かに雑魚な男はいる。

結婚の後悔と独身の後悔はどちらが多いか分からぬが、耳にするのは結婚の後悔ばかりだ。独身者の後悔を耳にしないのは、「いわないようにしてる」こともあろうが、「はや独身に慣れてしまった」からでは?妻や夫への不満も結婚後30年、40年もすれば慣れるといい、慣れは大事かも知れない。最も苦悩するのは、結婚に踏み出すか否かの最中かも知れない。

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「喉元過ぎれば熱さも忘れる」という言葉が過ったが、脳細胞が減少することなく人間が記憶のすべてを溜めておいたら生きてはいけないだろう。ほどほどに記憶し、忘れることも大事に思う。平凡な日常を生きるコツとはほどよく忘れていくこと。受験の失敗も、失恋の痛みも、学童期にいじめられた思い出も、大きな失敗も、心に留めておいてよくないことは忘れる。

「幸福は無心のうちに宿る」と、この言葉を信じていれば、気づいたときには幸せ感に浸っているかも知れない。隣人への愛は誇示するものではないが、奉仕をを受ける側、提供される側が極度に恐縮しないよう心掛けるのも思いやりであろう。あくまでも、こちらがそれをしたいからするのだから、「してあげた」の気持ちがない以上、そのように受け止められぬ配慮をすべき。

「善意の押し売り」、「愛の押し売り」ほど価値なきものはない。昔は押し売りといったが、昨今はセールスマン、営業マンという言葉に変わるが、似た部分も似ていない部分もあるが、押し売りを好む人などいない。だから善意の押し付けはすべきでないが、そうした人間関係の本筋を見極めるのもある程度の年齢になってからで、若さゆえにか善意の押し売りは結構やったものだ。

人間関係といえば、長年友人関係にあった奴とぷっつり疎遠になったことがある。これという理由もなかったから、恋愛関係でいう自然消滅というやつ。彼は70歳になるがずっと未婚を通している。酒もやらない、タバコも博打もやらぬ模範的人間だから、妻の妹と紹介したことがあった。喫茶店で二人だけで落ち合わせたが、翌日義妹はこんな風な感想をいってきた。

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「会って挨拶をして飲み物をオーダーしたら、すぐに新聞を持ってきてずっと読んでいるんです。わたしはどうしればいいか分からなかった」。話を聞いて唖然とするしかなかった。彼とは男同士でいろいろ会話をするが、妹の話からすれば女性が苦手とでもいうのか、得意でないのだろう。過去にも浮いた話はなく、女性嫌いということでもないが、そこまでとは思わなかった。

彼は独身でいることに相応しい男かも知れない。結婚願望は普通以上に強かったが、縁があるようにと心配する親・兄弟への配慮だろうから、本当に女性を射止めて結婚生活を送りたい願望なら、女性に気に入られる努力もし、射止める努力もするだろう。それもないままに、誰かに女性を紹介されれば結婚は降ってわいてくるとの思いでは結婚にはありつけないだろう。
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