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五賢人の結婚観 ①

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結婚が何であるかは結婚してみて分かること。これは自分の体験だが、誰もがそうではないだろうか。結婚しないで結婚が何かを観念程度の理解は可能だ。体験しても絶対に分からぬもの、それは「死」ではないか。もっとも、死を体験するといわない。臨死体験というのはあるが、彼は死んでいない。あくまで臨死であるから死の体験談とは言い難いが、稀有な体験だけに重宝される。

自分にとって結婚は何であったか?現在も婚姻中であるから、何であったかという総合的見解は出せなくもないが、今後の離婚の可能性も含めて確実性のある発言はしないでおく。「結婚が何であったか」は離婚者に問うのが良いのではないか?彼らに「結婚が何であったか」を定義づけられる。ただし、個々においてはそれぞれの結婚観があろうから全ての意見を記すのはできない。

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今回は「五賢人の結婚観」という表題なので、それについて書く。堀秀彦には、恋愛や女性という語句を表題にした著書が多いが、結婚が表題にあるのは、『結婚の真実』(教材社, 1940)、『結婚読本』(要書房, 1953)、『結婚 その幸福と背景』(社会思想社,1956)、『恋愛と結婚』(大和出版,1978)があり、関連する書として『配偶者を選ぶ法』(池田書店,1951)がある。

自分が所有するのは『恋愛と結婚』のみである。昭和15年の著作『結婚の真実』はとてもじゃないが読む気はしないが、80年前の時代の結婚の真実ってどういうものであろう。昭和15年といえば、第二次大戦が始まった翌年で、日・独・伊の三国同盟が結ばれた年でもある。古き良きおごそかなる結婚だったようでもあるが、夫は戦地に招聘されるというのが自明の時代でもある。

実用書としての『結婚と恋愛』(1978年)には、結婚に対する心構え、恋愛とは別のもの、これまで身につけてきた習慣の変更などについて書かれている。抜き書きすると、「結婚の心理はだから恋愛の場合のように、もっぱら愛情だけの心理ではないのです。むしろ、それは二つの違った習慣がどのように調和するか、逆に反発するか、にまつわる心理の問題だともいえます」。

愛情だけの心理側面ではないというのは、義務としての要素もあるということだが、妻への夫の義務、夫への妻への義務、あるいは子どもへの義務、義理の親への義務、そういうもののかかわりの中の結婚ということであろうが、著作から40年経った現在からみても、結婚への義務意識はかなり薄れてきているようだ。夫の両親との別居が当たり前になり、夫や妻への義務意識も変わった。

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したがって1978年の堀の著書ですら、実用書としての価値は薄れたということになる。「人間は人間だ。5000年前の人間、2000年、1000年前の人間も100年前の人間も変わらぬ人間であり、変わっているのは環境という時代である」というのは本当なのか?進化というスパンではないにしろ、環境の推移によって人間の資質は変わるだろうが、本質というものは変わらないということか。

全世界で1000万部以上読まれた『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、こんな論旨を述べている。「人類の決断は常に良い結果を生み出してきたとは言えない。現代人は石器時代より何千倍も力を持っているが、2~3万年前と比べて幸福には見えない」。なるほど、何が石器時代を幸福にし、何が現代人を不幸にしているかについてハラリ氏は、それは権力であるという。

さらにはこのような警告を述べている。「現代人は神になろうとしている。これは決して比喩ではなく、これまで死を超えられるのは神だけと思われていた。しかし今、それを実現するのはエンジニアと信じられている。老化と死のプロセスが理解できればそれを操作できると考えられている。そうして少なくとも一部の人達は死なないで、彼らは神のように永遠に生き続けるのです」。

確かに現代科学の象徴的な研究について述べている。それほどに現代はITやバイオテクノロジーが進歩し過ぎている。「5000年前の人間も100年前の人間も本質は変わらない」としたが、ハラリ氏は、「21世紀以降人間は、人類誕生以来初めて、体や脳や精神を大幅に変化させることになるでしょうし、つまり今の私たちは別のものに生まれ変わるのです」。これは幸福なことなのか?

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林田茂雄には『現代結婚論』なる著書があるが、現代といっても1976年の著作であり、40年以上も昔である。10年が一昔だから40年は大昔といわずとも昔であろう。亀井勝一郎の『愛と結婚の思索』も1969年だから丁度50年前。50年前と今とでは社会環境が大きく違っており、ハラリ氏のいうように人間の本質は変わらないまでも、生活環境や社会環境に人間が大きく左右されている。

林田は、「女性の解放なしに真の結婚はあり得ない」とする。これには女性の自立的な意味もあるが、中国の『白虎通』という文献の「婚姻」という文字に言及する。「婚とは、昏(くら)い時代に礼を行うこと。姻とは、女が夫に因(たよ)ること」。確かに文字の語源はそうでも、社会が変革すれば自ずと人間は順応していく。婚姻という字が中国の古い文献にあろうと関係ない。

五賢人の結婚観 ②

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イメージ 1現代は女性の自立の時代。五十年前の林田の女性自立論についての記述は、今の時代にあってはただの憂慮に過ぎなかったようだ。堀も林田も明治生まれの人間であるが、頑固で硬直さのない思想ゆえに、自分が賢人と仰ぐ人達である。彼らはあくまで男の視点で、結婚を夢物語として描かない。堀の著書『恋愛と結婚』は女性向けだが、以下の率直な文には女性からの反発が予想されるが、結婚に対する心構えを現実論としてやさしく諭している。

「男も女結婚することによって、一定した生活をつくりあげるが、一定しているがゆえに倦怠と退屈を感じないでいられない。(中略) 一方は一定を好み、他方は好まない状態が結婚である。したがって、結婚は心理的に多くの危険をはらんでいる。あなた方はここまで読んで結婚の夢が色褪せたように感じたとしても、私は決して嘘偽りを書いていない。事実は事実としてハッキリ知って欲しい」。

堀は結婚を夢物語と捉える女性に対して注意喚起を与えている。結婚前に現実認識をさせることで、結婚に失望させないない老婆心を説くが、それでも女性は結婚に憧れ、夢を抱き、あげく現実に直面して涙する。「起こること一切は想定の範囲」という理性は、女性の心に湧き立たぬのか?女性は事あるごとに、「なんで?」、「どうして?」などといいたい生き物なのか?

男は何かが起こった時に、「なぜだ?」、「どうして?」が立ちはだかるようでは失格である。そこに至った時点で自らの敗北を認めなければならない。だから知識を蓄え、先人や諸先輩からの意見を聞くなどの事前準備をし、あらゆることに備える周到さが必要であり、これを男の「理論武装」といったりもするが、そうでなければビジネス戦争に勝利することは難しいだろう。

男の習性は、「勝つ」、「勝たねばならない」。「ホリエモン」の口癖は、「(何事も)想定内」で、それが男にとっての頭の良さか。男の描く、「結婚論」は、男には必要というより女性に向けられる。なぜなら、起こったこと、現実的なことには事前に周知しておいてもらいたいからだろう。「そんなくだらんことでゴチャゴチャいうな、分かっていることだろ?」ということか。

亀井勝一郎も基本は変わらない。以下は『愛と結婚の思索』の一文である。「結婚とは人間形成の一過程で、夫も妻もこれから自分を開拓し、互いに協力し合い、形成してゆくための一つの階段である。私がこんなことをいうのは、『完全な結婚』を夢見る人が多いからだが、人間は誰にも欠点があり、その欠点だけを取り上げて結婚できないというなら生涯結婚はできない」。

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してみなければ分からぬ結婚を、結婚する前の独身女性に何かアドバイスをするなら、こういう言葉が適切だろう。女性の頭に入る入らないは別にして、書く者の義務ではないか。坂口安吾に、「結婚」の文字が入った表題はないが、なくて当然、なくて安吾という気がする。以下は『悪妻論』の一節。「日本の亭主は不幸であった。日本の女は愛妻となる教育を受けていないから。

彼女らは、姑に仕え、子を育て、主として、男の親の孝に、我が子の忠に、亭主そのものへの愛情に就いてはハレモノに触るように遠慮深く教育訓練されている。(中略) 洗濯したり、掃除をしたり、着物を縫ったり、飯を炊いたり、労働こそ神聖也とアッパレ丈夫の心掛け。遊ぶことの好きな女は、魅力があるに決まっている」。こういうホンネを臆せずに書く安吾は魅力的である。

堕落なんか御法度の時代に『堕落論』を書き、「女三界に家なし」の時代に「遊ばぬ女は魅力ナシ」と書く安吾は、理想主義者でもある。しかし、その理想主義が現実となっらなら、「安吾は現実主義者だった」ということになる。彼は49歳で逝去したが、いわずもがな彼は愚行家であった。愚行というのは、死に際してまで愚問を問い続けることであり、斯くいう自分もその端くれだ。

昭和生まれで唯一存命の加藤諦三の結婚観はどうか?彼には膨大な著作があり、大体は似たり寄ったりの内容であるが、ある女性が「女性向き」ではないとしたのも分かる。他の四人とは違って女性に手厳しい加藤は、「結婚は生きる目的ではない」という。ある人にとって結婚は幸せであるが、ある人にとって結婚しないことが幸せなのだ。結婚して不幸になり離婚した人もいる。

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だからか、結婚は人の生き方の一つでしかないのは納得がいく。自分をよりよく生かすための手段が結婚があるので、目的ということではない。若い人はとにかく結婚をしよう路する。自分もそうだった。人間の目的だと思っていた。確かに結婚しなければ家庭を築くことはできない。が、それは結婚をそう考えたからで、結婚をそのように考えない人のことは頭になかったというだけ。

「理に適っている点においては結婚より同棲であろう」と、加藤はいうが、現代の若者に離婚が多いのは、じっと耐えるという修養を積んでいないからではないか。結婚は契約であるから、そういう若者にとって、いつでも解消できる同棲が理に適っている。躾や教育というのは、甘えを正すために行うもので、そういう意識の希薄な親の子どもはワガママに育つだろう。

五賢人の人生観 ①

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「生きる意味」について林田茂雄はこのようにいう。「『どう生きるか』と考えるより、『どう楽しむか』と考える方が現実的で、『どう生きるか』などいくら考えたところで仕方がない」。これらから林田は、どう生きるかと人生をどう楽しむかを同じとし、「これを別のもののように考えさせようとするのは、私たちから人生を楽しむ権利を奪いつづけようとしている人たちの謀略である」といっている。

「どう楽しむ」だけが現実的なのではなく、「どう生きるか」も現実的であり、したがって「どう楽しむ」かは、「どう生きるか」の答えの一つに過ぎない。「人間は何のために生まれてきたか」についてもいえることだが、いったいこの世に、「何かの目的を立てて生まれてきた者が、一人とているだろうか?」キリストや仏陀もそうではなく、「生きる目的」は目的を志向する人の人生観だろう。

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我々は、「生まれよう」とさえ思ったこともないのに、気づいたとき(本当はそれさえ気づいていないが)はすでに生み落とされていた。生んでくれた親たちですら、「生む」という目的を立ててのことだったかどうか怪しいものだ。中には本当に子どもを生もうと努力をした人もいるだろうが、でき婚などの例が示すように、性行為という快楽の主体を否定はできず、子どもは性の副産物との事実もある。

「いえいえ、どんでもございません。子どもが欲しかったからつくったのです」という人も少なくはないが、物を欲しがるのは人の欲望であり、決してわるいことでは悪いことではなく、欲望を離れた人生論などあり得ない。自分の両親から、「自分をつくろうとした意味」を聞いたことはないが、仮にもし自分の子どもから、「何でわたしをつくったの?」と聞かれたら何て答えるだろうか?

妻の性格からして、綺麗ごとより正直な彼女は、「もう忘れた」とはぐらかすだろう。その場で考えて説明しようとの気転も起きない。昔から何でも、「お父さんに聞いて」で生きてきた彼女だから、おそらく、「お父さんに聞いて」といいそうか?思い出して笑えるのは長女と入浴の際に、父のナニを指さし、「これをお母さんのお尻に入れて赤ちゃんができる薬をだすと赤ちゃんができる」といったことがある。

その場では「ふ~ん」と頷いていたが、お風呂から上がったら間髪を入れずに母親にこういった。「お父さんから赤ちゃんができることを聞いたけど、おかあさん、お尻がくすぐったかったでしょう?」。妻は笑うしかない。こういう子どもならではの発想は大人には無理。子どもとはいっても現在は大人である。わたしをつくった理由を聞かれたら、「お前が想像することがほとんど正しく正解だ」と自分は答える。

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答えを教えるよりも、自ら考えさせれば分かることは多い。それが子どもと大人の違い。教える時期もあれば、自ら考えて答えさせること重要だ。人間の基本や総体はそんなに変わるものでもない。人生の目的や、生きる目的に苦悩して人生を終える人間もいるが、そこまで責任感を持って生きなくともよかろう。答えは一つではないのだから、“どこに自分を見出せるか”の方が柔軟で積極的な生き方である。

「生きる目的などない」という無意味さに徹するのも、人生の晩年における楽に生きる境地であろう。青春期はそれを求めて悩み苦しみこともあろうし、それを蹉跌というが、老境に入ってそれでは身がもたない。人それぞれの楽しみがあるが、老齢に必要なのは省エネである。坂口安吾はこのようにいう。「めいめいが各自の独自なそして誠実な生活を求めることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的か。

安吾はまた、太宰や芥川の自殺を、「不良少年」と揶揄しているが、彼らしい発想だ。自殺は学問ではなく子どもの遊びであって、限度を発見することこそが学問であると。太宰や芥川の自殺は、“限度の発見に至らなかった所業”と痛烈に批判をした。「生きる目的は、生ききることのみ」というのも安吾らしい。人の生きる意味を目的論に置き換え、言葉を置く賢人は少なくないが、亀井勝一郎はこう述べる。

「私たちは将来が分からないからこそ生きてゆけるのだ。この謎が生の根拠である。夢を抱き、夢を打ち砕かれ、さらにまた夢を抱いて、さ迷ってゆくのが人生のコースである」。人生のコースの予想は難しい。自分は将来どんな風に生きていくのかについて様々な思いや夢を抱くが、現在の仕事にしろ家庭環境にしろ、若い頃に予測したことと同じというのは稀ではないだろうか。

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たとえば幸福という概念にしろ、若い頃は形に嵌った幸せを望んでいたのだろう。確かに枠に嵌ったものはあるのだろうが、それらとは別に自分独自なものが芽生えてくる」。五賢人はそれぞれに賢人であって、キリスト一人を信ずるよりはそこが楽しくもあ。一神教は真理であるがゆえに信じられるのだろうが、人によって真理が違っているものを真理と呼ぶのか?「真理と信ずる」が正しい。

エルサレムは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地となっているが?なぜそうなのかは書物に書いてあるからで、実際は虚構なのかも知れない。堀も亀井も熱心なキリスト教信者であった。堀は洗礼までしたが、彼がキリスト教を止めた理由が変わっている。後妻に来た継母が熱心なキリスト信者で、大嫌いな母が同じ信者であることが耐えられなかった。嫌な母を嫌悪したのは理解に及ぶ。

五賢人の人生観 ②

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一般的論として我々は人生の素人である。生きるということは分からないことだらけで、めぼしがついたころにはお迎えがくる。だからと手をこまねいている訳にはいかない。そこでどうするこうするとなった時に、凡人には賢人という支えが必要だが、聖人を必要の人もいる。「一番でなきゃいけない」ということでなければ賢人で十分だが、どれだけ吸収できるかにかかっている。

いつの時代に生まれてくるかは選べないが、いつの時代に生まれようと、人間はその歴史のスパンのなかで変革期を生きている。500年前の社会と現代とは大きく異なっていようし、500年前の社会情勢の中で正しいとされたものが、500年後も正しいということもない。信長・秀吉・家康という英雄から何かを学び取ることはできるが、戦国時代と現代では生かし方も変わってくる。

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聖徳太子は1400年前の人だが、現代にも通じる思想を持っていた。日本人として独立独歩の精神を再認識するために、今、福沢諭吉・聖徳太子を見直すべきという考えがあるが、ある意味正しくある意味間違いかも知れない。良いところだけ上手く取り入ればいいのだが、取り入れ方が難しかろう。堀や亀井たちが五賢人といっても古い時代の人だから、現代にはそぐわぬこともあろう。

五賢人は神でも教祖ではないから、イイとこどりの取捨選択をすることは可能だ。ところが、宗教となるとそうもいかない。神を信仰し、キリストを仰ぐ人は、一言たりとも聖書やイエスの言葉を批判してはならない。それが宗教というものだが、全面信頼という生き方は批判精神の強い自分向きでない。聖徳太子は「十七条の憲法」を著し、「三経義疏」という心得書を書いた。

ところが推古朝が終わり、舒明、皇極と続き、中大兄皇と鎌足による大化の改心が始まる。やがて近江朝を経て壬申の乱へと続いていくが、このころになると聖徳太子の精神を継いだものは絶無となるばかりで、「十七条憲法」は消えてしまった。我々は太子の業績を学びはするが、推古朝から奈良朝に至る百年間において太子の信仰がいかに無視され孤立していたか知ることになる。

時代変われば思想も変わる。飛鳥人には飛鳥の、天平人には天平の精神が、明治・大正にも時代の精神があった。昭和が終わり平成も終わって令和の時代である。自分にとって昭和の精神とは何であり、平成の精神とは何であったのか。あと何年生きながらえ、自分の最後の年が令和である。死が淋しいか悲しいかは、その時にならねば分からない。今は死を実感できていない。

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信仰に無縁の人生だったのは間違いないし、自身の中に神は宿ってはない。キリスト教信者で新約聖書学者でありながら、自ら「神を信じぬクリスチャン」を自称する田川健三(1935年 - )は、彼は国際基督教大学で教鞭をとるも1970年、「造反教官」として追放された。チャペルで礼拝のとき講壇から、「神は存在しない」、「存在しない神に祈る」と説教したことで追放だった。

ラッセルは、「キリスト教徒」が何を意味するかは別の問題として論じるものの、キリスト教徒以外のすべての仏教徒、儒教徒、回教徒、等々――は、善良な生活をしようとはしていないという卑下や揶揄に対する理由をして、その妥当性のなさからいっても私はキリスト教徒ではない」という。「我々は何をしなければならぬか」という自己命題においても斯くの如くいう。

何かを信じて生きていくとどうなるのだろう。神や仏を信じないで生きてきたことでいうなら気楽でいい。信じて生きた経験がないから比較はできない。熱心で敬虔なクリスチャンも、そうでない生き方の経験はないから同じように比較はできぬが、亀井や堀はかつて宗教体験があった。信仰から離れて再び信仰世界に戻らぬところをみれば、信仰を捨てて正解だったのか。

堀はその著書『思考と信仰』のなかで、「宗教随想めいたものを書く場合、私自身が熱烈な信仰をもっていないのが条件となる」という。もし熱心な宗教者であったなら、「神とか救いとか罪とか重大な問題について、さりげなく書くことはできない」という堀は自身を誠実に眺めている人だ。仏教者が仏教を、キリスト教信仰者がキリスト教を賛美するのは当たり前である。

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人生についてなら誰でも書けよう、人生体験なき者などいないが、堀のいうように、人生について書くなら、「私自身が人生体験がない方がいい」てなことはない。むしろ人生体験の豊富な者の方が味もあり、面白味もある。亀井勝一郎は、「人生は広大な歴史だ」という。いわれてみれば当たり前のことで、歴史に無駄がないように、人生で起こることに無駄なものは何一つない。

世に生を受けた以上、人間について、愛や死について、人生について思索をすれども、凡人の理解を超えた事柄にについては賢人に頼るしかないが、神や聖人に頼る人もいる。「人生の目的は何か?」について書かれた書籍は膨大に存在するようでも、どれも人生の切れ端程度のことしか書かれていない。あのゲーテでさえ、「人間とは緑の牧場で枯れ草を食う愚か者」と述べている。

五賢人 亀井勝一郎 ①

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亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日、北海道函館市に父喜一郎・母ミヤの長男として生を受けた。昔で言うところの家付き娘 (婿取り) だった母ミヤは病弱であったために、勝一郎は祖母(ミヤの母)の手で育てられた。函館屈指の富豪で知られた亀井家は、江戸後期に能登の国(現石川県)から移住し網問屋として財を成した。勝一郎の亀井家は有力分家の一つだった。

父は函館貯蓄銀行の支配人(常務取締役)のほか、幾多の公職に就く函館屈指の盟主・富豪であった。匂うばかりの美貌を蓄えた母は源氏物語を愛読する人であったが、勝一郎が10歳の時に病没する。勝一郎の端正な容貌と研ぎ澄まされた文学性は母親譲りかもしれない。勝一郎が13歳の時に教師出身の後妻(幾代)がきた。堀、林田、亀井といずれも継母であった。

勝一郎は当初幾代に馴染めず、父が昭和10年急逝すると亀井家の莫大な資産は幾代によって守られ、勝一郎の文筆活動も母の理解と支援に負うところが大きかった。しかし、幾代が昭和19年に他界すると、有能な管理者を失った亀井家は戦後の変動期とも重なり、終戦2~3年後には没落する。勝一郎は小学校入学と同時にアメリカ系メソジスト教会の日曜学校に通う。

中学3年まで通いながら宣教師から聖書と英語の個人教授を受けたが洗礼は受けなかった。生まれながらにして富と名声が備わっていた勝一郎だが、「富める者は罪人なり」という思いに至る以下のエピソードがある。中学1年のある寒い冬の日の朝のことだった。亀井少年が外出のため暖かい羅紗(ラシャ)服と外套を着て家を出たところへ電報配達の少年が来た。

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つぎはぎだらけの薄い小倉の服に地下足袋姿、ひびだらけの手に電報を持っていた。少年は小学生の時、亀井とクリスマスの児童劇を演じた相棒だったことで、二人は顔見知りであった。偶然の再会に二人ははにかみながら互いの姿を見合ったが、少年は勝一郎に対して羨望の面持ちで無邪気に眺め、「君はいいなあ」と一言って冷気の中に白い息を残して去っていった。

亀井はこの時の衝撃を、「少年の僕が、初めて"富める者"という自覚を持つこととなり、且つそれが苦渋であることを知るに至った」と回想する。自分にも似た体験がある。高校3年の時、通っていたレコード店に同じ高校の2級先輩女性がそこに勤めていた。顔見知り程度だったが、彼女は自分が要望するレコード盤の視聴を、笑顔を絶やすことなく対応してくれた。

決して美人ではなかったが、大らかで優しい彼女に恋心を感じていた。ある日ふと目にした彼女の手はヒビとアカギレにまみれ、赤く腫れぼったくなっていた。「この人はここで働きながら家でも水仕事に精を出しているんだ」の思いが持ち上がり、何の苦労もせず、支障なくなくぬくぬくと生活する自分に罪悪感を抱く。そのことで彼女の思いが一層増すのが分かった。

この思いはなんだろうか?人への同情心なのか、自らへの自己嫌悪なのか、自分のことながら判然としないが、物事は上辺より本質が重要だと悟った。こうした本質重視姿勢は、人からちやほやされた不自由ない美人より、素朴で地味で目だぬ容姿の女性に心が惹かれるようになっていく。放っておいても男が群がるような美貌女性の、中身を見ない傾向は一般的だ。

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反してブサイクな女性は中身こそが重要で、そこに美を見れば容姿など取るに足るりないものとなる。「お前はブサイクが好きなのか、それともブサイクでも好きなのか?」と友人にいわれたことがあるが、よく分からないので答えられなかった。「ブスはこの世に存在する意味がない」という男は多いが、メンクイ一筋女性も少なくない。所詮は他人事、人の生き方である。

非難も批判もないが、思うにブサイク女性には、本人が卑屈でないなら、人間としての宝を見出せるかもしれない。自分は子どものころから、「宝さがし」が好きだった。美人女性はそれ自体が宝で、それはそれでよい。「可能性」という言葉は何においても存在する。この世に存在する富める者と、貧しき者の差はそれだけの差であって、決して心持ちの高さや才能によらない。

秀逸な容姿に生まれ、裕福な家庭に生まれるのも運命である。自分は運命論者ではないが、こういうことは運命という以外にない。裕福な家庭に生まれた勝一郎は、上記の体験から、「富裕は罪悪では?」と考えるようになる。大正11年、勝一郎が中学3年のとき、町の公会堂で賀川豊彦の講演を聴いて、「富める者は罪人なり」と確信するに至ったと述べている。

大正12年、勝一郎は山形高等学校 (現山形大学) 文科乙類へ進学する。当時、北海道には北海道大学と小樽高等商業学校 (現小樽商科大学) があり、いずれも実業家を育てる校風で勝一郎の志望ではなかった。勝一郎の実家から本州で近くの旧制高校といえば、第二高等学校 (仙台)、青森の弘前高校、山形高校しかなく、この中からごく自然に山形を選んだという。

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五賢人 亀井勝一郎 ②

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当時、全国に広がる左翼思想運動思想は慨に山形にも入っており、勝一郎は、「山川均の『資本主義のからくり』というパンフレットを読み、共産主義との対決が念頭にあった」と書いている。"富める父"からの十分な仕送りの元、瞬く間の三年間を終えて大正15年、19歳で東京帝国大学文学部美学科に入学する。「文学部を見渡し、美学が芸術と一番関係がありそうで」との理由であった。

大学入学早々の(大正元年)1926年、中野重治と知り合ったことでマル芸(マルクス主義芸術研究会)に参加する。マルクス主義への急傾斜について勝一郎は、「富裕層に生まれた自分」、「マルキシズムは正しい」、「自分が没落する階級に属することの恐怖」、「2~3年のうちに革命が起こると確信」等々の心境過程をノートに記している。昭和3年2月、勝一郎は共産主義青年同盟の一員となる。

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三・一五事件の1ヶ月前であったが勝一郎は、「学生であることに意義を見出せない」と大学を中途退学した。三・一五事件とは、昭和3年2月に実施された第一回普通選挙で無産政党から8名が当選した。当時非合法だった日本共産党が、合法の労働農民党を通して選挙運動を行ったことに危機感を持った政府は、3月15日に全国一斉共産主義者の検挙・捜索を実施、逮捕者は1500人にのぼる。

この後も治安維持法強化による左翼に対する徹底した取締りが行われるなか、勝一郎は政府の強権発動に恐々としながらの生活を続けていたが、ついに4月20日、治安維持法違反容疑で逮捕されてしまう。函館の父や家族はこの間どうであったか気になるろころだが、離れていることもあり、男の子でもあることもあってか、東京での勝一郎には余り干渉することなく自由にさせていたようだ。

親は子どもをあれこれと心配するものだが、心配したからといってよくなるものでもどうなるものでもない。何もできないということは、心配しないと同じことと、これは自分の親としての考えである。心配しようがすまいが事は子の周りで起こり動いていく。『亀井勝一郎全集 補巻3』に初めて収められた「ノート」、「獄中記」により、逮捕から出所までの過程や背景が相当に細かく分かる。

昭和3年4月20日、勝一郎は秘密連絡のため札幌の同志の家族宅を訪ねたところを張込み中の刑事に捕らえられた。10日後、手錠をかけられて東京へ護送された。一通りの取調べの後、5月22日に未決囚として市谷刑務所へ、夏には豊多摩刑務所へ送られた。21歳から23歳までの約2年半におよぶ独房での閉ざされた生活だが、重大容疑でもないのに異常な長期勾留を強いられた。

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共産主義活動放棄を約束すれば早期釈放されたろうが、拒否をしたのは共産主義への信念ではなく胸中は揺れていた。勝一郎は後に、「組織から離反し背反の心的準備を重ねているようなもの」と率直に記している。出所して元の活動家に戻ることの価値に疑問を覚えるも、活動を離れることで裏切り者・背信者の謗りを受けることを恐れて身動きが出来なくなった。組織の呪縛は怖ろしい。

この時期は彼にとって板挟みを強いられた時期である。結局、昭和5年10月1日に転向上申書を提出して、10月7日に未決で釈放され、2年6ヶ月ぶりで塀の外へ出た勝一郎は、「革命家として入獄し、詩人として出獄する」と表現している。昭和7年12月、勝一郎は東京で知り合った斐子と結婚した。斐子の両親は強く反対したが強引な同棲婚で、結局は両家ともこの結婚を認める。

誕生から幼少期を経て青年期に入獄~出獄から、結婚までの亀井勝一郎の記録をざっと書いた。将棋の好きな勝一郎は昭和13年6月に阿佐ヶ谷将棋会に参加した。そこは、「阿佐ヶ谷会」と呼ばれる文士たちの集まりで、若き日の井伏鱒二、青柳瑞穂、田畑修一郎、小田嶽夫、木山捷平、外村繁、古谷綱武、太宰治、中村地平、上林暁、亀井勝一郎らが阿佐ヶ谷文士村の名簿に掲載されている。

将棋対局の後は酒宴となり、人生論や文学論、混沌の時世・女性談議に花が咲いたというからいかにも男臭く、むしろこちらの方がお目当てだったかもしれない。勝一郎は2歳年下の太宰治と親交があり、昭和17年元旦に井伏宅で満面の笑顔で撮られた2ショットが残っている。このころの太宰は健康的で愉快な人物であったと、勝一郎は自著『無頼派の祈り― 太宰治』に書き記している。

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太宰自殺の報に触れた勝一郎は以下のように記しているが、これは巷で言われることとは大きく違っている。「昭和二十三年六月二十三日、自殺の報を聞いたときも、私は信じることが出来なかった。自殺の理由がどうしても考えられなかった。後にパピナール中毒の事など聞いたが、直接の死因は、彼女が太宰の首にヒモをまきつけ、無理に玉川上水にひきずりこんだのである。

遺体検査に当たった刑事は、太宰の首にその痕跡があったことをずっと後になって私に語った。しかし一緒に死んだのだから、そのことをあらだてるにも及ぶまいという話であった」。勝一郎が太宰の死について担当刑事から直接聞いた話としているので、信憑性が高い内容である。つまり太宰は、玉川上水で心中したとされる山崎富栄と死ぬ気など毛頭なかったということになる。

五賢人 亀井勝一郎 ③

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太宰の情死事件からおよそ70年…、妻・美知子に宛てた太宰の遺書には、「誰よりも愛していました。小説を書くのが嫌になったから死ぬのです」とある。小説の行き詰まりへの深い苦悩、体調の不調や病苦、愛人富栄の自殺強要など、入水心中の原因はさまざまに取り沙汰されており、勝一郎のいう無理心中説も憶測の域を出ないが、富栄による美知子宛の遺書には以下のように書かれている。

「修治さんはお弱いかたなので、貴女やわたしやその他の人達にまでおつくし出来ないのです。わたしは修治さんが、好きなのでご一緒に死にます」。なんという文言であろうか。おそらく太宰は妻と愛人の板挟みのなか、彼の人間的な弱さや優柔不断のなか、富栄に情死を押し切られたのではないかと推察する。自分の夫を奪った女からこんな文言をもらった美知子の心中はいかばかりであろう。

しかし、「小説を書くのが嫌になったから…」の言葉は重く、太宰の心の深奥にはそのことは間違いなくあったようだ。富栄が太宰を本気で愛し、こころを尽くしたのも間違いない。太宰に接していた編集者らは、富栄は日頃から、「変なことをしたら青酸カリを飲む」といい、太宰はそれを恐れていたという。富栄にとって太宰とは、まさに 「死ぬ気で、恋愛…」(富栄の日記・S22.5.3)だった。

シェイクスピアは、「恋は盲目」といい、パスカルは、「恋は明晰であるべき」といった。どちらを正しいとするかは人それぞれだが、愛とは相手を深く見つめるものであるなら、パスカルが正しいと思うが彼は失恋した。恋が盲目であってはならない理由として、相手をちゃんと理解する必要があるからで、それにしても理解とは一体なんであろうか?人を理解し尽くすことなどできるのか?

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もし、男女がお互いを理解しようとふか~く突き詰めていったなら、相手の正体が分かって嫌になるだろうし、そんな相手と結婚するはずがない。恋はやはり盲目の方がいいのかも知れないし、お見合い結婚にも良い点はあるのだろう。人間は一筋縄ではいかないようなら、盲目に恋愛してさっさと結婚するのがいいのかも…?亀井勝一郎の『人生論集』のなかに、<相寄る魂について>という一文がある。

昭和42年に書かれたものだが、以下のくだりには思わず知らず肯かされる。「夫婦として長い生活を続け、それぞれに仕事で苦労したり、或る場合は浮気を起したり、貧乏したり、様々の曲折を経た後、やがてごく素直にそれを回顧し、“お互いに苦労かけたなあ”などと言い合うそうした状態を、私は“相寄る魂”と言いたいのです。言わば病める魂の抱擁を意味しているわけで…」。

夫婦といってもさまざまで、賢夫、凡夫、愚夫、悪夫もいれば、賢妻、凡妻、愚妻、悪妻もいて、二つのパターンの組み合わせで夫婦は成り立つ。ハッキリと性格上に区分されているのではなく、これらの要素を腹の底に潜め、時と場合によってそれらの一面が露骨に現れる。また、妻の気持ち次第で凡夫が賢夫に見えてくる場合もあるが、とんでもない悪夫であったなら恨めしく思う筈だ。

しかるに賢夫とはどういうものか?賢夫といわれながらも家庭では暴君だったり、その逆もある。自分たちがまだがうら若き時代に言われたのは、「社内で偉そうに威張っている上司は間違いなく家庭では尻に敷かれている」などといわれたもので、おそらく間違いなかろうし、現在でもそうではないか。「賢夫は知能犯的資質があって妻をゴマ化す術に長けている」と亀井は述べている。

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凡夫とは?我々を凡人というが、凡人が夫になれば凡夫なら説明不要。世間の妻の多くが、「うちの亭主はだらしがない」という。非難の意味を込めてではなく、笑って諦めた言い方が多い。「だらしがない」とはどういう“だらし”であろう。「うちの女房は愚妻でね」という夫も多く、「悪妻よりいいではないか」と持ち上げておく。ならば、「女房は悪妻でね」といわれたら?

「負けずに悪夫になればいいんじゃないか?」などといっておく。亀井は凡夫をこう定義する。「細君との神経戦にしょっちゅう引っかかって、大声で喚いたり、時にヤケ酒を呑んだり、そうかと思うと、突如としてお土産など抱えて、ニコニコしながら帰ってきたり、要するに夫婦生活における動揺をそのまま正直にあらわしている夫のことである」。彼の主観だが自分は凡夫をどう定義する?

凡人の自分には、「可もナシ、不可もナシな夫」という以外に思い立たず、亀井のような明確な定義はできない。愚夫とは愚かな夫であるが、何をもって愚かとするか。「あいつはバカだ」にもいろいろな意味があろう。最後は悪夫である。「愚か」を超えた「悪」となると、妻への負担や影響力は甚大である。何を「悪夫」というのか?ギャンブル好き、女にだらしがない。仕事をしない。

これが世にいうところの悪夫三大条件か。それに暴力を加えると、「四大悪夫」となる。これらは世間の定評でもある。「私は賢夫と悪夫は紙一重と思っている」と亀井はいうが、「お金と時間に余裕のある男にロクなのはいない」というのも世間の定説である。つまり、どんな善良な賢夫でも、多少なり金回りがよくなり、時間があり余るようになると、必ずやこの危険性に晒されることになる。

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五賢人 亀井勝一郎 ④

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亀井の膨大な著作の中で、『愛の無常について』、『青春について』などが多くの読者を持っているのではないか。あくまで推察であるが。『ニ十歳の原点』の高野悦子の1967年7月15日の日記にはこう記されている。「亀井勝一郎の『愛の無常』をぺラッとめくって読んでみたら、“人間とは何であるか”とか、“いかなる政治的党派、思想的立場をとろうと各人の自由であります。

しかし自由の最大の敵は自分自身であることに気づく人は少ない”なんて書いてあったので」。高野の同年10月7日の日記には、「あるひとはいう。“自由の最大の敵は自己自身である”」。“ある人”とはいうまでもない亀井勝一郎である。高野は二年後の1969年6月24日に自殺した。死なねばならない理由があったのだろうが、死なねばならぬ理由は、死に行く者以外に分からない。

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亀井の言葉を耳にするまでもなく、「自由の最大の敵は自己自身」というのは早い時期から身についていた。高野は18歳で気づいたようだが、問題は気づいたあと。上記したように、自殺者の心理というのは分からないが、亀井は、「自殺者の心理」と題してこう述べている。「自殺は罪悪だといいたいがいい切れない。自らに向かってはいい得ても、他人に向かってはいい切れない」。

「自殺は人間に与えられた能力」という亀井は、『不可解』の言葉を残して華厳の滝に飛び込んだ藤村燥を批判する。旧制一高生(現・東大教養学部)の藤村は16歳の人生を終えた。いくら頭がよくても16歳で何が分かろう。多くの疑問は先送りすればようが、早急に答えを求めた結果である。パスカルではないが、考えるということは、人間が人間として独立するための第一条件である。

「不可解だから生きる」、「不可解という絶壁に挑むべき」と、これが亀井の藤村批判の骨子である。「不可解」を絶望とするのではなく、「不可解」を生きるエネルギーにすべきである。やはり、というか自殺者というのは一時的もしくは慢性的な鬱状態なのか?謎や疑問があるから生が楽しい。思春期に抱く異性への興味や謎も同様である。「不可解」が我々を生かせてくれたのだ。

亀井は、「自殺者の心理」の末尾にこう述べている。「自殺も犯罪もその他一切のことは人生という不可解な謎から起こる。他人を笑うことはできません。自分も同じ危機の上に生きているのですから。人間相互の愛情は、そういう危機感から生まれるものだと私は思う。どうしていいか分からぬ人生に生きて、その分からぬという迷いにお互いの暖かい心を投げ合ったら…」。

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賢人だから耳にできる言葉である。「平和を乱すものは、不可解ということの分からぬ人間」と亀井は切り捨てる。「分からぬことを不可解というのではなく、“世の中は不可解なのだ”ということを分かれ」といっている。その先にあるものは、「不可解」を解いていく希望である。噛み砕いていうなら、「分からないから楽しい」。自分の将来が分かって楽しい筈がない。

「将来に不安を抱く」という人は少なくない。では聞くが、将来が分かって楽しいか?「何年何月何日に死す」と決められていて、どれだけ不安に苛まれよう。いつ死ぬか分からない、だから死ぬまで生きるのだし、いつ死ぬかなど知りたくもない。『愛の無常について』は女性読者が、『青春について』は男性読者が多いのではないか?とは自分の推測だ。太田光は自著にこう記している。

「最も好きな作家とする亀井勝一郎を、高校時代、大学時代に何度も読み、現実に何かあるたびに、『ああこれが亀井さんが書いていたあのことだな』とか感じたり、他の人間に薦めまくっていたのが『青春について』」。同著の見開きの表題は、「青春を生きる心」であるが、自らに問う。「青春とは何なのだ?」。以下に記した答えは今の自分の頭の中に浮かぶもの。

「青春とはひよこの時代」。何も知らぬものが何も知らぬ相手と、何も知らぬままに語りうごめき戯れていた。されど楽しく、だから楽しき日々。16歳にして「人生不可解也」で命を絶つって、それはまあ人の命だから所有者が自由にすればいいけれども、やり過ぎでは?自殺というのは、「やり過ぎ」の情動ではないかと。自殺者の心理は分からぬが、傍目にはそう映る。

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亀井は友人太宰の自殺をどう感じたのか。当然ながら亀井に太宰への論評が多く、一部気になるセンテンスを拾ってみる。「太宰は自己否定の名人」、「太宰の最も恐怖したのは恋愛と革命」、「太宰は恐怖から遁れる道を求めた」、「太宰は死に慣れていた」、「太宰は本質的に倫理的な人」、「太宰の死は倫理観が根底にある」、「太宰は人間の国にあって異邦人」。

太宰に寄せる亀井の親近感には並々ならぬものがあり、友人という現象上の関係によって説明しきれるものではなかった。それにしても太宰という人は一体に…。彼の最初の創作集がはなぜか『晩年』であり、当時27歳の青年であった。以後彼は自殺を前提にし、遺書のつもりで小説を書き始めたに相違ない。して最後の小説『グッド・バイ』は未完のまま絶筆となった。

今さらながら、情死と心中

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太宰が玉川上水で自殺したのは1948年6月13日。遺体の捜索が難航し、遺体発見は6日後の19日。この日はくしくも太宰の誕生日でもあったことから、6月19日を太宰を偲ぶ、「桜桃忌」と名づけられた。昨年は没後70年記念で全国各地で様々な催しがなされ、太宰の人気の高さを物語る。「桜桃忌」の命名は、太宰と同郷である青森県出身の作家今官一よるもの。

亡くなる前月の太宰の短編『桜桃』と、彼の好物のサクランボにちなんでいる。自殺現場の玉川上水は、現在はさらさらと流れるせせらぎであるが、かつては水量の多い急流で、太宰の短編『乞食学生』に、玉川上水の流れの激しさが以下描写されている。「この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで恐怖している」、「川幅はこんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である」。

三鷹市付近は蛇行が激しく、水流で岸がところどころえぐられ、穴があちこちにできて、転落するとなかなか見つからず、自殺場所に選ぶ人が後を絶たなかった。上水に身を投げた人は、48年の上半期だけで太宰を含めて16人にも上った。情婦山崎富栄の遺体は、身投げ場所から1キロほど下流の水底で、黒のツーピース姿であった。2人は腰ひもでかたく結び合った状態で発見された。

富栄の死顔は、「はげしく恐怖しているおそろしい相貌」とされ、太宰の死顔は穏やかでほとんど水を飲んでいなかったことから、入水前に絶命していたか仮死状態と推測された。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家(太宰の本名)に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は、三鷹警察署で以下述べている。

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「私には純然たる自殺とは思えない。よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないか」と確信をもって答えた。三鷹警察署長も、「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言ってもはじまらないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちない点もあるのです」と発言している。腑に落ちない点がありながら、心中として発表したのだから覆せないということのようだ。

情死を心中といい、心中を情死というが、どちらの響きにも男女の情念の終末思想が漂っている。「情死」という言葉にはどこか憧れを抱くが、実際の心中死体はひどいものらしく、あくまで精神世界の美学であろう。それも日本特有の習俗といわれている。『ロミオとジュリエット』、『トリスタンとイゾルデ』、『若きウェルテルの悩み』も物語の最後に恋人同士の一人、二人が死ぬが情死とはわけが違う。

なぜ日本には男女が申し合わせて相果てる「情死」なる二重自殺形式が、文学や現実社会で発達したのだろうか。皆無とはいわないが、情死を扱った外国文学がほとんど見当たらない、あるいは目立たないのは事実である。日本では江戸時代から近松門左衛門の「心中もの」は、歌舞伎や浄瑠璃で隆盛を極めている。江戸時代ばかりか、大正・昭和・戦後にかけて有名な情死事件がある。

これらには日本固有の道徳意識・美意識が存在する。恋愛にも芸術にも、仏教的無常感や武士道的禁欲主義の影響から抜け出せられないものがあり、これらの背景には来世への信仰をよりどころとした厭世主義がある。そうした窮屈な社会のなかで、我々の先祖はとかく困難な男女の恋愛の最高の理想を情死という美のなかに発見したのではないだろうか。

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心中する男女は死ぬ前に交わる。これは最高の情交であろう。最後の一発といえば品がないが、死刑前のタバコの一服にも似た感動は想像できる。若い頃の自分は心中が不思議でならなかった。「やって死ぬことはなかろうし、生きていれば何度もできように…」と、若さゆえの率直な思いである。最中に、「死ぬ、死ぬ」と喚く女性はいるが、本当に死んでしまえば本望か?

「生きることだけが大事である」。たったこれだけのことが分からぬ者が死地へ急ぐ。「生きることの何が大事か?」と問われるなら、「死んでみればわかる」と答えることが多いのは、理屈をいっても始まらない。生きることの有難さを感じない、分からないというなら、死んで分かるしかなかろう。だから死んでみよ。生の歓びが分からぬなら、やれそらと死んでみればいい。

「生きるって辛いね。疲れるね」なども聞くが、死ねば苦悩も疲労もない、「だから死のう」は本当に得なのか。まあ、死ぬ人間に損得はないのだろうが、損得を考えて死を躊躇う者、損得を考えて死を選ぶ者はいよう。それならそれでいい。死を得だと思うなら死ぬのがいいに決まっている。人には人の生き方があるように、人には人の死に方もある。それを自由といい、能力ともいう。

林田茂雄は、「自殺は人間の最後の自由」といい、亀井勝一郎は、「自殺は人間にのみ与えられた能力」という。堀秀彦は、「何のために生まれてきたか」の答えは絶対に出ないとし、それを掴み取るための人生という。分からないから生きてみるのだ。言い換えれば分かったら死んでもいい。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というが、そう簡単には見つからないとの比喩であろう。

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五賢人の死生観 ①

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「死に意味があるように、生にも意味がある」という人がいる。「無意味」という言葉が存在するのは、「無意味」という事実があるからだが、意味のあることを無意味とし、無意味なことを意味あるとすることは世の中に山ほどある。そうしたすべてを意味付けと呼んで何ら差し支えないだろう。なぜなら、意味と無意味は相対性にあって人によって変わり、普遍的とは言い難い。

歴史の中で、「彼の死は意味のある死だった」というのはしばしば現れる。神風特別攻撃隊による敵へのに体当たりを、「意味ある死」とする日本人は少なくない。また、サイパン島で崖から身を投げた日本人女性を、「女性の誇りを失わぬ美しさ」、「日本人的な魂」などと称する人もいれば、「なぜだ?」、「どうして助かろうとしない?」と疑問を投げかける者も少なくない。


なぜに意見が割れるのだろう。戦争の実体験の中に自身を封じ込め、戦無派に呪詛の言葉を吐きつづける戦中派の思いは少なからずある。昭和16年12月8日、太平洋戦争開始より昭和20年8月15日、その敗戦に至るまでの間の戦死者総数は、行方不明者を含めて約260万人である。これを意味のあることとするのか、バカげたこととするのか議論は堪えぬが、ことのことだけは間違いない。

彼らは英霊と呼ばれ、白布に包まれた木箱となって待つもののところに帰って来た。空の木箱も多かったが、その中に目に見えぬ英霊たちを遺族はしかと感じたはずだ。「ナンノタレガシ 何歳 行ってまいります」の声を残して特攻に向かったものもいた。そうした遺族たちの心情を思えば、「無駄死に」とは口が裂けても言えないが、歴史の真実が情緒に飲み込まれてはならない。

そうした空気の中にあって、運よく生き残った従軍兵士たちが、まさに生ある者の責務として、勇気をふり絞って話はじめた。ある兵士は、「全員犬死にだった。戦争なんてそんなもんです」と語る。これに対して犬死にした者の戦友が、「よくぞいってくれた。どれだけバカなことを国に強いられたか、これまで誰も言わなかった」と胸をつまらせ涙を光らせて呼応した。

無慈悲で悲惨な戦争の実態が分かってきた。人間の言葉は長い間に繰り返し使っていると、必ず手垢に汚れ、枯死してゆくものだ。亀井勝一郎はこのようにいう。「『生きとし生けるもの』すべてが幸福にならぬ限り、自分の幸福もあり得ない」。屠殺されて、人間の食肉になる牛馬も生きる動物である。「ミミズ、オケラ、アメンボウ、みんな生きている」という唱歌がある。

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上記の文言は亀井のいう「愛」についての最高の形態であるが、「生きとし生けるもの」すべてが幸福にというのは現実的にあり得ない。仏教用語の「一切衆生(いっさいしゅじょう)という言葉は、この世に生を受けたすべて生き物をいう。つまり、「生きとし生けるもの」のことだ。日本に初めて仏教が渡来したとき、「一切衆生」なる言葉が当時の知識階級にどれほどのショックを与えたことか。

キリスト教も愛を説くが、仏教には、山川草木ことごとく仏性ありという愛の無限を告げる思想はない。亀井は幼児期に体験した有島武郎・芥川龍之介の自殺に驚き、大杉栄・伊藤野枝らの屠殺や小林多喜二の虐殺に胸を痛める。亀井は20代にして共産主義以外に日本の危機を克服する道はないと入党、「戦争は民族の再生であり、近代の超克」という共産主義の精神に傾倒していた。

しかし、彼の前にはだかる無数の戦死者を前に、彼らの端的な行動において、「一つの“純粋性”を実現した神聖なもの」と映った亀井は、共産党を脱党、仏教の信仰者として道を求めるも、「信徒の心を得ることができなかった」と述懐する。信仰によって永生を得るのは宗教の説くところだが、宗教に信徒するものは、「完全」に自己滅却をできるのか?自分自身に当て嵌めても到底無理。

半世紀をゆうに超えて生きながら、己を知ることすることすらできていない。つまり、己を知ることは己を限定することであり、自己に対し一種の諦念を抱くことで、確かにこれは人間にとっての聡明な生き方かも知れない。が、自分には無理なのは判る。だから、自分は宗教には近づかない。宗教に限定せずともされずとも、この世にはもっともっと他にやりたいことが沢山ある。

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五賢人のなかで、堀秀彦は死に対する強い関心を持っているようだった。彼は、「隠遁は死である」(1940年代)、「死の征服」(50年代)、「死を見つめることはできない」(60年代)、「死を怖れる」(70年代)、「死は憎むべき殺し屋」(80年代)と、年代を追って死に対する考えが変わっていく。来世を信じず、「死ねば塵に帰る」(旧約聖書)のキリスト教思想の影響を受けている。
 
「死は殺し屋」とは面白い発想だが、言い得て疑う余地はない。それは循環器疾患だったり、悪性腫瘍だったりと、人間の体の内部は常に殺し屋に狙われており、さらには道路上の鉄の塊であったり、悪辣な暴漢であったり、自然災害であったり、これらも広義には殺し屋である。様々な死から身を守ることは究極的には不可能だが、可能な限り生きる意欲と努力をすべきである。

五賢人の死生観 ②

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死が何かを永遠に知ることはできないが、老いが何かは老いて分かる。多くの人は老いとか加齢についてネガティブなイメージを抱いており、事実、高齢化社会の示す問題は暗い陰鬱な者は多い。最近とみに発生する高齢者の自動車運転事故には、同情さえ沸き立つが、高齢者の判断力の鈍化や健忘性は否定できない事実である。さらには知能検査上の成績低下や身体的動作性の低下も著しく減衰する。

「老年期こそ人間一生の生きざまの果実である」という言葉もあるが、死に至るまでせっせと働き続けるのも一つの生き方であろうが、願わくば悠々自適に生活したいものだ。心理学者のユングは晩年にこう述べている。「人々が私を指して博識と呼び、『賢者』という称号を与えるのを私は受け入れることができない。一人の人が川の流れから、一すくいの水を得たとしても、それが何であろうか。

私はその川の流れではないし、流れのほとりに立ち、何かを成そうとするのではない。同じ川のほとりにあって、ほとんどの人はそれによって何かを成そうとした。私は何もしない。私は立ち、自然がなしうることを賛美しつつただ見守るだけである」。何度目にしても素晴らしい文である。文が美しいのではなく、ユングの心と頭が聡明で美しい。こんな境地を模倣する以外に手立てはないであろう。

ユングは老子の「俗人昭々、我独り昏のごとし」を賛美しており、これは老子第二十章にいう、「俗人は昭昭たり、我は独り昏昏たり、俗人は察察たり、我は独り悶悶たり」である。意味を一言でいうなら、「学問は絶った方がよい」と述べている。その理由は、学問で得るものも多いが、これまで何とも思わなかったことが悪く見え、物足りなく思うものも増し、不安も不満も増すことになると。

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我々凡人に向けられる言葉というより、老子のような賢者による深い考察のなかから生まれてきたのではないか。バカはとりあえず賢くならねばならない。多くを学び研鑽から得た後に、「さて、どうする」、「さあ、どうするのだ」と問うているようだ。域に達した人には域に達した苦悩もあるのだろう。我々は先ずは域に達することが要求される。とりあえずは賢者・賢人に学ばねばならない。

され、「五賢人の死生観」との表題だが、堀の死に対する思いは述べた。林田はこんな面白いことをいう。「我々が生きているのは、単に死が怖いからだ」。美辞麗句を排した言葉に唸らされる。否定する者もいようが、本当に否定できるのか、腹の底は分からないが、さばがら腹の底を開いて見せた林田は信用できる人である。世の中には巧言令色好みのなんと多きかな。

口ばっかり、いうばっかりで何もしない人に多い。綺麗ごとを並べ立てて、実践してみろといっても土台無理であろう。しなくていいから言ってるだけである。確かに値打ちのある生き方というものはあろう。しかし、値打ちのある生き方を求めたからこそ、「本能への反省」が起こったことになる。しかし、そうした反省や挫折が、生きることへの意義そのものを否定することがあってはならない。

言い換えると、生きる目的を失ったなどと大袈裟に考えて自殺なんかすべきでないと考える。目的や目標を持つのは生きる力になるが、それが壊れたからといって死ぬ力になってはダメだろう。ありのままに、あるがままに生きることの喜びはいくらでも見つけることは可能なのに、値打ちのあるものを求めたあげくに死に急ぐ。生きる指針や死ぬ権利も個々の自由であるが、大言壮語を吐いて死んだ者もいる。

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これを自尊心というのだろう。そういう言葉は行き詰ることが多い。子ども時分の夢なら可愛くもあるが、物事を真面目に切実に考えると人間は死ぬしかなくなる。大事なことは遊びの精神である。加藤諦三は、「人間はつきつめて深刻に考えたら、自殺する以外に手はなさそうである」といっているが、人間として守る道徳など、どれ一つとして完全に守れる人間がどこにいるであろうか。

他人が不倫をした、汚職をした、人を殺した、そういう時にだけ都合のよい道徳家になっているに過ぎない。容易く人を批判し、石を投げる人間は多いが、誰一人として他人から石を投げられない人間などいない。にもかかわらず、言葉を荒げた批判はに教養の無さを見る。最近とみに目立つ文筆家気取りのゆでだこ男は、黙っていられない目立ちたがり性分だろうか。

「人生は遊ぶではない」という人もいれば、「人生は遊びだ」という人もいる。が、前者を主張する人が、果たして誰より生真面目に人生を生きたかどうかは疑問である。人間は言葉の動物だから、言行不一致は避けては通れない。したがって、極端なことを言う人間にはそれなりの理由があるのだろうが、心理的に見れば頷ける部分もあると、理解をしながら拘わらないのがよい。偽善者は無視に限る。

多くの宗教者に対してそうするのは自分のスタンスである。人間を信じて生きる人間と話をするのは楽しくもあるが、神や仏の話は講話ならともかく、日常会話には相応しくない。性を神聖な語り口で話す人間は昔に比べて少なくなったが、そんな奴が幼女を強姦して捕まった時以来、物の見方が変わった部分もある。当時は若かっただけに、ただただ驚き、キツネにつままれた心境を忘れることはできない。

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潜在的な性の猥褻さから逃れられない人間は、自らがその猥褻感に耐えられず、それをかき消し中和するために、性を神聖化する。真面目人間の多くは、理想主義の敗北を認めたくない人間という。人の表と裏が分かるようになると、人間の面白さが増してくる。それにしても坂口安吾の『堕落論』には驚いた。「人間は堕落しなければ救われない」という発想は当初理解できなかった。

太宰は安吾と亀井の共通の親友で、安吾はこう書いている。「彼(太宰)の小説には、初期のものから始めて、自分が良家の出であることが、書かれすぎている。そのくせ、彼は、亀井勝一郎が何かの中で自ら名門の師弟を名乗ったら、ゲッ、名門、笑わせるな、名門なんて、イヤな言葉、そういった…」。亀井と安吾はウマがあわなかったのか、文芸評論家の亀井に安吾の作品は無視されている

「自分以外はバカ」という人間

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感情的になって他人をどぎつい言葉で批判する物書きがいる。そうした挙動はベストセラー作家といえど、三文文士に劣らぬ品位の無さである。世俗の些事雑事に口出しし、他人をあげつらうのが余程好きなのは伝わるが、暴言を吐く、他人を貶して自信を奪うなど、自分の思うがままに事を運びたい、あるいは全てを支配したいなどの振る舞いをする人間をこれまで幾人も見てきた。

他人への攻撃で優越感に浸りきって自己満足をするのはいじめそのもで、こうした大人社会の縮図が子どものいじめに寄与しているのではないか。人間社会において様々な諍いが生じるのは古今東西変わることはないが、近年は、「何でそんなことにまで口をはさむのか?」という事例が目立っている。他人を寛容できない人間が目立つようになったのはネット社会の負の遺産であろう。

匿名社会が批判や非難を増幅させるのは分からなくもないが、「俺は姓名素性を隠すことなく露わにして批判をするのだから、そこらのケツの穴の小さい人間とは違う!」とでもいいたいのだろうが、現わさんでもいいし、些細なことに口出しして相手を傷つけるようなことは止めたらどうだ?今回の発端は、古市憲寿氏による百田氏の『日本国紀』(幻冬舎)批判であった。

古市氏をテレビで見かけることはないが(テレビを観ないこともある)、売れっ子論客らしくも、世代観の差なのか自分の肌に合わない。それはともかく、古市氏による問題の文は、新潮社のPR雑誌『波』で連載している「ニッポン全史」の最終回(3月号掲載)のことだ。副題は「歴史を語ることの歴史」。このなかで古市は、百田の『日本国紀』を“話題の書”として取り上げ、こう紹介している。

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「また現代史では、『大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争』ではなかった、「南京大虐殺」はなかった、韓国の主張する「戦時徴用工強制労働」は嘘であるなど、これまでの百田の主張が繰り返されている」。さらには、90年代のベストセラー『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝著)や、『国民の歴史』(西尾幹二編)と比較しながら以下のように述べている。

「当時流行した日本史の特徴は、読者に勇気を与えてくれるという点である。彼らはそれまでの日本史を『自虐史観』だと批判し、日本人は“誇り”を取り戻すべきだと訴えた。“大東亜戦争は正義の戦争だった”など、百田が『日本国紀』で主張する内容と近い。というか、“ネトウヨ”と呼ばれる人々の思想的原点のほとんどは、90年代の歴史認識論争にある」。

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これに対し、百田氏は「ウソを書くな!ボケが!」と怒りのツイートを返す。古市氏は、「ゆでダコじゃあるまいし、顔を真っ赤に湯気までだして何というザマだ?」などと言い返す骨のある若者ではなかろうが、古市氏の主張を普通に読めば、「大東亜戦争は正義の戦争だった」と主張したとするのは藤岡や西尾の著書のことなのに、『日本国紀』の内容と「近い」と評しただけでこのお怒りだ。

ケツの穴が小さいというか、ゆでダコが差別表現か否かはともかく、誰の目にも瞬間湯沸かし器と映る。文人は仮の姿か、あり余るボキャブラリー所有者にして言葉を選ばず、「このボケが!」なる発言は、子どもの喧嘩の、「お前のとーちゃんデベソ!」にも劣らぬ品位の無さ。古市氏の指摘するようなことが『日本国紀』のなかに記されているのは、事実と検証されている。

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つまり百田氏は『日本国紀』のなかで明確に、「日本国による東南アジア諸国への侵略戦争」を否定し、大東亜共栄圏構築を名目に行なった戦争に関連づけ“戦後、アジア諸国の多くが独立を果たした”と評価を下している。この記述は誰がどのように読んでも、「大東亜戦争は正義の戦争だった」という主張に〈近い〉とする古市の論評のほうが妥当ということになろう。

何にでも噛みつき、吸い付く百田氏が、自著のクレームを拡大解釈してイチャモンつけるなど朝飯前。いかに器の小さい文人気取りの御仁であるかが感じられる。『日本国紀』の波紋はさらに広がり、作家の津原泰水氏が『日本国紀』を批判する投稿をツイッターでしたことで今回の騒動となる。出版元の幻冬舎は権威をかさに、「批判を止めぬならお前の本を出さない」とした。

津原氏の『日本国紀』批判の要旨、ウェブからのコピペ・パクリというものだが、どうやら事実らしい。これに対して幻冬舎側は、「『日本国紀』販売のモチベーションを下げている者の著作に営業部は協力できない」と津原氏に通達したというが、こうした違法とも受け取られかねない圧力に屈せず、媚び諂うことなく幻冬舎を告発した津原氏の男気はいいんじゃないか~。

以前百田氏は『永遠のゼロ』を批判した宮崎駿氏に対し、『頭大丈夫?』と批判した。今回は自著批判をしたわけでもない俳優の佐藤浩市に、「三流役者が、えらそうに!」と噛みつく。汚い言葉で罵る人間はあちこちにいるが、「俺はベストセラー作家。三文文士ちゃうで」と言いたいのだろう。小物の大物気取りは珍しくないが、静謐なネットに下品な言葉とあの顔はうっとおしい。

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「自分以外はバカ」の時代

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ノンフィクション作家の吉岡忍氏は、2003年7月9日の朝日新聞に、「『自分以外はバカ』の時代」という小論を寄せている。氏はここ数年来、この国から地域社会と企業社会が蒸発し、人々がばらばらに暮らすようになったと指摘する。地域と企業は戦後の半世紀のなかで、良きにつけ悪しきにつけ、この国を経済大国に押し上げることに寄与したクルマの両輪であった。

ところが近年、地域や企業では、「自分以外はみんなバカ」という罵り合う様相がみえる。子どもが通う学校もそうかも知れない。吉岡氏の指摘から16年経ったこんにち、その様相は以前に増して膨れ上がっているようだ。人間の自尊感情は否定されるものではないが、自を尊く思う心が他人を見下したり侮辱したりすることでなされるなら、なんとも歪なことだといわねばならない。

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妬みや嫉みを起こさぬ人間はいないが、妬み・嫉みはよくないものという、「善の心」が希薄になりつつある昨今なのか。誰でも人から賞賛をを受けたい、人から否定されるより賞賛されたり承認されたりで生きたい、子ども時代からの願いであろう。ところが競争社会の激化や、親が我が子に絶対価値をを与えなくなった子どもたちは、賞賛や承認を受ける機会が少なくなった。

親は子どもをおだてや励ましをするが、無条件の賞賛や承認はそれらとは別。「うちの子は頭は悪いがいい子」、「心も気立ても優しい思いやりがある子」などの愛情で子どもをみる親が少なくなったのだろう。子どもに、“いいこ”といい続ければ、いい子になろうとするものなのに、価値の画一化を信奉し、拠り所にし、人間の能力が勉強や有名校に行くことで決まるという親が大勢だ。

こんなことは昔はなかった。塾のなかった時代の子どもの頭の良し悪しは、本人の学習意欲で決まったし、したくない勉強、嫌いな勉強を無理やり尻を叩いてさせることもなかった。高度成長期の只中にあって、親が働きづくめで忙しかったこともあって、それほど子どもにかまけていられなかった。あの時代の親は朝から晩まで必死で働き、子どもは遊ぶのが仕事であった。

親は我が子の頭の悪さを嘆けど恥じることはなかった。子どもを誰より知る親は、この子は手に職でもつけさせた方がよいと、子ども主体に考えていた。大工や左官、理美容師や看護婦、和裁・洋裁に料理学校などの花嫁修業を、我が子のためにと課す親が多かった。近年の女子の花嫁修業といえは、大学卒という履歴であり、最低でも短大卒を志向する親が増えている。

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それが「人並み」という時代の要請なのだろう。本当に子どものためなのか親の見栄なのか、仕向けられる子どもたち。昨今、子どもへの賞賛は明確な実績が伴わないと得られない時代である。子どもたちはそうした蓄積する不満を解消するためのか、手っ取り早い手段として、「自分より下」人間を目ざとく探すようになる。それに加えて、「自分より下」を打ち砕こうとする。

こうすることで委縮した自尊感情を回復させようとするのだ。全国の学校で多発するいじめ事件にもこうした問題が隠されている。多くのエリートを信者としたカルト教団「オウム真理教」の事件は今なお人の心から消えることはない。信者たちは麻原彰晃を教祖と敬い、中でもエリートとされる高学歴信者は、自分たちを穢れた世から救済する「選ばれし者」と思い込んでいた。

彼らはそういう役職に就くことで自尊心を満たすことになる。あげく彼らは自分たち以外の大衆すべてを「凡夫」と見下し、蔑んでいたという。そうした他者軽視があればこそ、無差別大量殺人テロが可能となる。物事には深い理由と意味が存在し、それを知ると知らぬでは事象の捉え方も変わってくる。人を虫けら如く殺したのは教祖の命というより、彼ら自身の主体性でもあった。

若者が未熟であるのは自分の経験からしてもそうで、バカさは経年で分かることで、当時はいっちょ前と思っていた。如何に現実から離れた高邁な理想を掲げていようと、若者には普通のことだった。自分はそんな大それた夢も理想もなかったが、高い理想を所有する奴らは、常に高い位置から他者や世間を眺めていたし、低俗や思想なき者への強い批判をもっていた。

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全共闘世代特有の騒乱は今に思えば若気の至りで、マルクス・レーニン主義に傾倒するあまり、「この国を直すための実力行使は当然」と、暴力革命を基軸に国家権力に挑んだ。自身の高い理想に比べ、他者の能力や実社会の現実はあまりにも低級で汚れていると軽蔑する。相対的に自尊・自負の情が誘発させるが、他人の無力には気づけど、己が無力に気づき、顧みるだけのゆとりもない。

若者の他人蔑視・他人軽視は当たり前に存在するのは、自己肯定感を模索する過程で仕方のないこと。さらには実在するもの・ことを、自分に都合よく解釈し、想像する精神的なイメージ概念をポジティブ・イリュージョンといい、①自らをポジティブに思考する、②将来を楽観的に考える、③外界に対する自己統制力を高く判断する。この三つの領域からなるとされている。

賢い人とは ①

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賢人の書を読んでも賢人になれない。アランの『幸福論』に「汝自身を知れ」とあり、「自分が自分にとって最大の敵」と説明するが、人は他人に厳しく自分に甘いのが一般的だ。即ち自分の最大の敵は自分であり、自分の欲は他者への奉仕より激しい。これを認めるところが、「自分を知る」ことになる。知ってどうするかの前に知ることによる恩恵はある。必ずや生きる力になるはずだ。

自分を知ることで己の欲を当然とするか、醜いと感じるかにぶち当たる。誰にも欲はあるが、欲についての加減を考えることになる。欲は善悪の問題にもかかわるばかりか、人間の性質を大きく左右する。また、自らについて思考するのは苦悩との戦いである。自分の最大の敵は自分。「自分を超えろ!」という言い方もあるが、自分を超えるとは、「自分を甘やかさない」ことでもある。

「人には厳しく自分に甘い」人がいる。人間の基本的性向からしてこれは当たり前のことだが、自分と闘うことで自分に厳しくなろうとする。自分に厳しくして何の得になるのだろうか?自分に厳しくといってもいろいろで、自分に厳しく他人にも厳しい人。自分には厳しいが他人に優しい人。などがあって、どちらかを目指そうと思えばできるのか?おそらくできるのではないか。

「人に優しくできる女の子になりたい」とある思春期の女性がこぼしていた。「なれると思う?」と聞くので、「自分なりに無理をしない方法を見つけられるとできるんじゃないか?」と答えるべきだが、どう答えたのだろう。記憶にない。いろいろ問われることはあったが、どう答えたかは覚えてないものだ。言葉だけかもしれぬが、自分に向き合おうとすることは良いことだ。

自分に向き合うことで先ずは自分を知り、それからどうするかということになる。事実を認めないことには進むことはできない。「将来のことを考えると絶望しかない」という奴がいた。どういう絶望か分からぬが、絶望しかないなら考えない方がいい。まあ、自分なら絶望をつき詰めて考えるから、善きにつけ悪しきにつけ、何事も怖れることなく考えるだろう。

自分の弱さや欲を認めない生き方は楽かも知れないが、楽でいいわけはないと考え人間は、自分の不足を向上させようとするし、これを前向きな生き方という。楽に生きて壁に突き当たらないとも限らないし、その時のために手立てを考えるのかも知れない。将棋相手に、「これでいいと思って指してる」が口癖の人がいる。敗色濃厚なのに、それでも「いいと思っている」という。

楽観的なのか、強がりなのか、おそらく後者だろうが、本人には染みついてしまっている。正確な状況判断ができていないので、気づいたときは収拾困難な状況になる。いつもその繰り返しであたらためようとはしない。こういう人を見ると気の毒だなと思うが、それがその人の生き方なのだ。プロ棋士の多くは状況判断を悲観的に捉えており、それだけ用心深いということだ。

楽観的になって手痛いミスを沢山してきたことで培われた境地と考える。強がり、威勢のよさで将棋は勝てるものではない。楽を志向する人は壁にぶち当たったときに逃げようとするんだろう。逃げることが解決法なのだ。逃げるのはとりあえずの解決法で、一時凌ぎの思える。そんなことをしたことはないし、折角頭があるのだから、考えることもまた楽しである。

逃げて楽しいなど思ったこともない。もっとも、逃げる人は困っているからだろう。「備えあれば憂いなし」という言葉が好きだった。「備え」を身につけるために人は頑張るのかも知れない。「備え」のある人間は強いし、「どこからでもかかってこい」と自信に満ちる。そのために知識や体験が肥やしになる。良書を選ぶべきだが、経験というのはどんなものでもプラスになる。

「人に厳しく自分に甘い人間」がいる。どちらかろいうとこれが普通だ。大なり小なり人はそういうものだが、限度が問題になる。「知る」ということは、自分が知らないことを知るのも「知る」だが、知っていることを知っているとするも、「知る」ということだ。しかし、「知っていること」と、「知らないこと」と、ハッキリ区別するのは難しい。「人に親切にするのは善いこと」という。

が、「善い」とはどういうことか?と聞かれて答えに窮する人が多い。自分の良心を満たすことなのか、相手を喜ばすことだからか、問い詰めてみるとわれわれは何も知っていない。そんなことでさえ知らないのだ。知る世界と知らない世界を区別できない中で生きている。「いじめはよくない」。言葉は知っているが、なぜいじめがよくないのかを知らないでいる。

では、「いじめがよくない理由を知ればそれをしないでいられるのか?」ここが人間の複雑さ、不可解なところ。いじめも、いじめ自殺も、ただの人殺しも、その他一切のことは、人間という不可解な謎から起こるのか。他人を見下げたり笑う人は多いが、なぜいけないかを知らずに生きている。むやみに他人を笑わぬ人は、自分も同じ線上に生きていることを知っている。

賢い人とは ②

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「あの人は賢い」、「彼は頭がいい」などの言い方がなされるが、それぞれの人のなかには「賢い」の基準があるのだろう。受験学力と地頭の良さとは区別されるが、一般的に地頭といわれるのは知識の多寡でなく、論理的思考力やコミュニケーション能力などをいうのは、科学的にもあきらかである。文章を書くにも論理的思考を磨くためと思えば苦にもならず、コミュニケーションに勤しむ人も同様だ。

しかし、賢い人間を目指すというのではなく、自分自身の卒の無さを磨きたいということなのだろう。前回、アランの記述を引用したが、彼のいう幸福感は、“弱いから強くすべきだ”いう考えからで生きることが基本にある。強いものは自然と強く生きれるが、そういう人ですら弱いから努力をした筈だ。自分も弱い自分を徹底的に嫌悪し、強くなりたい願いは今なお変わらず持ち続けている。

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そういえばラッセルも彼の『幸福論』のなかで、「自分自身の自叙伝を示せ」と述べているが、「自叙伝」というのは、自分を正しく見つめること即ち自分を正しく知ることをいい、それがラッセル自身の人生哲学である。そのことは同意するしかない。自分のことを正しく知らないで、どう正しく生きよというのか。fact を生きるか虚飾を生きるかと択一を迫られるなら、やはり fact を生きるべきである。

「私は批判されたらダメなの、心が折れるの、それだけはしないで…」と言われて驚いたことがある。それとまったく対照的な女性は、付き合う前に、「気がついたことがあったら何でもいってね」といった。前者の過剰な自己防衛感は付き合いに区と即座に判断した。甘やかされて育ったことで、批判慣れしていず、釘を刺されたのだろうが、人を批判しないで生きていくことは不可能である。

言いたくても言えない、言ってはいけないということは、自身のなかにストレスを溜めこむことにもある。後者の女性は、いうまでもなく後向上心の強い女性であった。小さく姑息に生きるか、視野を広げて大きく生きていくか、分かり易く違いを述べらが、ついでにそのことに思考を巡らせた。他人の批判を受け入れられないのは二通り考えられる。親から否定しまくられた、親から一切否定されなかった。

前者は自己を否定され続け、せめて親以外の世間の誰かには、自分を認めて欲しいという願いかも知れない。後者は、親から一切の否定をされず、過保護に育った可能性が考えられる。自分の家、自分の親への安住意識が強く、それが世間の荒波の中では耐えられないということか。どちらもよいことではなく、そこから導き出された結論は、親は子に是々非々な対応が望ましい。

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厳し過ぎるのも、甘やかせるのもよくないといえば簡単だが、この加減が人には難しい。が、賢い人は、そういう能力を持った人に当て嵌まるのではないか。「賢い」という見方は様々に存在する人間の秀でた能力といえる。心筋梗塞や脳卒中を患った人が医師から、「タバコを止めなさい」といわれて、スパスパ吸うのは賢いといえず、賢さはその意味でも自分(の状況)を知ることだ。

「自分をちゃんと見ている人」正直、凄いというしかない。自分なんかもまだまだできていないが、見るからにそういう人がいる。人は互いに非難し合うことはできても、互いに理解し合うことは難しい。我々は常に自分の視点で物を見、経験や知識で他人を判断する。だからか、自分に都合の悪いことを、自分に対する裏切り・不誠実さと理解し、相手の立場に立って、その人を理解しようとはしない。

確かに相手の立場にたって相手を理解することは、意外と難しいようで実は簡単でもある。なぜなら、乳児や幼児を育てる母親は、その子の立場に立ってすべてを考えることができる。それは乳児や幼児がには自我が確立していないからでもあり、反抗期にもなると逆らう子どもに憎悪まで感じる親もいるという。それも賢いとはいえないが、そういう場で賢くなるための秘訣や訓練をするのが賢さでもある。

やはり基本は自分を知るということか。兵法家として名高い孫氏に有名な言葉がある。「相手を知らず、自分も知らずは百戦百敗」。「相手を知り、自分を知らずは百戦五十敗」。「相手を知り、自分を知るは百戦百勝」。もちろん比喩であるが、言いたいことは良く分かる。自分を知ることも、相手を知ることも、「考える」ということによってもたらされるが、考えるための情報も重要となる。

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「考える」ことの奥義は、自己肯定の是非と安易な他者否定への警鐘。極度に人を否定したがる人の本質は自分に自信がない。自信がないから他者を誉めるゆとりもない。さらには、自分だけが優れているとの驕りが見え、これはは前回の記事で指摘した。「驕り」というのは事実でも事実でなくとも、人間の無様な虚栄心である。それを隠せてこその自信であり、つまり自信は他者に披露するものではない。

相手を大切にできるのは自分に自信のある人。自信を持たねばそんな余裕は身につかない。つまるところ人間は、自分の抱える劣等感をどうするかで相手に対する態度が変わってくる。そこが人間のやるせなさであり、面白いところでもある。どちらにしても、自分を深く見つめるところからもたらされる。幸いにして、自身の短所に比べて長所は気づきにくい。だから短所の方が修正しやすい。

賢い人とは ③

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「賢さ」が何であるか、正直分からない。しかし、「賢く生きたい」と世の中での実践を頭に描いてみれば、どう生きるのが賢いのかが見えてくる。つまり、実践に即した賢さこそが生きる上での有用さではないか。ただ賢くなりたいからとやみくもに勉強するとか、読書をするとか、講演・講話を聴きに参じるとかというではなく、生きる上での様々な知恵が賢さであるのが分かる。

自分を知ることが賢い人だといった。いったはいいが、自分の何を知ればいいのだろうか?「自分を知る」ということをもう少し具体体に考えてみる。「自己を知る」ということは簡単ではないし、きわめて困難なこと。これは自分の経験でいっている。その理由として、人間は環境に大きく左右されるからだ。例えばちょっとばかり人から褒められたとする。そのことが自分を自惚れされることにもなる。

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あるいは人から小さなことを非難されたとする。そのことで自己卑下をし、寝つきが悪くなったりする。いわれた言葉が頭をぐるぐる駆け巡ればそりゃあ眠れないだろう。若いからではない。いくつになっても、周囲の言葉によって心が揺れたり左右されたりの経験は誰にもあるだろう。つまり、自分は他人の言葉にかなり影響されやすい人間なのだと知る。いいか悪いかの前に「知る」ことになる。

他人から僅かばかりの賞賛を受けた昨日の自己と、僅かばかりの非難をされた今日の自己は明らかに違っている。が、どっちの自己も自分である。だから、自己を知るというのは困難だといった。一生かかっても本当の自己が何かを知り尽くせないかも知れない。なのに「自分を知る者が賢い人」といった。日々移り変わる自己をしるとはこういうことだ。褒められたらつけあがり、自惚れやすいのが自分。

非難されたら心が痛み、そのことが頭に充満して寝つきが悪い自分。そういう自分であるということを先ずは知る。そしてそのことが自分にとって負担になるかならないか、なれば何とせねばならない。ならないなら放っておいて大丈夫。このように、生きるということは不安定を生きることだということを知るのも広義の自己を知ることになろう。自分は世間に生きているなら、世間を知るのも自己を知ること。

人里離れた山奥に隠遁し、仙人のような暮らしをする時も、知るべく自己がある。人間は環境に左右されるのだから、さまざまな環境のなかの自分を知るのが自己を知ることになる。平たく言えば、あちこちにおいての自己を知るということだ。たくさんの自己をその場その場で正しく判断することだ。つまり、自己の対応力を知って、それでよい場合、よくない場合に、修正した自己を試みることになる。

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試みるのが可能かどうかは分らぬが、その時その場の自己を知っていれば、対応は可能だろう。自己を知るだけでなく、相手のことも正しく洞察すれば孫氏のいう、百戦百勝も夢ではない。議論においても言い合いにおいても目指すは勝利であり、誰もがそれを目指している。負けたという記憶はない。つまり相手の虚を突くからで、将棋でいうところの、「相手の指手をすべて悪手にする」のが大事。

虚をつくとは、相手の考えにない事を突発的にいうことだ。相手にはその用意がないからうろたえる。そこが大事である。さらにこちらは、相手のいうこと一切は想定済みとなれば、対応も簡単だ。自慢することではないが、自分は相手の虚を突くのが得意である。なぜかといえば、それが好きだといってよかろう。だからか、テレビの「ドッキリカメラ」とかは見ていてたまらなく面白い。

仕掛けられた方は全員虚を突かれ、あられもない状態となる。これほど面白いものが他にあるだろうか?人間が虚を突かれること以上に人間の何が面白いのだ?と思っている。だから、他人の虚を突くのが大好きなのだ。「好きこそものの上手なれ」ということだろう。「君は頭いいね」といわれても、思ったことはない。評価というより、悔しさが言わせる言葉だと思っているし、評価なんかいらない。

自分は何事も楽しみたいだけだ。人が考えつかないことを考える人も頭のいい人、即ち賢い人だと思っている。だから自分もそうありたい。人が考えのつかないことをいろいろ考えていれば、訓練されて頭がよくなるのではないだろうか?何が起こるか分からない世に生きている以上、何があっても適切に対処するのも賢さではないか。神など信じない。信じてもいいが、神は我らを放っておいてくれたらいい。


もし神様がいたとし、我々の生涯全部の過程を明らかにしてくれたなら、我々は生きる興味を失うだろう。自分の壮年時代から老年時代や死に至るまでが、完全に予測できたなら、果たして我々はその人生を生きる必要があるとは思えない。問題集を買ってきて用意された解答マス目に埋めていくようなもので、誰もそれを勉強とはいわない。真の勉強とは答えを四苦八苦して考えること。

さらにいえば、人生には教科書に載っていないような問題が山積みされており、そうした答えのない問題に答えを出していくが、その場合に正しい答えを出しのが賢い人であろう。誰も知らない、誰にも分からない我々一人一人の生の可能性と、それらを空想することが我々を生かしている。したがって、生きることは不安を、不安定を生きるということになりはしないか。

明日が不安である。だから生きる。10年後が見えず読めず不安である。だから生きる価値があるのでは?あるいは、どんな大きな夢であれ、小さな夢であれ、生きるということはそうした夢を叶えていくことでもあるが、現実的に考えるなら、我々はその夢を破壊していくことにもなる。絶望することはない。それを試練とし、試練に耐える自己を愛すればいいのだ。

どんな人生でも我が人生。どんな自分でも我が自身。危機に決断し、成果に絶望することもある。「世の中、そんなに上手い事行くわけない」と、道理を知ることも賢い人である。自分の都合の良いことばかり考える人を賢いといわない。「凡庸な人は人間の間に相違を見出さない」という言葉があるが、美醜も、精神の大も小も、才能の有無も、生まれながらの貧富も、相違として存在する。

賢い人とは ④

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2019年5月21日(現地時間)、第72回カンヌ国際映画祭で新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を世界初上映し、スタンディングオベーションを受けたタランティーノ監督。その後行われた記者会見では、監督とともに主演のブラッド・ピット&レオナルド・ディカプリオ、そしてマーゴット・ロビーも出席した。そこである女性記者が以下の質問を監督に直撃。

「マーゴットは主演級女優なのに彼女のセリフは少なかった。なぜ彼女が言葉を発するシーンがあまりなかったのですか?」。これにはタランティーノ監督は怒りを露わにし、「あなたの仮説に基づいた質問への回答を拒否します」と、その質問を一蹴。あまりのご立腹ぶりに、ブラッドとレオナルドも、「やばい」とばかりに気まずそうな表情を浮かべていたという。

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それを見たマーゴットはすぐさま、「私が登場するシーンは、シャロンへの敬意を表す大事な瞬間だと考えています」と監督をフォロー。さらに、「彼女の悲劇的な死は純真さの喪失を表していると私は思います。彼女の素晴らしさを表現するのに言葉はいらない。私はセリフに頼ることなく、自分の演じるキャラクターの新たな一面を発見することができました。

それは私にとっても貴重な経験です。じっくりと時間をかけて役を作る機会なんて、そう滅多にあるものではないのです」と続けた。 上の三人が出演する本作は、1969年を舞台にハリウッド黄金時代の最後の瞬間を描いた物語で、同年8月9日に発生した女優、「シャロン・テート殺人事件」を題材に、マーゴット演じるシャロン・テートに注目が集まっらがセリフが少ないのは事実だった。

監督が立腹して答えられなかった質問に対し、咄嗟に監督をフォローしたマーゴットはさすがというか、彼女の聡明さ、頭のよさを感じさせる。もちろん、台本などある筈もない。偏見かもしれぬがざっと見渡してみて瞬時にこれだけの言葉を用意できる賢明な日本人女優がいるだろうか?マーゴットは、1990年7月2日生まれのオーストラリア(ゴールドコースト)出身で28歳。

優秀者の多いサマーセット大学を出た彼女は、女優を目指してドラマなどでキャリアを積んだ後に渡米し、本格的に女優としての活動をスタートさせた。セクシーなルックスとキュートな笑顔にどんな役でもこなす優れた演技力で多くの人を魅了する女優で、2018年公開の『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』では、アカデミー主演女優賞にノミネートされた。

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ちなみに日本で頭の良い女優といえば、偏差値がどうの、出身校がどうの、そういうレベルで国民が満足するなら仕方がない。真に頭の良さとは何なのかという議論など耳目にしたことがない。女優のレベルというより、日本人のレベルが低いのだろうか。「女性の頭の良さとはなにか?」について、中国で起こったある事件を契機にし、以下のような議論が湧き起こった。

2010年6月10日、ある殺人事件の裁判が開かれた。性的暴行を加えようとしたところ抵抗されたため、ナイフで110回も突き刺し残酷に殺害したというもの。この事件を受け、「性的暴行を受けそうになった女性は命を守るため抵抗しないほうが賢いのではないか?」。議論の主題は、貞操を守るか、命を守るかということであり、これも頭の良し悪しという問題になるものなにか?

男にとっては実感が湧かないし、女性ならではの思考がなされる問題である。アメリカでレイプ事件があったときに、コンドームを差し出して死を免れた女性がいた。しかし、その後の裁判で男性側は「コンドームを差し出したんだから女は同意したんだろう」と和姦を主張したが陪審員は強姦とした。当然であり、犯罪者にとってそんな都合のいい話があるわけなかろう。

こうした事例に対して女性にアンケートを取ったらどうだろうか?「命が重要か」、「貞操が重要か」。どちらも重要との意見もあるだろうから、こういう女性の場合、「命が守りきれる状況ならば抵抗する」だろうし、抵抗は反射的・無意識的ではなかろうか。イスラムの戒律は厳しく、「シャリーア法」によると死刑に相当する罪は大きく3種類に分けられている。

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殺人と麻薬密輸入とそして婚外交渉となっている。この中には同性愛や不倫も含まれ、窃盗罪は手足切断となっている。2006年、16歳の少女が51歳の男にレイプされてイランの公共広場で絞首刑に処された。彼女は13才の頃にパーティに出席した際、自動車の中で少年と2人きりでいたという理由で、「道徳警察」によって、「純潔に関する犯罪」で逮捕された過去もある。

短期間だが刑務所に放り込まれ、むち打ち100回刑を受けたが、釈放後に既婚で子持ちの51才の男から数回レイプされていた。彼女は裁判でレイプ事実を告白したが、レイプが証明できなければ彼女の罪となる。イラン法廷ではレイプの事実証明が極めて難しく、男性の証言の方が女性証言よりも重視されるため、絶望的状況だったという。彼女は賢くない?それとも不運?

賢い人とは ⑤

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人間の「賢さ」について思考をすれば色々思い浮かぶが、場面、場面で機転の利く人間を「賢い」とするのは間違いなかろう。「きてん」を検索すると、「気転」と、「機転」があり、それぞれの意味は違っていた。「気転」とは自分以外の誰かに優しくすることを指す。優しくする際にも、他の誰かにこうしたほうがいいと言われてするのではなく、自らの意志で行動することが大事である。

例えば、電車で座席に座っている際、目の前にカップルがきたとする。開いた席が自分の両隣だった場合に片方に席をずらすのは気転を利かせたことになるが、これがもしカップルから、「どちらかに寄ってもらえますか?」と言われて動いた場合、気転が利いたと言わないだろう。自分の意志こそが気転である。それに対して、「機転」とは人が考え付かないような発想をすることである。

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「機転」というのは、他人に親切にするような気転と違って、誰にも所有される能力ではなかろう。したがって人の賢さとは、「機転」に属すもの。どちらもあっていいものだからできたら身につけたいものだ。子どものころ、近所のお好み焼き屋さんに、それはそれは気転の利くおばあちゃんがいた。単に子ども思いのやさしいおばあちゃんと思うが、だから気転が利くのだろう。

当時、普通のお好み焼きは確か30円だったと記憶するが、おばあちゃんは腹を空かしたこどもたちに5円のお好み焼きを作ってくれた。当時のこどもにとって10円は大金で親からもらうのはせいぜい5円。おばあちゃんの作る5円お好みはこんな感じだ。鉄板の上に水で溶いた小麦粉(当時はメリケン粉)をひいて、具はなにも入れずにただ焼くだけの今でいうクレープ。

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こどもたちはじっとそれを見つめながら、今か今かと出来上がるのを待つ。そして数分後、焼けたらお好みソースをぬってカツオの粉をふりかけ、二つ折りにたたんで新聞紙にくるんだら、おたふくソースのクレープのできあがり。元はこどもの空腹をしのぐ食べ物だった。おばあちゃんは夏には5円のかき氷も作ってくれた。量は少ないがちゃんと蜜もかかっていた。

みんなが貧乏だった時代、お好み焼き屋にしろ、駄菓子屋にしろ、決してお金儲けの商売というではなく、子どもたちのために存在するようなたまり場だった。地域社会は子ども達のためにあり、我々はそうした大人の御利益を受けて大きくなった。みなが温かな心をもった美しきよき時代だった。子どもは地域が育てたといって、決して過言ではなかろう。

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こうした大人のなかの子ども時代の記憶は、今なお自分の心に残っている。たくさんの子ども時代の記憶は忘れるものではないが、なぜかほとんど覚えていない大人たちもいる。昔話を忘れるような大人は、日常生活に追われてなのか、自身を顧みる機会が少ない人たちでは?大人の心の中には誰にも桃太郎や一寸法師、浦島太郎が生きているはずなのに、それすらなくした大人がいる。

人生の成功や失敗の過程というのは、そうした昔話の展開する筋と符合しているのは決して珍しくない。たとえば意志の弱き人は、浦島太郎の物語の如き乙姫の誘惑におぼれ、正義感の強き人は桃太郎のように、村人の財産を強奪する鬼を退治に出かけていく。男の子はこうした英雄・豪傑に憧れたものだ。欲にかられて生きる人は、「こぶとり爺さん」や「舌切雀」の話は警告となろう。

空想は子どもの遊びを豊かにし、空想力が大人の現実的な吟味能力と結びついたとき、社会のなかで自己を実現するための原動力となる。世知辛い世の中で生活にに追われた大人たちは子どもの空想力を失い、現実の適応に追われるばかり…。社会問題となった、「不登校児」においても、彼らの多くは、「学校に行きたいと思いながら行けない」子どもたちである。

かつては、「登校拒否児」といったが彼らは、「登校を拒否している」というより、「拒否させられている」のが実態である。我々の時代にもいじめや仲間外れは普通にあったが、「学校に行きたくない」、「登校を拒否させられる」ような陰湿さはなかった。さらにいうなら、親に甘やかされたような腑抜けた子どもはいなかったし、それぞれがそれなりの逞しさをもっていた。

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「賢さ」は人間にとっての大事なファクターであるが、「逞しさ」はそれに勝るものでは?子どもを弱くする方法など簡単なこと。何でもカンでも親が手を貸せばいい。逆に子どもを強く逞しくしようと思えば、あえて親が手を貸さない。昔の親が故意に子どもを放っておいたのではなく、忙しくてそんな暇がなかったからだ。今の親たちは暇もあってか多くの時間を子どもに費やす。

あくまで自分の考えだがこれらを、「賢い親」といわない。「賢い」にはいろいろあるように、「賢くない」にもいろいろある。今の子どもはその年代にもよるが、愛らしさを捨て不可解なものへと変貌している。近年の多くの親は、子どもの言動に戸惑いつつも、ひたすらその対処法にのみ憂身をやつしている。そうした要因は、想像力を育まない、「遊び」が主体ではと考える。

賢い人とは ⑥

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諸葛孔明は『三国志』の主要人物として有名。「三顧の礼」で蜀に迎えられたが、それほどに傑出した人物であった。彼の智略・策略は随所にみられるが、三国のそれぞれ勇たちも劣らぬほどの人物だった。魏の曹操は術策によって人を操縦し、蜀の劉備は情で人と結ばれ、呉の孫権は意気によって人を引き寄せた。この三者を兼ね合わせたのが孔明であろう。彼には人事に関する名言がある。

「人のために官を択(えら)べば乱れ、官のために人を択べば治まる」。これは後に聖徳太子が『十七条の憲法』のなかに取り入れている。「ゆえに、いにしえの聖王は官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けることはしなかったのである」(第七条)。賢人に対する賢妻の存在も捨て置けない。歴史上の賢妻のなかで筆頭にあがるのは山内一豊の正室・千代ではないだろうか。

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一豊の出世や栄華は千代あってのものといわれている。その他の賢妻として有名どころを挙げるなら前田利家の妻であるまつが有名で、秀吉の正室ねねも劣らぬ賢妻ぶりを発揮した。少しばかり色が変わるが、武器を手にした勇ましい賢妻を挙げるなら、本多忠勝の娘で真田信之の正室である小松殿、木曽義仲の側室巴御前らの名も忘れることはできない。いかにも戦国時代の賢妻を示している。

小松殿や巴御前は「勇婦」と称されている。神話の時代からこのかた女は体力的には男に敵わない。ところが、木曽の育ちで源義仲の愛妾巴御前は、男勝りの強弓を引く一人当千のツワモノだった。荒馬を乗りこなし、難所もやすやす超えていく一方の大将格であった。「ともゑはいろしろく髪ながく、容顔まことにすぐれたり」(「平家物語」)とあるようにそこそこ美人であったらしい。

歴史上の才媛として紫式部・清少納言は必須であろうが、義経の愛人で絶世の舞の名手だった静御前も才媛に加えておきたい。式部らとは色味がちがうが、日本史のスター級であり、見逃されているのは男装の麗人であった。白い水干、金色の立烏帽子姿で袖ひるがえして舞う姿はいかにも優雅であるが、水干・立烏帽子は男の装束である。ただしこれが白拍子の舞台衣装でもあった。

白拍子は元々は神に祈りを捧げる巫女として起こったが、人気のあまりに引っ張りだことなるが、白拍子は神聖な巫女というより遊女との説もある。静は頼朝の追っ手を逃れて義経と逃避をするも、女人禁制の吉野で義経と別れて捕らえられてしまった。鎌倉に連れてこられて詰問されるが、義経については知らぬ存ぜぬぬの一点張り。静が舞の名手であることを知る頼朝は彼女に舞を命じた。

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鶴岡八幡宮の神前に舞を奉納せよとの口実である。ところが静は義経を恋る歌をを舞ったことで頼朝は激怒、妻の政子がなだめる一幕があった。静のこの時の心境たるや、「ザケんじゃねーよ。こんなときに鎌倉バンザイの歌なんか歌えるか!」との魂胆でやらかしたのだろう。義経を想う一途な静を、敵に媚び諂うことのない利発な女と称したい。彼女にその資格はある。

静の実の母である磯禅師はその後も頼朝の機嫌をとり、鎌倉武士に媚び諂うなど、「長いものには巻かれろ」という生き方をするも静はちがった。彼女の心底を現代風になぞらえるなら、首相主催の文化人パーティーの席上で、「私の夫は先の戦争で死にましたが、この国の政府は靖国に英霊と奉じて責任をとったおつもりか?私の夫を今ここに返してください!」と、静はいったのである。

「賢さ」というのは、何者をも怖れず動じぬ心の表明ということもいえるが、ただいうだけではなく、説得力という英知も必要となる。「無学」を怖れる必要などなにもない。「無学」という用語は仏教から来た一つの知恵であって、「知識の私有化への否定」であると同時に、「人間の分別なるものへの懐疑精神」であろう。さらには、「自己放棄としての無学は無心といってもよい」。

「私は地道に学歴もなく独学でやってきた。座右の銘というのではないが、『我以外皆師也』と思っている」と、これは吉川英治の言葉であるが、時々思い浮かべてみる。謙虚さの鏡といえるこうした心境になれる自信はない。「奉仕」というのは、「無心」となって初めて意味を成すとは思いつつ…。「隣人への愛」という言葉は美しいが、けっして誇示するものであってはならない。

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人間は自身の善的行為に対していかばかりか自己満足に陥り、そのことを幸福と思い込むことがある。つまり、幸福の自己判断は危険といえなくもない。であるなら、幸福の概念はどのように授かるべきものなのか。「無心」のうちに、それは自ずからに宿っているものかも知れぬ。誰に誇示するでもなく、己に慢心することもなく、一人静かに浸るものなら、それは「想い出」のようなもの。

中三の時に他校から転校してきたK、彼女のあり余る才媛ぶりには驚きの一言だった。彼女の母親は、毎日朝まで灯りがついて勉強しているので、身体を壊さないか気が気でないとこぼしていたほどだ。その彼女が卒業文集に書いた言葉が、「想い出は懐かしいもの淋しいもの。一人静かに偲ぶもの」。才媛・才女の彼女は、おそらく漱石の『夢十夜』を読んでいたと推察する。

「死にたいなら一人で死ぬべき」の危険性 

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川崎市多摩区で発生した19人の男女死傷事件で、とあるソーシャルワーカーのコラムがいち早く掲載された。社会的弱者を救うのがソーシャルワーカーの仕事で、彼らは一様に、「無差別殺人などの犯罪を防ぐには、すべての人が希望を持てる社会にすること!」との考えが軸にある。無差別殺人事件加害者心理は、「むしゃくしゃしてやった。誰でもよかった」などが多い。

11年前の「秋葉原無差別殺傷事件」、18年前の「附属池田小殺傷事事件」、19年前のゴールデンウィークの最中で起こった17歳少年による「西鉄バスジャック事件」、昨年6月に新幹線のぞみ車両内で起きた無差別殺人事件。そのほかにも路上の通行人を刺した事件など数多くあるが、これらは目的なき殺人であり、即ち、「誰でもよいから殺したい」が背景にある。

新幹線車内で自らの命を犠牲にして刃物男から乗客2人の命を救った梅田耕太郎さんの勇気は心に残るが、彼をソーシャルワーカーが讃える事はない。小田原市内の病院に搬送された後に亡くなったが梅田さんは、38歳というアブラの乗り切った年代であり若さであった。司法解剖の結果、死因は失血死。身体には胸や肩をはじめ約60ヵ所もの傷があったという。

致命傷となったのは頸部の約18cmの長さの切り傷で、なたによるものとみられている。梅田さんは小学生時代から評判の秀才で、神奈川県が誇る超名門中高一貫校を出た後、東京大学工学部へ進学。決してガリ勉タイプではなく中学・高校ではバスケなどのスポーツも頑張り、バンドも組んでいたという。大学時代はテニスサークル活動にも精力的に取り組んでいた。

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彼の勇気はどこから出たかを想像するよりないが、格闘家の那須川天心は、川崎区多摩区で起こった今回の事件を受けてこんなコメントを綴っている。「格闘技をやってますが、実際刃物を持った人と遭遇した時に助けに行けるかと言われても行けないと思う。そんな勇気ないし、力もない」とし、「でも助けたい気持ちが大きい。もっと強くならなきゃ、人として…」と。

我々が目にする天心は強い。しかしそれは格闘家としての強さであって、彼は人間としての弱さを率直に認め、「人として強くならなきゃ」と述べている。天心をして尻込みするほどの勇気をもって、新幹線車内で暴漢に歯向かった梅田さんは、人として強かったということだろう。梅田さんを知る友人はこのようにいう。「彼は非常に穏やかな性格で、人付き合いも積極的な学生でした」。

梅田さんの両親は二人暮らしで、事件後彼の母親は憔悴しきっていたという。「彼の姉や親族が両親の元に手伝いに来ているようで、我々近所の人間はそっと見守っています」(近隣住民)。母親の気持ちは分かるが、父親は不運にも刃に倒れた息子を誇りに思った筈だ。見ず知らずの他人のために命を投げ出す行動などできるものではない。それを誇りといわず何といおう。

今回の多摩区の事件後に掲載されたソーシャルワーカーの発言は、仕事としての言葉と理解することもあって、無慈悲発言とも思わない。ネット内乱舞する、「死にたきゃ一人で死ねよ」の発言を憂慮し、類似の事件を発生させないためにも社会的弱者に対し、社会は暖かく手を差し伸べ、何かしらできることはあるはずだとのメッセージの必要性を痛感したという。

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繰り返すが、それが彼らの仕事である。とはいえ、仕事とは無縁でありながらも新幹線で二名の命を救った梅田さん。仕事だからやれることもあろうが、仕事でなくてもやる人もいる。ソーシャルワーカーの仕事が重要なのは否定はしないが、仕事である以上頭が下がることもない。それに比して、仕事を離れて人を救おう、救いたいとの人の心には敬意を表したい。

加害者も実は被害者であるとの論理は、いじめ加害者の多くに実感する。ソーシャルワーカーが、多様化する現代の貧困者を救うための社会福祉を官に変わって実践するというのは認めるが、今回発された「『死にたいなら一人で死ぬべき』という発言の危険性」というコラムの題目は行き過ぎでは?「危険性」とまで言わずとも、説得力ある別の言葉で表現すべきと。

そのように感じた。というのは、「一人で死なない人は間違っている」という曲解を生む可能性もあるからだ。死にたい人はいるだろう。人間のなかには、破滅することによってしか自己を成就できない人もいる。その人にとっては破滅こそが幸せであり、自己を完成する唯一の生き方でもあり、破滅の過程のなかで自己の完成をみとめ、今回のような非道極まりない行為で人生を終えていく。

自分を破壊するのは勝手だが、他人や社会を破壊することはない。何故にこれほど邪悪な行為をして死ぬのか!斯くの無差別殺人者と、樹海や東尋坊でひっそり人生を終える者と、どちらが人間らしく誠実な最期であるか?確かに自分は現象面を述べているが、ソーシャルワーカーは現象には口を閉ざす。仕事熱心なのはいいが、総合的な考えを述べたらどうだ。

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