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結婚する悔い、しない悔い ③

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自分のような年代の考えを若い人に持てというのは無理かも知れない。話して聞かせても頭に入らないかも知れない。だからどうすればいいかだが、結婚への憧れはあっていいが、同時に結婚に対する覚悟のようなものも必要。「いいことずくめではない」という考えを、どれだけしのばせられるか?若すぎる結婚は大変かもしれぬが、15で姉やは嫁に行く時代もあったわけだ。

速い自立を促された昔の少女たちは、遊ぶ時間も暇もなく必然的に"耐える"ことを学ぶ。過去の女性史にみる女工哀史や唐ゆきさんの過酷な世界、少女時代から強いられる子守や炊事洗濯などの家事労働は女性の宿命とはいえ、彼女たちには当たり前であった。現代女性に、「耐える」は薄れてしまっているが、こんにちのニーズで考えるなら、「耐える」ことは美徳ではなくなった。

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現代女性は、「耐えなくてもいい時代」、「耐える必要のない時代」のなかで生きている。西川史子が離婚後にいった、「(お互い)人と暮らすのが得意じゃない」をどう理解するか?結婚は同じ屋根の下に他人が同居すること。気心が知れた家族の同居とはまるで異なる環境だ。したがって、「他人と暮らすのが得意じゃない」は、結婚に向いていないことを示唆する。

理想を抱く限り失望は当然にあり、失望したところからどう夫婦生活を続けていくかが求められる。「失望したから離婚」という昨今の風潮を変革するのは、無理というより不要であろう。人はその時代を生きるし、その時代しか生きられない。清少納言も北条政子も淀君も現代に生きられない。普遍的な人間の生き方が模索されるが、理屈どうりにはいかないものだ。

が、こういう考え方もできよう。清少納言や淀君が、今の時代に生を受けたなら、あの清少納言にも、淀君にもなっていないだろう。そこいらの有名進学校出のお嬢さんか、ヤリマン・タイマン女子になっていたかもである。あの時代に生をうけたからこそ清少納言として生き、淀殿として生きた女性である。人はその時代にしか生きられないし、時代もまた人を作る。

流行のコーデを楽しむ人がいて、流行を追わないトラディショナルな生き方を楽しむ人もいるように、女性が強くなった時代であっても夫を立てて支え、夫唱婦随を理想とする女性もいるが、「人間は長所と短所で成り立っている」を知るのは大事である。「あばたもえくぼ」の恋愛時代は善しとし、人間の欠陥や弱点は日常生活のなかの些細なことから現れるものだ。

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「人と暮らすのが得意じゃない」という言葉には、「他人と融合・融和ができない」との意味が込められている。人間関係を上手くこなす人には様々な能力がある。一言で人間関係といってはみるが、多くの要素で成り立っている。「相手への洞察や理解」、「決定・決断の速さ」、「ブレない態度」、「状況判断ができる」、これ以外の要素や能力を持っている。

なかでも、「理解」はもっとも大切だ。人はいつも理解されたがっている。だから理解されると喜び、理解をくれた人には好感を抱く。会社の上司であれ、親であれ部下であれ、あるいは同僚であれ、友人・知人であれ、「理解を示す」だけで人はついてくる。人には必ずといって、他人に踏み込まれたくない領域がある。そういうところも理解して対処するといい。

恋愛は誤解といい、結婚は理解というが、後者は同じ屋根の下に住むもの同士のイロハの「イ」であろう。そうはいっても、他人の言葉も心も理解できない人がいる。人間の能力は高い順に、創造力、読解力(理解力)、記憶力とされ、上の二つに比べて記憶力は重要ではない。何を言おうが示そうが理解できない人がいる。自分のこと以外はまったく見えない人間である。

こういう人間を、「真正バカ」と捉えている。彼 (彼女) らは他人の言葉が耳に入らない精神障害を患っており、自分を理解せよと躍起になり、相手にも指図をする。最近、この手のバカと絶縁をした。身内であるが、バカに身内も他人もない。身内だから許容すべきという論理はない。他人に許せぬことは身内も同じと考えれば、他人に厳しく我が子に甘い親にはならない。

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バカとは拘わらないようにすべき、だから絶縁が大事。少々のことは許容できるが、自分のことしか頭にない超絶自己中人間とは関係を切るのが正解である。50代の夫を持つ妻がこんなことを聞いた。結婚20年になるが、最近夫はバカではないかと思い始めたという。とある会社に長く勤めて生活は安定して、家庭内外においてこれといった不満は特にない夫のようだ。

ところが最近妻が何をいおうと、「あ、そう」とだけ答えるという。不機嫌というわけでも、文句をいうわけでもない。張り合いのない妻は、「主人はバカなのか?」と思い始めたという。「あ、そう」は天皇陛下の言葉である。おそらく夫は、夫婦生活や家庭生活の一切を現状のまま肯定し、これ以上どうもなるものではないという諦めの極致に到達したのだろう。が、妻にはいわなかった。

結婚した悔い、しない悔い ④

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何いっても耳に入らない女がいる。男にもいるのだろうが、立ちはだかるのがバカの壁。子どものころから身近に感じていた父と母の壁。おそらく父は母を、母は父をバカと思っていた。就学前の記憶は残っている。壮絶な喧嘩で、父は泣きじゃくる母を縛り上げた。自分が4~5歳だから父が40歳母が27歳。喧嘩後に母は必ず自分を連れて家出し、友人宅を泊まり歩く。

宿に泊まらぬところが厚かましい。相手も迷惑だったろう。父の家出は決まって一人。時に母子心中事件を目にするが、母が子どもを巻きぞいにするのは、子どもを所有物と見るからだろう。子どもを身勝手に利用する母の傲慢さ。母親に殺される乳幼児は何のためにこの世に生を受けたのだ?理性のかけらもないバカ母に、「自分一人で死ねよ!」と心で叫ぶ。

人の人生は後悔と切っても切れないものだが、結婚がどれほどの後悔になるのか、後悔のない自分は想像するしかない。夫は愚痴というより、さらりと妻批判をするが、妻からの夫の悪癖や悪行を聞いたり書かれたものを読んだりで、行為についての実体を知るが、苦しみや悲しみの心情を理解するとまではいかない。理解というより、察するということになる。

葬儀に列席すれば喪主に対し、「お察し申し上げます」などという。察する以外にないとの社交辞令である。他人の痛みは分からない。人は人を完全には理解できないものだ。安吾は自分の歯痛を同感してくれぬものは冒涜者冗談めいた言い方をするが、文筆家のサービス表現だろう。女性離婚経験者の幾人から夫の不満を聞いたが、以下、夫がやりそうなことばかり。

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①主人には何か隠し事がある。②家庭を顧みない。③見栄っぱりで浪費が絶えない。④気が弱いのに内弁慶で威張りくさっている。⑤陰険でドケチ。⑥人にはいい顔をするが頼りない。⑦自慢話が大好きなバカ。⑧すぐに血が昇り殴る蹴る⑨女癖が悪く、まるで歩く陰茎。他にもあるが、愚か男の行状はこんなものだ。この中で何が耐えられないか?人にもよろう。

これらのなか我慢にもほどがあるのは、⑧⑨か。いずれも不法行為であり看過できない。こういう状況に耐えて我慢を重ねる妻には、それに充当する楽しみがなくてはとてもじゃないがやってられない。資産家の夫を持つ妻は気分転換に買い物しまくるというが、一時しのぎの憂さ晴らしだろうし、根底から満たされるものではないが、一つだけ代用できるものがある。

夫以外の相手への恋なりセックスかと。不倫は違法だが罰則はなく、刑事事件にもならない。婚姻継続不能と配偶者から訴えられれば損害賠償は発生する。これと似たのがNHKの受信料。放送法で定められているが罰則はない。NHKは放送法と最高裁の判例をタテに契約を迫るが、法が正しいというわけでもない。「テレビを設置したらNHKが勝手に映る」。

「観たくもないNHKが勝手に映る」。放送法?最高裁?そんなの屁でもなかろう。司法判断というのは、提訴されたものに白黒つける使命を負うだけ。提訴もない間に立ち入ってどーせー、こーせーは行政の仕事であり、放送免許企業の監督官庁は総務省である。ところが総務省は受信料義務化の立法案を、何十年も避けている。いわゆる放ったらかし状態である。

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それはなぜか?受信機を設置した以上、「観る観ないにかかわらず契約義務がある」というNHK側の論理は公序良俗に照らして無理がある。本来、契約とは自らの意志で納得してこそ正当性がある。放送法に罰則がないのも、一民間企業への利益誘導となる罰則規定は社会通念上問題だ。NHKは受信料義務化を望むも、現時点で国は弱者救済の立場に立っている。

弱者とは年金受給世帯や母子家庭世帯で、これに該当する方々は堂々と、「テレビはあるが払えない。あんたたちは我々をいじめるんか」といえばいい。裁判にはないから。職員の平均年収1700万のNHKには批判も多く徴収義務化の道は険しい。WOWOWなどのように、視聴者の意思による課金システムなら公平であるが、それなら解約者続出となるのをNHKは危惧する。

不払い者の放任がスクランブル化より得策という考えだが、支払い者の手前ちょびちょび裁判をやる。したくもない契約を強引にさせられる国は、世界広しといえども日本だけで、したがって強気でいれば裁判以外に受信料をとる方法はない。政治の基本は弱者救済だが、それでもガス・水道・電気は滞納すれば止められる。命に影響ない電波を勝手に垂れ流し、「契約しろ!」は、ヤクザそのもの。

話が違う方向に行ったが、論理として、考え方として、大事なことを述べてみたまで。「みんなが払ってるし、払わねばならぬものを踏み倒してよく平気でいるよね」などの暴言を吐くバカもいるらしい。委託業者というやりたくない仕事を高歩合で請け負う以上、追い返されるのも仕事のうちだ。国会の総務委員会質疑ものらりくらり、なんともセレモニー的茶番である。


結婚した悔い、しない悔い ⑤

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「なぜ結婚するのか?」は命題であろう。「なぜ結婚したのか?」は後悔であろう。「結婚して良かった」は感謝であろう。などと思いを述べてみたが、「なにも考えずに結婚した」という知人がいた。本当に何も考えずに結婚できるか疑問だが、彼はこんな風に話した。同じ市内に出会って間もない恋人がいたが、他市に転勤を命ぜられ、「それなら結婚するか」となったという。

付き合い初めて1か月くらいだったというが、九州から東京に転勤になったことで、「何も考えないで結婚した」はそのことをいっている。結婚なんか考えてもなかったそうだ。円満夫婦のままに10年くらい経ており、同僚から紹介を受けての交際というから、いわゆるお見合い結婚のようなものだ。「もうアレしてたんか?」と聞くと、転勤を命ぜられたその日に結ばれたという。

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「ほぉ~」、なんとも微笑ましい話ではないか。真面目な二人だから勢いがついてドッキングを果たしたんだろう。転勤が二人に幸福をもたらせたのは間違いない。サラリーマンにとって転勤はつきものだが、業務の都合とはいえ、宮崎から東京まで動かしたいものか。とり急ぎ婚姻届けをだし、身内だけのささやかな挙式で済ませた。「なにも考えずに勢い余って(漏らして)の結婚」でも幸せになれる。

子どもはその時のベビーらしく、いわゆる中漏れ。重ね重ねお幸せな二人であった。彼はこの話を得意気に話すというが、確かにそれくらい価値ある逸話だ。「なにも考えずに結婚」というのは人の純粋さのあらわれか?ニーチェにこんな言葉がある。「『なぜ生きるか』を知っている者はほとんどあらゆる、『いかに生きるか』に耐えるのだ」。実より名に振り回される人間を揶揄する。

「生きる」の文字を「結婚」に置き換えてみると、「『なぜ結婚するのか』を知っている者はほとんどあらゆる、『なぜに結婚するのか』に耐えるのだ」となる。「命題」というのは真とは限らない。偽の性質をもつものであるということを知らぬものは多い。ならばいっそ自然のままに、なるがままに自由に生きるのがいい。ここに「幸福の法則」が隠されているのを知った者は幸運である。

確かに人間が純粋で無欲とはいいきれない。「策士、策に溺れる」ともいうが、真の自由者とは純粋な「生」の体現者ではないだろうか。『愛と青春の旅立ち』という映画のラストがそんなだったと記憶する。もう40年くらい前の映画である。青春期に観た映画でもっとも感動したのは、『追憶』(日本公開は1974年)であった。バーブラ・ストライサンドの主題歌と可憐な女性像が印象的だった。


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ストーリーは、理想主義な左翼思想に傾倒する頑固なケイティという女性と、政治的主義にとらわれない保守的で愛国者のハベル。信条が正反対の2人は大学で出逢い、卒業後それぞれの道を進んだ。二人はパーティー会場で再会し結婚する。ハベルはケイティの尽力もあって売れっ子作家になるが、信条・理念の違いが二人に亀裂を生む。ケイティはハベルに合わせることができない自分を悟る。

ついにハベルは離婚を持ち出しケイティは同意し、それぞれの道を歩む。圧巻のラストシーン、核廃絶運動に精を出すケイティは路上でビラ配りをしていた。ケイティを見つけたハベルが彼女の元へ、そこで再会を懐かしむように抱き合う。ハベルは妻と一緒だった。「素敵な奥さんね」とケイティは祝福する。ハベルも問う。「結婚は?」。ケイティは、「娘にとっていいパパよ」と嘘をついた。

決して負け惜しみではないのはケイティのはやる表情をみればわかる。ハベルへの想いを断ち切るためについた嘘である。おそらくハベルもケイティが独り身なのを気づいていたろう。ハベルはケイティのチラシを受け取ると、「じゃあ」といって立ち去る。ハベルの妻を気にもせず二人は寄り添い抱き合う。束の間の追憶の時。日本人ならこうはいかない素敵なシーンである。

映画のラストに胸が絞めつけられるのはなぜだろうか?郷愁?それとも共感?誰にも青春はあった。去りいくハベルを追うケイティの視線が哀しい。恋愛は発見である。人にはじめて無為の意義を教える。人は恋をすれば無理をして時間を作る。「忙しいから会えない」などはウソの恋、会わない口実。忙しさやあわただしさ一切を遮断する、それが恋というものだ。

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恋愛が発見の喜びなら結婚は何であろうか?結婚は人間形成の過程である。夫も妻も自分たちを育てあい開拓していく。互いに教え合い、学び合い、導き合いながら家庭を形成していく過程である。欠点を持ちあう同士が、欠点を持つ人間として結びついていく過程のなか、それぞれの欠点を長所たらしめる工夫こそが、生きる工夫ではないだろうか。その意味で夫婦とは言葉の生活である。

人間は病める存在であるように、夫婦も病める存在という自覚が必要だ。自覚も発見である。互いが病める存在と自覚すればこそいたわりあえる。理想の結婚、理想の夫婦、理想の家庭、そんなものはない。何気なく結婚し、夫婦と呼ばれ、普通に子どもができ、自然と家庭が生まれる。こういう考えに無理はない。日常生活の美化はできるが、普通のものを美化するそれを虚勢というのでは?

結婚した悔い、しない悔い ⑥

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シリーズものが続くのは分かる。頭がそのこと一色になるからだ。この表題で書き始めて結婚の様々な後悔は耳目にするが、結婚しない悔いはあまり聞かない。上野千鶴子や田嶋陽子らフェミニストは、ウソかマコトか独身を肯定しており、後悔の「コ」の字もない。アラフォー、アラフィフ女のやや後悔めいた言葉を記事で読むが、期待は持つ以上完全後悔ではない。

そんな自分に、「結婚しない悔い」が書けるのか?まあ、経験や体験のないことは想像で書くしかないし、それなら地底探検も月世界旅行であれ、書くことはできる。「適齢期」という言葉がいわれるが、結婚の適齢期というのはどういうもので、誰が定めたものかを考えてみる。われわれの時代は、男が26~27歳、女は25歳までといわれたが、当時の社会通念であろう。

男に焦りはなかったが、女性はなるべく25歳までにという、強迫観念めいたものがあったのではと、当時の世相を思い出す。男にはないが(正確にはあるのかも知れぬが)婚期を失った女性という言葉は辛辣である。「結婚しないは人にあらず」みたいな言われ方をされた時代である。価値観が多様化の現代においても、それでも非婚は何かと後ろめたさがある。

『婦人公論』1971年10月号において、「結婚の意味・同棲の意味」をテーマに座談会が行われた。そのなかで評論家の山手秀子は、自らの離婚体験をもとに以下のように述べている。「結婚はその昔、人類が文明の原始蓄積をする段階で考え出した重要な出来事であったに違いない。だがそれが、発生当時ほどの用をなさなくなった時に、"慣習"として残るのだ。(中略)

結婚という慣習化したものを、本質的なものとすることで支えられてきたのが、封建社会と、現代サラリーマン社会である。封建社会とサラリーマン社会の共通項は、男女の性的分業の固着であり、タテ割階層分化であり、管理社会の強化である。秩序と権威構造、身分と役割のバランスの上に安住する社会である。そこでは結婚の慣習が核的支柱をなす。

結婚の慣習を固定させるためには、女が"慣習的"に妻となり、母となるという事実を、それが女の"本質"だと強調することが必要である」。なんとも居丈高な物言いであろう。彼女は、悪い結婚体制を改善するというより、結婚制度そのもを否定するフェミニストである。当時はまだフェミニストなる言葉はなく、「前衛的人間のヤミクモな反体制者」と批判された。

離婚を否定する理由はどこにもないし、フェミニストたちの結婚否定論に賛同はできない。山手氏の言葉には以下の伊藤野枝の一文が反映されている。「結婚の失敗とか破滅とかいう事が多少の問題になるようになったのは、日本でも最近の事だ。従来の、ただ従順という美徳が女の唯一の売り物であった間は、そのような事は問題らしい問題には少しもなっていない。

そうして、そのような婦人の美徳を保護するために努めている多くの人々は、従来不道徳な事として社会にいれられなかったふしだらな結婚が、そのような問題を引き起こしているのだといっている」。確かに家父長制度時代の結婚は、自分の意志を無視され、否定されて押し付けられた結婚にすら従順でしかなく、我慢できない夫のもとでも従順であらねばならない。

だからか統計上では、「離婚は少ない」となっている。伊藤野枝は親から押し付けられた結婚を家出することで破談にし、好きだった高校教師辻潤宅に飛び込んだ。しかし、結婚とは本人同士で成り立つものではない。彼女はこう記している。「そこには姑や小姑もいた。私たちとはまるで違った思想、違った趣味、違った性格もった、私にとってはアカの他人がいた」。

彼女は自由意志での結婚を遂行するためには、両親や縁談を持ち寄る周囲の人と戦うしかなかった。彼女は両親を説き伏せることはできなかったが、両親を捨てて飛び出すことはできた。しかし、飛び込んだ先の姑や小姑など、「アカの他人」に囲まれた辻家で戦うことはできなかったし、飛び出すこともできなかった。家をでることは夫と別れることを意味した。

それでも彼女は飛び出す決意を固める。それが、『自由意志による結婚の破滅』という論文の表題となった。貴乃花親方と離婚した河野景子は、彼女の方から(女性経験の浅い=本人の弁)親方に接近し、妊娠6か月の出来婚を果たす。そんな彼女が本を書くなら伊藤野枝の反省文と同じ、『自由意志による結婚の破滅』であるべきだか、書いてることは「わたしは被害者」?

読んではないが、情報社会だから中身を目にすることはある。「本質は現象する」といったのはヘーゲル。本質とはものごとの内面の姿、ものごとの背後にあってその基礎をなしている本当の姿をいう。現象とは、ものごとの外面の姿で、実際に感覚でとらえることのできる姿のこと。要するに、本質とは内面の本当の姿、現象とは外面の見せかけの姿といえよう。

本質は現象を通じてのみ現れ、現象として現れない本質はない。つまり現象として現れない本質は本質とはいえない。「本質は現象する」とはこのことをいう。本質を様々に置き換えることはできる。例えば、「バカは現象する」、「賢さは現象する」のように。これらは隠そうとして隠し通せるものではない。如何に隠そうとかならず目に見えて現れる。バカも利口も。

しかし、当人は気づかない教えることも無理。夫婦生活を洗いざらい書くのは愚かな行為。お金の手段でやるなら愚かを超越する。お金が貰えるからといってもやってはいけないことはある。それを知るのが利口な人間である。知らぬは愚かなる人間だ。遊ぶ金欲しさに身体を売る少女しかり。バカがそれをやるのか、やるからバカなのか、どちらも同じことだ。

結婚した悔い、しない悔い ⑦

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「ゲス」という言葉を聞くが、ゲスとは下種、下衆、下司と筆記する。心根が卑しい、下劣、身分の低い者などの意味があり、対義語は上衆、上種、上臈(じょうろう)。有体にいえば、高等なものと下等なもので、双方は否定し合う関係で統一される道理がない。が、高等と下等、古いと新しい、ポジとネガなど否定し合う矛盾の統一関係を明らかにするのが弁証法。

恋と愛も観念論でいえば、恋とは欲しがり・むさぼるもの、愛とは与えるもの、尽くす心であるから反対の性質をもつ。つまり、恋愛とはそういうもの、矛盾しあうものである。恋は自分の欲望だが、愛には相手と自分との関係である。相手が誰であれ一方的に抱けるものでもある。イケメン俳優であれ、韓流ミュージシャンであれ、会ったこともない相手に恋をする。

思春期少女のジャニ恋も誰でもかかるハシカのようなものだ。しかし、人と人との恋愛関係は、盲目的にではなく自覚的理性的にしか持続はできない。つまり、個人的欲望に盲目的に従おうとする気持ちと、相手との人間関係を理性的に守ろうとする心と、果たしてどちらが高等であるか、疑問の余地はない。そこらあたりに少女の恋と大人の恋愛の違いを見るのだが…

つまり、少女の盲目的で一方的な恋愛が破綻するのは、そういうことの要素が大きいということ。「自分は若かった。あまりに若すぎた」と悲恋体験した人の反省の弁がそこにあるが、少女が恋愛に結婚に憧れ、理想を抱くのは無理からぬことだ。「あいつはゲスな人間だ」、「彼女ははなはだしいゲス女」などの言い方は、身勝手で自己中心者に向かってのようだ。

「人のために尽くすのは高等で、自分のために尽くすのは下等」と、この考え方は正しい愛情論を作るために必要だと、長い間信じられてきたが、どうやらそれらはキリスト教や儒教から生まれてきたものらしい。「人に尽くすのが高等だ」のどこに根っこがある?「神様がそういった」、「仏様がおっしゃった」と返すなら、それはおとぎ話の類ではないか。

このような論理に惑わされることなく、自らの頭、深い思考で考えてみると、自分に尽くすことは何も下等ではないし、相手に尽くすのも一概に高等ともいえない。「滅私奉公」が封建制度の遺物として残ってはいるが、戦後になって民主主義の導入とともにプラグマティズム(実利実益主義)の性格が強くなり、滅私奉公的な自己犠牲的精神は、吹っ飛ばされた。

日本の神風特攻隊を分析すれば、こういう考え方が軍国主義精神である。現在の北朝鮮を見ても金正恩を崇め奉るのが危険であるように、かつて日本も天皇を神格化して崇拝した。同じように、恋愛関係において相手に尽くすのが高等という考えは、やはり過去の遺物であろう。そうではなくて、自らの内なる本質的な性格で、相手に尽くす=自らの喜びなら否定すべきでない。

こういう利他精神を持つ人はいる。親がこの喜ぶ顔が見たいから尽くすというのも利他愛であろう。他人に尽くすだけが自己犠牲を強いられるではなく、自分に尽くす場合も自己犠牲はいる。朝、眠いのに起きるのも、したくない宿題をするのも、学校を卒業するために頑張るのも広義の自己犠牲である。何かを行為するときは必ず辛さや我慢は必要なのだから…。

我慢は自己との戦いであり、我慢を通し貫くことは自分を犠牲にしている。つまり、自分を犠牲にしないでこの世は生きて行けない仕組みになっている。話を結婚に戻す。前の記事で伊藤野枝が、『自由意志による結婚の破滅』という論文に言及したが、『婦人公論』1917年9月号に掲載された一文は、後悔や愚痴の決算表ではなく、誇りと再出発に満ち満ちたものである。

「破滅ということは否定ではない。否定の理由にもならない。私は最初にこのことを断っておきたい。不純と不潔をたたえた沈滞の完全よりはるかに清く、完全に導く」と書き出しで始まる野枝の言葉に、保守反動の輩どもは、「それ見たことか」と嘲笑った。野枝個人の失敗を、一般的な自由結婚そのものの当然の敗北といい立てた。こういう非難や誤解はいつの世にもある。

そんなことに怯むことなく彼女は最後の一文を以下のように締めくくる。「私は自分の失敗に対しては、自分の不用意に責任を持たなければならないと思っている。それはほとんど、すべてといっていいくらいに、私の心持ちや行為と、私の根本思想や態度との矛盾に対しての私の判断がはっきりしなかったためである。私は、自分の失敗から、これだけの結論を受けとった」。

見事なまでの自己責任だが、彼女の自己批判の根拠とは、彼女が以前に述べた、「結婚という約束に対しての私の盲目」のことであろう。自らに忠実で正直で美辞麗句を排した一文を前に、しょーもない言い訳がましい河野景子などは比較にも値しない。自らの「晩節」の域にもなれば、むやみな他人批判は控えるといいつつも、「しない」ということではない。

「国破れて山河あり」の貴乃花

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 国破れて山河在り
 城春にして草木深し
 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
 烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連なり 
 家書万金に抵(あた)る
 白頭掻けば更に短く
 渾(す)べて簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す

李白と並び称される唐代の詩人杜甫は712年に出生し770年に没す。名門の家に生まれながら苦労して得た地方官僚の職をわずか4年で辞め、貧困の中で放浪生活を送った。社会や現実を凝視し、苦難を乗り越える意志を力強くうたう詩を遺した。なかでも有名なのが『春望』で、詩の意味を知る人も知らぬ人も忘れた人もいようがこんなことを言っている。

国都(長安)は破壊されてしまったが、山や川は(変わることなく)存在している。(荒れはてたこの)町にも(いつもと同じように)春がやってきて、草や木は深くおい茂っている。(乱れた)時世に心を痛め悲しんで、(いつもの春ならば楽しむはずの)花を眺めて涙をこぼし、(家族と)はなればなれになっていること恨めしく嘆いては、鳥の声にはっと胸をつかれるようだ。

(戦の)狼煙は幾月もの間ずっと続いてうちあげられて(戦乱はいつ終わるとも知れず)、家族からの手紙は万金に価するほど貴重なものに思われる。(悲しみのあまり)白髪頭をかきむしると、(髪の毛は心労のためにか)ますます短くなっていて、冠をとめるかんざしをさすことがまったくできなくなろうとしている」。括弧が多いが作者の沈黙部分は、むしろ言葉に先立つもの。

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詩や文学は言葉の合計にあらず。表現されたものを通して表現されなかったものを発見し創造するのが読み手。この詩は、現在の貴乃花の心境であろうとの自分の読みである。横綱として戦い、引退後は協会の役員として戦い、そんな彼が家庭に安らぎを求めるのは当然であり、家族とはそうあるべきだが、妻は去り、子どもとの関係も思わしくない状況に見える。

これまで疎遠・断絶状態といわれた母や兄への想いが湧き立つのは、今の貴乃花にとっては自然なこと。別れてしまえば妻は他人である。子どもには血肉の繋がりがあるとはいうも、種々の事情から親密とは程遠い親子もいる。母と兄への想いが語られるようになったことはある程度予測はされたが、余人には分からぬ貴乃花の苦悩と孤立感が見え隠れする。

テレビの番組のなかで、「いろいろな思いがあって、やっと家族のことをテレビでお話になるんですか?」と聞かれた貴乃花は、「引退したっていうのがいちばん大きいです。元の自分に帰れると言いますか。入門してから、弱いところを見せられないというのもあって…。ですがもう人生も46(歳)ですので、(略) 素直に、元に帰れるようにしようと…」と、告白に至った心境を明かす。

弟のエールに即座に反応した兄の花田虎上氏は自身のブログで、「ほんの三ヶ月前まで今後も会うことはないと言われていました」とした上で、弟が再会する意志を明かしたことには、「急変した現状に当惑しています。私は大人になって兄弟喧嘩をした覚えはありません。人との争いごとが苦手なのでこれまでの嵐のような状況にも受け身で過ごしてきました」と綴っている。

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疎遠理由は弟にあると取れる。さらに、「私の願いは母がずっと大切に思っている弟と笑顔で逢えることです。これはそう遠くない現実だと感じ嬉しく思っています。ただ、絡み合った糸を解くにはまだ時間がかかりそうです。それぞれに精進して、いつか心交わす。そんな人生の後半が送れるようにと願います」と思いを明かし、「いつか逢える日を楽しみに日々邁進して参ります」。

一朝一夕に雪解けとはいかない根の深さがある。「弟の事情で疎遠になった以上、手の平を返すにしろ、気持ちの準備もある」といったところだろう。根深い事情がある現状において、本当に和解したいのであれば、テレビで何かをいって母や兄の反応をみるではなく、真摯で謙虚な気持ちで、自らが直接兄・母に連絡すべきだが、彼の性格上それはできないのだろう。

テレビの娯楽番組で絶縁状態にある家族のシビアな問題を、バラエティ化して話題にする貴乃花は、何とも芸能人風情である。これが現代人的横綱資質というのか、横綱の末路も変わったものだ。和解は視聴者のためではなかろう。母・兄に対する、「長幼の序」というものあろうし、「テレビでおフザけ半分にいうことか!」。もし自分が貴乃花の兄なら許せないし完全無視。

母や兄に頑なな態度をとり続けた貴乃花。環境が変わった、状況が変わったというが、変わったのは貴乃花で母や兄には何の罪も非もない。すべては自分中心に動いているという驕りが貴乃花の高慢なところ。兄の花田氏が、「精進」という言葉を使ったように、今のままの貴乃花なら兄は絶縁解消する気にはなれないだろう。自己変革は貴乃花にこそ求められる。

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束の間の和解をしたところで、いつなんどきしっぺ返しを食わぬとも限らない。そういう事例は少なくないゆえに懸念を抱くのは当然だ。問題の多い人間は、謝罪はすれども喉元すぎた途端に熱さ忘れるようなのもいる。「弟には振り回されない!」兄である花田氏の気持ちが伝わってくるし、文面からも感じ取れる。弟の性格を誰より知る兄の心中は察せられる。

よくある夫婦の和解の事例。夫に愛想をつかせた妻が、頭を下げて謝罪する夫に半信半疑ながらも淡い期待を描く。(夫の謝罪はほんとうか?今後は心を入れ替えるというのはほんとうか?)。結局、その場しのぎの出まかせと判って愕然とする妻。信じてみるのはいいが、信じてバカをみることもある。追いつめられた人間は何でも言う、安易な和解はいいことにならない。

結婚した悔い、しない悔い ⑧

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『自由意志による結婚の破滅』を書いた当時の野枝は22歳である。当時の女性の精神が現代と異なるのは、時代が人を作る源泉だからであろう。自己をこれほど客観視できる女性が今の時代にはいない。自由意志による結婚から、「にせものの愛」の生活に足を踏み入れ、子どもすら失う離婚という、「高い代価」を払ってでも彼女は、「にせもの」を買い戻さねばならなかった。

伊藤野枝の生きざまは、鋭い反省に満ちた悲痛な記録である。彼女の、"ごまかしの循環を断ち切る"強い意志は見習うべきものがある。そして彼女の強さは、「女に逃げない」ところでもある。男女平等と口では言いながら、都合の悪いところは女に逃げる昨今の女性に比べて、男尊女卑社会という時代にあって、野枝のように凛とした女性はむしろ魅力的である。

わずか28年、その炎の生涯のなかで、勝気な文学少女が特高警察によって虐殺されるに至ったのも時代の悲劇であった。短い生涯のなかで三度結婚、七人の子を生んだ。20歳で平塚らいてうから青鞜社を譲り受け、大杉栄とアナキズムに邁進しながら2000枚の原稿を残している。野枝を思想家、評論家と呼ぶにはいささか独断的であり、作家というのは未熟すぎる。

彼女は旧い習俗や道徳に反旗を翻し、周囲の事情や人の迷惑すら顧みず、猪突邁進を信条とした。彼女を非難などできない。あの時代の習俗壁というのは、ひたすら利己主義に徹底する以外は破れなかった。その意味で彼女は自分自身を生きた女である。彼女の生誕地福岡県糸島郡今宿村(現在は福岡市西区の一部)では、未だ土地の恥さらしの汚名をきせられている。

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彼女とて被害者である。父は働き者ではなく家計は母の支えで成り立っていたが、長女であった野枝は厳しい経済状況のなか、中学を卒業するまで親戚の家をたらい回しにされた。実の親に甘えることも出きず許されず、悩みを打ち明ける親友もいない環境のなかで、彼女は無邪気さを失い反骨の魂を育む。美貌はなく服装も薄汚いが、飾らぬ姿が男たちを魅了した。

野枝のことも書き出すと止まらぬがひとまず置いておき、真の愛情と自己の意志を大事に考えるなら、それを妨げるいかなるものと戦うような人間が、我慢できない相手との離婚に勇敢なのは当然である。確かに芸能人などの離婚には、確かな経済力があるから自由自在に離婚するようだが、一般の女性はスーパーやコンビニでのパート仕事を覚悟せねば踏み切れない。

離婚は結婚の破滅なのか?そうではなかろう。離婚は結婚への一つの答えではなかろうか。時代はそういう流れに移行しつつある。完全とはいえないまでも社会福祉が充実し、パートの仕事など、女性が一人で生きることがそれほど困難でなくなった時代にあって、離婚は踏み出しやすくなってしまったのではないか。自分の周囲に離婚経験者は多く何の違和感はない。


ある結婚式で、とある親族の初老男性がこんな挨拶をした。「将来もし二人の間に、超えられないような何かが起こりそうなとき、今日の結婚式を思い出してほしい。みんなに祝福された今日の日を大事にするためにも、どちらも頑張って添い遂げて欲しい」。確かに一理あるが自分はそうは思わなかった。あの結婚式をよきものにしておくためにも別れるべきである。


すべてを否定するではなく、過去のあの日をよきものとしておくために別れた方がよい。映画『追憶』からそのことを学ぶ。結婚をした悔いというのは、結婚そのものの全否定ではなく、別れなければならなかった原因を問題にすればいい。『追憶』の二人に、「結婚した悔い」は微塵も感じられない。監督のポラックは二人の愛情がなぜ壊れることになったかを描いている。

結婚すれば男女は夫婦である。が、愛情というのは結婚したことによる夫婦としての一体観 (一体感ではなく) から生まれるのではなく、一体的な行動から生まれるものだと映画のなかに発見があった。一体的な関係の強まりにしたがって愛情は深くなり、強い一体関係が生活の一場面から全体的なものへと広がるにつれて、愛情は高まっていくものではないかと。

ケイティは共産主義者だが、日常生活で思想が問題になることはなかった。例えば仏教徒とキリスト教徒の結婚生活が、思想信条の問題で破綻することは稀であろう。が、ケイティは自己の主義主張をハベルの人間関係のなかでも臆せず吐き出したりしたことで、ハベルの気持ちが徐々に変化していく。カープファンの夫とタイガースファンの妻でも上手く行くというが…

映画から学ぶ。小説から学ぶ。賢人の書から学ぶ。実体験から学ぶ。あらゆるところから人は学ぶ。人は唯一学ばねばならぬ存在なのは、それほどに本能習性が脆弱だ。サルは人が育ててもサルにしかならぬが、サルが人を育てれば人はサルになる。生きていくための知識や技術の習得・訓練も必要だが、それにもまさるほどに大事なのは、人間関係術であろうか。

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夫婦の愛情というのは、長い生き合い関係の経過のなかで作られるもの。そこいらの異性に本能的に感じる好みが主体となる軽薄な恋情と同種のものであってはならない。相手のパンツな中を見てみたいどこが愛情であるか。発情期が限定されない人間が年がら年中発情スケベになるのは仕方がない。ネコは年に一度に発情だが、人間の女性とて月に一度は確実に発情する。

浮気者なスケベ亭主をもつ妻に、「ほっときなさい。チンポがきたなくなるわけじゃないし、たまには戴きなさい」と説得した。妻に同じことをいった。納得したのか、バカな男と見下げたのかそこは分からぬが、男の勝手な言い草には違いない。仮にもし妻が、「いいじゃない一度くらい他の男と交わって。減るものじゃないでしょ?」といわれて、はたして納得するだろうか?

結婚した悔い、しない悔い ⑨

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仕事に休日は合っても結婚生活に休日ナシ。10年も20年の長きにわたり、毎日同じ顔を突き合わせ、同じ言葉をやり取りし、どちらが出張なり旅行なりで数日間不在にするときは嬉しくなるか寂しくなるかも夫婦それぞれだ。嬉しくなったからといって愛がないわけでもなし、寂しくなったからといって愛情深い夫婦でもない。前者はひとときの骨休め、後者は習慣から起こるもの…

結婚についてローマ人の諺がある。「やがてまた、いつかはこれを憎まねばならぬものとしてこれを愛せよ。いずれまた愛さねばならぬものとしてこれを憎め」。これだけのことが分かる夫婦なら、たまには夫婦喧嘩の一つもよかろうが、残念(?)ながら自分は42年間で一度の喧嘩もない。反抗しないから喧嘩にならないが、新婚時に一度だけ腹を立てて怒鳴ったことがある。

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壁掛時計の電池が切れていたので電池交換を命じておいたが、翌日交換されていなかった。「電気屋さんが近くになかったので出かけたときに買ってきます」と彼女はいい、その言葉に自分は腹を立てた。彼女が仕事に行く際、毎日乗り降りするバス停は電気屋さんの前だった。彼女の言葉をその場しのぎの口から出まかせと理解した自分は、彼女の頬に強く張り手をくらわせた。

相手の性格が分らぬ時代の行き違いと分かったのは数年後…、彼女はそこに電気屋さんであることすら知らずに生きていた人間と知った。ウソや言い訳をする人間でないことも分かった。さらには、命じたことはすぐにやるべしという自分の性格も彼女の理解になかった。自他ともに何ごとにおいても、「即行動」を信条とする性格で、自分にとっては当たり前のことだった。

そうでない他者はいても妻がそうであるのは許せない。以後彼女は自分が命じたことを速攻実践したが、彼女にとって相当の意識改革だったろう。普通なら、「今、〇〇してるから」、「ちょっと手が離せない」などというのは妻にはない言葉だった。人から指示・命令された際に、「今、他の用事してる」などと必ずいい返す人間は少なくない。言いたい気持ちも分かるが無駄な言葉。

人からの命令に対する一種の反抗心理でしかない。それをしないだけでも有能な人間と捉えているし、自分もそれを実践する。いちいち仕事に感情を持ち込まないのが有能な人間と理解をし、仕事は黙々とやるから価値がある。農業従事者がまさにそれだ。指示・命令に口答えをするなど反抗心を抱く人間は、その分だけ無用な邪念を持っており、仕事のできない人間の典型である。

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「仕事は仕事、嫌な仕事も文句をいわず黙ってやる」という社内標語。これが行き届いている会社なり部署は仕事の効率や人間関係がよく段取りもいい。軍隊のようとの批判もあるが仕事の効率性にこの批判は筋違い。「〇〇イズム」ともてはやされ、企業の理想形である。"businesslike"とは、仕事とわりきって能率的にするさまをいうのは人間は感情の動物であるがゆえ。

命じる側にはちゃんと見ている、見えている。何事にも口答えする人間の無能さは、不思議なほどに歴然である。無用な自尊感情を排し、効率重視で黙々仕事をこなす方が間違いなく成果があがる。それが仕事の目的であり、会社は入場料を払って遊ぶ遊園地ではない。そうした仕事意識は人間性から発露されるものだろう。今に思うは、夫が命じる諸般の事柄に感情を排した妻は立派であった。

諸侯、将軍、管理者などの責任あるものは孤独である。仕事のできる男は人間関係より仕事を重視するからだ。孤独ゆえに陰ながらに支えとなる協力者の存在は有難い。そうである妻か、ナンだカンだと水を注し、足を引っ張る妻か、その差は大きい。あまりに自我の強い女は主導権を握った方がよかろう。「船頭多くして舟山に登る」といい、自我の強い同士は常に修羅場である。

任せてくれれば結果も出すぞ!責任も取るぞ!の性格の自分は行動派でバイタリティのある典型的夫唱婦随タイプ。それを見定めた妻は夫を活かすことにおいて遜色なかった。「私は何もしていない。しなかった」といつも周囲にいう妻であったが、「何もしていない、しなかった」ということこそ夫にとってはかけがえのない、最善の行動であったことになる。

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知的で明晰な妻は夫を手の平で操るというが、これは才覚である。子どものように無我夢中にばく進する男の性格を知る女を、「良妻」と定義する。夫に不満の多い妻に、「仕事から帰った時の夫は病人なんだよ…」と諭したことがある。諭して理解して実践できるなら、それは立派な妻である。「もう一度生まれ変わっても、今と同じ配偶者を選びたい」というのはしばしば耳にする。

自分がもっとも自分らしくいれる相手はまさに理想であろうか。女性からも耳にする理想の男性(夫)像であるらしい。「結婚は鳥籠のようなもの。外にいる鳥たちはいたずらに入ろうとするし、なかにいる鳥たちはいたずらに出ようともがく」というようにである。確かに結婚のことや夫婦生活のことは当人にしか分からぬ世界である。日本人の理想の夫婦像は、「空気のような…」といわれる。

存在を感じなくとも必要なものとの意味だが、これに対して、「それって、相手に興味が無くなることでは?」との批判もないではないが、いかにも表面的な批判である。「興味」とは、相手の「中身」を知るためのプロセス段階。中身が分かれば興味は薄れるが、長所・短所をうまく活用して生活にプラスにする。「興味」などという前に、「何のための興味か?」を考えれば分かろう。

西洋にも理想の夫婦を捉えた以下の言葉は、「空気」の意味と似ている。オスワルド・シュワルツという生理学者はよくは知らぬが、しばしば目にする名言である。人間生活のなかに、「純粋なもの」なんてないように思う。動物の生きざまに純粋性は感じることはあるが、人間というのは貪欲で不遜で野卑でそれだけとっても不純である。が、純粋なるものを求める気持ちはあってもいい。

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結婚した悔い、しない悔い 🈡

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結婚式を終えたカップルが新しい生活に入っていくことを新婚生活という。新婚には違いないが、"新しい生活"というのはどうなんだろう。結婚とともに始まるさまざまな生活はどこも新しいものはなくして、結婚以前に二人が身につけていたものの延長ではないだろうか。新しい生活どころか、むしろこれまでの古い生活が否応なしに修正され、もしくは変更されてでてくるに過ぎない。

だからこそ、夫婦が互いに適応し合うことが根本的な問題となる。西川史子は敗婚の弁で、「(お互い)人と暮らすのが得意じゃない」と述べたが、「得意」という言葉が異様に聞こえたのは自分だけか?人が生まれて以降身についた性格や習慣は、夫婦の愛情より強いもの。こんな事例を思い出す。初めて彼女のアパートに行ったとき、窓もカーテンも閉め切った状態に驚く。

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女はこんな生活をしているのか?それにしても、「何で?」と、断りなくカーテン・を開けた。締め切った薄暗い部屋というこれまでと違った日常が始まる。結婚生活ではないが、彼女にとっての新しい生活である。用心のために窓やカーテンを閉め切るのは理解もするが、今後は日常生活の中に、「男」の存在がある。それが女にとってどういう変化をもたらすか、想像するしかない。

一人暮らし女性が何かと不安を抱きながらの生活は理解をするが、部屋に男がいるだけで心強くなるのではないか。もう一人、別の女性はこんなことをいった。「朝の新聞配達の人が怖い」。「何をいってるんだこの女は?」。正直、言葉の意味は分からなかったが、泊まってみてわかった。新聞配達の男が何やら言葉を発している。仕事への元気づけのようなものと感じたが、小さい声ではない。

「ね、聞いて」と朝方彼女に起こされた。部屋の中にいても聞こえるほどに声は大きい。「聞こえたでしょう?」と彼女はいうが安眠妨害ほどでもないし、男の自分にとってはどうってことない」が、女はこういうものにまで怯えるものなのか。一人暮らしの女は大変だなというしかない。だからか、一人暮らしの女は男とベッドを共にするだけで生理不順が直るという。情緒が安定するからだ。

"恋愛は発見"といったが、異性にはその連続である。相手を知ることによっていたわりが芽生え、それはまた思いやりに繋がっていく。それまで女は謎の生き物でしかない。男は暑い夏の夜に窓を開けて寝るが、女の部屋でそれをやって抗議されたことはない。ただし、「声がちょっと気になる」、「何の声が?」、「……」という会話は微笑ましい。性差は日常生活にまで及んでいる。

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どちらに合わせるかという問題か?自分的には、女は男によって生活不安から守られている部分がある。それが男女差という。かといって、男も女性への遠慮・気づかいは必要だ。タバコを吸っていたころ、彼女の部屋でも何のためらいもなく吸っていた。気づかう意識すらなかったが、タバコを止めて分かったのは、あの匂いは半端ではなく、嫌だと思う女性もいたろうが、いわれた記憶はない。

嫌煙権が確立されていない時代にあっては、嫌でも仕方ない部分はあった。しかし、タバコを止めてみて分かるのは、タバコの煙も臭いも相当に嫌なものだ。自宅を訪れる愛煙家の誰もが、気を使ってベランダに吸いに出る。こういうことがマナーとされる時代である。「愛煙家は肩身が狭い」などというが、彼らも止めないうちは分からない。それほどにタバコの臭いは嫌なものだ。

♪タバコのにおいのシャツにそっと寄り添うから~、は松田聖子の曲。女性がタバコの臭いを好むかのように受け取れるが、それとも男への許容か?外出から帰ると、「手を洗って」とせかす女は結構いた。「幼稚園児じゃあるまいし、そんなことできるか」と思ったが、習慣とは怖ろしい。慣れると洗いたくなる。男と女の各々の習慣を、共有していくのも結婚生活である。

仮に、窓を開けて寝ることに文句をいう女がいたとする。決してこれが愛情のなさというのではなく、本質的な習慣というものだ。愛情のないうるさい女と受け取る男は、女から足が遠のくことになる。うるさい女ほど面倒なものはない。男と女の生活にあっては、習慣の違いから愛情にヒビが入ることもあろう。自分は女に我慢をしなかったが、多くの女は我慢をしたのだろう。

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自分らの世代は男が威張っていたかも知れぬが、我慢をする女もいるだろうが、当たり前に許容する女もいた。これを育ちの差というのだろう。昨今は女がのさばり、男が我慢をするのは見ていて腹が立つ。夫の携帯を本人の前で平気で覗くバカ娘だが、「何でそんなことを許すのか?」と夫(義理の息子)に問えば、「いうと喧嘩になるから」と、何ともヘタレな返土台無理。

♪ワガママは男の罪、それを許さないのは女の罪…。この歌も印象的だが、決して男の独善的ワガママではないと考える。窓を開けて寝るのは安眠のためで、女が明けない理由は防犯である。しかし、男が女を守る用心棒的要素があるなら、そこには持ちつもたれつ感が生まれている。ワガママとは一方的な利害要求である。互いが理解し合い支え合うことで、男と女は生活習慣すら乗り越える。

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ところが…、今時の男はヘタレの腑抜けが多い。東北大震災後に妻からの離婚が増大し、「震災離婚」とまでいわれた。その理由が、妻子をおいて我先にと逃げ出す夫に妻が愕然としたというのだ。確かに甘やかされて腑抜けに育った男はいるだろう。が、こういう男は家庭で妻の尻に敷かれていたのではなかったのか?その辺の詳細は不明だが、自分を虐げるような妻を誰が助けたいものか?

上記した母親の過保護が原因で、甘ちゃん男が多発乱造される時代である。その根底にあるのは母親が、「男の子を強く逞しく育てたい!」。そういう意識の衰退ではないのか?かつて男子は、兵隊さんに出さねばならなという時代にあった。戦争がないのは良きことだが、世の中が平和ボケし、腑抜けたマザコン男が増えている。かつては離婚も男の切り札だったが、今は女が握っている。

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長崎旅行とティーバッグ ①

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長崎旅行のことは2月20日に書いた。正直、旅行があまり好きではない自分だが、その理由について考えたこともなく、なぜに嫌いなのかについて把握はしていないが、嫌いなことは確かである。妻は、「今のうちに子どもたちと想い出を…」ということらしい。「札幌雪まつり」を予定していたが、予約が取れなかった。旅の想い出はないが、子どもの想い出はたくさんある。

徳島の大塚美術館にも行ってみたいく、候補にあったが宿が手配できなかった。そうして急遽決まった2泊3日の長崎である。初日はハウステンボス内のコテージに4人で宿したが、翌日の宿は長崎本線喜々津駅近くの、「喜々津ステーションホテル」のダブルルームに一人一室だった。2人一室にするところ、安眠するため一室一人にしたというが正解だ。カップルじゃないんだし…

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長崎駅に着いてまず思ったことは、「今、自分は長崎にいるんだ」であった。そう思わなければ長崎にいる実感がない。ハウステンボスやグラバー邸を前にすれば長崎を実感するが、旅行好きは存在が楽しいのか、観光が楽しいのかどちらだろう。旅行を愛する人たちはどういう楽しみを感じているのか?旅行好き人間は結構いたのでいろいろ聞いてはみたが、楽しさまでは伝わらなかった。

「趣味は旅行」という女性は多い。女性の旅好きの根本的な理由は何だろうか?これまで妻と二人で旅行といえば新婚旅行しかなく、それすらも自分にとっては儀式に過ぎなかった。「趣味は何?」と聞かれ、「思考です」と答えていたりもあったが、。「リョコー」ではなく、「シコー」といわれても、相手は「?」でしかない。趣味に思考思考というのは一般的ないと我ながら思う。

が、思考は楽しい時間である。お金もいらないし、出歩かずとも退屈はない。思考は嗜好で至高のひととき。哲学者の気持ちがよく分かる。他には将棋・音楽鑑賞・楽器いじりも趣味といえるが、何もしないで考え事をする時間に勝るものはない。だから、「趣味は思考」は正直な答えである。いわれた相手も、「どう反応していいのやら」返答に困っているが、何も返さないでいいのよ。

考えることはいくらでもある。「人間とは何か?」に始まり、答えのない問題にあえて答えを求めるでなく、あれこれ考えるのは究極の娯楽と思っている。電車の乗るや否や、すぐにスマホを取り出す人を、「なぜ?」と思って眺めている。この人たちはなぜこれをやるのか?電車乗ってじっとしていられる貴重な時間になぜ思考をしない?と思ってみても、彼らは考え事をしたくはない。

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これまで運命については幾度考えたことだろう。「運命は自分で選べない以上、運命に責任はなく、取る必要もない」というのを耳にしたとき、「ちょっと待った!それはおかしいだろ?」。これが運命を考えるきっかけだった。「人の運命は決まっている」はどうにも納得がいかない。「運命って結果だろう?」と自分には思えない。そう考えなければすべてがオカシイことになる。

左右に分かれた道の右を選んだとする。5分で選ぼうが1時間考えた末だろうが、「お前が右に行くのは運命だった」という天の声に納得はできない。最初から決まっているなら考える意味はなかろう。すべてが決まっているなら悩む事すらバカげている。すべては脚本どおりといわれるなら茶番だ。どうしようと、どう考えようと、どう行動しようと、運命、運命、運命などはバカげた茶番。

左の道を選んだところでそれすら運命という。何とも運命というやつは結果についてくるのであって、最初から決まっているなどあり得ん、信じられん。運命論者やインチキ霊能者が、したり顔でいい加減なことをいうバカげた商売よ。ない頭を駆使して得た結論はこうだ。「『運命は自分で選べないし決まっているもの』というならそれでいい。否定も肯定も証明はできないのだから」。

神の存在や死後の存在と同じく未知のことを科学で説明できない。だから否定というより、それならそうと、そうした運命支配の中で自分がどう生きていくのか。それがその人の責任である。殺人者になると決められていたとし、それは変えられないのか?「お告げ」があれば誰でも避けるだろうし、結果的に運命を変えたことになるが、運命についての「お告げ」など聞いたことがない。

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だからか人は、占いや霊視に頼るのか?インチキ占い師にインチ霊能師はどれだけいるというのか。占いや霊視などバカげているとしかいえないが、そう思わないから頼るのだろう。自分の考える運命とは、運命に負けるのか、運命を諦めて生きるのか、そうした運命との戦いをいう。運命に打ち勝つのが望まれる人間の生き方ではないだろうか?そしてこれらのことはは自分で選ぶことが可能である。

つまり、「運命は自由に選べる」と…。これが運命についての思考の末の解答だ。運命に時間をとったが、長崎から帰って緑茶のティーバックを1000個の大量買いをした。ティーバッグとティーバックは似ていてオモシロイ。それにしてもなぜ、「長崎旅行とティーバック」というタイトルなのか?以前なら行数増やして一気に書いたろうが、文字制限を課しているので続きは明日に…

長崎旅行とティーバッグ ②

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ティーバッグの名の由来は分かるが、ティーバックは誤記で、正しくはTバックと表記するらしい。和製英語で海外ではソング(thong)、タンガ(tanga)、Gストリング(G-String)等に詳細に分類されるも、日本ではこれらの下着の総称として用いられる事が多い。中でもGストリングは上級者用で、前のデルタ地帯の布は小さく、後方部はすべて紐となっており、ひもパンと呼ばれている。

パンツの役目は保温で、ネル性ズロースがもっとも適するが、ごわごわしてへそまで隠すダサさから女児御用達となっている。Tバックは視覚的にもあれがパンツの役目を果たしているのかは疑問だが、使用者に聞くと「食い込みがいいのよ」と小さな声で教えてくれた。食い込みの良さで売れている?あんパン、ジャムパンは好きだが、ひもパンはどうにも好きになれず、男は女性の下着にはついていけない。

話はティーバッグ。あれはよき発明だ。茶こし不要でそのままポイ。あれのおかげで紅茶が飲みやすくなった。ティーバッグは1908年にコーヒー貿易商であるトーマス・サリヴァンによって偶然に発明されたというのが定説。商品サンプルの紅茶の葉を絹や木綿の袋に詰めて小売業者に送ったところ、そういう商品だと勘違いされて、その袋のままお湯につけて紅茶を煮出してしまったのだという。

それがティーバッグの始まりで、考えて造られたのではなくまさに偶然。日本では緑茶のティーバッグも珍しくなくなったが、1965年あたりから10年の歳月をかけて普及し始めたらしく、最初は麦茶のティーバッグだった。紅茶にティーバッグは当たり前に使ったが、緑茶にティーバッグは便利ではあるが、ホテルや駅弁用には向いても、家で飲むお茶にティーバッグは味もへったくれもないと思っていた。

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が…。長崎旅行で2日目に止まった「喜々津ステーションホテル」のルームにあったティーバッグ。これが意外と美味しかった。ティーバッグにコンドームといえば昔からラブホテルの常備品。飲むには飲むが、味も薄く美味しいと思ったことがなかった。ところがこの度、「喜々津ステーションホテル」に置かれていたティーバッグは、これまでのイメージを覆すというのか、なかなか美味でござった。

製造元は山本山。「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」のキャッチコピーで名高い山本山。所詮ティーバッグの茶葉は粗末なものだが、美味しさの要因は茶葉の量と感じた。これまでの不味いティーバックは茶葉の量の少ない。ほとんど白湯に近い感じの味だが、山本山の茶葉の多さはコップ内に残ったふくらみを見ても一目。久々に渋い緑茶を味わった。

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かれこれ10年になるが我が家の緑茶は、『三國屋』謹製「式部の香り」という深蒸し煎茶を水だしで2リットル作り置きし、冷たいままで飲むがたまにレンジで温める。この方法でずっとやってきた。紅茶も緑茶も水出しすることで、熱いお湯で飲むよりピュアでマイルドな味を堪能でき、水出しならでは得られるいくつかの効能もある。まずはカフェイン、カテキンが激減すること。

カフェインの過剰摂取を控えるには最適で、特保などに多量に入れられているカテキンがいわゆる渋味の成分である。水出し緑茶はまったく渋味がなく、カテキンの代わりに旨み成分のテアニンが抽出され、旨味が増す。自分は2リットルのミネラルウォーターに40グラムの茶葉を入れ、やや濃い目で作る。推奨は20~30グラムらしいが、多目に入れると濃くて美味しい。

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さらには水出しならではの抽出物として、エピガロカテキンが偶然発見された。カテキン同様、体に入り込んだ異物をやっつける使命感に燃える成分だが、エピガロカテキンは一部のがん細胞に働き、がん細胞の増殖を抑える効果が期待できるばかりか、免疫細胞であるマクロファージを元気に働かせる役目が、免疫力アップに貢献してくれる。などなど水出し緑茶の効能は大きい。

効能はともかく、長年水出し緑茶を飲んでいると、久々に渋味満載の緑茶に心を奪われてしまった。妻一筋の男が別の女体を味わった感動に似ている(例えとしては変だが実感として)。「このティーバッグ緑茶はいける」と、帰宅するなり同じものをネットで調べて購入となった。伊藤園など通常のティーバッグ (1.5g~2g)より量が多い (2.3g) からか、かなりの渋めでインパクトがある。

長崎旅行とティーバッグ 🈡

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ティーバッグにして以降、これまでは1日3倍程度、それも食事時に限った緑茶だったが、倍以上の7~8杯は飲むようになった。25袋入り40パックが購入1月足らずなのに、もう12パック袋(計300個)消費したことになる。いかんせんこれは飲み過ぎではないかと飲み過ぎの害を調べてみると、こんなサイトを見つけた。【緑茶は1日何杯まで!?緑茶の健康効果と適正量のお話】。

記事によると、体に良いとされる緑茶であれ飲み過ぎは、カフェイン・タンニン・シュウ酸の摂り過ぎとなる。WHOによる1日のカフェイン摂取限度は300mgとなっている。がしかし、緑茶のカフェイン量は100g(湯呑1杯)あたり20mgほどで、1日10杯程度であれば問題はない。ポリフェノールの1種であるタンニンは、活性酸素の働きを抑えて老化を防いでくれる成分である。

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   「1000袋も何で?」との疑問もあろうが、「飲むぞ~!」の勢いのあらわれ。いつもながらの自分流。


そのほか、認知症や生活習慣病の予防、整腸作用、美白効果などでも知られている。摂りすぎによる副作用・害は特にないが、注意したいのは鉄の吸収を妨げるので、貧血気味の方は、タンニンを含む飲料・食品の摂りすぎに注意がいる。また緑茶には、尿路結石の原因となるシュウ酸が含まれている(緑茶に特別多く含まれているのではなく、ほとんどの食品に含まれている。

自分は過去に尿路結石を3回やっており、それから見ても結石ができやすい体質のようだ。シュウ酸が特に多い食品は、バナナやナッツ類、ココア、コーヒー、ほうれん草などがあり、緑茶に限らず何事においても、何の病気においても、偏った飲食は控えるのがよいとされる。飲み過ぎによる危険性はあっても、「健康な方なら1日10杯程度ならメリットが勝る」といえるだろう。

メリットの方は圧倒的に多く、「緑茶を1日2杯以上飲む人は、週3杯以下の人に比べて認知障害になりにくい」ということが分かっている(東北大大学院医学系研究科・栗山進一講師らの調査)。さらに、緑茶を1日5杯以上飲むと脳梗塞の死亡リスクが低下する(1日1杯未満の人に比べて男性は42%の低下・女性は62%の低下)ということも分かっている(同・栗山氏らの研究)。

また、脳や心臓などの循環器系疾患全体の死亡リスクも、緑茶を1日5杯以上飲む人は男性が22%・女性が31%低下することも判明している。緑茶にはたくさんのビタミンCが含まれ、最も豊富なのは煎茶で、レモンの3~5倍のビタミンCが入っているとも言われ、人間の1日のビタミンC必要摂取量は50mgだから、1杯の煎茶で12mgほど摂取できるため1日5杯飲めばよい。

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 カテキンは、「勝て菌に」から命名されたというのは間違い。明治時代の科学雑誌にカテキンの文字がある


糖尿病改善効果も報告されている。静岡県立大などの研究によると、1日7杯の緑茶を飲めば糖尿病一歩手前の状態からでも血糖値の改善が見込めるという。この研究は糖尿病になりかかっている60名を2グループに分け、片方のグループだけに2ヵ月間粉末緑茶を飲ませて血糖値を調べたもの。粉末緑茶を飲んだグループは、HbA1cという糖尿病の診断基準となる指標が改善された。

カテキンの糖尿病予防効果は有名だが、この研究によってすでに血糖値が高い人の値を下げる効果があることが分かった。一日に湯飲み7杯はこれまでなかったが、ティーバッグにすることで可能となろう。緑茶は世界に誇れる日本の文化の一つ。近年研究が進み、「緑茶がダイエットに効く」、「緑茶でうがいすると風邪の予防になる」――といった話を耳にする機会が増えた。

2015年5月には、緑茶を飲む習慣が死亡リスクを減らし、長寿につながるという研究結果が国立がん研究センターから発表され、マスコミなどで大きく取り上げられたが、このデータは、がんや循環器疾患にかかっていなかった40~69歳の男女約9万人を、約19年間にわたって追跡調査した結果判明したもので、緑茶を飲む量が多くなるほど、死亡率が下がることが明らかになっている。

ま、そんなことは別として、お茶をちょこちょこ飲むのは精神が安らぐというか、落ち着くような気がする。気持ちの問題かもしれぬが、癌とか糖尿病とちがって、安らぐ、落ち着くは気持ちの問題だからそれでよかろう。効能でお茶を飲むのではなく日本人なら手持ちぶたさにお茶を飲む。と、これは健康志向の現代人にとって、「お茶を濁す」言い方になるのかも知れない。

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    女が、「いきなり」好まぬ理由はウソに紛れたいからだ。自身が不純であるのを知るからでもある。


そういえば若かれし時代の話。「ね~、彼女。お茶しない?」というのがマニュアルナンパ用語だった。自分はこういう回りくどい虚言が嫌いなので使う気にもなれなかったし、影響された加藤諦三の『若者の哲学』には、のっけから、「暗黒から虚無への若者たち」、「現代人のウソ」、「『関係』ということ」という表題で始まり、最後は、「にせ者は生き残れない」で終わっている。

ヒマさえあれば諦三を読んでいた。ある友人に、「何でお茶なわけ?何で『やろうよ』って正直にいわない?」というと、「バカだなお前、女は口実というウソを求めている。いきなり『やろうよ』でついてくるバカがいるか?」という。「男はお茶しないとウソをいうが、女はウソがすきなんか?」といってみた。見え透いたウソを好む女と正直を好む女と、バカはやはり前者だった。

人を判断することの難しさ ①

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ある場面での人を判断することを総じて状況判断ともいうが、その際、要素として相手の人間性(人格)も含めた判断となる。したがって、少なくとも相手の人間の性格なり気質なりをある程度知っておかなければ正確な判断はできない。正確な判断が必要な理由は、それによってこちらの正しい対応が選択されるからだ。ゆえに、人間関係における状況判断というのは、相手の人格判断かも知れない。

将棋をやっていて重要なのは場面ごとにおける形勢判断であるという。プロ棋士ともなると、互いが深い読みに裏付けられた指し手の応酬となり、ある局面でどちらが優勢を保っているかを知るのは大変のようだが知る必要がある。なぜなら、形勢判断によってその後の指し手が変わってくるからだ。プロ棋士がいう形勢判断の方法はいくつかあり、相手の表情からも伝わってくるという。

駒を取ったり取られたりのゲームである以上、①駒の損得が相手と自分でどうなっているか。②自分と相手の駒の価値(働き具合)はどうか。③守られる王将の堅さはどうか。④手番はどちらか。などを元に形勢判断をするが、人の心は顔に出るからチラリと表情を見るのも大事。ただし、表情に出さない棋士もいたり、形勢がいいのに困惑の表情を見せる棋士もいて、これを"三味線"といっている。

人間社会とは人間関係でなりたっているわけだから、相手の発したさまざまな言動から、どういう気持ちでその言葉を発したのか、その行動はどういう意図でなされたのかを判断するが、人の心は見えないだけにこれがなかなか難しい。しかし、判断して正しい対応をせねばならない。間違った判断から相手に嫌な思いをさせたり、憤慨させたり、表情には出さないが気を悪くさせることもある。

若き日の友情というのは、"人と人との大きな関係の要素"であり柱であった。友情を意識することもあれば、意識しない友情もある。意識が正しいか否かは分からないが、意識というのも判断の一つで、それによって自分の対応を決めている。自分は意識をしない派であった。「これが友情なのだ」と、友情の概念を決めつけたりするより、その日その場の状況での相手との関係を判断するようにした。

これは前の記事で述べた、「『なぜ生きるか』を知っている者は、ほとんどあらゆる、『いかに生きるか』に耐えるのだ」を避けている。物事を決めつけるとそのことに囚われて柔軟な対応ができなくなる。決めつけて取りかかるのは楽だが、楽だという以外に良いことはない。「友情」が幻想的なものであったりの場合もあれば、独善的なもの、一方的なものである可能性もあるからだ。

小説などに見る「友情」とやらは、大変に慎み深いもの、派手っ毛のない愛情のようなものである。確かに友情という関係は自然に結ばれるもので、友情に求愛することはないが、一度だけ求愛されたことがある。「俺と友情関係を結ばないか?」といわれて断った。異性に、「つき合ってください」はあっても、「恋愛関係を結びませんか?」とうわないように、「友情関係を結ぼう」は奇異に感じた。

「恋人になってください」もオカシイ。勝手に恋してればいいのに、「自分の恋の対象でいてください」はどこか変。「友情関係を結ぼう」といわれてどう答えたかの記憶はないが、断った後に、「そっか。ならいい」といったのは覚えている。「付き合ってください」と異性にいうのもアリというが自分は一度もない。そんなことよりとにかく誘う。誘うことで付き合うことになる。恋愛関係に移行もする。

「付き合ってください」と前提表示は弱さなのか?「結婚を前提につき合ってください」てな言葉は自分的には笑止である。なぜ、結論めいたことを先にいう?プロセスが先で結論は後からついてくる。自分が結婚を前提につき合えばいいだろう。聞くところによると女の子同士が、「わたし、あなたと友達になりたいの。いいでしょう?明日から友達でいいよね」。こういう女の世界は男にはワカラン。

随分とそらぞらしくもわざとらしい。こんな言葉を女からいわれてもキモチ悪い。女の世界は「結論先」なのか?不確実な人間関係ゆえに、結論で安心させようとの魂胆なのか?不確実な人間関係をかいくぐって人と人は付き合う。前置きする意味はない。女たちは日々虚飾のなかで生きているのを知っているのだ。若いころと比べて、他人の価値観や価値基準が見えるるようになった気がする。

むやみに人を誘わないようになったし、誘うことを躊躇うというより、こちらの都合より相手の都合を考えるようになった。とにかく自分主体の若い時とは大違い。自分は自分の都合で「ノー!」をハッキリいえるが、「ノー!」がいえない人は、自分の都合より相手の都合を優先するからで、これはオカシイ。セールスマンに対しても、堂々と自分の都合で考えればいいのに、なぜ相手の都合を考える?

物事は道理を大事にし、相手の都合を考える必要がない。今日のその日から、無理を要求されたら心を鬼にして自己変革を試みるのがよかろう。セールスマンごときに嫌われるのを怖れる必要はないし、自分の都合だけで思考するのは何の罪もない。相手のことを優先するのは、こちらが誘う場合にである。「事情も分からず誘うので、断りに遠慮は無用です」と、自分は言葉を添える。

保育士殺害!同僚の倒錯心理

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3月25日、東京都杉並区のアパートで保育士の照井津久美(つぐみ)さん(32)が殺害された事件で、警視庁捜査1課は31日、殺人容疑で逮捕した男を同区井草1の保育士、松岡佑輔容疑者(31)と発表した。松岡容疑者は照井さんが勤める乳児院の同僚だった。事件当日に照井さんの部屋にいたことは認めながらも、「刺してはいない」などと容疑を否認しているという。

松岡容疑者は事件当日の26日と前日の25日に仕事を休んでいたことが捜査関係者への取材で判明。25日夕から夜勤だった照井さんの予定を把握し、人目につきにくい時間帯に部屋に侵入し、待ち伏せしていたとみて調べている。同じアパートに住む内装業の男性(19)は「容疑者と会えば挨拶はした。ベランダにゴミが散乱していて、生活が荒れているのかなと思った」と話す。

照井さんはコートを着たまま倒れており、夜勤明けで帰宅した直後に殺害されたとみられ、前日の25日深夜に照井さんの部屋から不審な物音がするのをアパートの住人が聞いており、照井さんの不在を知る松岡容疑者が夜間に侵入して待ち伏せていた可能性がある。現場アパートの屋根に土足の足跡が残されており、2階の照井さんの部屋のベランダ側の窓が割られていた。

大学卒業後は乳児院に就職。親族を通じて「3、4月は仕事が忙しい時期だから無理だけど、今年中に結婚できればと聞いていた」という。事件を知った照井さんの祖母(87)は28日、岩手県内の自宅で取材に応じ、照井さんが結婚を考えていたと話し、幸せな未来を理不尽に奪われたことに対し、「ひ孫の顔を見るのを楽しみにしていたのに」と涙ぐんでいたという。
 

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20代のころ、杉並に住んでいた自分は友人のいる井草にはちょいちょい行った。そんなことを思いながら事件を身近に感じた。容疑者が被害者に一方的な片恋慕を抱いていたというが、本人不在の部屋に屋根を伝い、ベランダの窓を割って忍び込むってのはどういう意図か。恋する相手の部屋で様々なものを見たい、触れたいという狂気的・倒錯的心理であろう。

引き出しを開けて下着やら何やら、彼女の所有物にただならぬ興味を抱くのは分かるが、人には理性がある。恋は愛ではないし、一方通行のエゴになることは普通にある。ラ・ブリュイエールの言葉に、「恋愛は恋愛によって始まる」というのがある。初めて目にしたときは正直意味が分からなかったが、今ならなんとなく掴める。恋が自己中心的な思いであるのは誰もが経験したろう。

その恋と、相手をいたわり思いやる愛がくっついて恋愛というなら、恋だけでは恋愛といわない。息子を愛する母とて恋愛とはいわない。友愛も恋愛ではない。似てはいるが友愛とは同性対象の場合が多く、恋愛とは根本的に違う。恋人を見る目の尺度はいつも自分の側にある。自身の喜び、自身の悲しみ、自身の苦悩、それが恋人を評価する基準となる。

恋を自覚するのと、恋愛(関係にあるを)自覚するのと大きく違うのは、恋愛関係は二人で成立するもので、一方的な恋情とは違っている。恋が恋愛として意識された時の、何ともいいようのない気持ちは、うすら覚えだが記憶にある。この世はまさにバラ色に思えたりする。男と女の気持ちが一体化したと感じる喜びは、愛する同士が肉体を一体化したときの感動も同じである。

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恋人でない相手とのそれは、単に性欲であるから満たされるものの質が違う。質より量を重視する男も女もいるが、自分の場合も恋愛感情と思い込んで女を渡っていたのかも知れない。が、好意を抱かぬ相手とは、「カネをもらってもしたくない」と公言、実行ていたのは事実である。行為と恋情との区別が明確でなかったのか、若き時代には自身にも不明な謎が多い。

友情は過激なパッションではないが、恋情は激しさが根底にある。それを抑えるかどうかであって、激情的であってこそ恋情である。静かなる恋もないではないが、おそらくそういう人間は何事も抑制が効くのではないか。「やめろと言われてもー♪(ヒデキー!!)」というのが流行ったことがある。西城秀樹の『激しい恋』の歌詞だが、ヒデキファンならずとも記憶にあろう。

しかし、同じ勤務先の同僚女性に対し、一方的な恋情とはいえど、窓を割って忍び込むという行為は、ピッキングでコッソリ侵入したとは訳が違う。黙って入って恋慕する女の所有物を勝手に荒し、元のままにして何食わぬ顔をした知人はいて、それを聞かされた時も驚いた。「それ犯罪だろが!住居不法侵入」。「そんなことは分かってる。見るだけで持って帰らない」。

バカは当然で彼の行為より、人の部屋にそんなに簡単に入れるものかと驚く。自称「鍵開け名人」の彼に、「パンツを眺める程度ならいいが、泥棒行脚はやめとけ」といっておく。女の部屋に不法侵入でパンツを触るのはカワイイが、技能や能力は使いどころを間違わぬことだ。今回の犯罪はガラスを割ってというからには、帰ってくるのを待って殺そうという確信犯なのか?

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少ない情報のなか自分はこう推理した。部屋で待ち伏せて彼女に対する偏愛を強姦という形で想いを遂げ、その後に殺害する。ところが大声を出され、すぐに刺して慌てて逃げた。バカは後先考えない。自分が捕まらないとタカをくくっている。日本の警察の科学捜査を甘く見ている。その証拠に部屋にいたのは認めながら、「刺してはいない」などと辻褄の合わぬことを抜かす。

「バカにつける薬はない」。彼らは常人には理解できない言動をやる。周囲や身内にもバカはいるが関係を断つのが最善。津久美さんが激しく抵抗した痕跡が加害者に残っているそうだ。こんなことで将来を失うとはあまりに悲惨すぎる。バカが職場にいたことが彼女にとって不運だった。書き手不在となった津久美さんがのFBに残る、満面の笑み画像がいたましい。こんなつもりじゃなかったろうに…

人を判断することの難しさ ②

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誰とでも仲良くできるわけではない。人と人との関係において、気の合う合わないくらいは子ども時代からあろうし、みんな知っている。ある程度の年代になると付き合う相手選びが重要になるのは、若いころに比べて充実した日々を送りたいとの気持ちが強まるからだろう。若い時代には無駄はなく、すべてが肥やしというが、肥やしもへったくれも必要ない年代になると無駄は避けたい。

人選びが卒なくできるようになるのも経年で得た能力の一つか。人間は年季が入ると図々しくもなり、人の心の奥を覗く眼力が身につく。だから、人選びに苦渋することも苦労することもない。人選びをすることは、人からの選ばれ方も同時に考えるようにもなる。どちらもストレスのない人間関係を構築するために必要だが、相手からの選ばれ方にも気を配るとにも方法がある。

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       人を誘うのはやはり自分の都合であり、同じ趣味仲間といえど種々の都合もあろう…


将棋相手を誘うときなどに、こちらが誘いたい相手であっても、相手は誘われたくない場合もある。それがハッキリわかるまでにはある程度の時間も必要だ。無理に誘って相手に断る口実を考えさせるだけでも罪ではないかと。気の向かないままに出向いてもらっても、互いに良いことにはならない。断ることに苦労も遠慮もない自分だが、断ることが拷問の苦しみという人もいる。

酒も飲まない、出かけるも好まなかった若き日の自分は、断ることは日常であったがだんだん慣れてくる。「付き合いが悪いな~」などと評されようと、自分がしたくないことを強要されても罪の意識はなかった。人間関係の本質を悪くいうなら、自分の都合で相手を利用することで、「付き合いの悪い奴」などの言葉はあきらかな強要といえる。こういう人間と親しい関係になることはない。

いいではないか?無理をいってくる人間とつき合わずとも。人は人の都合を理解し、思いやるのが大事。「お金を貸して欲しい。こんなことは友達だからいえる」などといってくる。「友人なら無理をいうべきでない。これが自分の友人の定義」そんな風にいったりもしたが、自己にも他人にも甘えた人間は、自分が提示した言葉を理解することもなく、自己の勝手な都合で無理をいう。

人間の基本は自己中心で他人に厳しい。コメント欄に嫌な書き込みをされてブログを閉じた人がいた。「嫌なコメントにどうしたらいいですか?」と聞かれたこともある。一般的には、「相手にしない」、「無視する」、「自信があるなら反論する」などがよいとされるが、方法論ではなく根本解決としてこう説明した。「見知らぬ他人が自分のブログで誹謗・中傷コメントした。

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       いろんな方法があっていいが、これは、どこか強がりっぽい感ありて、自分に向かない


こういう人間は例外なく愚かでバカな人間です。なぜなら、相手が勝手にこちらの記事を見つけたわけです。見つけてと頼んだのではないのに、勝手に見つけて勝手に嫌な気分になったからと相手を文句をいうのは、どう考えても相手のひとり相撲で、こちらに罪はない。じっとしてれば嫌な記事に触れることもなかったハズです。本質的バカと見下せば気にならないのではないです?

罵る相手にどう対処するという方法論より、愚者を見下す強さを育む。これはいじめにも通じる。「いきなりはできないかも知れません」との返答だったが、間違いではないので努力目標に掲げたらいい。遜ることも怒ることもないままに、愚者を愚者と見定める強さは、今後の日本人にも必要である。強い意識を持って落ち込まず、下種な相手を無用な言い合いすることもない。

道理が解決してくれる。道理に合わぬことは可笑しく歪んで見える。いつごろからかそう考えるようになった。「無理が通れば道理引っ込む」という諺は、「道理に合わぬこと一切は無理」と同じこと。老子は「道」を説いた。「無為自然」という道であり、それは礼節を重んじる儒学思想への反動であったようだ。礼節は大事であるが、それは主体的なものでなければならない。

礼節を無理強いすると人心が離れる。一例をあげると、礼儀作法にうるさい人がいたとする。その人のところに行くだけで、あれこれ気を使うし、緊張もする。そういうことから段々と会うのを避けるようになり、遂には会いたくないというところまで膨らんでしまう。礼節は大事だが、それで人心が離れては何もならない。『老子』第8章には「上善水の若し」とある。

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       むか~し、中国人留学生に「老荘は?」と訊くと、「あれは理想」といった

水の居所は常に低い所にあるが、人は高きを好み低きを嫌がる。高いとことにいながら低い目線で周囲を見る人間に徳はない。居所というのは、人の生活の本拠であり大切な所である。老子は、自分の居所を善くするために心がけることとして、自らのことを成すより、自分の周囲を善くすること、周囲のために何かを成すべきと説いている。それが自分を善くすることだと。

高い目線から人に接すれば人は寄ってはこない。ざっくばらんで和気藹々な人柄に人心は高まる。形式主義で道徳的な儒学思想に対し、「無」の思想は魅力的である。「無為」とは名利に関係のない目出たぬこと。「無事」は、人の平静な心を乱さぬこと。「無味」とは淡白で旨みのないこと。美や善は人の虚栄心をそそるものだが、上徳とは善を意識せずに善を施す無為をいう。

礼にうるさい人はいかめしい。ざっくばらんな人には気軽に触れ合える。バカと利口の存在は明らかだが、善人・悪人の区別は難しい。Aにとっての善はBにとって悪になる。オスカー・ワイルドはこんな言葉を残している。「人間を善い人と悪い人に分けて考えるのはバカげている。人間は魅力的であるか、退屈であるかそのどっちかなのだ」。道家は魅力的だが儒家は退屈的である。

心を打ちとけて遊ぶ相手がいない。気持ちが通じ合える友人がいない。周囲は誰も自分を分かってくれない。こういう気持ちが孤独感なら大したことではない。なぜなら、適当な相手が現れれば解消できる孤独であるからだ。愉快に喋り、一時的な気持ちを紛らわせてくれる人間は簡単に見つかる。そうではなく、心の支えになる賢人(の書)を「友」とするなら、人を孤独といわない。

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    かつて寺山修司は、「書を捨てよ、町へ出よう!」といった。昼に町へ出、ねぐらに戻って本を読む!


人を判断することの難しさ ③

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自分は滅多なことで謝罪はしないが、それは謝罪が好きだからである。決して高いプライドが邪魔をするからではなく、謝罪の何たるかを知るからでもある。謝罪とは自分を無にする行為でなければならない。他人の「精神誠意」がどの程度か分からぬが、自分のことならよく分かる。謝罪は精神誠意でなければならず、上辺だけならしない方がマシ。誤解はあろうが自分の考えだ。

謝罪の本質は、「許しを乞わないこと」だと、幾度か書いた。許しを乞わない謝罪なら何のためにするのか。自らに罪を認め、自らに甘えないとの意思表示を相手に伝えるためで許しは二の次と考える。なぜなら、罪は罰によって制裁を受けるものだが、「謝って済むなら警察はいらない」という言葉は、罰という制裁はあっても、被害者心情は消えるものではないと解釈する。

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罪とは一体何であるか?「罪とは羞恥」と考えるなら、羞恥が謝罪によって解消されるだろうか?謝って許しを得ても羞恥は消えない。「天に恥じぬ生き方」という言葉もあるように、罪を犯したものはその罪を天に恥じることであり、天に晒す気持ちで正直に被害相手に心を透かせること。それすらも理解せず、形式的な謝罪でお茶を濁そうとする人間の多きことか。

アレはまるで風景のようだ。壇上に整列して「一同礼!」が如き、拍子合わせのバカげた謝罪のことだ。あれはもはやマニュアル化しているようで、あれを謝罪と思ったことは一度もない。形式主義の日本人社会において、形式的謝罪は必要だろうが、過去においてもっとも心を打たれた謝罪がある。その謝罪は1997年11月24日に行われた。謝罪の当事者を野澤正平氏という。

野澤氏は日本の実業家で元山一證券社長であった。1997年(平成9年)7月に社長に就任したが、その僅か4ヵ月後の同年11月に廃業に追い込まれたことから、残務整理的社長であったようだ。野澤氏の謝罪というのは、謝罪というより経営責任者として社員を路頭に迷わせてはならないという心の叫びのようであった。すくなくとも自分にはそのようにしか聞こえなかった。

立場もあってか野澤氏も事前に用意された原稿を淡々と読み上げる会見で始まったが、野澤氏が人間的であったのは、立場上隠匿せねばならない自己の人間性を、隠しきれなかったということになる。隠すことも、抑え込むこともできない、それこそが人間性なのかも知れない。それが野澤正平という人であった。我々は社会のなかで本質的なものを見誤ることがある。


本質的なものを見失うことによって、非本質的なものを過大視する傾向があるが、人間にとってもっとも本質的なものは人間としての矜持である。人間の本質は人間である以外の何ものでない。人間性を隠せば、許しを乞うという偽善もやれてしまう。人間には社会の顔があるのは認める。が、「自分は人間である」いう自覚を持てば、社会の顔を作ってみても人間性は隠せない。

「滅多なことで謝罪をしない」理由を、「謝罪がすきだから」といったのは半分は社交辞令。本心を澱みなく強調することもあれば愉快な表現もある。面白くいったまでで、あえて本心をいうなら、決して謝ったりしないことが人間の強さであると。自分が強いのではなく、強くありたい願望を持っている。頭をさげ、詫びることで己を認めてもらおうとの魂胆を排する強さである。

自ら犯した悪に対する制裁は、相手が自分を如何に憎み倒そうとも、その怒りを受け容れなければならない。詫びることで相手の怒りの気持ちを挫こうとの狙いであってはならず、それこそ弱者の行う見え透いた偽善である。だからか見境もなく謝り、相手に受け容れられる形で生き延びようとする。こういう謝罪が日本社会に蔓延することに同じ日本人として羞恥を抱く。

真に罪に悔いることは、決して謝ることではなく相手の怒りや憎しみを背負って生きていくこと。元少年Aの突然の手記に被害者の父が怒ったのは無理もないことだ。彼が一生罪を背負って生きることは被害者家族も望んでいないにせよ、事件も風化の兆しが見え、加害者を許そうとする矢先であっただけに、これまでの謝罪は何だったのかの気持ちになるのは当然である。

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貴乃花の元妻もしたたかだ。あのような手記で元夫に対して謝意を示しているつもりだろうが、違うだろう。本心を隠匿して本心だと公言するのを偽善という。許しを乞うという偽善、感謝という偽善、謝ることで何が変わるのか?讃えることで何が変わるというのか?憎しみを愛に、不信を信頼に、対立を平和に…、言葉の動物は言行不一致が得意でもあり、言葉を都合よく利用する。

世間とは人間の事。世間の目は辛辣である反面、相手の嘘には目をつぶり、相互に卑劣さを庇い合うながら、見て見ぬふりをして生きることすらも世間である。人間は自らに美味しい選択を用意する。だから自身に甘え、世間に甘え、他者に認められるために偽善を犯す。彼らの善良そうな顔の底にあるのは、弱々しくも相手に取り入って生きようとする卑屈さである。

人を判断することの難しさ ③

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謝罪のバーゲンセールといえば女性。口からとめどなくでる、「ごめんなさい」。女性らしい控えめ感はあるが、希薄な人間関係を保って行こうとの知恵もあろう。男同士に表層的な謝罪は空しい。男はむやみやたらに謝罪をしない理由として、プライドが邪魔をする事もあるが、自尊心をかなぐり捨てた謝罪に真の男らしさであるなら、自分を無価値にする謝罪がそうそうあるべきでない。

男と女はその面からいってもつくづく違う世界観をもっている。前記したように、謝罪は自らを徹底的に無価値にすることで美しく輝く。自分を無価値にすることは、相手を高めることでもあり、真実を大切にし、真実の前において自尊心は価値を見出さない。他人の観念のなかで自らの架空な存在を飾り、それを保とうとするあまり、真の自己をないがしろにする人間を小物という。

人間が真の自分の存在に気づいたとき、他人のなかにある架空の自分に酔っている場合ではない。人は人はむやみに評価もするが、それでも他人から称賛を貰えば気分はいいし、それが架空の自分であることに気づいていてもである。「褒められれば素直に喜ぶべし」は、人間関係において大事。だから、「ありがとう」くらいはいってもいいが、心のなかで真の自分を直視すべきではないか。

評価を求む以上謝罪も厭わぬこと。自らの失態や過失で生じる謝罪は、自らの非を認める美しさである。誠実な謝罪ができるか否かは人間としての美学でもある。人として美しくありたいを望むなら、謝罪は精神誠意の限りを尽くして行うこと。人間はどれだけ自分に素直になれるか、忠実になれるか。そうした心が飾らない美しさが人間を歪めない。心が歪むというのは、虚を演じるからであろう。


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弱いものいじめをする人間は弱い。人を見下げる人間は利口にあらず。自慢に依存する人間はいつまでたっても自信をもてない。こういうことから考えても、「強い」、「賢い」、「自信」というのが何に関連するのか見えてくる。弱いものをいじめなければ、人を見下さなければ、自慢話を吹聴しなければ、それだけで上記のものが授かっている。自分は授かりたいために実践したわけではない。

何かを身につけるために何かをやってみるというのはあるとは思うが、経験的にいえば、目的のための手段よりも、目的を排した手段は無意識に何かを宿らせたりするものかも知れない。「忙しい」、「疲れた」、「面倒」は自らに課す3つの言葉で、「これを言っちゃ~おしめーだよ」という自己暗示をかけながら強いることから始めるが、不思議なもので慣れてくると当たり前になる。

「なにが忙しいもんか、このボケナスめ!」、「疲れてもいないのに弱音を吐くなよタコが!」、「何を横着なことを抜かしてんだ、バカもんが!」などと、きつく自分を侮辱する。自分を可愛がらない点において難しい。こんな自分は自分が許せないというのが根底にある。人間は自分を甘やかすものだから、甘やかさない生き方もあってもよかろう。甘やかすと腑抜けになるのは分り切っている。

ある時、「自由」について考えたことがある。若者が考える自由とは、「食べたいものを食べたいときにたべる」、「行きたいところに行ける時間と金がある」、「寝たいときに寝、起きたいときに起きる」、「欲しいものは何でも手に入れられる」、「誰からも指示・命令されない」。所詮はこんなものだろう。が、果たしてこれを、「自由」といえるのか?こんなことで社会で生きていられるか?

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考えてみれば誰にでも分かることを考えもせず、「自由が欲しい」、「自由になりたい」というのがいかに愚かであるか。「我らに自由を与えよ」というのは、言い草としては尤もであるが、哲学的思考でいえば間違い。「黒人解放運動」や、「差別撤廃」における自由というのは、理不尽な制度で自由を奪われた人達である。決められた時間に起きて出勤の準備をするのは報酬をもらう以上は当たり前。

「食べたいときに食べたいものを食べれない」のは、報酬の問題もある。だから、自由を望むなら努力してお金を稼ぐということに行き当たる。観念事や絵空事なら誰でもいえるのは、何の努力も行動も不要であるからだ。「自由」についての結論は、「自由とは使うもの」であった。自由が得られるか得られないかは、周囲の事情から決まるのではなく、自由を使う使わないは自分次第で決まる。

我々は多くの決まり事や制限や自制心も含めた不自由のなかで生きている。そのなかで自由を求めることは、「不自由を自由に使う」ということ。「バカとハサミは使いよう」という言葉は、「バカを並の人と同じやり方で使うからダメなのであって、そのバカの性質をよく知り、性質にあった使い方をすれば、なまじ利口な人間より役立つ。「バカは死ななきゃ治らない」という見方もある。

が、使い方からすれば、バカを生きたままでうまく使うのが、「自由」であって、いかに利口者といえども、彼の性質を知らずにこちらの勝手だけで動くはずもない。人を自由に動かすというのも自由の使い方である。だから、「自由は(自ら)使うもの」。自由を人から与えられてもらうもののように考えている間は、いつまでたっても自由は得られない。再度しつこく、「自由は使うもの」。


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傍から見れば百姓は、米、トマト、ナス、キュウリを自由に作っているように見えるが、トマトはトマトの種からのみ生えてき、米はモミを蒔くより他に手はない。土地や水や光などの条件も必要で、それなくして百姓の努力だけでは何一つ自由に作り出すことはできない。生きるためには生きる法則があるように、社会には社会の家庭には家庭の農業には農産のための法則があるのだろう。

「好きなときに好きなものを食べたい」自由は制限が必要だが、食わねば生きて行けない不自由を、食って生きるという自由に変えるのは可能である。自由の根源は必然であって、人が欲望を自由と勘違いしていることは山ほどある。我々は、どうにもならぬ必然に縛られているからこそ何でもできる。言い換えるなら、「不自由であるがゆえに生きる力を得ている」ことに気づいていない。

死ぬまで生きた人たちの訃報

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生きるということは死に向かうことだが、70代の将棋仲間がこんなことを問うてきた。公民館のロビーでのことだ。なんでまたそんなことをと思ったが、彼の考えに興味もあったがその問いとは、「死後の世界を信じますかね?」。自分はあえて躊躇い気味の顔と口調で答えた。「行ってきた人に話を聞いたわけではないし、私はないと思います」。「でも、あるんですよ」。

幽霊やUFOなどを、「いる」、「ある」という人は少なくない。「あるんですか?なぜでしょう?」、「実はそういう本を読んでから移行、信じるようになりました」、「地獄とか極楽のようなところです?」、「違います。あれは宗教思想がもたらせたもので、死後の世界とは普通の世間のようなところです」。何かに取りつかれたように信じる人は、話を聞くだけでうっとうしい。

ましてや空想や根拠のないことを一方的に話されても、興味のない人にとっては黙って聞くだけでも煩わしい。「だから死後の世界とは死んでも生きてるってことです」という。話を終わらせたい自分は、「そうですか、自分は死んでも生きていたくないので死後の世界はいりません」といえば、死後の世界について話す相手ではないと見切ったのか、それ以上何もいわなかった。

「死んで生き続けて、だからどうなる?」というのが根底にあり、相手にも伝わったのだろう。若いことなら何かと興味を抱くようなその手や観念論にうつつを抜かしていても仕方なかろう。何よりも摩訶不思議なのは人間である。だからか、人間関係や人間の機微についての思索が断然面白い。死んでも生きていたい人はいるんだろうが、死後の何が楽しいのかは想像もつかない。

美味いものでも食うつもりなのか?べっぴんさんとイチャイチャしたいのか?楽しからずやただ生きているだけなら、そんな生でいいのか?霊魂は死んだ年齢のままで年をとらないというが、あまりに矛盾していてバカバカしい。人は死んだらそれでいいし、余計なことなど無用である。いろんな考えがあるから、いろんなことをいう人はいるが、「信じて疑わぬはバカばかり」である。

モンテーニュの言葉だが、今時の政治家も二言めには、「断じて、断じて…」と喚いている。断じてを強調するのは信じて疑わぬといいたいのだろうが、なんとお粗末であろう。一体われわれが何を知っているのか。モンテーニュは自身の書斎の梁に、「クセジュ(私は何を知っているのか)」と刻んでいたという。毎日のようにそれを味わい、肝に命じていたのだろう。

多くの人がガンという病気でこの世から去っていく。いつの世にもみられることだが、「人は病気で死ぬのではない。生きているから死ぬのだ」とモンテーニュのこの言葉に、あらためて死が絶対であることを教えられる。これほど平明で、根本的な言い方はおそらくないであろう。我々は死ぬが、死んでどうなるものでもない。それなのに、死んでどうなるこうなるという人がいる。

一人で信じていれば害はない。「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と孔子はいうが、なんという気取った言葉であろう。こんな言葉を有難いと思わぬところが凡人であり、それを凡人というなら何の不足もない。いかなる賢者であれ、富裕者であれ、社会的貢献者であれ、美女であれ…、死は誰をも容赦はしない。と、そういうことなら受け入れるしかない。

死ぬことに文句をいっては遺憾。とはいいつつ、誰もが死を嫌がり怖がる。だから宗教が生まれた。宗教は死の不安をやわらげ、死に希望さえ与える妙薬である。いろいろな人の死が知らされるこんにちにおいて、死という一つのことを、いつも同じ一つのこととして見、かつ考えるということも大切だ。「桜の花はいつ見ても美しい」と誰もが感じるのは自然なことである。

人の死も誰の死であれ悲しいものだ。悲しくない死があるとすればそれは自分の死であろう。逝くものは悲しからず、残されたもののみ悲しい。もし、人の死を喜べるなら、自らの死も喜ばしいことになるのか?いや、そうではあるまい。自分の死が悲しいから人の死が悲しいのである。人の死を受け入れるがごとく、自分の死を受け入れる準備をするのかも知れない。

「人は死後も存在する」と信じる人、「死後の命を生きながらえる人も、別の何かに生まれ変わる来世の命」というは、合理性のある論ではなく感情である。いわゆる信仰といっていい。先に述べた死の恐怖を軽減したり抑制したり、そういうところから生まれてきたものであって、人間は死してまで生きたいというより、希望を抱くことによって死の恐怖から逃れたいのであろう。

希望をもって死ぬ、そのことに何の罪はない。だから、あの世でナニをするとかカニをするとかの具体的な議論は無意味であって、希望を持って死ねばよい。病気になるのは避けられない。不治の病に侵される人にも何の因果もないと考える。ただし、老化のどうしようもない帰結に異論はない。が、どちらも生の活力を減退させるものであるなら、人は病や老化と闘うべきである。

死者の行く先 「ある?」「ない?」

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「死んでどうなるかは死んでみなきゃ分からない」。これが、「死とは何か?」についての正解らしい。"案ずるより産むがやすし"というように、多くのことは経験しなければ分からない。といえば、これまた安易な考えらしい。なぜなら、「経験しなくても分かること」と、「経験しても分からないこと」があるという。そこで考えてみた。「経験しなくても分かること」とは何か?

いやいや、これが実に多くあって驚く。無茶苦茶多いので状況だけ書けば、例えば恋人から、あるいは夫婦でもいいが、「〇〇しようとしたとき、××されたら、いわれたら嫌じゃないか?」。または上司や親から、「〇〇いわれれてやる気をなくすと思わないか?」などは、実際に経験しなくとも分かることで、経験することで、「やはりそうか」、「確かに腹立つ」など実感する。

人には想像力というものがある。これは秀逸な能力で、実際に経験しなくとも想像力を働かせて考えることが可能だ。電車内での痴漢被害がなくとも、えげつない痴漢に遭遇したことを想像するだけで、嫌な気分、羞恥な気持ちになるであろう。想像力はまた、被害対応にも生かされる。ま、人によってはどれほどの刺激や快感を味わえるかなどと想像する人もいるかも知れない。

一人で暗い夜道を歩くときに、もし後ろから抱きつかれるなり、何かされたらどうすべきかを歩きながら考えるという女性がいた。なかなかの危機管理意識の所有者であり、それなら咄嗟の対応も可能だろう。「具体的にどんなこと?廻し蹴りでも入れるんか?」と聞くと、「いえ、これ以上ないくらいの大声を張り上げる準備をするんです。それが一番と本に書かれていました」。

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咄嗟に声を張り上げるのは無意識にだろうが、人によっては声すら発せない人もいる。自分がどちらか不明なので、出来る限りの大声を出す」のは確かによい備えで、これほど困ることはなかろう。空巣だって、人は怖いもので、だから人のいない家を探して入る。ドッキリカメラで、一人暮らしの芸人が家に帰ると知らない男がベッドにいた。その女性が張り上げた声の大きかったこと。

ところがその後がいけない。腰が抜けて歩けなくなって、床を這うしかなかったのだ。「腰が抜けるほど驚く」というが、あまりのことで立っていられなくなるようだ。経験はないが、確かに見知らぬ何者かがベッドに寝ていればそれはそれは驚くだろう。なぜなら、絶対にありえないシュチエーションだから。人は想定外のことに驚く、だからドッキリの仕掛けが成立する。

では反対に、「経験しても分からぬこと」とは何ぞ?あるだろうという信念で考えてみたが、残念ながらいくら考えても分からなかった。「経験しなくてもわかる」のが想像力なら、「経験しても分からない」は、単に鈍感なのでは?に帰結した。ようするに個々の理解力の問題であろうと。こんな奴がいた。めちゃ辛いカレーを食べてもケロっとして、「これのどこが辛いんか?」という。

これも一つの能力だろう。普通人は、「お前は舌は鈍感か?どうかしてるぜ」というが、意外や高い能力かも知れない。探せばそれに殉じたことは結構あるだろう。ところで、「死んでみなければ分からない」というが、では死ねば本当に死が分かるのか?これはやはり比喩であろう。意識がないのだから、死んで分かることなど何もない。それだけ「死」というものは理解しがたいのだと。

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玄侑宗久住職の言葉は、人のいろいろを感じさせる。人が死んでもしばらく意識は残っていて、火葬されるときに熱いだろう、土葬されたら体内に蛆がわいて嫌だろうなどと考えたこともないが、実際にそんなことを考えるのかと、人間の想像力の範囲に驚く。死後に少し意識が残っていたとしても、熱いと感じるのは意識ではなく神経組織であるから、意識だけで熱くはない。

「火傷をしたら熱いだろうな」というのは想像意識は可能だが、意識は神経に作用しないから熱くはならない。小学2年生の子どもだからそう考えたのだろう。痛い夢や熱い夢を見るが、夢には不思議に痛感がない。やはり意識の世界だからだろう。夢でいうなら絞首刑になった夢を見たが、ロープに吊るされながら、「これから自分は死ぬんだ」と考えながらも、苦しさや痛さはなかった。

死んだ夢、死ぬ体験の夢は何度も見たが、目が覚めたときにホっとする。生きててよかった、夢でよかったと…。昔から、「夢逆さ」といい、自分が死ぬ夢は自身目標や願いが現実のものとなる吉夢だという。それは信じないが、「正夢(まさゆめ・せいむ)」、「予知夢」というのは何度か見た。翌日のある場面が夢となって現れるのは、何とも説明のつかない不思議さを感じる。

「死んで花実が咲くものか」という言葉があるが、まこと日本語を味わう上でよき言葉ではないか。「花実」を「花見」と勘違いする人もいるが、来週は気の合った者数名と花見。場所は、「みほり峠」といい、和麺旬彩の食事処である。知らない人間が、「峠で花見って珍しい。桜があるんか?」という。花見の時節に桜の下ではなく、どこぞの店で飲み食いも、「花見」という時代。

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死者の行く先「誰も知らない」

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いかなる人間がいかに死についての考察を加えたところで、人間は死を理解しないままに死んでいく。人間の死だからと、飛ぶ蠅や蚊をピシャリと叩き潰すと何ら変わりない死でしかない。人間の死だけが高尚であるというのは、単なる思い込みでしかなく、虫や家畜の死と同じ死であろう。多くの死についての意味付けを読み、死についての考察や高説も目にし耳にした。

死を題材にした文学作品は多い。太宰の師井伏鱒二は心中した太宰を追憶しながら、女性たちのことを書き残したのが『おんなごころ』という作品。そこにはこんな一節がある。「検視の結果によると、太宰氏の咽喉くびに紐か縄で絞めた跡が痣(あざ)になって残っていた。無理心中と認められた。しかし身投げをした両人の立場を尊重して、世間に発表することは差控えた。

そんな意味のことを、その刑事が話したそうである。これは警察官として一理ある処置法かも知れないが、私はその話を亀井君(太宰の友人亀井勝一郎)から聞かされたとき、『しまったな』と思った。『しまったな』というのは、警察の処置方法についていうのではない。私自身の迂闊であったことを『しまったな』と思ったのである」。家族ぐるみで太宰の面倒を見た井伏の後悔である。

井伏は太宰と心中した山崎富栄を避けることも含めたさまざまな悔いが、「しまったな」であった。「太宰は極めて気が弱い。某女の方でも、それを知り抜いていたことだろう」と井伏は書き添えている。「修治さんはお弱いかたなので、貴女やわたしやその他の人達にまでおつくし出来ないのです。わたしは修治さんが、好きなのでご一緒に死にます」これは太宰の妻に宛てた富栄の遺書。

イメージ 2井伏は雑誌記者の石井桃子との会話を文末に記している。「『あのころ太宰は、あなたに相当あこがれていましたね。実際、そうでした』。桃子さんは、びっくりした風で、見る見る顔を赤らめて、『あら初耳だわ』と独りごとのように言った。『おや、御存じなかったんですか。これは失礼』。『いいえ、ちっとも…。でも、あたしだったら太宰さんを死なせなかったでしょうよ』」。井伏鱒二の『おんなごころ』も太宰個人ではあるけれども、死について書かれたもの。軽いエッセイであるが、死についての記述や文学には、1954年3月ビキ二環礁でアメリカの水爆実験による死の灰を浴びた焼津マグロ漁船第五福竜丸無線課長の久保山愛吉の『死の床にて』や、67年、米国の沖縄占領とベトナム侵略に抗議して首相官邸近くの路上で焼身自殺した油比忠之進の『遺言・最後の遺書』。

生物学者朝山新一『さよなら ありがとう みんな』、作家高橋和己『死者の視野にあるもの』、詩人で雑誌編集者長田弘『青春と死について』、伊藤整『死者と生者』、椎名麟三『生と死の谷間を歩いて』、見田宗介『死者との対話』、埴谷雄高『敵と味方』、小田実『「難死」の思想』、中野好夫『夏日随想』、哲学者橋本峰雄の『焼身抗議の論理』、司馬遼太郎『観念的な文学死』などなど…

椎名麟三の『生と死の谷間を歩いて』は、「自殺未遂者訪問記』という副題もあり、「なぜ人間は自殺できるのだろう」との書き出しである。自殺は個人的なことだが、否定論・肯定論さまざまあって、「自殺は人間の特権である」といったのは古代ローマの哲学者セネカである。彼は暴君ネロ皇帝の下で政治家として活躍もしたが、ネロから処刑を言い渡され自殺をした。

処刑という暴力的な死を前に、自分で自分を殺したのは、「強制」を「自由」に変えたということにもなり、確かに人間の特権を使ったことにもなろう。我々はひとりの人の自殺を、その時その場の事情だけでみるのではなく、その人のそれまでの長い行動とのつながりのなかで見なければならない。特例もあるらしいが人間だけが自殺をするとするなら、「自殺は人間の最後の自由」といえる。

自由と死、死と自由に異論はないが、哲学者サルトルの文学的処女作『嘔吐』はどうであろう。本作品は自己の存在の無償性を自覚していく過程を、主人公の日記で連ねるという形で追い求めている。主人公のロカンタンは、30歳でありながら14400フランの年金を有し、日々1200フランの利息を受け、何の定職もなく毎日をド・ロルボンなる18世紀の陰謀家の歴史研究に時間を過ごしている。

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あり余る資産と精神的自由をもつ若き金利生活者はこんな風に書いている。「私は自由である。というのは、もはやいかなる生きる理由も私には残っていない、私の模索した生きるための理由はすべて皆逃げ去った。(中略) 私は退屈している、それだけのことだ」。あり余る自由とお金があるのを誰もが望むが、サルトルは過剰な自由と金銭を得るとこのようになるのだと…

「この自由はいささか死に似ている」というのが強烈な言葉としてとらえられている。日常において我々は、事物の本当の存在は何であるかを考えず、らだそれが何の役に立つか、どのように有効であるかだけに縛られて生きている。ロカンタンはこの功利主義を嫌うあまり、事物世界の慣習から自由になり、無為無償の生活に閉じこもってしまう。これが金利生活者の実態のようだ。
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