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五賢人 加藤諦三 ③

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田原が『現代の眼』で加藤批判をしたのは38歳、加藤は34歳だった。その2年前の1970年の週刊朝日(11/27号)には、「いま頼られている日本の『ココロのボス』10人」の中で、加藤(当時32)は最年少で選ばれている。他の9人は、寺山修司(34)、大江健三郎(35)、小田実(38)、池田大作(42)、三島由紀夫(45)、吉本隆明(46)、司馬遼太郎(47)、羽仁五郎(69)、松下幸之助(75)。

田原は加藤との初体面の印象を、「決して無神経な饒舌家でも非常識な毒舌家でもなく、きわめて節をわきまえたむしろ聞き上手に属する人間」と評したが、田原は加藤の著作『俺には俺の生き方がある』一冊のみを読んで、不満や異論が随所にあるとしながら、「真理とは実践であり理論にあらず」と、「人生に大事なことは勝つことでなく努力すること」の二点は共通認識という。

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生きることは行為である。行為し、行為の中から何かを発見し、発見することで自らを変革する。のんべんだらりと生きてるようでも行為である。が、行動しない人間の頭は肥大する。彼らは辻褄のあう論理を巧みに操り、拠り所にして生きるが、行為(実践)とは辻褄の合わぬことばかりである。それに対処する知恵なり技術なりは、行為する人間にしか身につかない。

行為は状況を変え意識すらも変えるが、意識はまた状況によって変わってしまう。行為とは理屈通りにはいかないもの。恋愛も行為であって、すれば分かるが、恋愛に理屈は通用しない。日々が移り変わるものだからか、昨日と今日で状況がまるで変わってしまう。意識が状況を変え、状況がまた意識を変える。現実とはどうして理屈どおりに行かないものなのか。

誰もが批判はするが、なぜ批判ばかりするのかを考えてみる。批判することで自己の貧困な思考を隠蔽できるからでは?批判というのは案外と楽にできてしまうが、対案あってこそ批判も生きるもの。だからか、「お前はバカ!」は論理の批判にあらずだがそれをやる。人格批判も批判であるとばかりにそれをやる。そんなもののどこに説得力があるのだろう。

対談後田原は加藤の著作、『変革期の哲学』詳細に読んだといい、これに対する以下の批判を述べている。「初めから最後まで違和感と不快感を惹起する言葉で埋め尽くされていた。あの物分かりのよい加藤が、なぜにこうも読み手をハラハラさせるわかりにくい文章を書き連ねるのだろうか。全頁に氾濫する不快語を並べたら、彼の書いた本一冊分くらいになってしまう」。

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以下は『変革期の哲学』の一節だ。「人間は自分が生き易いように生きるならば、その生活のなかにはどうしてもウソが生まれてくる。というのは、誰もが知るように人間は善でもなく悪でもなく、その中間でウロウロしているからである。形成された自我と生まれたままの自然と、その間に入って引き裂かれているからである」。加藤は先天的素地と後天性格の差異を捉えていう。

「生き易い生き方」というのは、無理をせずに楽に生きることのようだが、そのように生きるとウソが生まれるという。人間がウソなくして生きて行けるのか?「ウソはよくない」、「ウソはいけません」と母は子どもに教えるが、ウソをついて生きてきた親が、ウソはダメとウソをついている図式である。大人になれば分かるが、ウソのなかには人間としての暖かさもあるものだ。

心のやさしい人間は鋭く自分を見つめている。だから自分の不誠実にも気づくし、普通の人なら許せる自分の不誠実を許せない。だからこそ心がいたたまれなく悪者になる。本当に心のやさしい人だからこそ、そのやさしが本物でないと気づき、いたたまれないままに冷酷になる。見せかけのやさしい人は自分を繕うことに長けるが、本当のやさしさ所有者は冷酷となる。

正直に生きる人、自らを偽って生きる人。偽善者にはウソが、偽悪者に真実がある。悪人とは概ね普通の人より誠実でこころやさしい人が多い。だから本当は冷たく不誠実な人ほど簡単に涙を流すことができる。ある女の子がこんな悩みを打ち明けた。「わたしは涙がでないんです。みんなが泣いているのになぜ泣けないのかと思うんです。普通じゃない自分がすごくつらい…」

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正直な女と思いながらアドバイスの言葉が出なかった。それほどに自分が未熟だったのだ。彼女は自らの苦しみのなかで真の自分に目覚め、成長を遂げていくことになろう。苦しみが実は善であることは結構ある。人と同じことでないということで悩む事などなくていい。すぐ涙を流すような人は一見して善人に見えるが、涙を流さずとも善なる心の所有者はいる。

相手の心を的確に掴めど、適切な助言が出ない時期もあった。人は自らのエゴイズムに苦しむが、常識的には涙、涙のときに、涙を流せないと苦悩すべきでない。一般的とか普通という言葉に騙されてはいけない。もしかすると人間にとってもっとも常識的と考えられる行動とは、実は突飛でとんでもない行動かも知れないからだ。人は他人を生きない、自分を生きるだけだ。

五賢人 加藤諦三 ④

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加藤は長らくラジオニッポン放送の「テレフォン人生相談」をやってきた。1970年代前半より出演しているが、正確な初出演日は本人も覚えておらず、ニッポン放送の記録にも残っていない。2005年、ライブドアのニッポン放送株大量取得に反発し、ライブドアが経営権を握った場合「テレフォン人生相談」を降板することを表明したが、騒動が落着したことで続投が決定した。

忌憚なく率直な物言いをするので、相談者にも批判されることはあるようだが、相談の種にも様々あって、本当に解決を望み求める人もいれば、聞いてもらいたいだけの人も少なくない。その辺のことは加藤自身にも分かっているが、どういう相談者であろうと相談者の意図がどうであろうと、加藤は差別や区別をすることなく真剣に対処をする。ただ聞いてあげるだけなのも仕事であろう。

相談者にいろいろな人がいるように、何が気にいらないのか、上記のような横やりを入れたい人もいる。こういう書き方は批判というより気晴らし的だし、横やりの多くは腹いせであろう。加藤に、“人を救う”などのおこがましさはないが、他人を蹴落とすことを意図する人間は、勝手な抗弁言葉を創作する。また、年代の若い人には、「もうお年なので考え方が古い」との意見もある。

女性だからと甘くない加藤は、辛辣な意見をいうことで女性に嫌われることもある。相談というより聞いてもらいたいだけの人は女性に多く、そうであっても加藤は適当なことはいわないで真剣に向き合う。だから、うっとうしいクソジジイと思われるのだろう。他人に依存する人は基本的に自分の意図する考えを良しとするが、これが自ら考えようとしない依存の実体であり本質であろう。

他人に何かを頼んで文句をいう人に、頼む資格はないと思っている。これが長年で得た自分の考え方である。つまり他人は、自分の期待通りにならないということだから、頼んだことをやってくれただけでも礼をいうべきで、期待通りにならないからと文句をいうのは、そのように思った時点でバカである。と、このように自分に言い聞かせると、バカにならないで済む。

加藤の半生は教職に身を投じたといってよい。したがって、若者向けの直作が多く、これは先人が後人への必然的な老婆心であろうが、他人からの忠告や助言は、たとえ師であれ親であれウザイものであろうから、加藤は押し付けるのではなく、彼のもつ知識や素養を軸に自己啓発を促すようアドバイスをする。それでも自分の思考にない事は受け入れられないもの多し。

「受け入れろ」とはいってないが、そういう反発心が若者の特質である。青春期というのは、様々な可能性を含んだ混沌の時期である。自分が何になるかわからないが何かになれそうだと思うのは大事だ。夢も抱きロマンチックになるのも若者に共通する要素である。ただし、夢は大事でもその実現のためにいかに努力と苦痛が伴うかで、その時点でしり込みしてしまう。

未知の可能性がある点において、青春は甘やかされるべきではなく、自分で自分を甘やかせてもいけない。そのためには苦労を有難いものとし、光栄と考え、厳しく自己鍛錬をすべきではないか。しかし、こういう考えがそもそも「古い」というなら、努力もせずに自分を甘やかせて生きるのが良いということになる。顕著な例が親に依存したニートなどの実態であろう。

誰でも自分に厳しくしたくはない。他人からも厳しくされたくない。その結果がどうなろうと受け入れなければならない。厳しく躾なかった親にも責任はあるから加藤や亀井ら賢人は、そのような若者でいて欲しくないから、彼らが自己啓発をする礎になろうとする。だから、彼らの言葉に批判を抱くなら別の誰かを探せばよいのであって、文句をいっても解決しない。

人には自分が信じたいものを信じる自由がある。だから、他人の考えや意見が正しい、正しくない以前に、信じたくないというのはあっていい。気にいらない相手を批判しなくても、信じなければいいだけだが、ついつい批判をしてしまう。他人が自分のことをどのように見ているかは、他人の言葉の中にある。だからか自分は、とりあえず相手の視点に立って自分を眺めるようにする。

そうすることで相手の自分への批判の本質が見えてくることになる。批判を嫌がるわけでもなければ制止するつもりもないが、相手の気づかない視点については遠慮をせずに自分の意見を述べる。それによって相手も気づくこともあろうし、一考することもあるなら良しとすべきである。たとえ相手の発した批判であれ、双方の利益になるというなら、リベラルな生き方といえなくもない。

インターネット時代の情報化社会は多様性があるようにみえて、実は個々の人たちは自分の見たいものだけを選んでみていることがほとんど。自分たちが求めぬもの、望まぬもの、見ることで不安にならないようなもの、そうした情報を選別して見ているようで、これでは健全な批判精神は養われない。相手を槍玉にあげて罵倒するなど、批判を非難とする不健全な時代である。

五賢人 加藤諦三 ⑤

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   人はそれぞれ…。無難に生きるもいい、存在感を求めるもいい。無理せず自分に合った生き方を…


「毒は薬に、薬は毒になる」という言葉を思い起こす。差し障りのないことしか言わぬ人を、「毒にも薬にもならない人」といい、これは可もなし、不可もなしということだ。加藤に毒を感じる人もいれば、薬に思う人もいるからこそ意味がある。フロイトの精神分析理論を研究したと思われる加藤の著作や言葉から伺える顕著な特徴は、現実から逃避することなく向かっていくよう奨励する。

人間の成長段階における自己形成が未熟な時期にあっては、現実の苦痛に正面から向き合うことができない。そのために自己欺瞞的な言い訳や、都合のよい解釈に逃げ、現実から目を逸らすことで自我を守ろうとの防衛本能が働く。これを繰り返すうちに欺瞞的な思考パターン回路が固定化したまま成長し、大人になってからも現実を正面から受け止めることが出来なくなってしまうという。

これを心理学用語で、「現実喪失的解釈の脅迫的反復」というが、有名なのはイソップ童話の「酸っぱい葡萄」がこのメカニズムをあらわしている。つまり、自分の行動を正当化するための不合理な言い訳をすることで、自分にとって不都合な事実を覆い隠してしまおうとする。このような人間の心理のあり方が無意識に「合理化」されているのを、自己認識できるはずがないのだ。

加藤はいろいろな具体例を挙げてこのような事象を説明してくれる。ハナっから否定するより、「なるほど、そういうものなのか!」と立ち止まり、我に帰って思考することで見えない自分に気づかされる。「人間は何事も自身に都合よく合理的に解釈してしまうものだ」あるいは、「人間は欲で自分勝手だ」というようなこと知っていると知らぬとでは、成長する方向がまるで変ってくる。

       過去のこと、若かれし時代のこと、すべてが笑い話にできないのなら、それは悲劇である


ここにも書いたが、中学一年の時の級友の何気ない言葉から、自分がどうにも鼻もちならない人間であるのを知った。家に帰って過去の自分のいろいろな場面が目まぐるしく思い出され、「穴があったら入りたい」ほどの羞恥が過る。クラス一頭の悪い級友の言葉は嫌味というより正直で、ショックとか傷つくというより、有り難い言葉と受け止められたことがよかった。

もしあの時に彼を見下げたり、バカにすることで自我を守ったなら、別の自分になっていただろう。あのまま生きる自分を考えただけでゾッとする。それくらいに嫌な人間だった。若さは可能性に満ちているといったが、そのためには人間生成が正しく行われていなければならない。人間はいつかどこかで、「生まれ変わる」ことが根本条件であり、それを成長と定義する。

人間が母の胎内から生まれただけでは未だ人間とはならず、一生のうちに幾度か生まれ変わらなければならない。加藤に『もういちど生きなおそう』という著書がある。同著の索引を以下提示するとこうだ。「唯一絶対?そんなものがどこにある」、「俺で生まれて俺で死ぬ」、「世界にたった一つ、かけがえのないこの人生」、「もっと人間らしい人間関係がほしい」

「『お前でなければ』といわれる人間になるのだ」、「思いっきりやりたいことをやってみろ」、「『いい子』になんかなろうとするな」、「人に好かれるための近道などあるはずがない」、「陽気にやろう、馬鹿な真似」、「俺はやるべきことをやる」、「自分で自分をあきらめるな」、「人間は理屈で生きるものではない」。中でもユニークなのが、「陽気にやろう、馬鹿な真似」である。

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 「批判するために読書をするな、妄信するために読書をするな、ただ思い考えるために読書せよ」 ベーコン


加藤は馬鹿をやる必要性をこのようにいう。「人間の意識は非合理なもの。一言でいえば馬鹿なものだから、ひたすら真面目に生きるより馬鹿真似をすることによって意識下の欲求が満たされる。これは青年だけにいえることか、そうでないかは知らない」。この国には、「いい年こいて馬鹿をやるな」という言葉がある。欧米の個人主義にはない無言で絶対的な拘束力がある。

心理学用語で「同調圧力」という。何が馬鹿な真似かは分からぬが、どれもこれもが人の判断だ。ある人から見れば馬鹿な真似だが、別のある人からみれば、「それのどこが馬鹿なんか?」となろう。したがって、「いちいち他人の視線を気にしてどうする?」となるが、気になる人もいる。抑圧を発散できる人、それができないままにため込む人。こうした性格の差は実は大きい

自身の不真面目さをおおらかに話す人も、不真面目さを隠そうとする人もいる。どちらも同じ人間で、その違いがどうあらわれるかは、いろいろな事件から知ることにもなる。どうであっても人間は最後に自分が責任を取らねばならない。それが罪に対する罰であり、罰を受けるほどの馬鹿をやるも責任を取る気ならそれも自由。ただし、人を殺した責任はとりようがない。

無期懲役であれ死刑であれ、人を殺した責任をとることなどできない。「加藤諦三って言葉だけで人を救えると思ってないですか?」などの批判者のどこに向上心をみることができよう。上記した『もういちど生きなおそう』は以下言葉で書き始められている。「我々は『あなたを救ってあげる』などというような、おしつけがましい宗教によって救われるのだろうか?」

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五賢人 加藤諦三 🈡

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「受験に恋愛はダメ」と息子に言い渡した母親がいた。そんな母親に文句も言わずに従い、東大に入学した息子を最も喜んだのは母親だろう。受験に何が必要で何が無用かを区分けした母親は、自分の考えが正しかったことを息子たちが証明してくれたようなもの。『もういちど生きなおそう』の80ページ、「いい子になんかなろうとするな」で加藤は以下のように述べている。

「受験勉強中にある異性が好きになったと悩み苦しむのはいい。(中略) が、受験期には何もかえりみず受験勉強に没頭するのが正常であるかのごときはおそるべき錯覚である。(中略) 自分は正常ではないのだ、皆は一生懸命勉強しているのに自分一人はあらぬことで悩んでいる。親に相談しても、「今は勉強するとき、勉強しなければ将来困ります」と叱られるに決まっている。

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加藤にいわせると彼らは自分が、「親の望む通りの規格品」になっていないことを悩み、「親の期待にこたえられない」ことの罪悪感に苦しむという。自分の生き方を親に委ね、親の望む成功こそが正しいと信じ、思い込んでいる。「正しいこと」と、「正しいと思い込む」のは違うが何を正しいとすればいいのか。「努力したが結果が出ない」のは正しいことだったのか?

欧米の子どもは神からの捧げものである。よって親の所有物と見ない。だから子育てにおける、「何が正しい」かは、「自分の将来は自己決定する」を正しいとする。自分も同じ考えだが日本社会では、「親の指示に従うのが正しい」とするが、これは親による子ども支配の考え方。「子どもは親の所有物」という考え方を信奉する以上、親に従うのが正しいことになる。

自分にそういう考えがない理由は、意識して取り払ったからで、子どもに正しいことは自分のパンツを自分で履くこと、自分で脱ぐこと。加藤も同様の考えで、「自己を失った者にはすべてが遠い」とする。我が子を特急列車に乗せたい親は多い。そういう親の近道とは、安易であるがゆえに人間の本質に向き合うと遠き道のりとなるが、親はそこまで考えてはいない。

“性格は簡単に変えられるものではない”との観点から遠回りとし、自己を失った者はいつしか自己の分裂に苦しむことになる。親は表層的見栄えの良い子どもを作ろうとするから、大事なことは外面でしかない。しかし、人間の悩みの本質は内面であり苦しみは大人になっても続く。「親の役割に加担する子どもは、結果的には遠い回り道をする」と加藤は指摘する。

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ここに二人の人間がいる。一人は東大生。一人は聞いたこともない名の大学生。どちらが優秀であるかは一目だが、それを一目とする眼に誰も疑うこともしない、抗うこともない。金持ちと乞食とどちらに生まれたいと聞けば誰もが物質的に恵まれた前者を選ぶが、超無名大大学生であれ乞食であれ、立派で誠実な人はいるが、周囲が外観だけで判断すれば彼らに陽の目は当たらない。

自分はかつて、ヒビとアカギレでガサガサで腫れあがった手の女性に想いを寄せたことがある。彼女のその手をみたとき、働き者としての彼女に心が熱くなる。彼女はその手を必死で自分の視線から隠そうとし、そのことが一掃女性らしさを醸した。単にニベアのない時代だったかもしれないが、(隠さなくてもいい。ぼくは君のその手が好きだから…)と心で彼女に呼びかけた。

上辺より本質が大事と思うようになったのは、少なからず五賢人の書籍の影響もある。幸福には様々な要因や概念があるが、異性を慕う気持ちも幸福である。勿論、慕われるのも幸福には違いないが、受動性と能動性の比較についていえば、能動性の方がハッキリとして分かり易い。自分が相手を想う心というのは、相手から想われているであろうことより判然としている。

ヒビとアカギレにまみれた彼女の手に恋したのは、そこに意味を見たからである。昼間はレコード店店員だった彼女は、家に帰れば家事労働が待っている。そうしたことを思うと彼女の人としての魅力が増すのだった。「そのことに意味を感じるなら、人はどんな苦しみにも耐えられる」という名言があるが、美しくないものでもそのことに意味を見出せば美しく見える。

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あらゆる意味の理解は考えることで可能となる。何も考えなければ、ヒビとアカギレでむくんだ手は汚いものでしかないが、自分はそこに意味を見た。あらためていうまでもないが、表層的な美と思慕に感じる美はまったく別である。「人間は明らかに考えるために造られている。それが彼の全品位、全価値である」と、パスカルがいうようなそんな人間でありたいものだ。

『もういちど生きなおそう』の最後、「人間は理屈で生きるものではない」のなかで加藤は、「人生は証明できるものではない」という。人間の意識下にあるものが善でも悪でもない非合理なものである以上、人生は理屈で割り切れない。やってることが、「あっているか」、「まちがっているか」は、その人がそれをやっている時に判断するしかない。なるほど…これは至言である。

思考が停止する理由

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「思考が停止する人」は結構いる。思考が前に進まずどこかで停滞する。それで何かを解決しよう、改善しようなどをせず文句をいうだけで気を晴らす。どうしてそういう思考回路になるのかは不明だが、「思考停止する人」としかいいようがない。今回、上記のような考えに触れてそのことを強めたが、↑このような物言い(思考回路)には強い違和感をもった。

「幼少期に親からの愛情体験が足りない」という生育分析を発達心理学用語で「マザリング欠如」というが、一口に親子関係といっても、かつてと現在とでは親子関係を成立させる社会基盤が大きく変化している。兄弟が4人、5人は当たり前だった時代と昨今の核家族の違いや、一億総中流社会といわれる高度経済成長期後の親の子への関わり方は昔とまるで違う。

どちらにしても家庭環境が子どもの育成に大きく影響する。「宗教」も「心理学」体系であるが前者は観念的、後者は科学である。また宗教は依存、科学は思考である。信仰は救済というより神の是認を求めるが、神を失った現代人は激しく他者の是認を求めるのだろう。神は権威に人はひれ伏すが、現代人は親という権力の牢獄のなかで育った子もいるのだろう。

生育環境や親の問題から性格形成がなされ、心にしこりを残したままで成長した子どもは少なくない。問題の解決は原因を探ることだが、心の治療がなかなかはかどらないのは、性格という大きな問題が障害になるからだ。何事につけこのように反抗してしまう上記の人をみるに、「三つ子の魂百まで」というのは本当に怖ろしいことだという事実を教えてくれる。

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心の病を抱えたある人の治療に際し、「あなたは幼児期に親の愛情を供与されないで育っている」という分析がなされたとする。「そうなのか、確かに思い当たるふしはある」と素直に従えば、今後はどう克服していくかということになるが、「幼児期に親の愛情が足りなかったのがどうだっていうのか?そんな言葉で人を救えると思っているのか?」と、これが性格。

今回の事例のような科学的な心の治療を前に、「言葉で人が救えるのか?」という人につける薬があるのだろうか?先ずは信じることが先決だろう。「神を信じなさい。さすればあなたは救われます」といわれて、「神の言葉で人が救えるのか?」と思う自分は、これも形成された性格である。神を信じなければならない理由はないと同様、科学を信じる義務はない。

スティーブ・ジョブズは死ななくて済んだという。「彼は膵臓がんの中でも完治可能な神経内分泌腫瘍(NET)。早期手術で大体の人は助かるのに、何故9ヶ月も受けなかった?」。ジョブズの死後、ハーバード大医学部研究員のラムジー・アムリが疑問を投げかけた。これに対し、ジョブズ自伝本著者ウォルター・アイザックソンがCBSのインタビューで疑問に答えた。

食餌療法、スピリチュアリスト、マクロバイオティック(桜沢如一による陰陽論を交えた食事法思想)、ハリ治療・ハーブ治療、呪術思考。彼が外科手術をはじめとする西洋医学治療を拒んだ背景には、禅思想へのこだわりや徹底した「菜食主義(ベジタリアン)」にあったとされている。彼は若い時から牛や豚など、血が滴る系の肉は摂取してこなかった。

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牛や豚の肉は摂取をしないでいると、体内に病気を治そうと戦ってくれる武器や防具が全く無い状態となる。その時には、仮にいざ肉を食べようとしても肉を消火吸収して糧とする力は無い。元気で健康な時に、いかに肉類など、消化吸収にエネルギーがかかるものを、地道に蓄積しているかが、病気にあかかってしまった後、復活できるかどうかの明暗を分ける。

菜食主義を健康的と信じる人。肉食が身体によいと信じる人。どちらも一理ある。宗教を信じるも信じないも同様だ。ジョブズを霊的な力で治癒を奨めた人。ジョブズの妻も彼の考えに理解を示しがらも、西洋医学の必要性を以下のように奨めたという。「ううん違うでしょ、体は魂に仕えるためにあるものよ、果物・野菜もいいけど手術は受けなきゃだめ」。

何かを信じて生きて行く人間は本能のみで生きる動物とは違う。生きることへの喜びと勇気を与える言葉は、それを使う人にも、使われる人にも、大きな幸福を感じさせてくれるのだろう。プラトンは、「愛とは美における生産だ」といったが、美とは人の心を惹きつけるもの。我々は、心をひきつけられる思想や感情の持ち主に出逢う時、愛を感じることになろう。

そしてその思想や感情を我がものとし、新しい自分に生まれ変わろうとする。それが聖書であったり、賢人の書であったりする。山に登る目的は同じでも登山口はあちこちにある。それぞれが自らの生を生きればいいのであって、これだけの人間が存在するのだ。人にあれこれ言うのはいいが、「妄言妄聴」とは、勝手にいうから、聞く聞かぬは勝手にしろである。

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語源は、「根拠のないいい加減なことを言ったり、相手の話を真面目に聞かないこと」。「妄言」は根拠のないでたらめな発言。「妄聴」はいい加減に話を聞く。とかく人はそういうもの。それが転じて、「自分は勝手にいうので、おしつけるつもりはない。聞こうが聞くまいが自由」と使われる。大事なのは相手を傷つけない強さ、傷つくことのない己の強さ。

相手をさげすむ者、自らをさげすまれないよう必死でもがく者。さげすむ者がいるなら防衛も大事。日本人がいかに世間を怖れているかは、あの狂乱的な受験勉強をみれば分かろう。なぜにバカげた教育ママが出てくるかも分かろう。彼女たちはどんなに理屈が分かっていても同じ種族になるだろう。「人間は理屈で生きるものではない」に同意せざるを得ない。

思考が停止する理由 ②

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「君は幼少期に親から愛されていたと思う?」何人かに聞いたことがある。いろいろな答えが返ってきた。「姉(兄)はそうだけどわたしは厄介者だった」などは露骨な兄弟差別だが、一人っ子の自分に経験がない。同じ兄弟でありながら差別されるのはどんな気持ちなのか?永遠に分らぬ謎である。ただし、四人の子をもった自分は兄弟差別のないよう留意をした。

心理学に限らず著書とは文字や言葉の記述で、人を救うと救えるとかではなく、不安から抜け出したい人に向き合う。「あなたを救ってあげましょう」と口にする宗教はあるし、実際にいわれたこともある。「救う」という言葉自体が抽象的で、どのように受けとるかは各人の自由だが、発する側は心を救えると思っていっているのか、それともただの営業トークなのか?

あまりに無責任な言葉ではないのか?ある宗教に勧誘されて、「救ってなんかいりませんよ」といったことがある。相手はむかついたろうが、表情には出さず押し黙っていた。「せっかく救ってやろうというのに、何だこいつは」と思ったのかも知れない。現に相手は、「救ってあげます」と露骨にいった。こちらが頼みもしないのに勝手にいうので、なんとも安易な奴と感じた。

保険のセールスレディのいう、「あなたのために…」と同じことに思えた。レディに、「勧誘はあなたのためなのでは?」と返すと、「そんなことないです」とムキになるので、「ぼくのためというなら勧誘しないでくれるか?」というと、顔色が変わった。それを人に話すと、「そこまで言っては可哀相」という。そうだろうか?この程度でむかつくようで営業の仕事はすべきでなかろう。

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顔色を変えない宗教者の方が一枚上手である。以前、エホバの信者がいっていた。「何をいわれようと門前払いされようと、笑顔は絶やさないようにします」。「すごいね、何で?」、「そのように指導されますから」。なるほど、それからすると保険会社の社員教育は甘い。エホバから講師を呼んだ方がいい。宗教者は自制心に長けているが、自己欺瞞とまではいえないだろう。

欺瞞トークを元手に商売に勤しむ人々。そんな彼ら相手にスカして楽しんでいるだけだ。人は自分の意図せぬことをいわれてどう反応するかは面白い。ドッキリカメラのようなもの。腹の中を見透かされても、平然とできるのが修練であり、営業従事者ならイロハの「イ」である。何事も感情露わにして成功した人はない。気持ちを抑え、心平穏にするは仕事外でも人間の修練か。

宗教信者は自己を放棄をして教団に尽くしているようにみえる。宗教とは自己放棄と思うがどうなのか?三大宗教いずれもそう見える。苦行を通じて悟りに至る仏教の教えも、結局のところ自己放棄ではないのかと。新たな自己を作るためとはいえ、自己を放棄することになる。新たな自分が創られたとしても自己放棄は間違いない。して新たな自分が新しき自己なのか。

哲学の宗教の違いについてこのように説明されている。「哲学は知の欲求であり、自ら哲学することなくして哲学たりえないが、宗教には知の欲求があるのか?」あるのは教義や教本の踏襲では?それらからしても、宗教は知的欲求の放棄であろう。「善い生活とは愛に力づけられ、知識によって導かれた生活のことである」。これはバートランド・ラッセルの言葉。

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こういう事例がある。ある国で疫病が流行り、聖者たちは住人に「教会に集まって助かるための祈りを捧げよ」と命じた。その結果、急速に伝染し多くの人が命を落とした。愛はあっても知識のない不幸の実例だ。「そういう知識のない時代だからやむをえない」とはいってみても、「教会に集まって祈ろう」という愛が必要だったのかということになりはしないか?

果たしてそれは本当の愛といえるのか?ある人は「まちがった愛」というだろう。「知識のない時代」との言い訳を添えてだが、愛というまやかしがなければ伝染は防げたのは間違いのないことだ。2000年前に生まれた宗教が、科学万能といわれる今の時代にまで続いているのは奇蹟としか言いようがない。神の言葉はそれほどに人の心を打つということなのか。

長い宗教の歴史のなかでは様々なことがあったはずだが、間違いのないことは、過去2千年にわたって一神教信者が暴力によってあらゆる競争相手を排除をし、自らの立場を強めんことを繰り返してきた。そのご利益もあってか現代のグローバルな政治秩序は一神教の土台の上に築かれている。完全とはいえないにしろ、宗教が人類の統一に大きな役割を果たしている。

しかし、宗教に功があるなら罪もあって、『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏はこんな風に述べる。「神や天国のというフィクションを何千万人の人が信じれば大きな力を持ち、飢える者や貧困者に食料を配給し、病院を建設するなど善い力となる。それは神が善いといったからです。しかし、同じフィクションの中で互いが戦うといったような悪いことも引き起こす。

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『天地創造』や『アダムとイヴ』の物語は、『ハリー・ポッター』のようなもので史実ではありません。エルサレムが聖地になるのも書物のそう書いてあるからで、ただの物語に過ぎません。神とはポケモンのようなもので、実際に街を歩いてもポケモンはみつからい。なぜならポケモンはいないからです。ポケモンはスマホのなかにだけいて、皆が奪い合いをしているのです」。

ハラリ氏は人間が神をポケモンのように奪い合っているという。が、彼が著書で何をいったところで、イスラムとキリストの争いがなくなることなどあり得ない。彼らは、「見よ!ここに神がいる。ここが神聖な場所だ!」と書いてある書物を信じているからでしょう。「思考が停止する」とは、イスラムやキリスト他の宗教全般についてもいえるのではと感じてしまう。

思考が停止する理由 ③

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宗教を信じたことはないが、人を信じて裏切られたことがある。信じることは美しいとそんな物語がある。信じて裏切られても美しいことなのか。人を信じるべきかどうかで悩むのが青春期かも知れない。人は人をなぜ信じる?人は人をなぜ信じない?こんなことを考えた時期があった。出した答えは、信じるべきか信じないべきかの判断が大事ということだった。


人を信じることはある場合に正しく、ある場合に正しくない。これが判断であるが、その判断が正しいか正しくないかが難しい。ある女がいた。女には彼氏がいた。ところが彼氏がどうにも怪しいと友達に告げられた。別の彼女の存在である。友人はそれを目撃、彼女に伝えた。彼女は友人にこういった。「わたし彼氏を信じるから…」。自分はその場にいた。          

「友達が証拠を提示しているのになぜ信じるか?」。それに対して彼女はこう答えた。「だって、信じる方が楽だもん」。「信じる方が楽…」ってそんなことってあるのか?自分にまったくない考えに驚く。「信じるのが楽」を言い換えると、「楽をしたいから信じる」となる。ますます分からない。そんなことがあっていいものか?それって思考停止ってことではないのか?

なぜ疑いつづけない?思考とはそういうものではないのか?なぜ停止する。そんなに楽をしたいのか?『十二人の怒れる男』のなかで、「面倒くさいから無罪でいいよ」といった陪審員に、「人の命がかかっているのに、その言い方は何だ!」と怒りを露わにして他人に立ち入っていく。「無罪に投じるなら、無罪を確信してからにしろ。自分が正しいと思うことを貫け」。


日本人ならここまで立ち入らない。なぜなら、「何を偉そうに正義感ぶってんだ!」と詰られる。一人の少年の命がかかっていることへの真剣さである。真剣さというのは何より尊いものだが、「真面目くさって何だい!」と返されるのを怖れ、だから他人に立ち入らない。「真面目くさってじゃない。真面目にやることだろ?お前は何をバカなことをいうのか!」との怒りが沸く。

だから自分も同じようにいう。不真面目な人間を怖れないからか、「信じるのが楽だから」の言葉にはどこか不真面目さを感じた。陪審員と違って他人を審理するわけではない彼女自身の生き方の問題だが、若さは他人を許せない。これを、「孤独な革命的エネルギー」とでもいうのだろうか。自分の信じる価値観を他人に押し付ける傲慢は未成人間の特徴なのだろう。

しかし、友人関係というのは切磋琢磨の関係である。だから遠慮はしない。物怖じしない、若さには怖れはない。宗教家といわれる人がこれに似ている。キリストの言葉、仏陀の言葉、親鸞の言葉を遠慮なく口にする。なぜなら、絶対真理と信じているからである。絶対者が真理であるのは当然なのだと、それらを他人に流布することこそ世のため人のためという。

それが自分には気に入らない。宗教だからというではなく、絶対者による絶対真理というのが気に入らない。宗教を是としないのは、「絶対」を口にするからである。「絶対」を信じない自分は、「絶対者」を信じない。「一神教」を信じない。もしも絶対者が、「こういう考えもあるんですよ、どうですか?」と柔軟にいうなら信じてもいいが、キリスト教は命令ばかり。

「絶対者」の命令は当たり前、神が絶対であることに疑いはないということなのだろう。人は人だが、この世に唯一絶対はないと信じる自分が、唯一絶対神など信じるわけがない。聖書の言葉より、高村光太郎の『智恵子抄』を読むべくそこに愛の尊さを感じる。10代ころの自分は光太郎の『道程』が好きだったが、『智恵子抄』の世界には人と人の愛を感じさせられる。

自分のラブレターを詩にしただけでは?との批判もあるが、多くの人に愛される美しい調べである。佐藤春夫の「倦怠(アンニュイ)」も彼らしい風雅に滿つるが、光太郎の『智恵子抄』は壮大な愛の告白であり、信仰のような愛に思えてならない。人間の愛は無常であるが、彼の『智恵子抄』には正しき永遠が語られている。作中「あの頃」はこんな書き出しで始まる。

 人を信じることは人を救う。

 かなり不良であったわたくしを
 智恵子は頭から信じてかかった。

 いきなり内懐に飛びこまれて
 わたしは自分の不良性を失った。

 わたくし自身も知らない何ものかが
 こんな自分の中にあることを知らされて
 わたしはたじろいだ。

智恵子という女性は生来の無垢性を備えたひと。影響を受ける前から、智恵子風の女性は自分の理想であった。かくして自分の妻もこれまでに出会ったどの女性より無垢なものをもっていた。「人を信じることは人を救う」と冒頭の一句に憧れる。人を信じようとて疑わざるを得ない世に在って、純粋に「信ずる」ことの無垢性が光太郎を再生させている。

光太郎は「自分は生まれ変わった」と告げている。これが深い愛の作用である。のっけに「人を信じるか信じないかの判断が大事」と書いたが、無垢な言葉ではない。「愛」を念頭に考えたことではないが、無垢な愛について書く自信はない。『智恵子抄』の感動は、人間の愛は、人間の愛だけで成長しない。そこには何らかの「信」の世界が必要と教えている。

思考が停止する理由 🈡

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心を病む人に関わった経験からいうと結構難しい。心療は体系化された専門医療行為で、巷にある恋や夫婦や親子関係の悩みとちがい、人によっては大きな苦悩となる。義務でもボランティアでもない他人の悩みに関わるのは元気づけを願ってだが、咄嗟に自殺した女性もいた。人が人に関わる限界を把握し、被相談者は相談者の苦悩を刺激しない配慮が大切である。

個対個における人間関係にあって距離感が大事であるのを知る。苫米地英人に、『思考停止という病』という著書があるが読んではない。「なぜ、人は『考えること』をやめてしまうのか? 最高の人生はあなたの『考える力』によってしか手に入らない」などと大袈裟な営業用レビューが目に付くが、考えることはアイデアを出すことだから、思考停止は確かにマズイ。

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何がしかの問題に取り組むなら思考は欠かせない。強い相手に考えないで指しても将棋は勝てない。同書の読者レビューには、「思考停止の3大要因は、『前例主義』、『知識不足』、『ゴールがない』ことと同時に、これが脱却の秘訣でもある」とある。前例主義とは他人の受け売りのこと、知識不足はそのままの意味だが、ゴールがないとはどういう意味か?

別の読者レビューには、「自らゴールを設定するからコミットメントが生まれる」とあるように、到達したいと願う自己の人間的成熟をゴールというなら、どういう人間形成を目指すかについての目標であり、じっとしているだけで人は成長しない。目標への絶えまぬ努力は必然であろう。「受け売りを知識といわない」というが、自分はそうは思わない。問題なのは受け売り知識の丸暗記。

すべての芸事は模写(模倣)から始まるように、絵画も書も音楽も一切が人まねを出発とするが、やってるうちに真似ではつまらなくなり、人の個性や独自性が出てくる。読書も同様に、書いてある文字を暗記するために読書はしないし、自分の頭で考えながら読んでいけば、ニーチェやカントなどの哲学書を読む際において自分なりの思考が加わるなら、それを受け売りといわない。

受験学力とは機械的な暗記のことをいい、教科書を丸暗記するどこが学力、どこが秀才なのかと思ってしまう。早くから受験戦争に参入する子は、学童期から多くの物を覚えることに時間を費やす。こうしたバカげた受験体制は、国と受験産業との癒着と感じていた。本来教育とは自らの思考を育むためで、それでは過去問データを売りにする受験産業は無用の長物となる。

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欧米に学習塾がないのは教科書の丸暗記力を無意味と見るからで、日本人の読書離れ実態は考えなくてもいい文化に移行する過程なのか?暗記重視の教育体系は国家的な無策である。ノーベル賞受賞の野依良治博士の提言もあったが、ここ数十年来の日本はバカな国民を作ってきたのだろうか。向学心からでなくお金持ちになりたいから東大に行く時代とは野依良治博士。

企業の人材採用プロセスはコストであり、膨大な数のエントリーシートを短時間でさばくことを考えると、学歴を一つの判断基準にするのもやむを得ない。100人のお見合い相手から膨大な写真の枚数や履歴書が送られて来た娘さんのことを考えてみれば分かり易いだろう。企業もお見合いも実際に会って、相手の人物像や人間形成のバックボーンなどを確かめる。

学歴があるから仕事が出来るとは限らない、学歴が無いから仕事が出来ないとは限らないが、難関大学受験を突破しているということは、複雑な事象の理解力、記憶力、努力をする力などが一定水準以上だという一つの証明にはなるだろうが、こうした曖昧な判断以外に仕事のできる人間を峻別できる指標はなかなかない。結婚相手も同様に人の判断の難しさである。

「美人であること、イケメンであること=よい人」に思われがちなのはなぜだろう。人間が、「美」に執着するからではないか。美しいヴィーナスを描く画家が悪魔と思って描くわけがない。古典的ギリシャにおけるヴィーナスというのは、悪魔ではなく神々の一人、人間的な神なのだ。もし、悪魔を美しく凛々しく描ける画家がいるなら、彼の秘された才能には驚嘆するしかない。

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有名大学出身者は仕事ができるであろういい人材、美人やイケメンはやさしくていい人、敬虔なる信仰者は人間的にも素晴らしい、禅の苦行を経て悟りを得た人も同様なりと、これらは一つの判断である。そこで思考を止めるのは、それ以上の疑義を持つ必要がないからで、それを結論とする。無神論者が決して神を信じないのではなく、信じるに値する根拠を求めるから疑っている。

「信じたいがゆえに疑う」のは、妄信に比べて思考の継続であろう。神などいないと思考を止める人もいるが、思考をどこで切るかは人それぞれだ。親鸞の偉大性は、“人間の計算し得る限りの救済概念をことごとく破壊した”点にある。宗教による、「救い」を妄想としても、その反対概念としての、「救い無し」ということではない。はたして、「信仰とは何なのか…?」

親鸞は90年の生涯で幾度もその回答を求められたという。が、正しい答えは不可能と痛感した。人間の言説はいかなる言葉においても曖昧である。宗教という言葉さえ消えたところにこそ真の宗教が発生するのだろうか。こんにち存在する幾多の宗派が、もしもこのまま滅びていくならそれも差し支えないこと。すべては言葉と同様に手垢にまみれすぎてしまっている。

「救い」や「悟り」などありえない場所でのみ信仰が実証される。「救われた」と思い込む、「悟った」と思い込むことは出来る。それで、「幸福」ならそう思い込むは自由だが、このとき人間は思考が閉塞状態に陥っているのでは?「救い」を説かぬ宗教はないが、自己の救済的打算を押しやったところに信仰の本質をみるなら、「救い」は宗教のまやかしとなろう。

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死は確実なる思考停止

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「千々の思いに乱れつつ」人は生き、かつ人は死ぬ。亀井勝一郎は自殺者を非難するのは傲慢とし、「自殺するほどに思いつめたその純粋さにかえって心打たれる」といっている。純粋であるがゆえに人間に与えられた美しい能力ともいい、「自然が人間に賦与する財宝のうちで最もすぐれた財宝は、人それぞれが自殺できること」と、プリニウスの言葉を引用した

無理をしてまで生きることはない。これは一面真理だが、生きる努力を怠ったという見方もされよう。人が生きることは妥協であり、誤魔化しであり、そういう考えに批判的なら自殺は純粋といえるかも知れない。しかし、宗教はこの考えに反対する。キリスト教会が自殺を罪悪視したのは、神に捧げた命、帰依の絶対性から自殺をエゴイスティックな行為と定める。

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     ガラシャは明智光秀の三女。「花も花なれ、人も人なれ」。壮絶な最期を遂げている


「自らを限定するのは自己中心的で宗教的に許されるものではない」というキリスト教思想にショーペンハウエルは反抗するが、“自己評価は曖昧”という観点に立てば、宗教的思想の全否定はできない。人が自分に絶望するといっても、絶望とは自己判断である。しかし、何から何まで他者や神の判断を仰ぐことを正しいとも思わない。自己責任という言葉はそのためにある。

自殺をどうみるか?表向きの同情はあれ、他人からは滑稽に見える。宗教は、「救い」や、「悟り」を説くが、生きる力も与えるのか?宗教が自殺を禁じたところで生きる勇気を与えたことにならない。世の中には自殺を否定する人もいれば肯定する人もいる。言い分はあろうが、理屈をこねたところで自殺を防ぐことはできない。先月、豊橋市内の踏切で女子高生が電車に飛び込んだ。

「踏切内で背を向けて立っていた」と運転手はいう。列車に背を向けるのは恐怖を避けるから?死ぬのが怖い。そのことが自殺の抑止になる部分もあろうし、自殺には相当の覚悟がいるだろう。自殺者の心理は残された遺書などから伺い知ることはできるが、自殺する人がその死の直前までどんな気持ちでいたのかを正確に知ることはできない。すべては憶測である。

もし自殺するとして、その理由を正確に書けるだろうか?「これ」といった生々しい理由があったとして、人間の奥底にある気持ちを的確に表現できるのか?文学者ならできるとしても、遺書が文学的な虚実になる可能性がある。人が曖昧に人生を生きるように、人は曖昧に死を選ぶのかもしれない。だから、「千々の思いに乱れつつ…」人間は生き、人間は死ぬように思う。

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      新しいスニーカーを履いて旅立った少女。女の子らしい気持ちに胸が熱くなる


自殺には大層な理由などないのかもしれない。人が目の前にある生を選ぶように死を選ぶ…。「謎」とは絶対に解明できないから「謎」であり、「謎が解けた」程度のものを謎といえるのか。謎解きミステリー小説などというが、解けないものこそ真の謎であろう。信長を討った光秀の謎竜馬も暗殺の謎、歴史の謎を現代人が知ろうとするが、すべての謎は解釈に過ぎない。

父のこと、母のこと、子どもが親の実体を知る必要はない。親が子どもの実体を知る必要もない。親子も兄弟も所詮は他人、干渉すべきではない。知ることで何が満たされ何の役に立つ?アカの他人への不干渉は善意では?なぜ不倫をした、なぜ離婚をした、親の子殺し、子の親殺しなどは社会問題と思考するのはいいが、動機や真意は各自が推量すればいい。

事実とは本当にあった事、現実に存在する事柄をいい、 真実は嘘偽りのない事、本当の事。 似てはいるが事実は一つでも真実は複数あることになる。したがって、事実と真実が一致しないのは不思議なことではない。なぜなら、真実とは人それぞれが考える本当のこと(事実)であり、客観的ではない主観的なもの。だから100人いれば100通りの真実がある。

西田幾多郎は『善の研究』のなかで、「主観客観の対立は我々の思惟の要求より出ものであり、直接経験の事実ではない」とし、主観客観を意識しない状況こそが西田の説く、「真実の世界」とし、主観客観を超えた純粋経験こそが、「善」であるとした。人間が生きる上において為される、「法の順守」といった社会ルールや道徳なども実は客観的善に過ぎない。

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   「みんなより劣っている」という反省文を学校に提出。本来教師はこういう子の力になれ!


自殺は社会のルールに違反していない。ならば自殺は人の祈りに似た結末の一手段と考えられなくもない。これ以上善くもならず、悪くもならず、可もなく不可もない状況から人は死を選ぶとするなら、その狭間を生きたらどうなのかとの思いを抱くも、死にゆく者に狭間を生きる意味はないのだろう。しようとすればし、しないから死を選ぶ。死を楽な手段と選択するのだろう。

誰も人間を理解できない以上、自殺や犯罪は人間の不可解さから起こる。18歳にて華厳の滝に身を投じた藤村燥は、「万有の真相は唯一言にて悉す、曰く、不可解」。と死ぬ理由を書いている。彼は自ら思索尽くした果てに自殺した。彼の死は彼自身のもの、三島由紀夫の死がそうであるように。それによって思考停止を望んだのなら、何ら不可解と思わない。

心に残る曲 『ホリデイ』 ミッシェル・ポルナレフ

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これまで紹介した6曲はすべて邦楽で、高田真樹子、イルカ、柴田まゆみ、もとまろ、尾崎亜美、中山千夏らすべて女性アーチストだった。邦楽、女性とどちらも多少は意識した部分もあるが、あまり知られていないアーチスト、知られていない曲をあえて選んだことも意識というか、自分の少数派志向にもよる。決して有名な曲、有名な歌手が悪いわけじゃない。

誰もが好む美人が悪いわけじゃない。少し深いことをいうと、自分を試す意味もある。「お前は人がいいというものにしか興味がないのか?」というのは天の声ではないが、liberal信奉者としての自負もある。liberalは、「自由な」、「自由主義の」、「自由主義者」などを意味する英語で、社会的公正や多様性を重視するリベラリズムや、リベラリストを目指している。

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個人の自由や多様性を尊重する、「リベラル」という語句は当初、「権力からの自由」を重視していた。ジョン・スチュアート・ミルはその著書『自由論』のなかで、“他人に危害を加えた場合のみ自由は制限される”、と共存のルールを示している。それが後に、「他人に迷惑をかけない限りは何をやっても許される」という考え方が、自由の定義とされるようになる。

自殺も人間の自由に違いないが、なぜか日本人は自殺をした人に対し、「命は自分だけのものじゃない。産んでもらった親、育ててもらった人たちの命でもある」などという。さらに自殺の責任が親にある、学校にある、級友らにあるなどと責任を拡大する。これは日本人に個人観念が希薄だからだろう。間接的な理由をいえばキリがないが、最後のところは自己責任でしかない。

その反面、何事か不祥事をおこした人が自殺したとしても、自殺原因を追い詰めた側の原因として考える日本人はほとんどいない。死は個人に訪れるものだが、センチメンタリズムを信奉する日本人にとっては、死も全体主義的なのか。と、前置きが長くなった。心に残る曲に洋楽や男性アーチストがいない訳ではない。そこでしょっぱな頭に浮かんだのがミッシェル・ポルナレフ。

はじめて彼を知ったのは、多分『シェリーに口づけ』(1971年)だったかも知れない。原題の、『Tout Tout Pour Ma Cherie』を直訳すると、「全て、全ていとしき君のために」となる。Cherieは人の名ではなく英語の、dearに相当し、『All, all for my darling』という英語表記になろう。原題とは全く似つかぬ、『シェリーに口づけ』なる邦題をつけた当時のディレクターはこう述懐する。

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「冒頭の "Tout, Tout Pour Ma Cherie Ma Cherie" の "Tout, Tout" がキスの音に聞こえるから、『シェリーに口づけ』というタイトルにした」と発言している。「トゥートゥートゥマシェリー」の歌詞は確かにインパクトがあり、耳にも馴染むのか、トヨタ・ビスタやホンダ・ゼストのCMにもつかわれた。自分の選ぶミッシェルの一曲は『Holidays』。邦題は『愛の休日』となっている。

ミッシェルの甘い声が愛の言葉を囁く。フランス語はなんと愛の言葉に相応しいのであろう。自分がこの曲を一押しする理由は、初めて彼女の部屋に行ったとき、二人の会話をロマンチックに演出したかったのか、この曲をバックに流した彼女。「いい曲だね。この曲」、「好きなのあたし…」。彼女の家は大きな邸宅だったが、家族の留守をねらって自分を引き入れた。

 "抱くまでと 抱かれるまでの むだばなし"

これ以上はないくらい、抱き合う前のむだ話に相応しい曲だったが、他に流れた曲は同じくミシェルの『ラヴ・ミー・プリーズ・ラヴ・ミー』でこの曲は知っていた。『Holidays』と同じくらいロマンティックな曲で、ミッシェルの代表曲といえば、この曲もしくは、『シェリーに口づけ』かも知れない。ミシェルといえばソバージュヘアに例の白ブチのサングラスがトレードマーク。

ところがおそるべくはYou-Tubeの時代である。ミシェルの定番コスチュームになる前の、ダサいころの映像を観ることができる。初めて観たときは誰か分からなかった「これがミッシェルなのか?」。中島みゆきではないが、「あんな時代もあったねと…」である。今回、洋楽のトップにミッシェル・ポルナレフを選んだのは、もう一つ理由がある。7月3日は彼のバースデー。

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1944年生まれの彼は今日で75歳。いやいや、人の年齢に驚くばかりだが、あのハスキーな裏声のミッシェルが75歳とは、“そんな時代”なのである。フランス人を初めて知ったのは、シルヴィ・バルタンだが、ミッシェルとシルヴィは同じ1944年生まれだから、シルヴィもおばあちゃんである。あのシルヴィがおばあちゃんなのはミッシェルがおじいちゃんより許容しがたい。

『アイドルを探せ』も印象的だったが、これぞフランスというのをストレートに伝えたのが、『夢見るシャンソン人形』のフランス・ギャルだった。そんな彼女が昨年1月7日に死去したのは知らなかった。乳がんだそうで享年70歳と若い生涯だった。日本で売れた頃の彼女は10代で、まるでフランス人形のような彼女に、多くの日本人がとりこになった。66年に来日公演を果たしている。

人の死の年齢などを思う時、あるいは貧困や差別の実態を前に、「人間が平等」であるのは列記とした嘘。同じバスや列車の事故で、誰かが助かり誰かが命を落とすという現実には抗えない。さて、そんな話題は避けてミッシェルの、『Holidays』を聴いた1970年代頃の自分に想いを馳せる。当時は訳を知らなかったが、聴いてみると何のことかさっぱり分からない。

ビージーズの『Holiday』も超難解曲と知られている。♪ああ、あなたはホリデイだ 本当にホリデイだ。1960~70年代のロック界ではわざと意味不明で難解な歌詞をつけるのが流行った。作ったロビンも聴く人の自由な解釈でいいといっている。感性をそのまま歌詞にしてしまう彼らの独自な音楽世界は、聴く者の琴線にそっと触れ、心地よい空間へと導いてくれている。 


禅と善と前途 

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「ブログをはじめました」。の一言だけで、始まっていないブログにお目にかかることがある。まあ、誰でも始める時はそのように書くだろうから、その後のことを書いたわけでもなく、書かなかった理由を述べる必要もない。始めるつもりだったが、放置の理由はいろいろあるだろう。自分なんかは始めるといったら本当に始めるばかりか、徹底的にそれをやる。

これまで、何事もそうであった。自分にとって、「始める」とはそういうことだからか、人がそうでないのは理由の如何にかかわらず、「始める」が始まっていないのは不思議なことであもあった。それらからも人間は他人のことは分からない。「やる」といったらやる。「やらない」といったら徹底してやらない。これが自分の考え方、生き方で、自分でも好きなところだ。

そういうところの自分を好むのは、自分を裏切らないところでもある。おしなべてそれらは強い意識してやっていることでもあるが、時間が経つにすれ意識がなくなる。最初は意識を強いたとしても、行為はだんだん内面化されることになる。そこまでいけば意識がなくても勝手に行動がなされる。そういう自分であるのを知りながら、あえてそれでやってきた。

そして、それを善しとしてきた。何年かそのように生きてくると、自分という人間の代名詞となってしまう。つまり、自分のことを例える時、長所か短所かはともかく、「自分を一言でいうと、やることはやる、やらないことはやらない。どちらも徹底している」とあらわすことになる。長所・短所は人が決める事。これが自分といい切れる部分であるのは間違いない。

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「自分から逃げるな」、「逃げるより戦え」、「男の一言」、「責任感」、「甘えの排除」などと、それらのものが加味されているのだろう。上の言葉はどれも好きだ。「自分とは何か?」、「自分とはどういう人間なのか?」を知るのは難しいが、自分はこうありたい、そのように向かっている、あの暁にある程度自覚出来たとき、自分が〇〇だと言い切ることは可能。

ゆえにか、「自分は〇〇」といえる。自分が何者かは、自分を客観的に見なければつかめない。主観的な自分は案外思い込みの場合がある。自分を別の自分の目で眺めてみると実に自分が見えてくるもので、そうすることで心の平穏が得られることがある。他人の目で自分を見ることで、自分を落ち着かせることができるから、つまらぬことで怒る自分にも笑える。

つまらぬことを喜ぶ自分に冷ややかでいれる。自身の喜怒哀楽を客観的に眺めると自分の正体が見えることがある。当たり前だが人間が物事をとらえるときに、「主観」、「客観」という二つの対立する立場から考えようとする。人によって個人差があるが、どうみても主観だけでしか視野に入れぬ人がいる。だから信じられぬことをいう。これは女性に多い。

いうまでもない、「主観」とは自分の個人的な感情や価値判断であり、「私はこれが好きだ、嫌いだ」などである。「客観」とは、個人の感情を抜きにして物事の性質をとらえる。たとえば、「これは堅い柔らかい、大きい、小さい」などの判断だが、厳密には「堅い・柔らかい、大きい・小さい」の基準は主観的だ。自己という主体から確実に離れることはできない。

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ということから、主観が強い、客観性が強いなどと意識の軽減の問題となる。「わたしはこれを好む、あるいは嫌う、そういうわたしの心が存在する」というのが自我意識で、対する客観というのは、「わたしが好む好まざるに関係なく、このものは変わることなく存在する」という“物質の絶対性”である。こうした主観と客観の対立に疑問を投げかけたのが西田幾多郎。

つまり、「この世に確かなものなどない。確かに存在するのは、自分なりに感じ取る自分の心である」という考えを「唯心論」とし、物質の絶対性に拘り、「この世は物質のみで動く。見えぬものは真実でない」これを「唯物論」とした。西田は主観客観の対立は我々の思惟の要求より出る以上、心と物事の展開は両者を合わせて一つにすべきではないかと考えた。

そもそも、「私は私だ」、「目の前の物事は私から切り離されたもの」という認識自体が人間の思い込みで、事実の世界はそうした区別なしに存在する。「主観も客観も意識しない状況こそが真実である」との独自思想を打ち出した。著書『善の研究』ではこのように述べられている。「最深の宗教は、神人同体の上に成立し、神人合一の意義獲得こそが宗教の真意である。

即ち我々は意識の根底において自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験する」。少し難しいかもしれぬが西田は、「善とは自分の心の要求に応え、満足の気持ちになる」とする。さらに、「人間にとって最高の満足とは、ちっぽけな思いを超えた宇宙との一体感を得、自身の無限性を感じること」だという。西田はこれを、「純粋経験」と説明する。

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見る自分と見られる物事が区別されずひとまとまりになった瞬間、これを純粋経験と呼ぶ。著書のタイトルに、「善」をつけたのは、「本書のテーマは人生の問題であり、人生にとって本当の善とは何かを解き明かす」とした。あらゆる宗教の根本を、「善」とした西田の思想は、仏教の禅思想が重要な出発点となっている。後に西田は鈴木大拙の影響で禅を知ることとなる。

禅は、まとまった教義をもたない。個々の修行者が勝手に座禅によって悟りを得る。したがって言葉や論理で、「悟りとは〇〇」などの教本がない。「自力求道」仏教を模索した曹洞宗の開祖道元は座禅による修行を説く。「座禅は悟るためでない」とし、「座禅の結果が悟りなのでなく、座禅そのものが、すでに悟りである」とし、これを、「修証一如」という言葉であらわす。

善行についての矛盾

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「君はやっていいことと悪いことが分からない人間なのか?」、「彼は善悪のけじめもつかぬ人間だ!」などは結構耳にする他者批判。こういう批判はそれこそ自分たちが子どものころからあった。教師に叱られる場合は決まってこれだ。このようにいって叱れば教師は立派なひととなる。立派な人だから、相手を叱ることが許されるということだ。が、もし知能の優秀な子どもなら…

 生徒:「善悪の判断くらい分かってますよ」
 教師:「だったら何でよくないことをするんだ?」
 生徒:「人間、理屈じゃないと思いますけどね」
 教師:「君は何をいってるんだ?どういうことかいってみろ」
 生徒:「悪いと知りながら誘惑にかられることってありません?」
 教師:「誘惑にかられようと、悪いことはやってはいけないんだよ」
 生徒:「悪いことってピンキリでしょう?善いことだって同じで、いちいち咎めていてもしょうがないと思いますけど…」
 教師:「なんだ君は?子どものくせに生意気なこというもんじゃない」
 生徒:「あなたは大人でしょう?子どもじみたこというもんじゃない」

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こんなスーパー小学生がいたら面白い。こうまで論理的思考をされたら教師も生半可な気持ちでやってられないが、子どもは扱いやすいようにできているから楽。聞き分けのよい日本の子どもなら、どんなバカでも教師はやれる。善は善、悪は悪というが、ハッキリと二つに分かれているわけじゃない。それこそ小さな善悪についての判断は、個々の主観に委ねられる。

善行という行為は、人に施したり、お世話をしたり、隣人や友人に親切にするなどがある。結構なことだが、それをどういう意識でするか、行為者は問題にされるべきではないか。人に親切をするのは気持ちがよい。利他的行為にみえても実態は利己的な満足感である。親切にした行為は誇りたくもなろう。しかし、善行を受けた側にやりきれない負担を感じさせることもないわけではない。

施した善行の度合いが深いほど主従関係になりやすい。さらには施す側の気持、施された側の態度いかんによって、奴隷関係のようになることさえある。就職や何か斡旋してもらったことで、一生頭があがらない気持ちに陥ることもある。人にこうした貸しを作ることで満たされる人もいるから拘わらぬ方が利口だ。事前に分かればだが…。善意の名のもとに人を利用する人間は要注意。

「人に何かを頼むと快く引き受けてくれた、しかしその後に恩着せがましい言い方をされた」という経験は誰にもあるのでは?自分の周知度でもそういう人間は結構いる。二度と頼むものかとなる。人間関係の学習とはそういう人間を見極めることでもある。こういう気持ちを大事にすべきなのは、逆の場合も起こり得るからで、人間はされて嫌なことは相手にしないようすべきである。

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人を批判することで何かが身につくなら大いに批判すべし。相手に善行をする場合、相手に嫌な思いを抱かせぬよう配慮すべきで、それをしない善行は悪行に等しい。これらは持論である。他人に施した善行を誇り、それを虚栄とし、貸しをつくったと相手を束縛するような人間に成るのはなぜ?人間の性格形成には多くの素因があるが、親の影響が大きい。

子どもに恩着せがましい言い方をする親を踏襲した子どもは、貸しを作りたい相手を好んで探すのか?純粋な善行為が悪に転嫁し、自分が気づかぬうちに人を傷つけることも起こり得る。が、「自分はまったく気づいていなかった」というのは言い訳にならない。そういう失敗を経て相手の心の在処を把握し、嫌な気持ちにさせぬよう少しづつでも配慮していくのが人間的成熟である。

その時は何も問題はなかったようにみえて、先になってギクシャクすることもある。善行はいつ悪に転化するか分からない、そういう自覚の元ですべきである。利が害になることもあるなら、利害なき人間関係に勝るものはない。相手に善意で何かを進呈したようでも潜在的には善意の押し付けだったりする。それで何かがあったときに、そのことを無意識に相手に突きつけたりするものだ。

(あのとき、〇〇してやったのに…)が蒸し返される。関係が悪化した途端、プレゼントを返せというケースは珍しくない。秋篠宮眞子さまのフィアンセの金銭問題は、どうもその匂いがするが、こんな怖ろしいことはない。人間関係は、ちょっとしたことがきっかけでどのようにも変わってしまう。誤解もあれば、思惑もあれば、故意な誘導もある。それらを正しく見極められるのか?

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おそらく無理だ。殆どの人間の心には善人と悪人が同居し、それを踏まえて人間を見るのが常識といっても、これが難しい。やってよくないことを分かってやるのが人間なら、やっていいと分かっていてもできないのも人間。だから理屈通りには生きられない。社会には幾多の矛盾が存在するが、人生における様々な矛盾の根源は、人間が矛盾した生き物であるから起こる。

長いこと人間やれば見えてくる人間の実態。親を大切にせよ、孝行せよと口に出す親がいる。自分の母親もそうだった。父親の理は、子どもの自由を認めることだった。子どもはどちらの親に自発的な孝行心を抱くか?経験がなくとも想像力から答えは出る。人の自然な感情は、相手の自然な心の発露から生まれる。子どもに嫌われる親には必ず原因がある。

コマダイ

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コマダイという言葉から一般人的な連想は駒大か。駒大とは駒澤大学だが、駒台を浮かべる人もいる。将棋が好きな人はともかくとして、将棋を指さない人でも駒台を連想する人もいよう。「それって鯛の種類か?」という人もあれでもいるかも知れん。調べると20種以上の鯛がいる。マダイ、キダイ、クロダイ、イシダイが一般的だが、自分はエボダイの干物に圧倒されたことがあった。

伊豆の網代に行ったとき、で初めて食したエボダイの干物の食感は、アジやカマスやフグの比ではなかったが、産地以外の一般的な市場で見ることはほとんどない。エボダイは正式な名をイボダイといい、古くから築地市場などで、「えぼだい」と呼ばれていた。甘味が強く、身離れが良いため干物にぴったりだが、水揚げ量の減少などから近年は国産のエボダイの干物は貴重である。

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      アジの干物は一枚食ったら、「ごちどうさま」だが、エボダイはなぜか二枚、三枚食べたくなる


たまにネット通販で購入するが初めて食した人はその味に驚くようだ。アジの開きとはまるで違って脂ものって、柔らかいのが特徴だ。ふと思い出したがむか~し、「わたしアジの開き大好きよ」という女に、「おれはアシの開きが好きなんだ」といったことがある。一瞬、意味が分からなかったのだろう。「アシの開きって…??」と口にしながら少し時間をおいて理解したのか、不機嫌だった。

「こんなつまらぬことを考えさせられた」という怒りなのか、顰蹙を買ったのが分かった。時々、顰蹙を買うのも自分をなかなか修正できない。なんとなく分かる顰蹙だが、正確にはどういう意味があるのか、ついでに調べてみた。顰蹙の「顰」は、顔をしかめる、眉をひそめるを意味し、「蹙」は、顔や額にシワを寄せること。つまり、そのような状態で不快の念を示す言葉になったらしい。

それに「買う」をつければ、「恨みを買う」、「反感を買う」と同様に、言動が原因で他人に悪感情をもたれたという意味になる。後で、「冗談、冗談」といっても許してもらえない場合もあり、事前に予測もできないなら“すっかたなかんべ”。表題の「コマダイ」から一人連想を楽しんで書いた。文は楽しみながら書くのがいい。書きながら笑うこともある。実は駒台を自作したということだ。

盤・駒に合わせた駒台も芸術の域になると、花梨や黒檀や桑材用いた高級品となるが、自作をした理由は、最近通い始めた公民館に駒台がないことが理由である。「備品として購入の予定はないのでできたら個人で用意して下さい」といわれた。所有の駒台はすべて6寸盤用で3寸盤には使えない。「大は小を兼ねる」というがこれは嘘だ。ならばと自作をするかと日曜大工店に行き、駒台を2点作った。

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   部材の端切れが詰め放題で100円。後はボンド少々で釘は未使用。製造原価は約110円也


長々と無用なことを書いたが、あったことだけを書く小学生の絵日記風にいえば、結局これだけのことである。もし、ツイッターに書くなら、「公民館に駒台がないので自作した」とたったの15行で済む。が、それでは楽しむための文にはならない。主食も大事だがオカズも大事。想像力こそ人間の息吹であろう。報告書を書いているのではないし、自分がTwitterを好まぬ理由はここにある。

なぜブログを書くのか?自らに問うたことがある。いろいろな要素や理由はあるが、突き詰めると所詮は自己顕示欲と結論した。自己顕示欲があって悪いわけではないが、我が自己顕示欲に向き合いながら、自己顕示欲のよくない点に留意してやればよし。自己顕示欲の強い人間にありがちなのが、他人の注意を惹きたい、自慢したい、人気者(評判)になりたいなどなど。

自己顕示欲は誰もが持つ承認欲求から派生しているので、自分を認められたい、大切な存在として扱われたい欲求が極度になりやすい。存在をアピールしたいのはいいが、見向きされないと落ち込み、人気がでれば“何様”的にもなろう。他人の評価に一喜一憂せず、自らの楽しみでやれば呪縛から解き放たれる。他にもいろいろあるが、これを抑えれば自己顕示欲は退治できる。

自分がいつも思うことは、自分を楽しませること。これが遊びの原点かと。他にもいろいろあるが、書くついでに引用すれば知識も広がり、自分の考えを客観的な視点で眺めることができる。書いている時の意識は主観だが、読み手だけになると、「これって本当に自分が書いたものか?」という視点に陥る。書くとき、読むとき、それほどの違いがあるのは驚きである。

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   自己顕示欲あってのタレント、政治家、文筆家だろうが、Twitterはケンカのツールかい? 

他人がSNSをどういう理由でやるのかを検索してみると以下の記事があった。「SNSをやらない派の人の方が人間関係も快適?」なるほど…。子どものいじめの原因にもつながるSNSは、まさに大人の縮図である。大人だから、言葉を荒げたり、人をボロカスにいっても、傷つかないとばかりに遣り合う著名人がいる。一般人の喧嘩なら目立ちもせぬが、有名人や著名人はマスコミが取り上げる。

「バカだのクソだの」と、いってる自分がバカだと思わないのだろう。「品の悪さよ屁の臭さ」という言葉があるが、それどころではない近年の現象である。こうした行為こそが最も甚だしき自己顕示欲の権化であろう。ネットに老若男女はないから、子ども達はこういう大人のバカ丸出しの言い合いに刺激を受ける。「人を罵倒するにはこれくらい言っていいんだ」とばかり、大人から学ぶ。

TwitterやFacebookに振り回されている人は少なくない。部外者でも他人の言い合いや応酬が気になるようだ。なぜ気になるか?それが刺激となる。静かで穏やかな海原を眺めると心の刺激となる。平穏という感覚も刺激の一つだが、格闘技の刺激もこれまた刺激である。人間はどちらも好む。どちらが好むからと他方を貶す必要もないが、それも一つの自己抑制である。

その箍が外れると、正義論をかざして無用な参入をしてしまう。穏やかならぬ人たちに、「オマエラ、穏やかにせーよ」といって参入するのも解決というより、自己顕示欲である。そんな人たちに何かをいっても所詮は念仏で、飛び火となることもある。注意をすれば、「何をエラソーにいってんじゃねーよバカ」など返される。確かに、SNSに参入しない人の方が快適かも知れない。


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     一日は24時間もあるのだから、頻繁に利用しなければまた楽し。自分と会話することも可能だ


コマダイの表題がどこがコマダイ?で終わる。以前、こういう体験があった。ある映画の感想を書いたとき、「駄作の映画レビューです。これまでぼくが見た最低のレビューでした」。コメントの主は内緒の投稿で、彼の誠実な気持と自分は受け止めた。おそらく映画だけのレビューを期待したのだろう。そのことに罪はないが、自分は純粋な彼に罪を作ったと感じた。

コマダイの表題に期待して読む人もいようが、物事を直感的に結論づけようとすると、裏切られることもある。自分も若いころはそうであったし、裏切られっぱなしで腹の立つことが多かった。事実はいかにも気まぐれで、事実が容易に真実を語ろうとしない苛立ちだった。認識の過程はオワリのない過程である。自分の思いと違うものを許容する術を学ぶのが人間の生きる過程か。

小冊子に秘めた恋

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時々書棚から手にとる本がある。かつて全書判と呼ばれたサイズだが、現在ではB6判変型もしくは小B6判と呼ばれる。現在の文庫判と呼ばれるのはA6判(105×148)で、それより幾分大きめの117×174となっているが、ハードカバーでケース入りと豪華仕様。昔の本の造りは丁寧でゴージャスだった。大切な本のタイトルは『愛の無常について』、著者は亀井勝一郎である。

大切にする理由は後に記すとして、213ページの同書は何度読んでも読みつくせぬ発見がある。目次は4つに分かれ、第一章「精神について」、第二章「愛の無常について」、第三章「罪の意識について」、終章「永遠の凝視」となっている。「人間とは何であるか」、「汝自身は何ものであるか」などの命題が、哲学者でない亀井の観念性を排除した世俗的視点で記されている。

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序文の書きだしは、「己を白紙に還し、すべての偏見、先入観、イデオロギーといったものを捨て去って、たったいま生まれたばかりのような眼で、人間をみられないものだろうか」とある。己を白紙に還す…そんなことができるのか?すべての偏見や先入観やイデオロギーを捨てろ…そんなことが可能か?だからか、「…ものだろうか?」となっている。

白紙に還すとはこれまで得た知識・経験を排除し真っ白にすること。パソコンのハードディスクの初期化はできても大脳のフォーマットはできない。一切の偏見、先入観、イデオロギーを捨て去って生まれたばかりの子どもの眼で人間をみれば…これは比喩であろう。「無心」が比喩であるように。老荘を「無の思想」というが、完全無欠の無にはなれない。

一般的に無から有は生まれないとされるが、「有は無から生じるる」との考えが老荘思想。老子第四十章は、「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」とあり、「有は有自身から生じるもので、有を生ぜしめるような他者はない」との意味だ。人間の言葉はありのままの真理をあらわすのに不向き。それが、「弁ずるは黙するにしかず」(荘子)などとなる。

沈黙だけが真理を伝える唯一の道ではないが、沈黙は言葉に対立するもの、互いに対立するものは同じ次元上にある。観念的な思想に惹かれた頃が懐かしい。分からぬことを分かっているかの如く振舞うのが若者で、自分もそうだったが、今では、「観念など所詮は空論」と思っている。空論と知りつつ観念的な言葉で自己を誤魔化すことを無意識にやっている。

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日本社会党はかつて存在した政党。理念を持たない“観念の政党”と揶揄され、停滞から凋落を辿り、遂には消滅した。自衛隊を違憲とし、90年の湾岸危機の際も自衛隊派遣に反対するなど、党内の現実路線と原則路線の対立が激しく、途絶えることがなかった。山花委員長時代の執行部にあっては、現実的な社民主義に転換させようと奮闘したが実現しなかった。

日常において現実と観念は対立しながら共存するが、原体験の少ない若者が観念を拠り所にするのは仕方ないことだが、耳順の域になれば観念思考は卒業すべきではないか。おじいちゃんが孫に観念的な誤魔化し言葉を諭しても知恵とはならない。現実社会の先人としておじいちゃんとしては、現実と観念の間におこる矛盾対立を分かりやすく諭すべきではないか。

「観念論」はキリスト教哲学からのドイツ観念論の系譜である。対する「唯物論」はヘーゲル左派からのマルクス主義で、「実在論」は新しい言い方だ。観念論といい始めた理由は、世界全体を神の観念に帰し、神が世界を調和の下に統治をするとの理屈が、教会や王室や哲学者の権威付けに必要であり、世界全体を神の観念に帰したかったということだった。

世界は観念で動いてはいないが、我々は自身の観念の中でしか世界を認識出来ない。が、世界は物質だけでもなく、ノーベル文学賞を受賞したラッセルが、「第三の実在」という論文で述べている。平たくいうなら、観念でも物質でも無い何ものかがあり得ると言う事だが、一般的な観念論者にはそこまでの素養なきままに、現実逃避を言葉で操っているよう感じられる。

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現実への無責任に徹した人たちは、観念論を知的優越感として楽しんでいる。この世は物質で構成される実在であるが、認識するに当たっては観念的でしかない。「実在論哲学」なる思考法もあるが興味はない。自分はひたすら実用主義的でありたい。実在は果たして観念なのか物質なのかより、「実在をどう捉えるのが正しいのか?」について考えたい。

プラグマティズム(実用主義)は、概念や認識などの客観的な結果で科学的志向するヨーロッパの観念論的哲学とは一線を画すアメリカ的な哲学である。20歳前後の青年期にはじめて手にしたドイツ哲学書の感覚は奇妙なものだった。とんと理解できぬ深遠な世界がそこには記されていたが、内容に気後れしながらも、解かったような顔をするのが関の山だった。

あれが若さ、あれを若さという。同じ観念世界であれ、文学にはそこまでの難解さはなく、抽象的観念小説に苛立ちは起こらない。酔うことのできない味気無さはあっても、まったく書物に届かないもどかしさはない。いろいろと過去の体験を思考すれど、難解な哲学書を前にしたときの、あの異和感の正体を説明するのは難しい。40年以上前の記憶をとどめてはいない。

難解な哲学書は知識の習得なのかカッコづけなのか、後者は若者の特質であろう。現代の若者はどうなのだろうか?まあ、せいぜい背伸びをするがいい。そのうち疲れて踵を地につけるようになるとは思う。物事が分かることの最も大きなことは、自分を分かることで、古人はそれを「足るを知る」と形容した。自らの自尊心に問いかける時期はおそらく到来する。

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自分は五賢人から触発は受けた。『愛の無常について』は、その先鞭だったろうか。この書籍は戴いたもの。それもあってか頁を開くときに相手女性の面影の一切が今なお自分の脳裏に棲みついているのを感じるのだ。若いというのは何にもまして初心であり無知であって、人の心の中を覗き見ることをできない。予感と想像だけが心のなかを通り過ぎていく。

しばしば人はこんなふうにいう。「あの時〇〇だったら、彼女と〇〇だったかも知れない」と、これも過去の悔いの一つである。〇〇ないからよき想い出だ。同窓会でも同じ言葉のやり取りがある。「ずっと君(あなた)のことを好きだった」、「あら、言ってくれたらよかったのに…」と、過去を現在時間で話し合うが、同書の終章「永遠の凝視」とは言い得ている。過去の実践なきに罪はない。

永遠の凝視

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永遠の凝視について亀井はこんな風にいう。「何を凝視するか。いうまでもなく人間の状態を、その矛盾を、その懐疑を、その抵抗を、反宗教的なものすら凝視して止まぬものでなかったならば、大慈大恋とは言えますまい。背信をも、敵をも、全衆生を凝視することに於いて摂取不捨であらねばなりませぬ」。随分と多くのものを凝視する必要があるものかなと。

亀井はキリスト教を捨ててマルクス主義に傾倒したが、「三・一五共産党弾圧事件」で逮捕され、重大容疑でないにも関わらず2年6か月も独房に収監された。この時亀井は組織離反を決意したが、そのことで裏切り者・背信者の謗りを受けることを何より恐れていた。結局亀井は共産党活動転向上申書を書いて釈放となる。これはまあ、キリスト教弾圧の「踏絵」のようなもの。

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その後亀井は親鸞に傾倒する。亀井はこんにちの宗派仏教を否定し親鸞唯ひとりに直結する浄土真宗門徒であり続けた。亀井は、「救い」を求めて仏教に思いを凝らしたと述べている。キリスト教からマルクス主義へと流転の人生を送った亀井にとって救いは必要だった。したがって、仏教に入信すれば安心が得られる、心の動揺も収まり、悟りも開かれると期待した。

ところが、親鸞に邂逅してその思いは完全に破砕されたという。人間として悟りを開くことなどあり得えうべからずと考えたからだ。親鸞の文献を読むにつれ、入信すれば益々不安になる、地獄は一定棲家というところへ追放されてしまう。自己計量による一切の救済観念の破壊であって、救われるどころではなかったというなどは、亀井の感じた難解な思いによる。

賢人の思考回路や思索は一般人には難しい。亀井はそれらについてこう述べる。「仏性とは眠りを覚ましてくれるものでなければならず、これまで見えず、無自覚に過ごしてきたものを、ハッキリ見せてくれる明確な、「知性」、永遠の知性でなければならなかった。愛の無常も、罪の意識も、我々のはからいでなく、この与えられた明晰の所作であらねばならない。

その『我』を絶えず警戒する一つの叱責であるべき筈のもの。だから入信すれば不安になる。救われざる存在の確認になるのです」。この意味を理解しようとするだけで相当に頭を酷使せねばならぬが、これは凡人が賢人に少しでも近づくためでもある。亀井は親鸞に触れることで、「私はあなたを慰めることが出来ない」という親鸞の声を聞いているのだった。

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そこで彼が至ったのは、永遠の愛というものがあるとするなら、それは永遠の凝視でなければならない」に辿り着く。つまり仏性とは、一人間を永遠に凝視してくれる明晰の眼であり、人間社会に在って誰が永続的に瞬時も休まず自己を見つめてくれているか。それは親子と恋人かも知れない。それとてやがては途切れる。「私はこの寂寥のうちに仏性の凝視力を仰ぐ」。

何という表現であろう。何が頭の良さかといわれもするが、「賢人」というのは感受性に長けた人をいうのではないか?凄まじき洞察力を感じる。終わらぬ愛は続くもの。愛に於いての永遠なるものを『智恵子抄』に見るが、愛の無常性はそこらに散らばっている。それを、快楽と幸福の哀しさと呼ぶのは間違いともいえまい。瞬間の恋、瞬間の快楽は打ち上げ花火のようでもある。

人は恋や快楽に溺れるが、始めない恋に終りはなく、始めぬ快楽に哀しき結末はない。人の心には偶像化された誰かが存在する。異性であったり同性であったり、先人であったり、それらは永遠の凝視である場合もある。中でも異性に対する執着心は、恋愛という至上の幸福にもとるからだろうが、いかに文明が進歩しようとも、恋愛が進歩することはない。

恋愛とは原始的であり、女を追う男の眼にはまるで獲物を追う猟師のごとき目の輝きがあるが、どのように錯乱したのか、実際に追いつめた異性を殺してしまうのはあまりに解せない。もっとも、捕らえる時点で誤った行為であろう。恋愛は主体的であらねばならない。最近何かと殺人が多いように感じる。人間は獲物ではなかろうが、もしやそのような感覚なのだろうか。

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人間は他人について空想的であり、自己に於いてもそうである。相手の僅かばかりのことに慰められるのは、僅かなことが自分を悩ますからである。愛は一般的に無常である。常に変化し、一定でないことを無常という。時間の中にあるもは絶えず変化をするように、愛も時間の中にある。時間的に限定を設けた愛など存在するのか。おそらく存在はしない。

人は永遠に愛を欲するが、愛は無常である。「永遠の愛」という響きは詩的で美しい。詩人は愛を盲目に描くが、詩人であるがゆえに許される。「旅に出よう」という詩を書いて、本当に旅立った高野悦子。彼女は20歳であった。彼女がなぜ旅立った理由は分からない。多くの人がその理由を知ろうと彼女の日記を求める。人の死ぬ理由をなぜ人は知りたいのか?

なぜ山に登る?「そこに山があるから」。なぜ旅にでる?「旅に出たいから」。なぜ自殺するのか?「死にたいから…」。素朴だが正直な理由である。「生きていたくないから…」と、これも同じ理由。もし自分が自殺するとして、死ぬ理由を正確に書けるだろうか?おそらく書けない。察するに遺書は未練であろうから、未練たらしく遺書など書かずにどこかに消える。

黙して死ぬのが美しい。「葬式無用、戒名不用」と要件だけ伝えた白洲次郎の粋。ニホンザルのボスは死期を迎えると行方不明になる。人知れず(猿知れず)奥山に身を隠すという。人はなぜにそれとわかるように自殺するのか?これとて自己の顕示欲か?自然に訪れる死を待つと思うが、身内以外の他人に死骸をみられたくはない。ならば、「葬式無用・戒名不用」となる。

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教養と言葉づかい

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「教養」は様々に解されるが、端的にあらわれるのはその人の言葉づかいと感じていた。「言葉は精神の脈絡」というように、乱暴な物言いやバカ丸出しの言葉づかいの主に尊敬や教養を感じることも見出すこともない。人の言葉づかいは教養の問題以前に、その人のなかに入る玄関口のようなものであり、乱暴な言葉を使う人間の中に入ろうという気がおきない。

言葉は玄関口の立て札であり、美しい言葉づかいの女性は魅力的。人と人の結びつきは言葉を通じて以外にない。黙っていても分かり合える関係を、「阿吽の呼吸」というが、長年の人間関係におけるご褒美であろう。言葉が意識の代用なら、心にあるものを正しく伝えるのは難しく、言葉で何かを発しても、口に出しては言い表しきれない沈黙の部分は必ず残る。

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それらをこまやかに察し合うところに真の愛情をみる。人は人を理解し合うことによって結びつく。言葉の問題をさらに深めていくと、相手が言葉にあらわせられないものや表現しきれない沈黙に対する心づかいや、思いやりこそがその人に寄り添うことではなかろうか。神経が粗雑で行き届かぬ人間には、配慮という心遣いにおいて教養の欠片もない人間である。

彼らの乱雑な言葉の裏にあるものは、何事においても勝利者ごときの振る舞いは、常に他人の上にいたいとのお山の大将気質は、幼稚さ丸出しと考える。高学歴で読書好きで博識であるとか、社会的に認知された職業従事者であっても、神経粗雑な人間のどこに教養があるのだろう。人へのこまやかな神経をもつ女性には人への暖かさという教養が感じられる。

心の美しい女性は言葉にあらわれる。美しい言葉づかいが生育環境に起因するなら、「育ちの良さ」そのことが即ち教養である。そうした女性は極度に自己を誇示しない、自身を過度に目立たせるような化粧もしない、衣装などの召し物についても奇抜なものを好まないばかりか、上品な仕草や態度にもあらわれる。これらは自己顕示欲を抑制する美しさである。

かつて女性のは茶の湯(茶道)やお花(華道)というたしなみがあった。さらには上流階級の子女たちは礼作法を身につけさせられた。今川流、伊勢流、小笠原流が有名で、これは室町時代に将軍・足利義満に仕えた今川氏頼・伊勢憲忠・小笠原長秀の3氏によって『三議一統』として完成された武家の礼法である。茶道・華道・礼法はいずれも婦女子の教養である。

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かなり親しい友人に、「お前は何でブサイクが好きなのか?」と聞かれたとき、「隠れた美を見つけるのは愛情よ」と答えたことがあった。「その言葉にはうならされる」と彼はいった。「うならされるならお前もやったらどうだ」というと、「うならされるって、自分が真似のできないことをやる者への賛辞。俺には絶対に無理だし美人がいい」と筋の通った正直な言い方である。

自分ができないことを批判する者、できないことを讃える者。前者は卑屈な人間で、友人にするなら後者である。人はいろいろだから、付き合う相手を選べばいい。「お前はブス好みの変人と思っていた」という彼に、「他人の好みはワカランだろ?自分以外のことは興味なくていい」といいながら、「一見美しいものってなぜかすぐに飽きるよ」とホンネを晒す。

「あばたもエクボ」は、好きになればブスも天使と解されるが、これは表面的な事象をオモシロオカシクいったまでで、内面の美しさを賛美していない。美しいものの本質は隠れていることが多い。隠れて存在し、見つけてくれるのを待っているかのように自分には映る。17歳の時にブサイクでアカギレまみれの女性に抱いた恋心は、彼女の日常生活への敬愛心だった。

初めてデートをしたとき、指定されたのは早朝の五時だった。そんな時間に二人は海岸で待ち合わせ、一時間ばかりそこにいた。家事を抱えた忙しい彼女は自分の時間すら持てない奉公人のようであった。切られる時間は充実するもの、二度とできない恋の想い出に感謝。彼女から漂うほのかな香りと熱気は、「なぜ?」であったが、二つの意味は今なら判る。

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愛情は隠れた美しさを発見する。誰もがすぐに目につく美しさもあるにはあるが、目につきやすいものは飽きられやすい。自分以外は容易に分からぬ美しさは愛情なくして見つからない。こうした「Principle」を自らに植え付けることで人は自らに誇りを持つ。外野の騒音を気に留めることもなく、他人に説明して自己正当化の必要のない確信的な誇りである。

決められた寿命を楽しむこの頃だ。12月15日だからもう半年を切った。引っ越しをしないのはそういう理由もある。慌てず臆せず文句も言わず、せっかく与えられた機会をポジティブに受け取り、初体験を楽しむ。書き物は書くときこそが楽しいもので、記事は消えないから残っていたにすぎない。消えるというならこの際過去に決別できるよいチャンスと捉えられよう。

汚い言葉での批判社会

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汚い言葉の横行は顔の見えないネット時代の特質である。見ず知らずの他人とはいっても、敬愛心のなさが見せる態度は、他者の自分への警戒心もあるのだろうが、あまりの自意識過剰で、こうしたことが背景にあると考える。人のことはともかく自分の場合、見ず知らずの他人だからこそ気をつかった対応をするが、そうした敬愛心は自然と湧くもののはずだ。

見知らぬ他人、初対面の相手に非礼でガサツな言葉を放つ人間というのは、自分なりに分析すると、見下した物言いをすることで、自分を相手より上位に置きたいのだろう。さらには他人を言葉汚く罵ることで自己の価値を上げていると錯覚している。他人のことゆえ正確には分からないが、そうしたことを含めて人への敬愛心が薄れた時代になっている。敬愛心も一つの、「愛情」の示し方である。

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「天には星、地には花が、そして人には愛」というのは、いい言葉だが、自然なものを示している。前の二つは変わらぬが、人に愛は自然ではなくなった。人間が知性より知識を重視するようになったのは受験制度の影響もある。誰より多くの知識を持った者が認められるシステムの弊害だろう。真面目に生きようとする人を小馬鹿にする人間は知性も教養もない人間」と自分の目には映る。

知性や教養は先ずは言葉の使い方や所作にも現れるもの。他人から賢い人間に見られるには、高学歴・高偏差値というのが目安になっているようだ。「そんなことはない」と断言して見ても、それを信じる人には猫に小判。日本人の最高の頭脳は東大医学部生と世間は認めている。それが現代的水準ならいいとして、頭の良さとは別の人間的魅力ということについての考えを排除してはダメだ。

この世の誰もが自分は、「魅力的な人間でありたい」と願っている。そうなれば誰からも好かれる、異性にもモテる、社会的にも認められる。しかし、そういう魅力づくりってどうやれば?そんなことは学校でも塾でも親からも教わらない。自分が本当にそういう人間になりたいと思えばこそ身につくものではないか。つまり、人間的魅力ある人間を目標に掲げていろいろ努力をするからだと思う。

そのためにはどうするかの方法で、先ずは嫌な人間になるのを避けるが手っ取り早い。人間がある種のズルさ、ズル賢さをもっている。その一例として我々は、善意の心から自分が暇である時にだけ、なにがしかの活動に出向いたり、署名なんかしたりで、社会奉仕をしたりするが、世の中には、「真善美」への希求がある。ズルい人間は、「何も自分がしなくても…」などと塀に隠れようとする。

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「自分よりも善意な人はいる」、「お金持ちはいる」のだから…、というのが言い分のようだ。何事も、「する」自由、「しない」自由が認められているから、「しない」ことで後ろめたさを感じることもない。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」(世界人権宣言第一条)。とあるが、この場合の自由の定義や概念は観念的であるようだ。

「真善美」の真は虚、善は悪、美は醜と表裏である。、自由はまた善の妨げにもなっている。残る美はどうか?真に生きるも善に生きるも無理だ、難儀だからと避けているが、「美学に殉じたい」、「美しく生きたい」ならやれると、色々思考すれば、美にはどこか真や善が関わっている。つまり、真を見ることに臆病のまま美を生きられないし、善に臆病で美を生きることもできない。

物事は何かと何かが関わっているものだと、書き物をすると如実に感じる。何かに特化して書かない限り、下手をするとまとまりがなくなるほどに物と物、事と事は関連する。不思議というより面白い。まさに、「風が吹いたら桶屋が儲かる」がこの世の実態である。したがって無理をせずに自分にできることは、真と善に妥協しつつ美を生きること。これもズルさであろう。

ズルなくして人間が生きることは出来ない。昨今、盛んに問題視されているのが秋篠宮家の長女眞子さまの婚姻問題である。世界人権宣言に触れてみて、この件の最終的判断は誰がすべきかと考えてみた。もしも敬虔なキリスト教信者と、神仏など無いがごとくの無神論者の男女が恋愛したとする。キリスト教信者同士は大反対するが、同じ無神論者の友人たちは、「へ~」程度である。

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なぜなら、前者は枠に嵌った人間、後者は枠のない自由な人間であるから、「ま、うまくやれよ」で済むがキリスト教信者は、「無神論者の彼を理解してあげましょう」などと思わないだろう。理由はいろいろあるが、日曜日に教会に礼拝に行くのを、無神論者は理解できないばかりか、「そんなことをやってる暇があるならもっとやることあるだろう」と思う。自分なら間違いなくそう思う。

これはキリスト信者にしか分からない。分かっても理解することが苦痛となる。ならばそんな相手はハナから排除するのが後々のため。理解するのが愛というが、愛は無常である。狭い枠の中の眞子さまと、小室家とは自由度がまるで違い、自由主義者の自分なら後の不自由を勘案して、彼女と恋愛すれど結婚はしない。「やり逃げするのね」と眞子にいわれてもだ。

面白おかしく言ったが、眞子さまの自由な自発的思考は皇室内にあって不幸かも知れぬが、最終的な人間の幸福とは何かについて、秋篠宮家を始めとする皇族方々の定めと、恋煩い中の本人とでは乖離がある。本人重視か皇室全体の考えのどちらを選択するかで、前者以外に眞子さまの婚姻はあり得ない。今彼女は望んでいなかった境遇を呪い、苦慮しているのだろう。

一昔前なら天国で結ばれる恋もあり得たが、今の時代にそれはなかろう。昭和32年の「天城山心中」は、旧満州国の皇帝愛新覚羅溥儀の姪で、溥儀の実弟愛新覚羅溥傑の長女愛新覚羅慧生と学習院大学の男子学生の大久保武道は、1957年12月10日伊豆半島の天城山において拳銃で頭部を撃ち抜いた死体で発見された。後年これは大久保の無理心中と断が下されている。

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教養と愛情の関係

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「教養と愛情の関係」という表題は、自分しか分からぬ隠れた美しさ、善いところの発見は、愛情なしでは見つからないという意味だ。多くの人が見逃して素通りするものに立ち止まれるのを教養と見立てるなら愛情と教養は結びつくことになる。人が気づかぬものに気づいたり、見過ごすものに立ち止まるのは、頭脳の明晰さというより教養という感受性である。

教養人たる自覚はないが、誰も気づかぬものを発見する力は能力であることには違いない。教養なき者、程度の低い者は、目立つものにしか心を惹かれないのだろう。人間であれ物質であれ、田舎の景観であれ、都会の喧騒であれ、そこに些細な何かを発見する能力、それすらも感受性である。ず~っと前にだが、女性の化粧についてのある発言を覚えている。

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「最上の化粧とは自己をあらわにするのではなく自己を隠すため」という言葉。女性の化粧について何人かに聞いたが、マナーという回答が多かった。「そりゃ綺麗になるためでしょう。私なんか2時間くらいかける」という女性に教養らしきものを感じなかった。おそらくは、「自分を隠すため」という言葉の影響かも知れない。何事も過度は過激と捉えられる。

男には分からぬが、化粧一つに思想があってもいい。昔の女性が『伊勢物語』や『源氏物語』を読むのは自己教育のためで、他のひとより文化的水準をあげるためであった。現代でもカルチャー教室で『源氏物語』を教材にとり上げ、男の一生や女性の一生について様々に思いめぐらせることは、歴史の知識というより人間の生き方としての教養であろう。

教養を学ぶといえば大学の教養学部がある。何を教養とし、何を学ぶのかは、イメージすることさえ難しい。実際問題、教養学部においては特定の学問の枠にとらわれず、さまざまなの学問分野を自由かつ横断的に扱うことから、“リベラル・アーツ”と呼ばれることもある。学んで身につける教養より、自分に合ったものを自己教育力から得るのが分かりやすい。

粗雑・乱雑な言葉づかいには教養の欠片もないと批判するのも自己教育力。「あなたはそういう人を見下している」などは思い当たるフシのある人間の戯言である。他人の批判を糧にするか、自尊心確保のために抗うかは人次第で、中一の時に級友から貶されたことを素直に受け入れたのは、頭が柔らかい年代であったことが幸いした。以後は他人から学ぶのは習慣となる。

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人は自分が見えず、自分ばかりを見ている他人こそが自分を教えてくれる。自分のことは他人から学ぶべきだが、他人の指摘にムカつき批判を返さねば生きていられない人間もいる。同じ批判であれ、自己を向上させるための批判と、自尊心を守るためにする批判はそれほどに違う。知人でもなき他人の事など知ったことではない。口出し無用につき批判すらも湧かぬ。

教養を身につけたい人もいれば関心なき人もいる。なくて困らないものだが、身につけたいものだけが努力をすることになろう。ブログは他人との接点であり、何があっても驚くことはない。つまらぬ人間と敬愛すべき人間がいるだけだが、折り合いをつける生き方を身につけるも広義の教養である。ムカつく相手にムカつくようでは児戯にもとる行為であろう。

何かを思いつめる人、思いつめない人がいるのをあらためて実感させられる。他人を極度に意識するあまりに自己妄想に駆り立てられるのは、傷つきたくない一心の脆弱さである。人は誰も傷つきたくないが、それが極度に嵩じると他人を傷つけることが自己防衛となる。これがいじめの原理で、いじめられたくない人間は他人をいじめて快感を得る。だからかいじめは減らない。

かような倒錯心理は、他人を蹴落とすことで満たされる競争社会の原理ともいわれる。自分を何とかすることが何より先決だが、他人からの攻撃に敏感になりすぎるあまりに先手で攻撃を撃つ。「思いつめる」のは、もはや社会病理であろう。若者からこんな相談を受けたことがある。「他人や周囲の目が気になります。どうすれば気にならないようにできますか?」

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自分はこう答えた。「気にしないようにすれば気にならないのでは?」。いたって真面目に答えたつもりだが、期待したものと違ったのか、「そりゃ、そうですけど…」と冴えない。「どうすれば気にならないようになる魔法の言葉なんかないよ。あるのは実践のみ。そういう意味でいった」。行動は力仕事だが、近年の若者は横着になって、理屈ばかりを求めて楽をしようとする。

情報社会であるのは認めるが、どんなことにも理屈が添付される時代である。あり余る情報から即したものを探すのも方法には違いないが、やってみるしかなかった時代にあって、それも一つの答えであった。身体で当たって突き止めていくそこに横着さはない。「案ずるより産むが易し」は昔の言葉。お産の不安を解消するものだが、この言葉は様々なものに置き換えられる。


近年、教育も恋愛も宗教も学問として体系化され、理屈がまかり通るご時世だ。が、子どもの頃から不思議だった言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、誉めてやらねば、人は動かじ」という山本五十六元帥の言葉。なぜに不思議かといえば、元帥なら何でも命令できる立場だが、「やってみせ」の言葉に山本の教養と愛情を感じる昨今である。

blogで教養を学んだか?

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「死ぬまで生きよう」と始めたブログは12月までの命。FacebookInstagramにおされたyahoo blogの命運か。過去に固執しないのが若さなら、自分の中に若さはまだまだ残っている。未来はないが明日は必ずくる。刑務官による死刑囚について書かれた本を読むと、彼らは刹那な日々をとてつもない充実感をもって生きているというが、同じ気持ちを記事に反映させたい。

人間は普通に普段通りに生きていると、普通に普段通りの人間に見えるが、何かが起こるとこれまで隠していた内面が突如あらわれる。過去そういう場面に幾度となくでくわした。他人だけでなく自分にも起こることだから、隠された自分の一面が露わになるような、何か特別なことがあったかなかったか。いろいろ思いだすうち、45年前の恋人との再会したのは大きなサプライズか。


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これくらいしか思いつかない。彼女との再会で種々の体験を得た。人生とはめぐり逢いという。亀井勝一郎は「邂逅」と表現をするが、不思議なことにめぐり逢いとは多くの人間のなかから一部の人間だけが招待される。我々はめぐり逢う人たちから影響を受けたり人生の糧にしたりするが、遠き昔の恋人との再会で何より印象深く感じたことは、パスカルの下の言葉であった。

「彼は10年前に愛したその人をもはや愛さない。それもそのはず、彼女はもはや同じ彼女でなく、彼もまた同じ彼でない。」

自分の視点だけでなく相手からの視点にも言及されている。めぐり逢いといっても個々の交際には長短深浅がある。素晴らしい人との出逢いもあれば、ずるく卑しい人間にめぐり逢うこともある。出逢ったばかりに命を失うことになった人もいる。これをどう捉えればいいのか?その人の人生の最大の不幸であろう。折角いい人にめぐり逢っても感受性が低いと何も得れない。

お世辞の類もあろうが、「あなたに出逢えてよかった」といわれたことがある。「ボクから何かを得ようとする力をあなたが持っていたからでは?」と返したが、テレではない正直な気持ちである。いかに送信が強かろうと受信の感度が重要で、感受性は人を成長させる。相手になにかを与えたい気持ちで発しても、受け手あっての物種。このことは恋愛についてもいえる。

世間はプレゼントのやり取りを愛の交換というが、この考えは自分には全くない。相手に何かを贈りたい気持ちは、そうしたくてたまらない時になされる。それが愛情などと考えたことも意識したこともない。それを客観的に愛情表現というなら勝手にいえばいいこと。自分が気にいらないのは、クリスマスやバレンタインやバースデイを愛の特別の日とする世間の習わしである。

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世間とは社会である。世間とは他人という考えもできる。欧米の個人主義のように人は人、自分は自分志向の強い自分だから、世間に身を委ねるより自己の考えを優先する。人がやるからやる、やらねばならないというのは自分の行動基準とならない。自分を綺麗ごとをいうと見る人がいるが、綺麗ごとを嫌うのが自分である。他人の判断は各人の利害でなされる場合が多し。

が、他人の見方はその人独自のものだから、尊重してあげればよいこと。100人いれば100通りの自分が存在することになるが、愛ある進言か憎悪の中傷かを吟味し、プラスになることを適宜取り入れればよい。クリスマスやバレンタインデーを愛の日とする、そんな素朴な時代もあったが、昨今の目に余る商業主義、商売戦線にはうんざり。彼らは愛すらも商売にする。

みんながやってることをされて何がうれしいというより、バカげたことだと感じる自分をへそ曲がりという友人がいた。自分は腹を出して、「見てみろ、へそは正常だ」と冗談をいいながらも、人と同じことをしたくない自分は他人から見てオカシイと思われて当然と理解してやる。「一寸の虫にも五分の魂」という言葉を思い起こしながら、その考えで他人を尊重する自分。

しかし、暴力・暴言、いじめや傲慢、我欲や嘘つき、裏切りなどは批判も非難もし、何でもカンでも他人を尊重することはない。それこそが善悪良否の判断である。他人から善いものを学び、悪いものを排斥するのが理想的な人間関係ではないか。孔子は、「益者三友・損者三友」という言葉で、付き合って益のある友人、付き合うと損な友人をそれぞれ三人挙げている。

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立派な言葉は沢山あるが、身につけようとしないのも人間である。良い言葉を頭においていても、その時の利害で人間は行動をする。これらを逆に考えると、自分の得や利にならぬことの多くに善がある。投資詐欺に合わぬ方法は、「そんなうまい話はない」と否定的になること。騙す者の責任を問うたところでお金が戻らぬ以上、騙された側が責任を負うしかない。

「舌きり雀」や、「花咲か爺」など、内外にも人間の我欲を慎む話は山ほどあるが、他人から学ばぬ者は賢くならないと思っている。こんな言い方は他人が見れば綺麗事に見えるのだろうが、実行伴う自分にとっては当たり前の事で、愚かな自分を善しとし、肯定して何も変えずに生きて行くのと訳が違う。人間は愚かさを排除するのは難しい、だからやりがいも感じる。

blogで教養を学んだか? ②

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有益な友人は三種あるというが、人にも三種の性向がある。「失敗をせぬよう他者から学ぶ者」、「他者から学ばず自ら行動したあげくの失敗から学ぶ者」、「自分の考えで行動し、失敗から学ばぬ者」と、3番目以外は妥当である。学ぶことがいかに難しいかはやってみるとわかる。クリスマスやバレンタインやバースデイの贈り物を否定するものではないが、自分は無視をする。

「父の日なのに子どもから無視されて悲しい」、「バレンタインなのに義理チョコすら来ない」などと嘆きの声を結構耳にするが、どうにも理解できぬ心情であり、憐れな男にすら見えてしまう。前者は父親として尊敬とまで行かぬとも、心に留め置いて欲しいということか。後者は、人並みに扱われていない自分という人間の侘しさなのか?どっちもつまん男である。

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普段の日にチョコを貰うより、バレンタインにもらう方がうれしいというのは、システムに組み込まれたいとの意識と察する。独自に動き個人で活動したい自分にとって、システムなどは邪魔でしかない。父の日がどうこうより普段の関係こそが大事であり、充実すればいいことで、父の日など所詮は1/365でしかない。何とか人並み程度でありたいということなのか。

面白い小学生がいる。「面白い」は比喩でホンネをいえば、「こういう子が好きだ」。彼女は兵庫県の小学校4年生の青木舞佳さん(10)で、「母の日になんにもしないそれがうち」と詠んだ俳句が、「第12回佛教大学小学生俳句大賞」の高学年の部で選考委員特別賞に選ばれたという。応募総数2万句を超える中での受賞であるが、賞を誉めたいのではない。

「うちでは母の日に何もしないけれどお母さんには感謝している。何も言わずとも思っているだけで十分」と、彼女のこんな言葉が素敵である。形にしなくても感じ合い認め合うのが愛情の本質である。そういう親子、そういう夫婦、そういう恋人、日本人的には少し難しいがそういう師弟や上司と部下にも及ぶ。ずっと以前から自分の理想とする愛の形である。

自分のこういう性格は母親の影響が大きい。内弁慶で表づらを重視する母は、銀行などからいただいた中元・歳暮の熨斗を取り、包装紙を変えて近所や兄弟などにたらいまわしをし、挙句はお返しにさんざんケチをつけるのを子ども心に、やるせない思いで捉えていた。社交辞令の無意味さ、空しさ、罪深さに加えて、みすぼらしくも愛なき行為に思えた。

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それらは慣習として続けられる。こういう人からこういう気持ちで何かを戴くなどは御免被りたい。こんな親子ではありたくないし、こんな夫婦でいたくない。こんな恋人同士も耐え難い。すべては自分が大人になった際の予行演習と捉えていた。人の心は汚く、そのことを人がそのままに感じ取ることは出来ない。汚い人間だからこそ隠すための体裁を繕う。

善悪も含めて隠し事なき人間関係こそ健全である。それを理想と掲げて生きてきたが、相手の罠や策略にかかることもあった。自分の理想とかけ離れた他人は少なくないし、人は利用すべきものと考える者が多かった。青春の理想がくじかれるのは誰も経験すること。人は嘘をつくものだがこれまでの人生において、考えられないような嘘をつかれた体験が一つだけある。

中途入社のある女性が、どういうことか自分と肉体関係を持ったと周囲に振りまいていた。職責的に自分が上位者だが何があったわけではない。彼女を叱ったこともないし軋轢もない。なのにこのような嘘をつくのか?耳に入れた上司から、「彼女とのあらぬ噂は本当か?」と聞かれた。全く身に覚えのないあり得ない話に驚いたが、腹が立つよりバカバカしいと笑ってしまう。

「本人が直にいってるらしい」というが、多くの人間が何を聞こうが信じようが何とも思わなかった。直接本人に問きもせず放っておいた。なぜなら、事実は自分の中にあって問うまでもなこと。彼女は嘘は明らかで問う労力すらバカげている。こういう無駄なことを自分はしないが、他の友人は「そんなこと許していいのか?文句をいうべきでは?」とけしかける。

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「冗談じゃない。そんなバカと口を利く気も起らない」と無視。自分のことは自分が分かっていればそれでよい。相手が何をいおうがあきらかなる虚言に何の影響を受けることもないという強さもあるし、人の言動にいちいち反応する自分こそ愚かである。日本人は人と同じを好むところがあり、母の日に何かをする子どもは、しない子に対してあれこれいうのかも知れない。

自分がやってることこそが正しいのだと、他人を批判することで示そうとする。そういう世間(他人)に抗うのは子どもにとってむつかしい。が、彼女は自分が正直であることを何の衒いもなく素朴にあらわしただけで、おそらくこういう子は、真実という意思が何かと武器になるのではないか?人と同じことをしないだけでも変人とされ、いじめの対象になる昨今である。

いろいろな色が混じりあって一つの何かになるというのが希薄な全体主義の日本で、今後は彼女のような朱に染まらぬ人間が多く輩出され、他人を認め合う社会が到来すれば深刻ないじめ問題も解決されよう。そのためには大人が手本を見せることだ。著名人は影響力が高く、くそみそ発言や暴言は子どものためにも慎むべきだが、教養なき無謀人というしかない。

深刻ないじめをなくすことは至難だが、ネットにおける大人の汚い罵り言葉は控えるべきと、これがせめて自分の考えるいじめの防止策。本人同士はケンカのつもりで見境いないが、見るものにとっては迷惑千万であり、子どもが真似る可能性もある。昔の子どもに比べて今の子どもは大きく変貌したのは大人の影響も大きい。薄汚れた大人が子どもを汚す。

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