Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all 1448 articles
Browse latest View live

主体性の拠点(ありか)とは…

$
0
0
昨今のような情報過多の最中にいること、で様々な情報に左右され影響を受けやすくなる。樹木希林がどうの、フィフィがどうの、村本、百田、橋下に、イエ~ス高須クリニックと、頻繁に顔を出す彼らの小言は嫌でも目に入る。こうしたことが昨今の情報錯綜の時代といわれるゆえんである。我々の若きころは、本を手にすることで思想体験をしたが、我々世俗の末端人間の愚論が乱舞する時代にある。

煩雑な個人の考えは人を耳年増にするだけで、正しいものが何であるかが不明瞭にならないか?そんな危惧を抱く。自分は孫にいった。「主体性を持て」と。16歳の彼は紛れもない情報錯綜社会に生きている。身内である祖父の、「主体性を持て!」という言葉すら、彼にとって主体性というより情報に過ぎない。が、昔も今も身内の情報だけはもっとも身近にあった。

イメージ 1

身近であっても、決して「正しい」ということではないし、親は子に常に正しいことをいうわけではない。それでも親は自分が正しいと思っている。そうした中で子どもが正しい考えを身につける方法は?おそらく読書であろう。読書は広い視点を身につける。所詮、人間は井の中の蛙である。人は誰もまっすぐ正しい道を進むのではない。人間を人間にするのは、親でも教師でもなく自分である。

正しさとは何かと格闘してゆく。が、「これが正しい」を流布するもっとも安易な方法が宗教ではないか。宗教には正しい考えや側面はあるが、「宗教はアヘンである」というのも事実である。思想と宗教には大きな違いがある。「思想家と宗教家とどう違う?」こんなやり取りを過去にした記憶がある。どんなことを言い合ったかの記憶はないが、当時の自分たちは20代前半のひよこだった。

今ならこんな風に説明できる。思想家は、「影響」という種をばら蒔くが、宗教家は「洗脳」という実をかじれという。いうまでもないキリスト教は押し付けの宗教であるが、数多の人の考えで構築された思想に押し付けはなく、選択は自由。もし何かの宗教を選んだ場合、その後における自由はない。キリスト教にとっての自由とは、聖書に従って生きることである。

だから怖いし、だからマルクスは、「宗教はアヘンである」といった。が、絶対的真理の中に身を置くという自己満足の世界である。宗教者と無神論者にあっては自由の意味も内容もまったく異なっている。宗教に毒の部分があるように、思想においても毒はある。なぜなら、あらゆる偉大なイデオロギー (観念体系) というのは、その根底において主観的であるからだ。

イメージ 2

マルクス主義とは、マルクスの思想が基になっているが、彼の思想の本質は、疎外された労働者に視点をあてて人間の疎外を論じたことにある。人間にとっては何よりも労働が本質的であるとし、労働における人間の疎外を取り扱い、その本質的な労働を疎外する資本主義を批判した。したがって、労働が人間にとって本質的なものであるとの考えがマルクスの人間観である。

『資本論』を著したマルクスは、経済学から研究を始めたのではなく、彼の出発点は哲学だった。同じように、フロイトも当初は幸福とか苦悩について思考を始め、やがて大きな思想体系へと進んでいく。彼らはその発想のユニークさにおいて優れた思想家であるが、マルクスもフロイトも、やむにやまれぬ自身の問題解決のために、経済学や心理学を始めたのではないか。

E・H・カーは『マルクス伝』のなかで、「マルクスは誤っているが、彼の思想は残るだろう」と述べた。マルクス主義を攻撃したマックス・ウェーバーは、12歳でマキャベリの『君主論』を読むほどに早熟だった。彼はその後、スピノザ、ショーペンハウエル、カントに進むが、少年時代にはシャルロッテンブルクの家で読書に多くの時間を費やした。なぜにウェーバーはマルクス主義を攻撃したのか?

その理由は、マルクス思想の基礎が主観的であるにもかかわらず、客観的普遍妥当的なものであるがごとく説いていたからである。科学的社会主義をお題目に説いたマルクス思想に対し、科学的判断という価値からの自由をウェーバーは要求した。つまり、科学的判断は正しいという主張に対し、科学外的な規準を考慮に入れることこそ正しい科学的判断であるとした。

イメージ 3

科学万能といわれる近代社会において、科学と信仰をを区別するものは何か?宗教が多くの人に評価される社会において、科学的判断と評価的判断はすっかり切り離すものではなく、双方は距離をおいて保持されるべきもの。宗教的・霊的なものは科学の対象にあらずと排除するではなく、科学的に証明されないものをあえて意識的に、明瞭に指摘し、考量すべきであろう。

無神論者は有神論の、有神論者は無神論のスタンスを共存させる必要がある。英知ある人間としての我々は、科学的≪客観性≫を目標としながら、あえて我々がなし得ることは、≪主観性≫を減少させるというバカげたことではない。科学的真理という価値に対する信仰が、"特定の文化の所産"であって、自然に与えられているものではないことは紛れもない事実である。

少女売春という甘え ①

$
0
0

イメージ 3

「高校生が売春をする」。このことは珍しいことではなくなった。「援助交際」とか、「パパ活」とか、こういう言葉はおそらく彼女たちが生み出したに違いない。売春という言葉をオシャレな語句に変えれば売女でないと思いたいのか、言葉を変えたところでやってることは売春である。いかに正当化をしようとも愚挙は愚挙。やることが幼い。バカな少女はバカであるのは変わらない。

かつて赤線で体を売る女たちは綺麗事をいわない。彼女たちは売春婦、娼婦、パンパンといわれながら身体を張って生きる女の強さ、自覚をもっていた。それに比べて、「援助交際」だの、「パパ活」だのと称し、悪気もなく体を売る幼い少女たち。かつての売春婦たちと女子高生たちの大きな違いは、生活をかけていないこと。だから、嫌々強制されてやるのではなく、自らすすんでやっている。

親が知れば驚くだろう。自分の生徒なら嘆く教師もいるだろう。が、問題なのは売春高校生たちにとっての自意識である。彼女たちにとって、親も教師も尊敬の対象でも何でもないばかりか、バカ親だったりうざい教師だったりと軽蔑の対象になっていることだ。さらに驚くべきは、彼女たちを買うおじさんたちは、女子高生にとってみんな「いい人」だったと補導された後に述べていること。

こうしたことは、現代の少女たちの、「腐敗堕落」のほんの表面的なこと。これらをどう解決すべきなのか。バカな行為を写メってSNSに乗せる男子高校生などカワイイもの。売春は身の危険というリスクを伴うが、少女が売春に走る理由は大きく分けて二つある。お金が欲しいと性への目覚めであるが、女のズルさは、その両方を叶えられることを知ればどうにもならない。

イメージ 1

思春期を迎えた少女は発情期のメス猫であり、変革期におきる現象の必然性と価値観が大きくかかわってくる。メス猫を飼うと分かるが、発情期のメス猫はどうにもならない。手に負えないからと避妊手術をする飼い主もいるが、理性の抑制もきかず、欲望が抑えられない少女たちである。「やれてお金ももらえて一石二鳥、こんないい事はない」と、これがバカ女の論理である。

変革期において価値観の教育は不可能。よって自制心に委ねるしかない。売春に走る女子高生がどんなに親をバカにしようと、その親の世話になって生活をし、それでいながら身体を買う他人を、「いい人」だという。この救いようのなさは如何ともし難い。「いい人」の他人と、うざい親は対等な立場にはない。が、物事を解決するためには何事も対等な立場でなければならない。

この状況を対等にするためには、彼女たちは一切から捨てられることだ。バカにする親から捨てられ、お金をくれる、「いい人」からも捨てられる。そのうえで彼女たちがどう身を案じどのように生きるかである。その時はじめて、彼女たちの価値観の真価が問われよう。以前、ネットである女子高生から相談を受けたことがある。中学生から高校になったばかりの、それはそれは幼い少女だった。

印象でいえば、思考ゼロ(何も考えていない意味)の小学生くらいの幼稚さであった。相談というより、誰かに現状を聞いてもらいたい感じだ。中卒でクルマの修理工の16歳の男の子が彼氏という。彼女は男のアパートに出入りしていたが、男の子は一緒に住もうといいだした。彼女はそのことを父親に話したところが正直で幼い。それに対して父は、「家を出て彼氏のところに行きたいなら行きなさい」。

イメージ 2

決して投げやりな言い方ではなかったようだ。父子家庭の彼女は父親が経営する小さな居酒屋でお手伝いをしていたが、彼氏の要求への対処を迷っていた。自分が中卒だからか、彼氏は学校も止めて家に来いという。父は学校を辞めて家をでるならお店の手伝いも拒否の姿勢。話を聞きながらこの父親の毅然とした態度に半分驚くも、まったく引き留めようとしない父の真意を探っていた。

薄々感じたことは、娘に終始優しく接する態度の裏には、娘の性格をハッキリ読み取っているなと推察した。落ち着いて達観した父はとてつもない原体験を背負っている人だ。普通なら狼狽えて当然である。しかし、彼女の内心は学校にも行きたい、父の手伝いもしたいが、彼氏に逆らうのも悪いからと決めかねている。要は、「ノー」がいえない優柔不断の、いい子ぶった少女である。

少女売春という甘え ②

$
0
0
「お父さんはそうしたいなら家を出て彼氏に養ってもらえといったんだね。なぜ反対しなかったと思う?反対しないから賛成したんじゃないよ。あなたは学校には行きたい、学校の友達と遊びたい、お父さんと一緒にいたいしお手伝いもしたいといったよね。でも、彼氏に来いといわれてる。で、あなたはお父さんはわたしががいなくてもいいと思ってるといったね。

それは違う。お父さんに聞いてみたら?『うちがいない方がいいの?』って。お父さんが反対しないのはあなたは家を出ないと信じてるからだよ。でも、本当にそうなのかお父さんは試したんだろうな。彼氏は働いてるけどまだ16才だから本当なら高校生だ。友達もいったろ?学校辞めちゃダメって。当たり前だよ。15歳と16歳が一緒に住むなんか誰だって反対するさ。

イメージ 1

お父さんが好きなら離れちゃだめ。世界一優しいお父さんだと思う。あなたが大人になるまで一緒にいてあげなさい」。彼女は誰かの強い反対を求めているようだった。が、父親が考えていたことは後でわかるけど、無碍に反対するではなく、高校を辞めて家を出て彼氏と生活するとどうなるかを娘に想像させることで、いろいろな不安を呼び起こさせたのかも知れない。

だから彼女も夢を見るではなく現実だけを真剣に考えた。父への多少の誤解はあったが無理もない15歳の子どもだ。娘に現実を突きつけた父の言動は、頭ごなしに押さえつけるよりも効果的な場合がある。反対すべきをあえてしないことで戸惑わせる。しばしば自分も使うが、それにしてもスゴイ父親だ。結局彼女は、"今通りにする"となった。その後にとった父の行動こそが納得である。

彼女から一部始終を聞き、改めて父の凄さを知った。彼氏とはもう会わないとの了解をとるなり、父は娘に男を自宅に呼びつけた。父は男に娘を家出させようとしたこと、その他もろもろのことも含めて、強い口調で叱りとばし、「二度と娘に会ったら許さない」と凄んだという。彼女が初めて目にした強い父と、あまりに対照的な惨めな少年の姿だったのではないか。

怒りには二種類ある。眼を吊り上げ声を荒げ、あるいは涙し、言葉にならぬ言葉を震える声で発する怒りもあれば、感情を内に秘し、怒りの嵐が通り過ぎるのをじっと待つ怒りもある。二つの怒りを駆使しながら父の意図する完全解決とは、二人を絶縁させることであったと理解した。愛する彼氏がいたぶられるのを女は耐えられないものだが、少女には愛も恋もなかった。

イメージ 2

だからわだかまりなくキッパリ縁を切れさせた。他愛のない子どもの火遊びと察した父が、娘を洗脳しながら理解をさせた手法にうならされる。常人には真似のできないただならぬ男は、おそらく大きな修羅場をくぐってきたのだろう。ほんわか天然娘の心を傷つけることもなく、父のとった前後の行動は娘の性格・心情を理解した上での正解手順とみた。

娘をいたぶった少年を呼びつけ、お前が如何にバカであるかをつきつける。あげくに最後通牒を突きつけるあたりは、インテリヤクザの手法に通じるものを感じさせられた。あくまで想像だがその可能性はある。それならヤクザとて立派なものだ。強い口調で少年に言い渡したすべての言葉は、傍にいた娘に申し伝えていることにもなり、おそらく娘の心にも刻まれたろう。

「あいつと会ってはイカン」そんなことを言うのは簡単だ。会うなといっても親の目を盗んでの逢引きするなど簡単だ。父は男をビビらせることで、断固としてそれを許さずの徹底的な段取りを実行した。娘にためにならぬバカ男にはそれくらいして当然である。娘を持つ父親の怒りは男親ならわかることだ。彼女と話して分かるが、親への反抗心が希薄であった。

扱いやすい少女の類である。それでも思春期時期というのは、どういう形で親への反抗が現れるか予断を許さない。友人や彼氏からいろんなことを吹き込まれる場合もあるが、親はそこまでは理解し得ない。誤った対処をすることで、子どもはどう転ぶか分からない。高校中退の16歳の修理工がどんな男で、どんなことをしでかすか、そうした危惧と用心は父にあったろう。

イメージ 3

「希望」と「出口」

$
0
0
「希望という名の あなたをたずねて」という歌詞がある。岸洋子によって歌われる③番までの歌詞だが、①遠い国へと また汽車にのる。②今日もあてなく また汽車にのる。③寒い夜更けに また汽車にのる。となっているが、セインツ・フォーとザ・シャデラックスの歌う3番の歌詞は実は4番で、岸が歌った3番は3番と4番を合体させて改めたものだということがわかる。

作曲者いずみたくの本のなかには、④涙ぐみつつ また汽車にのるというのがあって、4番の後にさらに1番を繰り返す指示されているから、全体で5番の楽曲ということになる。テンポにもよるが全部歌うと7分の長さになるので割愛されたのだろう。どちらにしても主人公である話者は汽車にばかりのっているわけだが、要は忘れられない相手を探す旅に出るストーリーとなっている。

イメージ 1


探し求める相手を「希望」に置き換える。相手がどこにいるか、どういう暮らしをしているかも分からず、ただ探したいという願望である。もっとも、探しあてたとしてもこちらの想いに合致するかどうかもわからない。相手にとっては迷惑かも知れない。それでも希望という名の相手を探しつづける。本来希望などは、そもそも他人が与えられる性質のものではないもの。

ましてや夢とか希望などは、努力や苦しみなくして得れるものではない。それを前提にこの歌詞を読む。少女時代にそばにいた人が、いつしかわたしが大人になるのを待っていたかのようにどこか立ち去ってしまう。少女が恋に目覚めたとき、心にとどまった彼は、なぜに消えてしまったのか?そんな切ない気持ちから叶うあてのない希望を求め、旅をする主人公に想い寄せる。

詩は創作であるが、希望というのは努力や苦労を強いられる。それさえ厭わないものだと、そんな感じを詩から受ける。「自分の人生には夢も希望もない」などの言葉を吐く人はたまにいる。なんという甘えであろう。ただ遊んでいても、夢や希望の方からこちらにやってくるとでも思っているのか。夢や希望を安っぽく考えるまえに、この詩を味わってみるといい。

「傷ついた。人から傷つけられた」という人も多くいた。いろいろ聞いてみると、確かに相手のことばは穏やかではないが、受け入れがたいというものでもない。が、なのにこの女性は世界で一番悲劇の自分であるかのごとく振舞っている。おそらくこれもナルシズムであろう。他人に傷つけられるというではなく、他人のことばを借りて、自分で自分を傷つけているようだった。

イメージ 2

彼女は周囲や友人から、「勝手に傷つかないでよ」といわれたというが、それらは暴言の類ではなかろう。悲劇のヒロインとなって傷つく自分に恋する女。少女漫画的という言葉がふさわしいかは分からぬが、そんな女性は少なくない。彼女が彼女のことでいっぱいなように、友人や他人も同じようにいっぱいなのだ。だから、「自分一人で傷つかないでよね」といわれてしまう。

男がヒーローになりたがるように、女は悲劇のヒロインになりたがる。被害者意識が強いというのか、明らかにナルシズム的自己愛の発露である。人の言葉というのは無責任に発せられるもの。だから自分がしっかりした考え方や、ある程度の強い気持ちをもっていないと、こうした他人の無責任な言葉にあやつられてしまう。まして、悲劇のヒロイン志向ならいうに及ばずだ。

女性は被害者を演じたがる点において男より性悪である。やまだ紫という漫画家がいる。1948年生まれの彼女は、1969年「COM」5月号でデビューした。決してメジャー漫画家ではないが、若いころは猫のような顔をしていた。女性漫画家にはなぜかネコ好きが多いらしい。大島弓子を筆頭に、西原理恵子、寺島令子、竹本泉、こざき亜衣、そしてやまだ紫も…。

やまだ紫に『性悪猫』という作品がある。犬の純な性格に比して猫の性悪さが嫌いな自分だが、やまだは、「猫の性悪的なところがたまらなく好き」という。多くのネコ好き女性から同じことを聞いた。類は友を呼ぶ?などと思ったりするが、男のネコ好きは、「きまぐれで自分勝手がいい」という。『性悪猫』を読もうと探したが行方不明。持ち主に忠実でないから出て行ったのだろう。

イメージ 3

ネコ好きということもあって、やまだ紫の作品にはネコが頻繁に出てくる。『はなびらながれ』の作品のなかで、主人公がネコに語りかける。「もう子供じゃないんだから、眠ったふりやめなさい。あなたが眠っていようといまいとわたしは知らない。眠っているあなたも、眠っていないあなたも、眠ったふりのあなたも、ぜんぶすきだけど、誰かの何処かが、自分と似ている。

まるでわたしだと、時々あなたいうね。そんなの子どもの夢だ。心まで眠っているあなた好きじゃない。眠ったふりのあなたも好きだったけど、時々わたしをみてよ。するりとぬけおちないようきっちり抱いてよ。いつだってぬけおちたはずみにドアの向こうへとび出したくなるんだ。そうしたらもう帰ってこないよ。そうしたらあなた泣くよ。きっと胸がズキズキ痛むよ。

だいじょうぶ。わたし、あなたを困らせやしない。ほら、出口はあそこ。いつだって、出口はあそこ」。『出口』という表題の作品だが、主人公の十代らしい女性がネコに語りかけているコマの流れのなか、最後は男に向かって言っていたのがわかる。不思議な描写であるが、男的に見れば、こういうネコ気質の女の子は、ネコから生き方を学ぶんだなと、考えさせられた。

やまだ紫の作品はエッセイ風の流れを基調とし、最後のコマのどんでん返しが特徴だ。最後を念頭において書きはじめているような、そんな構成力を感じさせる。とりたて構成力もなく、作為を好まぬ自分は最後はどうなるのか書き手にも分からぬままに書く。そんな未決気分で書き始めるが、それでも最後を収束させようとする。終わりよければすべてよし。文は最後が大事かと。

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

いじめはなくせない。立ち向かうのみ… ①

$
0
0
滋賀県大津市で2011年、市立中学2年の男子生徒(当時13歳)が自殺したのはいじめが原因だとして、遺族が当時の同級生3人と保護者に計約3850万円の損害賠償を求めた訴訟で、大津地裁は19日、いじめ行為と自殺との因果関係を認め、元同級生2人に、請求のほぼ全額となる計約3750万円の支払いを命じた。市が設置した第三者調査委員会も2人の行為をいじめと認定していた。

判決は、自殺の約1カ月前から2人の暴力などの行為がエスカレートし、生徒との間に「いじる」側と、「いじられる」側という役割の固定化を生じさせたと指摘。連日のように少年の顔を殴ったり、蜂の死骸を食べさせようとしたりした行為の積み重ねが、生徒に孤立感や無価値感を形成させたと認定した。その一方で2人の保護者については監督義務違反がなかったと判断を示した。

イメージ 1

残りの元同級生1人については関与の度合いが低いとして賠償責任を否定した。訴訟で元同級生側は、「家庭環境などが原因だった」と主張したが、判決は原因を家庭に求めることはできないとした。生徒の自殺から7年4カ月経った現在においても、全国ではいじめが原因とみられる少年・少女の自殺が後を絶たないが、今回の大津地裁判決は、他のいじめ訴訟にも影響を与えそうだ。

"いじめ訴訟にも影響を与えそうだ"と記事は結ぶが、今回の判例がいじめ減少につながるのか?思うに人をいじめるような心ない人間が判決を知ったところでどこゆく風…、何の足しにもならない気がする。国の裁きがいじめの解消に寄与するとは思えない。なぜにいじめが起こるかを考えてみればいい。いじめはストレスの発散であり、しかもいじめる側にとっては快感である。

大人社会にストレスはつきものだが、子ども社会にも以下のストレスは存在する。①家族関係の悩み、②友人関係、③勉強の悩み、④進学・進級の悩み、⑤転校や友人との別れなどが挙げられる。いじめを行為する側のストレスが、いじめを受ける側にもストレスを引き起こさせる。ストレスがいじめを生むなら、子どもにストレスを与えない配慮を親に望むしかない。

いじめは、「弱いもの」に向けられるが、心理学的に分析すれば、人間の弱さとなる。つまり、弱いものが弱いものいじめることで、自分が強くなった気分になれる。「強い人間は弱いものいじめなんかしない」ように、人をいじめる人間の心の弱さである。「本当に頭の良い人間は、低学歴をバカにしたりしないし、中途半端に賢い人が他人をバカにする」。これも同じ論理。

イメージ 2

バカがバカを見下すことで、自分はバカでなくなると錯覚する。さらには自慢話が大好きな人間にもいえている。「自分に自信のある人間は自慢などしない」ばかりか、する必要がない。なぜなら、「強さ」、「賢さ」、「自信」というのは、自らに必要なものである。国士無双といわれた韓信が、チンピラに言いがかりをつけられ、股をくぐったとされる話は有名だ。

当初は、「股くぐりの韓信」という汚名に過ぎなかったが、韓信にとってつまらぬことで命を危険にさらすことはないとの大事の小事である。「ならぬ堪忍、するが堪忍」という言葉もあるように、人間が怒りを抑えるのは難しいことだ。強さや賢さが自分のためのものなら他人に誇示する必要はないが、披露したくなるのは他者より優れていることを示したい自己顕示欲である。

イメージ 4

逆説的にいえば、強さを誇示する脆弱、賢さを誇示する低脳、自信なき自慢である。こういう哀れなる表層人間への根治的解決というのは、強さを持ち、賢くなり、自信をつけるだが、それが簡単ではない。 意識と努力と時間を要する遠き道であり行動を必要とするが、実は意識を持つだけでも人間は変わっていく。自己を変えたいと願う人には自らの体験からこの事を推奨する。

意識を強く持つことで、少なからずそれに殉じた行動をとるようになる。また、あることへの意識を持つことによって、それに反することへの批判も持つことになる。噛み砕いていうなら、強くなりたい意識を持つことで、弱いものいじめをしなくなる。人をバカにすることで賢くなれる筈はない。自信をつけるためには不満や愚痴は大敵。こういうことが必然となってくる。

イメージ 3

こうした逆説的論理が相乗効果となり人間を変えていく。取り組みやすい逆転の発想が少しづつ意志を実現していく。一朝一夕に自己変革はできないが、数十年単位のスパンで見れば人間の人生は長い。意志と目的を強く持てば、地道であってもたくさんの良いことを吸収し、よくないことを排除する。自己を変えるのは、王国を転覆させるより難しいといわれるゆえんである。

忘れられないのは、自分の指定席がなくなったあの日のこと。中学になりたての自分はクラス一の低能から啓示を受けた。クラスの代表委員選挙の際、自分に票が入らず落選のショックを受けていたとき。「お前を代表にしたら自慢するからな」と言葉を投げつけてきたのが知能の低いMだった。「神から啓示を受けた」というのは耳目にするが、「バカから啓示を受けた」自分である。

いじめはなくせない。立ち向かうのみ… ②

$
0
0
人の歩みを人生というが、どんな人にも必ずやターニングポイントがある。日本語化した英語だが、「変わり目」、「分岐点」、「転換期」のこと。この転換期を生かすか放置するかで人は大きく変わる。「運命の分かれ道」などと大袈裟にいうが、確かにそういう実感はある。「もし、あの時あれがなかったら」と回想できる人は、そのことを生かせた人たちであろう。

そうしたものがない人は転換期を生かさなかった可能性がある。Mがいった言葉を、「何をいってやがる知恵遅れのバカが、偉そうにいうんじゃないよ」と、そんな風に見下すことはできた。つまらぬ自尊心が如何に人間をダメにするかと今にして思うが、当時はそんな分析ができる知能もない。Mの言葉は、「人はそんな風に自分を見ているのか」と素直に受け入れた。

代表委員に選ばれなかったショック以上に、Mの言葉は羞恥に感じた。感受性の高い時期でもあり、顔から血が噴き出るほど、穴があったら入りたいほどの気持ちを今も忘れない。何気ないMの自分への率直な批判であるが、もしそれを耳にしなかったらどんな人間で在ったのか、考えただけでゾッとする。あの日を境に自分を変えよう、その決意を長々と日記に書いた。

自己変革は生きた時間だけかかるという。12年かかったものは12年かかる。あれからもう半世紀、直ったとの意識はない。自己変革というものは実感できないし、今でも心のどこかから慢心が覗いたりする。そうしたときには制止意識が動くのが分かる。人間は短所や欠点を完全に排除するのではなく、自分が嫌だと思うことの制止意識を高めることではないだろうか。

それはそうだろう。人間には誰にも欲はある。自己顕示欲もある。高邁な自尊心もある。そんなものを無くするなどは不可能に近い。修行僧のように苦行をするならともかく、人間はそうした煩悩をいかに抑えるか、自らとの戦いであろう。思うに中一のあの日のことは、まさしく自分の性格を見つめ直す自分にとっての大きなターニングポイントであったのは間違いない。

人は人から学ぶもの。他人の言葉は耳に痛いが苦い良薬とするかしない。しかし、それができるのは10代、20代、遅くても30代の柔軟思考ができる時期ではないか。孔子はこのようにいう。「40にして惑わず、50にして天命を知る」。人間は50歳までに吸収しなければそれで終わりなのは周囲を見れば分かる。60歳、70歳になっても、まるで子どものママの高齢者の多きこと。

自分ですら周囲から見れば一層つまらん人間と映っているだろう。つまらん人間にとっての基準は自分であって、こちらがその類に当てはまらねば、当然ながら彼らにとってつまらん人間である。これは仕方がない。だから50歳過ぎたら、人は人を選んで付き合うべきである。「類は友を呼ぶ」というが、これが如何に正しいことかを人間関係の中で知ることになる。

基準や根本が違っている以上、互いが非難し合っても仕方がない。何もいわず、自らの判断で人を選んで付き合うのが正しい。もっとも50歳を超えても他人から影響を受けて自己向上を目指す人間がいないわけではない。自分とて、まだまだ至らぬ自分を変えたい意識で生きている。だから本を読む。自分の決めた五賢人の著書が多いが、まだまだ人から教わりたいことばかり。

人間というのは究極的には、自分を如何に知るか、知り尽くすかであろう。至らぬ自分をいかにして知るか、そしてそのほとんどは他者からの指摘であるが、若いころに比べて人は人に口を閉ざすものゆえに、周囲から得るのは難しい。残り少ない時間の中で至らぬ自分、嫌悪する自分をどれだけ直していけるか。それこそが死の目標ではないか。死の目標即ち生の目標である。

人には個々の生の目標があり、そこに立ち入るべきでない。人の一生はその人のもの。その過程の中で人は自分の「真実」とどう向き合っていくか、「真実」をどう処理していくかが課題である。「処理」とは、真実ばかりを受け取りそのまま利用するではない。「真実」は隠しておいてこそ浮かばれ、価値あるものもある。真実とは表す側も受ける側も傷つくものだから。

ゆえに真実は思慮をもって丁重に扱うべきものだ。親が体験した真実一切を子どもに伝える必要などない。ましてや真実を偽って子どもに自慢する親は、何をかいわんやである。ありもしないことで子どもすかしたり傷つける親もいる。自分が子ども時代に母から、「お前はもらい子だ」と脅された。それがどれだけ傷ついた言葉だったか、それも分からぬ無思慮な母だった。

坂口安吾の自伝を読んで笑ったことがある。彼は実母にそういわれたとき、「こんな母親の子どもでなくてよかった」と安堵したと書いている。そこは自分よりも上手だった。自分は「もらい子」といわれた心のどよめきを今でも忘れない。これは親の子どもいじめである。作り話で脅したりすかしたりの思慮ない女の末路は、自ら吐いた言葉で身を滅ぼすことになる。

いじめはなくせない。立ち向かうのみ… ③

$
0
0

イメージ 1

無意識に我が子をいじめる親、意識してそれをする母親。どっちもどっちだ。前者を無知女、後者を性悪女というべき。儒者は、「親は尊いもの、敬うべきもの」といったが、こんなものは誰にも合致する言葉でない。儒教の教えというのは、教えに相応しい人間が存在していればの前提にある。よって、賢い子どもに求められるのは、正しい親の見定めとなる。

安吾は実母に、「もらい子」といわれて速攻喜んだが、自分は動揺した。ところが事あるごとにいわれ続けると、「バカの一つ覚え」と感じるようになる。女親というのは本当に卑怯者と子ども心に感じた。何らかの言葉が子どもに効き目があると分かると、奥の手といわんばかりに頻繁に持ち出すが、子どもとてバカじゃない。だんだん効き目がなくなるのは子どもが強くなるからだろう。

子どもと対峙するときのヒステリー丸出しの無思慮な母親を、父親はどのように見ていたのだろうか?母親の前で子どもに救いの手を差し出そうものなら、ますますヒステリーが増幅する。それを知る父は、母のいないときにフォローしてくれたのが今ならわかる。決して息子からポイントを挙げようとの私利ではなく、思慮ない母親の餌食になる息子を思う父心だろう。

自分も長女(娘)とその長男(孫)の言い合い場面に遭遇すると気分が悪くなる。孫に加勢したくなるほどに娘の暴論でしかないが、そこで孫に加勢しては母のメンツをつぶすことになるので黙っておくしかないが、実際その場には居れたものではなく即刻退散する。実母の親(祖父)も口出しすることはなかったが、一度だけ母を抑えつけたのは、運転免許を取ることに大反対の母に対してだった。

イメージ 2

「ウルサイ、お前は黙っとれ!ワシが金も出すんじゃ。ゴタゴタ抜かすな!」祖父の迫力ある言葉を忘れない。それまでは、「今時免許証も持たんでどうなる?」とやんわりいってたが、聞く耳を持たぬ母に祖父は原爆を落とす。それ一度キリで、それ以外の母のガミガミには余計な口出しをせぬよう男の理性で抑えていた。明治生まれの祖父は怖かったと叔父貴(母の弟)もいっていた。

絶縁同様の母に頼み事はしたくない自分が運転免許証は祖父のおかげ。高3の春休みだったか、この時ばかりは祖父への感謝とバイトのお金で5合樽酒を祖父に渡す。自分はすぐに上京して不在だったが、祖父はそれを何か月も開封しないでいたと父から聞かされた。そういうものなのか?そういうものなのだ。若き自分に祖父の気持ちは見えなかったが唯一祖父への思い出である。

反面祖母はいつも体を張って母から守ってくれた。「そこまでいわんでも、叩かんでも…」と抱き寄せて庇ってくれた。女(祖母)は女(娘=母)に遠慮がないのか、母の行き過ぎた言動に躊躇うことなく口を出した。現在妻も、長女にあれこれ口出しするのは当時の祖母と同じ光景だ。祖父の口出しはなかったように自分もいわない。遠慮ではなく、男はこういうものと植え付いているのだろう。

どういう見方をしようとも母親の子いじめだが、意識のないところが女の性悪さだろう。親が子にムキになってどうする?血が昇って我を忘れるような男もいるが、それとは別の女の「業」というのもだろう。「いじわる婆さん」というのがいても、「いじわる爺さん」というのは聞かない。「鬼婆」はいるが、「鬼爺」はない。女は本質的に底意地が悪いのは姑を見てもわかる。

イメージ 3

以前、「結婚は女の生きがい」という女性に驚いたのは、男と女の結婚観の違いにだ。男にとって結婚とは、あるいは家庭とは、自然現象のようなものといわれるが、女にはそうではないらしい。結婚というものは現実的なもので、好きな俳優に憧れたり、外国に憧れたりというのとはわけが違うものだが、女がそうでないのは、「結婚を生きがい」という感性に起因しているようだ。

女性にとって結婚とは、現実もひっくるめて、そこに憧れを抱き、その憧れを現実の厳しさを避けることで実現しようという傾向があるように感じる。男にとっては儀式以外の何ものでないが、女性が結婚式にあれほど執着するのはそういう意味があるのだろう。それほどにウィディング・ドレスを纏い、一生一代のヒロイン意識を自他に醸し出したいというナルシシズムに蹂躙されている。

しかるに女性は、生きがいよりも憧れが優先であり、社会的なことよりも個人的なことに興味を向けて、そういう中で生きていこうとする。とことが近年の女性の社会進出は、社会で働く現実の厳しさを多少なりとも女性に植え付け、社会で生きる(働く)ことの甘えが減衰したのはむしろいいことである。男と対等意識を持ちたい女性にとっては、是が非とも知っておくべき現実であろう。

勿論、男にも甘えはある。特に親から甘やかされて育った男にとって、甘えは致命的であるが、「男の子は甘やかせて育ててはいけない」という母親が少なくなったのは問題である。理由は簡単、父親が子育てに参加しなくなったこと。いや、させなくする母親が増えてしまったこと。「女だから」という甘えが抑制された社会において、男が甘えるなどは愚の骨頂としか言いようがない。

イメージ 4

「他山の石」と「くだらない」

$
0
0

イメージ 1

人間がいかに自由を獲得してきたかについての歴史を考えてみる。人間は未開社会から始まっているが、未開の民族においては個々が自己をその部族と同一視していた。アフリカやアマゾンやニューギニアの未開人には様々な族がいるが、アフリカのマサイ族は有名である。未開人と近代人との違いはといえば、すべてのものが一つに融合し、共に一体をなして生きるのが未開人である。

それに比べて近現代人は、自己と一体をなしていた土地や共同体から離れてしまった。それが自由を得たともいえる。別の言い方をすれば、集団から個人への目覚め、個人への出現が起こったことになる。それはまた、人間にとって狂気ともいえる歓びであるとともに、苦悩の始まりでもあったのは、未開社会には到底考えられなかった問題が発生することになったからだ。

幾多の自然現象の中において人間が神を創造したのは明らかで、それを無神論と定義されるが、神を拠り所とする思想が中世の精神であり、人間性を貫く精神がルネッサンス期の精神と分類され、さらには、「自由の主体は人間にある」としたのが近代哲学の精神。人間の自由の主体性は、ベイコンやデカルトに始まりカント、ヘーゲルから実存哲学に至る思想の流れの中で確立する。

人間の苦しみは抑圧にあるのか、それとも自由の中でもがき苦しむのか。苦しみはないのがいいが、生きるために苦しみの排除はできない。ファイティング原田というボクサーがいた。彼は、「苦しむためにボクシングをやっている」といった。そしてその後に、「この苦しさがなければ僕はボクシングを続けられなかっただろう」といった。彼は苦しむ事こそが生き甲斐だったのだ。

イメージ 2


イメージ 5

それを思うと生き甲斐とは決して楽をすることだけでないのが判る。生活の中にもっと厳しさを求めるのも生き甲斐である。「毎日がつまらない」という人がいる。「生きることがつまらない」という人もいる。だから愚痴ばかりこぼし、あげく自殺をするのか?「つまらない」理由は定かでないが、「毎日がつまらない」、「生きることがつまらない」に、理解も同情もできない。

「なぜそんなことしかいわないのか?」。「いってどうなるというのか?」。大体において愚痴をいう人間に、「対策」、「改善」の言葉はない。「つまらない」なら、「つまらなくなくすればいい」だけだろうに、それをせずに愚痴ばかりこぼす人。さらにそういう人間は、誰かが何かを提案を与えてくれても、「くだらない」という。「くだらない」は世捨て人の戯言のようである。

ところがそれとは別の、「くだらない」がある。一切をバカにしたようなニヒリストが好んで使う、「くだらない」。何事にも興味を抱く自分にとって、世の中にくだらないことはないのだが、二ヒリストたちは、「くだらない」の山を持っている。苦労して山に登る人がいる。彼らは決まって、「なんでそんなくだらないことを…」となる。他人のやることをくだらないといって自身を満たす。

「くだらない」の理由を分析するに、他人をバカに見据えることで自身の賢さをを示したい。優位であることを示したい。これこそ、「くだらない」といっておこう。くだらないことをやる人間がいるにはいる。タレントがテレビ番組でくだらないことをやったりする。実はそこに制作意図があるのを知らないで、「くだらない」という人間は、番組制作者の罠に嵌っていることになる。

イメージ 3

「くだらない番組」を作る理由。「くだらない芸人」を出演させる理由。そういうことで視聴者の自尊心をくすぐっているのである。単純にバカを面白がる視聴者もいれば、「よくもまあ、あんなくだらないことをやるよ」と、見下げることを自尊心を満足させる人もいる。クイズ番組も似た意味がある。特に、やさしい問題を答えられない芸能人を見て、視聴者は自己満足に浸る。

「彼らはあんなにバカなのか」と、思わせるように嵌められている。それに気づくことも大事だが、もっと大事なことがある。「他山の石」という言葉を聞いた人はいるだろう。中国で生まれた故事成語だが、この言葉は現在でも人生全般における「教え」として使われている。「他山の石」で使われる石は、「粗悪で質の悪い石」、「くだらない、つまらない石」のことだ。

それだけの意味だけではない。「他山の石」は、「悪質な石でも磨くのには役に立つ」という含みがある。つまり、「他人の誤った行動や言葉を無視してしまうだけではなく、学びとして自分の中に取り入れ参考にしたり、生かすこと」といえば分かりやすい。周囲や、第三者のミスや、間違った行いでも、自分の知恵や道徳心を磨く材料として取り入れることはできる。

どんな人にも必ず職場や日常生活で他人の失敗やミスを目にすることがある。それを自分の行いに取り入れて参考にするか?自分には関係がないと流してしまうのか?さらには、「バカだな~あいつは…」と、笑って自己満足に浸るのか?確かに、「他人の不幸は蜜の味」というが、これらの中で自分がどれに合致するかで人の性格は分かるし、その人の過去も未来も見えている?

イメージ 4

棚に戻すのは「店員の仕事」

$
0
0

イメージ 1

久々に面白い記事を見た。というか、これは問題提起なのだろう。スーパーの買い物客が、買うのをやめた商品を元にあった場所に戻さないマナー問題について、「(別棚にある物を)整理するのは店員の仕事」と持論を述べたのは木村太郎氏。木村氏の持論に批判はないが、「なぜ?」との疑問は残る。彼はこの問題を取り上げたフジテレビ系「直撃LIVE グッディ!」のコメンテーターである。

これまでの彼の発言において、「?」と感じたことはなかったが、今回は初めて「?」に感じた。番組はスーパーの買い物客のマナーについて特集。途中で購入をやめた品物を、本来あった棚ではなく、別の棚に置いてしまう客がいることがネットなどで話題となり、フジテレビでは100人に調査、「買わなくなった品物をどこに戻すか」と質問。約8割は「元あった棚に戻す」と答えている。

が、一部では「戻すのは店員の仕事」などの理由で元の場所に戻さない人もいた。戻さない理由が、「店員の仕事だから」という考えの人がいて、それで戻さないというのはとりあえず正論に見受けるが、「店員の仕事」というのは誰が決めるのか?スーパーなのか、顧客なのか、自分には判別がつかない。そんな張り紙を見たこともない。だから、8:2に分かれているのだろう。

たとえ別棚に置かれた商品を元に戻すのが店員の仕事であれ、商品購入の気持ちが変わったのは顧客のミスではないか?幼稚園や小学校で、「使った備品は元の場所に戻しましょう」と教えるのと同じことに思えてならないが、どう考えてもあった本来の場所にあったものを、別の棚に置く理由は、いかなる理屈をつけたところで、元の場所に置くのが面倒くさいからとしか思えない。

イメージ 2

「店員の仕事」以前の問題であり、だから自分はキチンと戻す。自分の(ミス)の尻ぬぐいを店員にさせることには違和感があるし、顧客の甘えだろう。決まりであってもミスをしたのは自分なのだから、それを適当に別の場所に置こうという神経は理解できない。まあ、それが店員の仕事だからと決めつけた人ばかりではなかろうし、横着な人間の類というのが正直な感想だ。

だからと他人は責めない。世の中に横着な人間はいるし、そういう人間は相応の生き方をするのだろうから、自分に害はないし関係もない。スーパーを歩いていると、なぜこの商品がこんなところにポツンと置かれていたりすると、思わず笑ってしまう。理由も事情も分かっているし、そんなときに、「これは店員の仕事」などと思ったこともない。今回木村氏の持論から初めて知った。

あくまで持論だから正誤は分からぬが、そんな風に考える人もいるんだろう。自分はそんな風には考えないが、他人思うのはいいし批判もない。ただし、今後その種の顧客がどんどん増えたらどうなることか。別棚に別商品があふれるような光景に自分が困ることはないがいいものではないしそうならないことを願う。塩鮭の切り身がお菓子のところに置かれていたり、どういう了見だろう。

ヒドイとは思うが平気でやる人間に笑うしかない。自分は道徳家ではないし、そういう人はコソコソとやるんだろうが、もし、子どもがやってていたら注意はする。いいオトナならほっとく。注意をしたところで直ることもない。以前から別棚に置かれた商品を見たら笑うしかないし、誰かと一緒にいれば、「なんでこれがこんなところにあるんだい?」と、共に笑いの種にしたり…。

イメージ 3

横着人間の仕業と思っていたから、「店員の仕事」と聞いて。「へ~!」である。木村氏は持論を以下のように補足をする。「スーパーって人件費を倹約して客にやらせてる。持ってきて、運んで、袋にまで入れる」と、客の労力に頼っているところが大きいと指摘する。こういう持論展開は経営学の様相である。木村氏の持論に対抗するにはそういう観点からの論理が必要だ。

「(棚を)整理するのは本来は店員の仕事。だからお客さんがやめたと、どこかに置いておく物を後に整理するのは店員の仕事」。この考えは消費者優先思考なのは分かるが、論点を同じにせずにモラル論を述べてもどうだろう。ただ、消費者優先の考えであっても消費者として自分が木村氏の持論に賛同することはない。先に述べたようなあくまで自己責任の範疇としか考えられない。

「マーケット」という言葉から何を連想するか?スーパーマーケットを略してスーパーというが、スーパーも八百屋さんも肉屋さんもマーケットの一部である。スーパーマーケットは肉から野菜からなんでも御座りだからスーパーなわけだ。マーケットというのは、人類の最大の発明であるらしい。ひとりひとりが欲する商品を素早く届けるという仕事はとてもじゃないが難しい。

個人でできることじゃないし、流通や人材や産地からの安定供給など、いくつもの要素でマーケットが成立している。我々はマーケットの恩恵に預かって、何不足なく生活できることを思えば幸せである。経済学の基本からいえば、マーケットで、「需要」と「供給」が調整されているが、我々は生産者ではなく消費者である。が、消費者だから偉いのだという意識は持たないでいたい。

イメージ 4

タクシーに乗って金を払っても、「(ここまで運んでくださって)ありがとうございました」という人間もいれば、「乗ってやってるのにお礼なんかいう必要ない」という人もいる。様々な人間が織りなす社会なら、自分はどうありたいかを目指して生きればよい。と、ここまで書けば勘のいい人は、言いたいことを理解するだろう。あえていうなら、顧客だからと偉いわけでも威張る必要もない。

マーケットは生産者・販売者・消費者がもたれ合って機能している。「〇〇は店員の仕事」という合理思考もいいが、もたれ合っている以上、可能なことは自分でする。「スーパーって人件費を倹約して客にやらせてる。持ってきて、運んで、袋にまで入れる」という木村氏と同じ考えの人はそうすればいい。己のミスで商品を元に戻すことに何の負担も面倒も感じない自分である。

身体の売買マーケット ①

$
0
0
小学校の社会の授業で、「物々交換」というのを知った。習ったというべきだが、その時はじめて原始社会の物流の在り方を知った。「物流」というほどではないにしろ、自分の物と他人所有物とが交換できるのは自然なことであり、それを自然と肯定しながらも、「物々交換」という言葉があるのか、そういういう知識を得たことにちょっぴり感動もした。子どもは同じ行為を友人と交わすがその際に、さっそく、「物々交換をしようぜ」などといったりもした。

こんにちフリーマーケットが盛ん行われている。個人が持ち寄った様々なものを金銭売買するが、お金(貨幣)の存在は物々交換をさらに合理的にした。例えば、自分が作った土器の椀と衣類を交換したいが、気に入った衣類はない。相手は自分の椀を気に入り欲しがっている。こうした互いの交換が成立しない場合は普通に生じるだろう。その際、物に変わる同価値のものとしての何かあればよい。そういう考えのもとから貨幣が生まれた。

そう考えると、「貨幣」がいかに素晴らしい発明であり、近代経済社会のなかで貨幣は不可欠であるかが判ろう。近年はカードが貨幣の代わりをするが、カード類も貨幣の変形である。「マーケット」、「分業」、「貨幣」の発明で人類の経済発展は飛躍した。貨幣の役割は主にふたつあり、一つは取引を簡単にしたこと(取引の効率化)。もうひとつの役割は、「価値の貯蔵」である。かつては富を貯蔵するのに大きな蔵を建てる必要があった。

ところがこんにちのお金持ちはそんな必要はない。お金は銀行に預けておけばいつでも必要な時に引き出して買い物ができる。物々交換はお金が役割を果たすが、富の貯蔵という観念はなかった。ところが便利な貨幣が誕生し、貨幣経済が中心となると、物々交換という面倒なマーケットが廃り、お金さえあれば何でも買えるようになった。有史以前では今の貨幣の代わりに大きな石や貝殻を用いたことが遺跡の発掘から分かっている。

また貨幣には不思議な要素もある。「日本銀行券」と印刷された1万円札だが、一枚の印刷費用はたったの10円程度といわれる。紙代や流通諸経費を含めてもいいとこ数十円程度の原価が1万円に変わるわけだから、まるで打ち出の小槌のようなカラクリである。つまり貨幣というのは壮大なる虚構で成り立つが、貨幣経済の利便性はいうに及ばずだ。マーケットには様々な形態があるが、金融マーケットでは金や諸外国通貨まで売買されている。

「必要は発明の母」といわれている、世の中の多くのものが必要から生み出されたことを示す言葉だが、貨幣もそうであった。貨幣が生まれたことで人間の欲望は無限大に広がって行き、したがって、貨幣を手に入れることが欲望を叶える何よりもの近道となった。「お金が欲しい」、「お金があれば…」そのために労働が生まれ、労働とお金の交換が合理的に行われるようになる。その目的はいうまでもなく人間の生活を豊かにすることだった。

人間の欲望は限りない。だからといって高校生の月の小遣いが2000円から一気に20万円になったらどうなるか?彼(彼女)らの欲望はとどまるところを知らず、欲しいと我慢していたものを金にものをいわせて手に入れようとする。だから女子中高生が売春をするようになった。低年齢の彼女たちの売春の真の問題点は何か?見知らぬ他人とのトラブルもリスクだが、欲望の拡大こそ問題である。そのために手っ取り早く身体を売る少女たち。

生活苦からやむにやまれぬ手段として娼婦となる女性が、いつしか遊ぶ金欲しさから、年端もいかぬ少女が売春をする時代に堕ちていった。なんという嘆かわしい時代であろう。女の堕落はいかんともしがたく男の比ではないが、片や、中高生のパンツ見たさに大枚をはたくスケベオヤジたちが恩恵に預かっているのは間違いない。男のセーラー服願望は昔からあった。だからその種の8mmフィルムにはババぁにセーラー服を着せていた。

それでもババぁがセーラー服を着たその手の8mmを観たことは有るが、あれが男のロマンであったのだから笑えてしまう。不細工で年増女の出演が通例だったブルーフィルムは過去の遺物、近年は美女やかわい子ちゃんが、惜しげもなくあられもない肢体で喘いでいる。これもお金欲しさの欲望である。何とか普通の人と同じ生活をした、最低限に着飾って暮らしたい、そんな誠実(?)な女の欲望が、虚栄にまみれて堕落していく現代社会。

こういう時代になってしまった以上、もはや昔に戻ることはないだろう。いじめは昔からあったが、ストレス社会がいじめを増幅させたことがかつてと今の変容である。いじめの解決は複合的で難しいが、少女売春の防止はいじめほど難しいことではないとし、自分なりの考えを述べてみる。少女売春には二つの側面が考えられる。「虚栄心」と、「劣等感」ではないだろうか。誰にでもあるが、この二つを何とか軽減できないものかを考えてみる。

身体の売買マーケット ②

$
0
0
「虚栄心」と「劣等感」を無くすためには、夢中になれる仕事や何かをもつ以外にない。誰が何といおうと自分はこれが好きだ。それをやっている時は何もかも忘れて生き甲斐すら感じられる。そんな情熱が救いとなる。NHKの朝ドラに『ふたりっ子』というのがあった。双子の姉・麗子と、妹・香子のお話である。姉の麗子はまじめな性格で秀才で京都大学経済学部を卒業する。妹の香子は破天荒でやんちゃである。

学校の問題児で呼び出しも受けていた。そんな香子が将棋会所で出会った老人が契機となり、将棋棋士を目指して努力する。二人の対比がドラマの主題である。原作・脚本の大石静はこう述べていた。「虚飾の世界に生きる姉、実力世界に身を投じて汗と泥にまみれる妹。私の幼少期はまさに姉の麗子を自らへのアンチテーゼとして描きました」。少女期から虚飾を演じ日本女子大を出た大石である。

一般的女性にありがちな虚飾も、将棋界のような場に持ち込めども通用もしない。大石はそんなひたむきな香子を描きたかった。どんな人間でも〇〇大卒という名声は欲しい、女性なら美貌も欲しい、金銭は誰かれ憚りなく欲しい。がしかし、人間の止め難い虚栄心が昂じた欲望の愚かさを自覚すれば、少女売春などは防げるだろう。「自覚」とは、人間としてそれを望むが、同時に虚しいものと感ずる心である。

有用と思いたい学歴、お金も欲しい。そうした自分の望むものを疑い、虚栄という心に羞恥を抱くこと。見知らぬスケベオヤジに身を任すのは、羞恥を超えた人間の尊厳の放棄ではないのか?お金欲しさに女として自尊心を失ってもいいのか?食うため、生きるためなら同情もできよう。人間はだらしないのは分かっている。外見に惑わされたり、地位や名声や資産や、高価な身なりの人に尊敬心を抱く。

が、人の中身は見通せない。本当の人間の価値とは何か、くらいは考える頭は持つべきではないのか?それがないのは脳タリンである。足りないものは仕方がない。が、人間が自分の頭で物事を考えることで、宗教に対する反省心や、欲望に対する懐疑から無用な物を購入させられることもなかろう。さらには奉仕の精神をもつことが大事。これは自分だけの価値を高めればいいを戒めるために。

社会のためになどと大それたことを考えなくとも、自分たちの仲間や隣近所の人々のために役立ちたいという気持ちで十分。奉仕というのは自分の野心や虚栄心のためではなく、誰も見ていずともコッソリやろうという精神は尊い。自分が近所の奉仕作業に率先して参加したのは、「一銭の得にもならぬことでも一生懸命にやる」姿を子どもたちに見せたかった。子どもがどう思うかは別にしても…。

他人への思いやりも大事だ。人間は矛盾に満ち、不安で不安定な存在だからこそ弱い人間として互いがカバーし合う必要がある。売春を援助交際と言葉を変えながらも、「わたしの身体をわたしがどうしようと勝手でしょう。人の自由と思うけど」という子がいる。こんなことをいった記憶がある。「当たり前だろ、そんなこと。自分の身体を似て食おうがそこらのハゲに舐めさせようが自由に決まってる」。

自由とは人の陰に隠れてもできる。同じ自由を供与されながら売春する子としない子は愚かと利口の違いである。利口な者は賢く自由を使うが、愚か者は、自由の使い方も愚かである。遊ぶ金欲しさにギラギラと臭いオヤジに好き勝手させたいなら、一年中やってろといったことがある。これをショック療法というが、道徳的なことが通じない人間にそれ以外の何をいうことがあろう。

時給1000円と、時給数万円のバイトとの違いをどこに置くかの違いだ。「自由」というものを人間内部の問題として考える場合、自由はどこか不自由と結びついており、それが自己規制といいうものだ。だから、自己規制がない人間をバカと呼んでいる。少女や少年だけではない大人にもいる。人間とっての本当の自由とは、「自覚」あっての自由である。自覚なき人間は図体は大人であっても、心は幼児であろう。

アル売春をする無自覚な少女にも、「自覚」という言葉はない。15歳で始めて18歳で止めるか、21歳で止めるか、25歳で止めるか、止める時期は来る。彼女たちが将来どんな母親になるか分からぬが、誇れぬ真実は自らの胸にしまっおけばよい。しかし、我が娘の売春は望まぬだろう。であるなら、娘が売春をしないためにどうすればいいか、折角の体験者としてそれを生かしたらいいのではないか?

それがせめてもの罪滅ぼしである。大っぴらに人にはいえない愚かな体験であれ、生かせてこそ貴重な体験となろう。自身になかった自覚を子どもに身につけさせたら立派な親だ。自覚という不自由は人間の財産である。寿命が湯水のようにある若い時代に比べて、ある程度の年齢になれば死について考えるのは妥当だ。不治の病気や老衰はともかくとして、死は不測のことである。

我々は日常的に健康状態にある時は死を忘れているが、死の方は決して人間を忘れていない。この厳しい制約の中において、人間は自由について際限なく考えることになる。最近、「終活」という言葉も聞く。いろいろすることは有るようだが、大事なのは心の整理であろう。「いつ死んでもいい」ということか。まだまだそこまでには至らぬが、とりあえず今は、「死ぬまで生きよう」である。

ネットで言い合う目障りタレント ①

$
0
0
「人間は真実とどう向き合い、真実をどう処理して生きていくかである」と、達観したようなことを億面もなく述べたが、自分の弱さや臆病さを認めて向き合うことも含めて、人間関係の中では真実こそが物事を解決してゆく。人と人の関係には様々な態様があるが、男女の関係にしても互いを偽った関係もあれば、相手に媚びたりおもねたりのない、本心をさらけ出した関係もある。どちらに信頼関係が生まれるかは、いうまでもない後者であろう。

自分に無理をするのは相手に嫌われたく気持ちが根底にあるが、上手く行かない理由はそれが続かないこと。女同士に、「誠実な信頼関係」は生じ難いといい、男同士でも、「良好な信頼関係」の構築は簡単ではない。人間の内部には、どこか他人と対立した何かがあり、それを埋めるためには心を許し合っていると互いが感じ合うことで、そのために多くの対話と時間が必要となる。その結果、意見や価値観の対立があっても互いが理解しあうのを実感する。

イメージ 3

理解とは互いが判るということで、同じ考えである必要はないが、どこか曖昧模糊とした統一や融合を好む日本人は互いの考えの違いを認め合わないのは、「和する」という文化が根底にあるからだろう。「和」を尊しとするなら、「異」は尊からずとなろう。他人を不幸にしなければ喜べない人に、平和の喜びなど分かる筈はない。人をいじめたり蹴落としたりでて喜びの快感に浸る人間は、それが不純な喜びであるという認識がない。

昔も今も人間の多様な性格は変わりようがない。彼らの情動はさまざまに識別されるが、多くは自己を把握しないで生きている。「自分を知る」のがいかに大事かであるが、自己をキチンと分析するのも知識や教養なのだろうか。「自身を知る」人が賢い人間ではと見るようになった。世間でいうところの学業成績がよいとか、有名大卒であったりとかは、人間の利口さとなんの関係もないと確信するようになった。これは多くの人間を見たからだろう。

人間は偉大になっても真に幸福にはなり得ない。そういうことも近年は実感するが、多くの人は外面だけで判断をする。が、幸福というものが、人の偉大さや地位や財産とは別のものであると、判かるに至るまでの自分は、やはり一般的な世俗人であった。宗教と幸福についても思考した。例えばキリスト教は絶対無比なものとして、"神の言葉"を掲げ、それを真理と称するが、「神の言葉=真理」と定義するのは自分には「?」である。

もしそうであるなら、聖書の中の多くの神の言葉をたくさん知っている者が、真理を得た者との摩訶不思議な現象となりはしないのか?だからかキリスト教信仰者は、受験勉強の暗記の如く、多くの神の言葉(聖書)を頭に蓄えている。これを自分なりに茶化すなら、"教科書を丸暗記した学業優秀者が、「自分は賢いのだ」といってる"と、同じことに思える。「茶化す」と遜ったのは、それを信じて聖書暗記を勤しむ人に、"悪な"の気持ちもある。

イメージ 2

人の一生懸命な行為を批判する理由はないが、自分の論理はそこに行き着く。自分はそれをしないし、信仰者を見下すなどもない。自身の論理を表明すれば当然ながら反論もある。以前、こんな風に問われたことがある。「あなたは宗教者をバカにしてませんか?」。自分は咄嗟にこう答えた。「自分如きにバカにされて失墜する宗教なんですか?あなたの信じる宗教って…。そうではないと知りつつバカにするほど愚かではありませんよ」。

誰が誰をバカにしているとか、人からバカにされたとか、お前は俺をバカにしただろう、などが飛び交うのがどうやら底の浅い人間関係のようで、最近そういうことがくだらんと考えるようになった。他人にバカにされたと気にしたり、真に受けたりせねばばいいものを、自尊心がそれを許さない。自分が他人をバカにするのも己の自尊心を満たすためにだろう。人と人が自尊心でせめぎ合い、ぶつかり合うのをネットでみながら感じたことがある。

それが、ネット内の人間関係がいかに浅いかであるということ。そんなことは以前にはなかったことだが、インターネットの普及は、たいして交流もない人間同士を戦わせることに寄与している。それが喧騒社会の実体というのがわかった。たかだかブログのコメントの内容で言い合いからケンカ腰になるケースもあり、それが基でブログを閉じた人もいる。それらを根底から思考したときに、いかにネットが知らない同士で成り立っているか。

これほどに知らない同士がまみえる社会になったということのようだ。日本がちっぽけな国とはいっても、それでも全長(最北端の択捉島から、最西端の与那国島までの直線距離)は3,264kmもある。それを瞬時につなぐのがインターネット。ばかりか、世界をつないで利用する人もいる。昔やったニフティーのパソコン通信では、西ドイツやアメリカ、北京や武漢からの論客も混じっていた(もちろん日本語の堪能な人たち)のが懐かしい記憶にある。

イメージ 1

時代はネット環境をさらに便利にした。「便利は反面、不便も生む」というのが持論だが、便利になり過ぎたことで、これまで当たり前だったことも不便と感じるようになる。慣れとは怖ろしいものであると、便利の奴隷にならぬよう気をつけている。極論すれば、「便利は人をバカにする」ともいえる。誤解なきよう説明すれば、便利の恩恵が人に物事を考えなくさせる。電車に乗って沈思黙考の時間は貴重であるが、多くの人はすぐにスマホを出していじくる。

「こういう人は考え事をしたくない人なのだろう」と思うだけで批判はない。それにしても、SNS上で言い争いをする芸能人らは目障りで仕方がない。勝手に個人でメールでやれば?と思うのだが、彼らもネット上でやる所が自己顕示欲を満喫になるのだろう。「目立ちたい=己の存在感」ということか。会ったこともない、人的交流もない同士が、たかだか意見の違いだけで、チンドン屋如きの大騒ぎは見るに耐えない、忍びない。静謐を望む者には迷惑千万!

ネットで言い合う目障りタレント ②

$
0
0

イメージ 1

人間にとって他人を非難することは簡単だ。感情のままにやればいいし、人から咎められようと無視すればいい。冷静で理性的な批判は非難とちがって難しい。非難された人を弁護するのはどうか?実はこれもやさしい。なぜなら、どちらも自分とは関係のない他人のことだからだ。横やりも無責任という点ではやさしい。だから自発的な意見をいうより横やりが無難とこちらに噛みつく。

何事も自分自身が責任者になってやれば、それに対する批判や煽りを覚悟せねばならない。自分のなかでは横やり専門だったフィフィが、主体的な発言をした途端に墓穴を掘った。あげく間違い発言をしたにもかかわらず、素直に謝らず自己正当化をしたことで、フォロワーからも批判された。人間というのは良いことをいってるときは善い人にみられがちだが、何かと土壇場になるとその人の人間性が現れる。

批判や非難や横やりとは別に素直に沸き立つ、「共感」というのはそれらと違う。「私もあなたと同じ考えですよ」という気持ちはおべっかでなく、「世の中がよくなるといいね」ということで意義あること。また、それとは別の、これまで自分が気づかずに生きてきたことに対し、新たな気づきを与えられたことへの謝意であったりもある。これらはいずれも底浅な同調主義とは別のもの。

ネット内のあちこちで批判合戦が目につく。何の足しにもならぬことを互いが批判し合う原因はツイッターにあるらしい。ネット参入者が増え、ブログやツイッターなどの発信が増えると、他人の意見に関心が向くようになる。これまで芸能人というのは、自分たちの世俗とは別社会に生きているようであったが時代は変わった。ネットに常駐し、発信する芸能人が増えたのも時代の流れであろう。

イメージ 2

人が何かをいえば喧嘩の火種になる希薄な人間関係に加え、思い付きで書く短文は感情主体になりやすい。それがツイッター。「口から出まかせ」ではないにしろ、噛みつこうと待ち構える狂犬病が如き人間の多き哉。いうのも聞くのも嫌な小言ならツイッターに関心はない。その内容をいちいち記事にするメディアの狙いは芸能人だからである。名ばかりジャーナリストたちはこぞって芸能人化している。

先の木村太郎の発言しかりである。ポピュリズムという言葉を耳にする昨今だが、明確な定義はなく、「大衆迎合主義」とでもいうのだろうか。別棚に放置された商品の善悪をはぐらかし、店員が片付けるべきなどというが、そんなことは当たり前で、店員が片付けなければ他に誰がそれをやるのか。そうではなくて、そんなことをしていいか悪いかといった発言もしないで、どこがジャーナリストであろう。

そういえば木村氏は以前こんなことをいっていたのを思い出した。「放送というのは送って放っておくことで、責任なんかとる必要なんかないんですよ」と、これが彼なりの放送の定義である。個人的な定義はともかく、放送には公共性があり、影響力を伴うのも事実である。発言に突っ込みを入れない安藤優子も問題だ。「木村さんがそうするとしても、いけないことです」とキッパリいうべきだった。

ジャーナリズムというのは権力の監視が主目的であるが、日本のジャーナリズムが芸能人化する理由は、政治家と同様に大衆の支持を得たいからである。だからか、タレントや芸能人を選挙に担ぎ出す。当選させるのは有権者だから、問題あれば次回に落とせばいいこと。芸能人が政治家にするのは選挙民だが、芸能人はジャーナリストにはなれないし、ジャーナリストの芸能人化もダメだ。

イメージ 3

「バカ」、「カス」、「ボケ」などの言葉が飛び交う社会である。身近で親しい人間関係を超えての立ち入りが、相手の素性も知らなければ日常において一緒に飯を食う間でもない。それらの影響もあってか、ぶしつけな言葉が乱舞する。「バカ」といえば「バカ」と返ってくる。相手をバカ呼ばわりして優越感に浸ろうと相手もこちらをバカと見ている。だから紅白バカ合戦となる。年末じゃあるまいに…

先に相手をバカといえば勝った気分になるのか?世の中は他人と自分で成り立つから、自分も他人から見ればバカということになる。だから性懲りもなくバカ合戦をやるのだろう。子ども時代にやった喧嘩を思い出すといい。「あんたはバカ!」、「バカというもんがバカ!」と誰もが遣り合った単純な言い合いだが、実はこれは正しい。子どもの喧嘩と見下すなかれ、いい大人が同じことをやっている。

橋下徹が水島聡をバカ呼ばわりし、それで橋下は自分はバカでないと思っているのだろうが、水島は当然橋下をバカと思っている。ただし、橋下のバカ発言を水島は黙殺する。バカとはかかわらないという大人の態度だろう。ゆrに橋下はこどもであり、チンピラヤクザの煽動家に過ぎないと、2月16日に絶縁宣言。これまでの彼への敬意・信頼を止めた。どちらもバカなのが村本大輔と高須院長。

バトルの挙句、高須は以下の卑怯な言葉で鉾を収めた。「知識はないが才能のある可哀想な芸人だと誤解して育てているつもりでした。百田先生のお話で、ウーマンが学習能力の欠如したつまらない芸人にすぎないと理解できました。彼は育ててタニマチをやろうとしている僕の意図がわからずネタにして嘲笑して生き残ろうとしているのですね。見捨てます」。これをインテリが懐に隠し持つ見下の原理。

イメージ 4

男のケンカは個対個である。百田を味方につけた時点で女々しい。だからか、「あんたと絡んできたのはスポンサーになって欲しいわけでも、学びでもなく、考えは違うけど発信する姿勢を評価してただけ。タニマチとか育てるとか、俺におこがましい口の利き方するな」。などといわれる。言葉は悪いが村本なりの筋は通っている。育てるだの、タニマチなどの言葉を口に出す高須は議論を踏み外した。

村本と高須、どちらも嫌いではないが、「村本を教育する」と息巻いた高須の結末残念である。失うものを所有するインテリの弱さと失うものなき人間の強さがくっきり。対等意識を隠して最初から村本を見下す高須は、媚びず従わず向かってくる彼に手を焼いた。相手が誰であれ臆せず立ち向かう村本を教育するなど所詮は無理。それはさて、嫌でも目に入るネット上の喧騒は外でやってくれ。

「売春」という必要悪

$
0
0

イメージ 4

すべての物事には「始まり」がある。何事においてもそれがある。初めての体験というのは誰にもある。セイコーに初体験があるようにエンコーにもそれがある。援交はまどろこしいのであえて売春とする。少女たちが、"身体を売れるもの"だと知るのは容易いことで、彼女たちが初めて身体を売った時、どういう思いが過ったかについて考えを巡らせた。分からないから聞くしかない。売春常習女子高生をみつけたが、客でないと分かるとすぐに逃げた。

彼女らにとってビジネス外の無用な話は避けたいのだろう。30年くらい前にそれ目的で会った女子高生があまりに美人で驚いた。正直、「何でこんな子が?」だったが、彼女たちは美人であるのが好条件(高く売れる)のを知っている。それがわかると「なるほど」であった。美人の役得は売春にもプラスになるのだと。「つい財布にお金を入れ忘れて…」と嘘をいって食事とカラオケに誘ったら、ビジネス外にもかかわらず、意外や喜んで了承を得た。

イメージ 6

昔も今も県内トップ10内の進学校である呉・三津田高校に通う彼女に、こうしたことを制服姿でやるのかを聞きだすのは容易でないが、自尊心を傷つけぬよう遠まわしに聞いた。大きな理由としての二点は、家庭内における両親の不和と日常生活のストレスのようだった。また、初対面の見知らぬオジさんたちがあまりに無邪気で、お金をたくさんくれることに驚いたと彼女はいった。だから、高校名を隠さず、校章付きの制服が喜ばれるのを知っていた。

「美人で有名校で制服姿」という三点セットで彼女はどれだけ稼いだことか、週に3~4回の頻度だからスゴイ金額であるのは想像できた。別れ際に彼女はこういった。「楽しかったです。最初は警察の人かなと思ったりしたけど、そうじゃないとわかって、こんなおじさんもいるのかとちょっと嬉しかったです」。彼女の言葉は意外だったが、「嬉しかった」の意味は自分なりに分かったので聞かなかった。

イメージ 3

カラオケ店で彼女は終始楽しそうだった。身体を売る汚れた女という先入観は感じられないほどに無邪気であった。おそらく…、少女の身体をいたぶり、むさぼるオヤジたちを彼女はビジネスと割り切りながらも、心の中では吹き荒む風の音を聴いていたのかも知れない。こういう男たちの喜ぶ餌を与える自分は何?だから、「こんなおじさんもいるんだ」の言葉が胸に刺さる。彼女は被害者であった。

そんな彼女は法学部を目指しているといった。今でも彼女の顔も声もくっきりと覚えている。「ごめんな。財布にお金を入れ忘れたよ、まったく…。お詫びに食事をおごるよ。何か美味しいものでも食べないか?」といった時、機嫌を損ねたかと危惧する自分に、笑顔で応えた彼女の顔は今も脳裏にある。以後彼女は同じように客をとっていたのだろう。大学の法学部にもいったろう。

そして彼女は今、50歳の少し手前である。おそらくどこかに嫁いで母親になっていることだろう。確かに美人であったし、そのことがショックで驚きの第一印象だったが、そんなことはおくびにも口にも出さずにいた。オヤジたちかはこぞって、「可愛いね」、「美人だね」、「秀才だね」、「テクが上手だね」というらしい。誉めてくれてるというではない耳障りなお世辞だったろう。

美人に美人は禁句。そんな言葉は飽き飽きな彼女たちは喜ばない。別の魅力を指摘するのが男の心得である。反対にブサイクに見え透いたお世辞も禁物。その辺を心得ていれば、多少なり「女心」の何たるかを知ることになる。女は難しいというが、難しいから楽しめる。難しい学問(哲学)や奥の深い将棋が楽しめるのも、同じ理屈である。いずれも楽しむためには深い思慮が必要だ。

イメージ 2


女を銭で買うような男は、女性を商品と見、金で身を売る女性は男を顧客とみる。「手っ取り早い、面倒もない、買うに限る」という客の論理、「ちまちま働くより手っ取り早い」という売り手の論理。売春女は単調で安易な女性の代表だ。売り手も買い手も知恵も努力もいらない。お金があればいい。「女を買う」という発想も手段もない自分は、多少なり買春男を見下している。

売る側の御利益にあやかる男を思うと、彼女らを見下すことはできない。彼女たちはそんな男たちの公共物、しがない男たちにとって必要不可欠である。先日、千葉で殺され遺棄されたあどけなさの残る大学生だが、容疑者のダサい男も金さえ出せば女の柔肌にありつける。男は堪能したが後がよくない。自分の前途を脅かされたくらいで血気にはやって殺すなど言語道断。

ブラックリストとして拡散されれば、二度と買春できなくなるという切実さが、殺人に至るのだから女に縁のない男の心情も憐れというしかない。「お金の切れ目が縁の切れ目」とは古人の言葉。昔も今もそのことは変わらないようだ。お金は万能という考えもあるが、お金で構築された人間関係はこうも浅いものかと。それでもお金によってしか関係を持てない人もいる。

ラッセルの『幸福論』の冒頭の一文は何と含蓄に溢れていることか。これはラッセルの言葉ではなく、「ぼく自身の歌」と題するウォルト・ホイットマンの詩である。「あなた自身の道を他人が歩くことはできない」と、これもホイットマンの言葉。なぜラッセルがこの詩を引用した?『幸福論』の原題は直訳すれば、『幸福の征服』で、天から与えられたものでも、不意に掴めるものでもない。

イメージ 5

イメージ 1

元妻の暴露本!その醜悪性 ① 

$
0
0
イメージ 1貴乃花親方との離婚を赤裸々に綴った元妻河野景子の著書『こころの真実 23年間のすべて』。「真実」の文字があるが、「真実」と銘打ったものに真実はないのが一般的な見方。ないものをあるがごとく強調するために、「真実」を使う。嘘を書こうが言おうが当事者以外に真実を知る者はいない以上仕方がない。

真実を書こうとするなら別に、「真実」と前置きせずとも書くことはできようが、人間は言葉を操るのが好きだ。「私は嘘はいわない」という嘘つき女がいた。自分の歴史に燦然と残る女だ。「嘘はいわない」は嘘をつくカムフラージュだと、若き自分は彼女から学んだ。悪辣セールスマンの殺し文句が、「ぼくが嘘をいう人間に見えますか?」であり、これも嘘を本当だと信じ込ませるための前置きである。

前置きナシのうそより、前置きアリが罪が重いわけでもない。人間は言葉の動物だから、嘘を嘘だと思わせないための様々な工夫が必要となり、だから嘘つきには形容詞が多い。「これからいうのが本当の真実だから聞いて欲しい」という言い方をする男がいた。彼は嘘つきなのは誰もが知っており、仲間うちでは、「せんみつ」といわれていた。「せんだみつお」の芸名の由来で、千に三つしか本当を言わないの意味。

言葉の流れの中で一瞬見逃しがちだが、注意力のある人なら違和感のある言葉。それが、「本当の真実」という言い方である。真実だから本当なわけで、本当の真実って可笑しい。彼には「嘘の真実」というものがあり、だから「本当の真実」があるのだろうが、「本当の真実」でさえ嘘が多い。何度か彼に足元をすくわれた自分は周囲に、「彼はせんみつどころかせんゼロだよ。俺は奴のいうことは100%信じない」。

ここまでなればまともに付き合う相手もいない。金銭と時間の観念のない彼は、多くの知人に迷惑をかけたが、その後の言い訳もヒドイものだった。平気で嘘をつく人間は、「病気」と断定した方がよい。よくもまあ、あんなに嘘がつけるものかと驚いたり感心してる場合じゃない。ところで河野景子という女は、自分の都合や利益のためなら何でも晒すという点で性悪女である。これが自分の人間観である。

男女の区別はない。「性悪男」という言葉がないのは、男は力で身を守り、ひ弱な女は嘘で身を守るというのが自分の考えだ。よって「性悪女」に換わる言葉として「DV男」がある。まあ、性格の悪い男がいないわけではないが、女の方が巧みなカムフラージュをするところからそういわれるのだろう。性格の悪い男にもっとも顕著なのが、「器の小ささ」で、男同士では"キンタマのない男"となる。

イメージ 2

キンタマこそが男の象徴だからだ。性格の悪い女に、"オッパイあるんか!"というのはないが、理由はわからない。性悪女と性格の悪い女とは一般的に区別されるが、「性悪女」というのは、「性分」という言葉がいうように、直らないということだろう。注意したり啓発したりで変革できるものではない、底なし沼的な意味がある。簡単につかっていいかどうかは分からぬが、性格の悪い女を短く「性悪女」といったりする。

前回、樹木希林についても述べたが、他人の秘密をばらすというのが、自分の中での最大の性悪女である。底意地の悪い女ともいうが、「底意地の悪い女」の「底」と、性悪女の「性」は同列の意味であろう。昔から女性は秘密を守れないというが、確かにそういう経験は多かった。自分がA子に「これは内緒」という。ところがA子はB子に、「あなただけにいうけど彼には内緒にね」というのが通例である。

さらにB子はC子に、周り回ってC子から自分に戻る。ありきたりな一連の流れを思考するに、他人の秘密を知り得るのは快感である。人の秘密を知る自分は、何か特別な能力とか、人から信頼関係を得ているといわんばかりの自己顕示欲と見る。他人の秘密は知りたいという人間の性分が、「隣は何をする人ぞ」の句にも現れている。男でもっとも信頼できる人間は、やはり秘密を守れる男であろう。

離婚した後に妻が婚姻関係中の夫のことを唯一知り得る立場にあるのはいうまでもないが、河野景子は性悪女であることを世間の男に公表したことになる。男と女とでは受け止め方は違うだろうが、そんなことは男の自分に関係ない。河野も都合のいい事ばかり考えているわけでもなかろうし、批判覚悟の上なら批判も妥当である。性悪女というあらぬ代名詞がつこうと、「言い訳無用!」の自己責任。

イメージ 3

中条きよしはこう批判した。「ふざけているよね。どこで離婚しようが何しようが。どこの家庭もみんなそうなんだろうから。男と女は、結婚しようが恋愛しようが同棲しようが好きなところがあって結婚したり同棲するわけだから、別れたら、別れたで、生意気言うわけじゃないけど、相手だって再婚するわけだし結婚するわけだし、家庭もあることになるわけだし、こんなことを後々、本にして書く必要性がない。

なんで書くんだって」。中条に付け加えるものはないが、貴乃花親方とて今後もある身であるのをなぜに考えない?だから河野は自分勝手な性悪女、底意地の悪い女である。彼女が縁あって親方の人生途上のある時期を独占(あえてこの言葉を)していたのは間違いないし、互いがそうである。ところが、縁も切れ切れに離婚は仕方ないにしても、親方の人生はそこで終わっていない。互いが先のある身である。

考えれば分かるからクドクド言わぬが、だから、一時が万時の如き暴露本が許されないのである。河野景子の見方は河野景子の見方であって、違う女性が妻であったなら河野とは別の見方がある。歴史家が自分の視点で歴史を論ずるのとはわけが違う。片側の一方的な視点で何かをいえば、人は傷つく。元横綱だから強靭な精神と肉体所有者ということでもない。だから河野景子は性悪女である。

「出しゃばり女の御都合主義」をもっとも嫌うのが男。自分が知り得た他人の秘密、ましてや共に人生の一時期を過ごした配偶者の秘密を晒すことの何の公益性があるのか。「隣は何をする人ぞ」は人間の業であっても、単なる思いである。それを隣はああだこうだと言ってくる人、言いたい人はいる。他人に無用な関心を抱くゲス人間は誉められたものではない。そういう人間になりたくないは自制心である。

イメージ 4



元妻の暴露本!その醜悪性 ② 

$
0
0
「悪妻は百年の不作」という。離婚後も拘わろうとする女は男にとって煩わしい。一切拘わりたくないから離婚したのだろうし、「お誉め言葉もお世辞も何もいらんから、とにかく黙って自分のことをやってくれんか?」というのが親方の正直な気持ちと推察する。終わったことを振り返ったりはない男気質からすれば、本まで出すなど思ってもないことであり遺憾ともしがたい。

離婚に際して財産分与も含め、裁判だの調停だのもめるケースもあるが、そうではなかったなら一切拘わらないでいたい自分だが、親方もそんな気持ちだろう。人間の品格というのはそのまま離婚の品格に反映する。離婚や息子の問題をしつこく追い回すメディアに対し、「家族のことですので」とコメントを避ける親方。これは外国でいう、「プライベートな問題」という拒否である。

イメージ 1

話す必要はないということだ。情報によれば手記執筆に大層な契約があったというが、そんなのは聞かずとも分かる。だから書いたのだろう。しょぼい金額でも書いたかも知れぬが、それでは理性が働こうし、河野景子もそこまでバカとも思わない。やはり、執筆を促されるほどの金額とみるのが自然である。財産分与に加えて本の執筆と、有名人の離婚は商売になる。

書く気は毛頭なかったがついお金に…というのはいやらしく聞こえるが、女が金に太刀打ちできないなら仕方あるまい。反対に出版社が貴乃花親方の手記依頼を金で口説けるか?おそらく無理だろう。我々の知る貴乃花親方という人物の見方としていうなら、金で離婚手記を書くなどあり得ない。それは市井人の多くの貴乃花親方観であり、彼の男気であると断じたい。

離婚の手記に公益性などあるはずもないが、人間というのは、「私情のため」、「銭のため」に非理性的な行動をとりがちだ。離婚した夫の悪口を吹聴しまくる元妻は自分の周辺にもいるが、会うごとにくどくどそんなことをいうなら、周囲は徐々に離れていくだろう。自分の愚痴をいうために他人を利用していると見透かされてしまうからだ。離婚問題の渦中にある女性は悩み苦しんでいるのは分かる。

浮気しまくり、金使い荒く、おまけに暴力、こんな夫に心身をボロボロにされた妻なら、愚痴の10や20は言いたくもなろうし同情すべき一面はある。聞けば同情すれども、黙っている女性の方が素敵である。なぜなら、恋人や配偶者への文句は、そのまま選んだ自分自身への文句ということにもなる。だから相手の悪口をいうより、「なぜこんな人を選んだのか」と、自身に文句をいうのがよかろう。

イメージ 2

それを反省というし、後悔ともいう。他人のせいにすれば楽かも知れぬが気休めでしかない。問題が解決するでもない。分かっていても女は愚痴で生きている。離婚はエネルギーがいると経験者はいう。人生の転換ということだから勇気もいるが、離婚を決意したら背筋を伸ばすことだ。そうすれば少しづつ問題は解決することになる。背を曲げ腰を曲げていては、なかなか解決をみない。

周囲が可哀そうに思ってくれる期間はそうそう長くはないし、「覆水盆に戻らず」のことわざ通りに前向きに決断すべきである。いつまでたってもグズグズする女性もいれば、決断できない男もいる。決断することがどれだけ怖いかは、決断しようとする人を見れば分かる。だからか、人はあれこれ理由をつけて決断を延ばそうとする。たちまち決断しなくていいことを人は決断しない。

だからこそ決断すべきと自らに言い聞かせていた。支えになったのは、「今日決断できないことは明日決断できない」という考えである。決断を促すためにこの言葉を糧に自らを追い込んだりもした。ウジウジする人間が嫌いなら、そういう人間も嫌いである。人は年齢とともに人間は保守的になるものだが、若いころの決断は速かった。堀秀彦の書籍にあった以下の言葉も自分を促すものだった。

「若いころに失敗の言葉はない」。言い換えれば、「怖れるなかれ、何でもやれ!」ってことだ。ゲーテもこんなことを述べている。「長いこと考えているものが、いつも最善を選ぶわけではない」。賢者のいろいろな名言が自分を動かす原動力になる。男運が悪く不憫な日々を過ごす女性にこんな風にいった。「自分を縛っているのは自分だよ。自分を超える勇気をあげようか?」


イメージ 3

「よかったら授けてください」。「いいよ、勇気の棒を入れてあげよう、パンツを脱ぎなさい」。「えっ!」。もちろん冗談だが、この手の会話は深刻でないのがいい。離婚決断後には細々した問題や面倒な手続きは必須だが、決断までは鈍くとも、いざ決断をした女は前を向くものだ。貴乃花親方はまだ46歳。兄とともに平成の大横綱といわれ、大相撲を女性ファンにまで拡大した。

宮沢りえとのロマンスも懐かしく、お相撲さんも芸能人を伴侶に選ぶ時代の魁だった。河野景子は8歳年上で妊娠6か月の出来婚にも世間は驚いた。関取が芸能人と逢引きする時代にはなったものの、角界の古い体質は変えられなかった。貴乃花に角界の変革を期待したファンも多かったが、根回しのない正攻法な改革手法は、力士時代の取り組みそのままで、力及ばずだった。

エッセイ「花」

$
0
0
自慢じゃないが「花オンチ」である。多少改善されたが知らない花ばかり。花には無縁なのは男の子だったこともあろうか。誰も花についての話をしない。それでも3月~4月の満開の桜、唱歌に歌われるチューリップ、田んぼに咲く蓮華や道端のたんぽぽ、遠足はいつもツツジの季節だった。それくらい知っとけば何も困らない。それほど男の子に花は無縁だっらし、花より団子に決まっている。

少女たちはしばしば花を摘んだ。彼女たちはシロツメクサの王冠や首飾りなどで身を飾り王女さまを気取っていたが、男の子には棒切れがあればよかった。剣を片手に王子さまというより、侍気取りだった。確かに花は美しい。自然が与える恵みだろう。人は花を求めるが、花は人を求めない。人は花を摘むが、花は人に摘まれたいのか?そういえばこんな歌の歌詞があった。タイトルは『花と小父さん』

イメージ 1

花は人間に関心はなかろう。花はただ無心に咲くだけで、人間のことに何の頓着もない。花たちは自らを弁明もせず宣伝もしないし、精いっぱい咲いて見せているだけだが、『花と小父さん』は花の視点で人を見る。花を擬人化し、花から人を眺めているが、花がこんな風に人に想いを寄せるなら、花はいっそうかわいく感じられる。花言葉もたくさんあるが、「瓜のつるになすびはならぬ」という言葉が好きだ。

子は親に似るものとの意味だが、反面、平凡な親から非凡な子は生まれないの意味もある。なぜバラに棘がある?虫から身を守るほどの役目もなさそう。人に摘まれたくないわけでもなさそう。バラが有名になったのは人が好んで栽培したからだ。男は女にバラを贈るが、あれは女性がバラを好むからではない。「恋人に花輪を捧げることで男は獣性を脱したように思わせるため」であるらしい。

『美女と野獣』は映画にもなったが、1740年にフランスで書かれた異類婚姻譚(人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話の総称)である。日本では『鶴の恩返し』という童謡にもなった『鶴女房』が有名である。男は野獣なのか、それとも美女は野獣が好きなのか。花を歌った曲は多く、なかでも加藤和彦の『花のように』がいい。詩は北山修になる。"花のように終わった"と繰り返えされる最後は物悲しい。

やがて散るであろう花を贈るのは妙な慣習だ。恋の終りを予感させるように感じられる。贈る男も受けとる女も満面の喜びをたたえるが、いのち短き花を手にするときは少し悲しい表情をすべきでは?これは余計なことだろう。西洋の洋装花嫁はブーケを手にするが、これが日本に広まったのは先の大戦後だという。花(ブーケ)をもつから花嫁ではない。日本の花嫁は扇子をもっていた。

イメージ 2

なのに花嫁と呼ばれたのはなぜだろう。調べてみるといくつかの語源があった。一つはその昔、結婚式に嫁を迎える際に男の家では女性が歩く為の花道を作った。その道を通って「嫁」が来ることから花嫁と呼ばれた。なんともゴージャスな伝えである。もう一つ、きらびやかで美しい様子を、「華やか」といい、「花やか」とも記述されることから、「花嫁」、「花婿」と呼ばれるようになったと伝えられている。

花束も花やかだが、心にもないお世辞を隠す代用とされる場合がある。祝賀会の花束や告別式の花輪など、すべてがそうとはいわぬが、あながちそうでないとはいえない。習慣とは不思議なもの。儀式に花を飾るのは外来文化で、仏教とキリスト教によってもたらされた。日本の土着文化である古神道は花を飾ることはない。そこにあるのは榊であり、神前には魚や野菜が供えられる。

昨今、挙式は派手な西洋式が主流。それでも神前挙式に拘る若者もいるが、神前に花束はいかにも不自然、やはり花とは無縁である。ウェディングドレスが女性には人気のようだ。純白のウィディングドレスに身を纏うは女の不純の現れか。西洋の風習とは表層飾りを大事にするが、ふと蓮の花に想いを寄せてみる。純白で清廉な蓮の花は、なんとも不潔で濁った泥沼から咲き出ている。

蓮の花の純粋性とは、泥沼の不純性への抵抗とされる。表層の飾りを重んじない東洋的精神の奥深さかも知れぬ。釈尊はあらゆる花の中で蓮をもっとも好んだという。というのは、あの純白な清潔さのためだけでなく、抵抗というそれ自体を愛したのか。花の歌は多く、人間と花は切れない関係にある。人は花をどれほど歌い、語り、賞でてきたのか。人間は花そのものになりたがっている。


人の舞踊をみて想うことは、あの執拗なまで繰り返さる輪舞というのは、己の姿を花に見立てているようだ。まさに人がそのまま花の状態である。舞踊とは人体が咲くことをあらわしているという。のっけに『花と小父さん』という曲について記したが、あの歌に漂う不思議感はやはり詩に由来する。主人公は伯父さんでも叔父さんでもない。小父さんとは、他人である年配男性を親しんでいう語句である。

この曲には知られざるエピソードがある。『涙くんさようなら』や『バラが咲いた』などのヒット曲で知られる浜口庫之助は、この曲をジャズシンガー時代の後輩植木等に書いた。『スーダラ節』の植木等がジャズシンガー?彼は歌手を目指して音楽界に飛び込んだ。が、当時の植木に抒情的でメルヘンチックなこの曲は合わない。そこで急遽同じ渡辺プロの新人歌手だった伊東きよ子に歌わせたという。

【元貴親方 離婚を決断した訳】

$
0
0
イメージ 1という見出しが目に入る。寡黙で通すかと思っていたが、「なんだ、親方も喋りたいのか?」。それとも、元妻がいろいろいったことで、喋らざるを得なくなったのか?離婚のホンネなんて、どのように回りくどく言おうとも、一緒にいたくないからに決まっている。カムフラージュするためにあれこれ尾ひれをつけていってはみるものの、何をいおうがいうまいが自分的には、はや結論はでている。

で、親方は誰に向かって言いたかったんだ?離婚の真相とやらを…。インタビュー記事でもあるのでとりあえず読んでみたが、妻(河野景子)が自由になりたかったようなのを察知して自由にさせてやりたかったというように自分は受け取ったが、彼女が自由になりたかったというのは一緒にいたくなかったということだろうし、親方が了承したのも利害の一致だろう。

どんな離婚であれ、一緒にいたくなかったというのが真相だろうし、それを隠してあれこれいうのは、体面をつくろいたいからでは?われわれが他人の離婚に至る経緯をあれこれ聞いても何のプラスにもならない。ただの野次馬根性でしかない。「一緒にいたくなくなった」とか、「一緒にいるのがつらい」などのホンネは、できることならいわず、他に変わる言葉を探すだろう。

いってもよさそうな言葉は探せばいくらでもあるから、言ってはいけない言葉をいうこともない。だから、いっていい言葉をいうために喋るんだろう。離婚というネガティブなことに体裁は必要だ。親方の話によると、離婚後はそれなりに上手く行ってそうだが、こういうケースは珍しくない。離婚した途端に以前より仲良くする元夫婦は自分の身近にもいるし、特段珍しいことでもない。

のっかていた重石が取れて吹っ切れるからだろう。愛情が覚めた夫婦が同じ屋根の下で朝から晩まで顔を突き合わしているってのは、そりゃしんどいだろう。完全空気状態ならまだしも、離婚したい何かがあるなら離れた方が楽に決まっている。とりあえず別居という形をとる夫婦もいるが、別居した後に復縁して別居前より仲良しになったケースってある?なさそうな気はする。

夫婦関係は結構シビアなもので、一旦セックスレスになるとなかなか修復できないというし、同じように別居した後に復縁するのも難しかろう。相手のいない生活がどれほど自由で気ままで楽であるかを経験するし。もし、別居した後に相手のいない不自由を身に染みて感じるなら、それは復縁もありだろうが、別居する時点で互いが互いの必要性がなくなっている。

イメージ 2

もっとも、「自分に非がある」、「自分が全面的に悪かった」などと謙虚になって反省などをすれば復縁を躊躇うことはないだろうが、別居後に互いに自由な時間を多く持てるようになれば、再び同居するのが億劫になるのは分り切ったことだ。上記のような理由で、別居が離婚を速めるというのは定説だが、同居が離婚を遅らせるというより踏ん切りがつかないのだろう。

別居したことで、種々のことや子どものことなど、連絡速度が遅くなるのは当然で、連絡するのも面倒だから一人で考え行動することになる。何かと未連夫婦なら、それこそ夫婦の意味がない。したがって、夫婦の仲が亀裂する原因として妻が夫に何の相談もなく勝手に物事を決めたりしたとき、「何で俺に相談なくやるんだ!」と夫怒るケースが多い。もちろん反対もある。

次の大きな要素は、互いの金銭感覚が変わってくる。家を出てどちらかが賃貸住宅になるなら、それをどちらが払うかでもめることもある。「お前が家を出たいのだからお前が稼いで払え」と突き放されれば離婚は加速する。まあ、別居するなら離婚前提というスタンスが妥当だろうし、煩わしい別居なんかせずにすぐに離婚という方が、精神衛生上はよいのかもしれん。

怒りと欲は人間をおかしくされるものだが、離婚のときなどにそれらが顕著に表れる。自分が知るある女性は夫の不貞に苦しみ、子どもが自立をしたかのように離婚をしたが、どん底の苦しみを体験しただけにそこから這い上がった女性は強く美しい。こういう女性は、「あの離婚があったからこそ」と、離婚を肯定している。離婚が肯定できるのも、離婚を体験したからだ。

イメージ 3

人に依存せず、自らの脚でしっかりと立ち、人生をリスタートした女性たちというのは、この経歴だけとってみても気品に溢れている。「離婚は人生の汚点」などという人もいるのだろうが、離婚というのは生活を前に向けるものであるなら、前向きに考えるべし。よい離婚ができれば、年齢にもよるが再婚も上手くいくだろう。女性は死ぬまで恋心は失わないといわれる。

「美容」というのは何も肉体に限らない。「精神の美容」というものもあってよかろう。あまり聞かない言葉だが使えないことはない。同じ苦労でも苦労を楽しむ、好奇心を失わない、感動する心を育む、何事も持続をさせる、笑顔を絶やさない、できたら定期的に性交渉を持つ(誰と?)などが、自分の考える、「精神の美容術」ではないかと。心が若ければ生きることは楽し。

結婚する悔い、しない悔い ①

$
0
0
表題について思い当たる人は少なからずいるだろう。本日は結論から書き始める。表題の真意は、人間とは「悔恨」ナシでは生きていられないということ。だから、そういう前提で人生に向き合えば悔い悩むことはない。といいたいが簡単ではない。「後悔先に立たず」というユニークな慣用句がある。なぜかといえば、物事を始める前から後悔なんかするわけがない。

へそ曲がりな自分はずっとそんな風に受け取っていた。「すでに終わったことをいかに悔めど取り返しがつかない」という意味らしい。「終わったことは後悔するな」ということ。結婚をしたことの後悔、しなかったことの後悔、どちらにも後悔があるならどうすべきか?確かな答えは、「選択」である。それなら後悔したところで、「選択したのは自分」と受け入れるしかない。

イメージ 1

物事が上手く行かなかったとき、失敗したときにどうするかは人様々であるが、若いころからポジティブ思考の自分は、こんな風に考えていた。「生きることは冒険よ、だから冒険を楽しめ楽しもう」。冒険だから時には崖から落っこちることもあろう、だから失敗しても死なない程度に冒険を楽しむ。成せば悔い、成さねば悔いなどと考える前に人生は冒険だと。

男の子、特にやんちゃ坊主は冒険を好む。結婚も冒険として考えられるはずだ。結婚の名言というのはいくつかあるが有名な、「結婚は人生の墓場」は誤訳のようで、結婚について偉人もいろいろ述べている。「結婚とは、真っ暗闇の中で、男と女が、おでことおでこを鉢合わせするようなもの」といったのは夏目漱石。彼は偉人の部類だが、凡人のhanshirouはこう思う。


「結婚とは、真っ暗闇の中で、男と女が凸と凹を嵌め合わせをするようなもの」。これには異論もある?「いまどき、真っ暗闇でそんなことしませんよ」などと。昔はそうでも今の時代にはそぐわない。我々の時代の初々しき大和なでしこたちは、「電気を消さなきゃいや」がお決まりだったが時代は変わった。「常識」も、「当たり前」も時代によって変わる。

昔人間が、「昔は〇〇が当たり前だったのに」といえば、「このおっさん、何をいっとん?」と現代人にバカにされよう。江戸時代の人間が現代にタイムスリップし、「昔は薩摩から江戸まで歩いたものだが、今の人たちはあのような鉄の塊に運ばれ、よくも平気でいれるなど、これはまさにふしだらの極致ではないか」などと、納得する以前に状況を理解できないだろう。

イメージ 2

スーパーボランティアの尾畠さんが、東京~大分までの1100kmを歩くといって驚いた人もいたが驚くことはなかった。そんなのはタダの挑戦であって、本人がしたいかしたくないかであって、できないと決めつける人が驚く。その尾畠さんが、静岡辺りで徒歩帰路を断念したときこう述べた。「人の命にはかえられんから」。一瞬、言葉の意味が分からなかった。人の命って自分の命?

言葉の真意は、彼を見つけて集まってくる群衆が道路をふさぎ、交通事故を起こす可能性をいっている。尾畠さんを批判する気は毛頭ないが、自分が始めたことであり、人だかりには口頭で強く注意を促すなども彼に課された責任である。群衆が旅の障害というのが事実であれ、自分の責任もないわけではないなら、控えたい言葉。「人の命にかえられない」は、唐突すぎる。

そこが尾畠さんと自分の違いと感じた。1100kmを歩こうと思ってみても、自分の心身の状況から途中で止めることもあるという前提でやるだろうし、途中群衆が障害になったと感じても、「人の命にかえられない」などの言葉は、いささか英雄気取りに感じる。尾畠さんにすれば配慮であり、人の考えを批判はせぬが、自分なら、「これも中止にせよとの天の声」と善意に捉える。

スーパーボランティアの尾畠さんを美しく報道するメディアが悪いとは思わぬが、それによってメディア自体がポイントをあげているのも感じられる?社会奉仕というのは、時に厳しさ求められる一面を覚悟すべきものであり、一切が自己責任の世界である。ボランティアではないにしろ、徒歩旅を止めた尾畠さんがその理由を他人のせいと口にしたのには正直驚いた。

イメージ 3

英雄には英雄の、正義には正義の論理があるように、昔人間は昔を基準に物事を考える。昔人間も現代を共に生きるのだから、昔基準を収めて、「昔はよかった」より、「昔はこうだった」と提示するのがよかろう。昔がよいといっても、昔を知らぬ今の若者には違和感もあろうし、必然的に無知を責められているような気にもなる。現代の若い人たちへの配慮を我々は忘れぬことだ。

昔人間にノスタルジアがあるのは当たり前。現代女性の貞操観念が昔にくらべて落ちたからといっても時代の流れであり、今の時代を基準に見れば昔が変ということになる。見合い結婚が廃れ、恋愛結婚が90%を超える時代であれ、お見合い形態は残っている。伊藤野枝らが、「自由恋愛」を求めたが、結婚の形態がどう変わろうと男女がともに生活するのが婚姻だ。

結婚する悔い、しない悔い ②

$
0
0

イメージ 1

「人はなぜ結婚するのか?」と聞かれたらどう答えるだろうか?聞く相手の年齢やその時の気分によって答えは変わる。まともに答えたい気分の時はこんな風にいう。「結婚は異性結合であり、人類存続のための制度。動物や虫けらであれオスとメスの交尾によって子孫を増やすが、人間の場合、重婚や近親婚などの禁止条項を設けている。人類が正しく繁栄するように…」。

まともに答えたくない気分なら、「何で結婚するかって?タダでやれるからじゃないのか?好きな相手を性的に占有できるし…」。まともじゃないといってもあながち嘘でもないが、好きな相手を性的に占有できるかは疑わしい。以下のような別の答えも浮かぶ。「人間はしたいことをするし、結婚もしたいことの一つ。結婚してあれもしたいこれもしたいがあるだろう?」。

結婚の生物学的前提は、「種族保存」であるが、「意中の相手と一緒に暮らしたい」、「結婚によって所帯を持てば社会的に認知される」、「自分の子どもが欲しい」などの社会的要素もなくはない。が、「したいからする」は間違いではなかろう。だから、「したくない」人は結婚しない。それとは別の、「したくてもできない」という人もいて、相手さえいればと簡単ではなさそうだ。

こういうタイプは厳密には、「結婚できない」ではなく、「結婚しない」。彼女たちが、「結婚できないの」というのは、周囲に選り好みが激しいと思われたくないこともある。意地悪な女にかかると、「いくらでもいるでしょう相手なんか。高望みしてる年でもないんじゃないの?」などといわれる。こんな言い方されると、「うるさいわね~、私の勝手でしょう?」と返したくもなる。

イメージ 2

男なら同じ言い方をされても、「だったら誰かいい女を探してくれんか」などと、目くじらたてたりしない。それほど女にとって相手選びは切実なのだろう。動物の虫や鳥のメスにも同じケースはあるようで、動物のメスにとってよい子孫を残すというのはプログラムされた本能行動だが、ヒトのメスの相手選びはちょいと違う。資産家がよい子孫を残すことにはならない。

そうはいっても、お金持ちなら子どもにたんまり教育費をかけられ、よい企業に就職でき、あげくよい縁談にも恵まれる。こういう一連の図式も、「よい子孫を残したい」の範疇かもしれない。それ以上に顕著なのは、イケメンを選んでよい子孫を残したいのも無意識の本能行動だろう。メスの経験はないが、というのはそういうものかもしれない。が、問題は「幸福」の定義である。

玉の輿婚が破綻するケースは少なくない。「カネとヒマのある男はロクでなし」という言葉もあるように、結婚は恋愛ではない。結婚後に起る現実をその都度受け入れねばならない。その気構えこそが結婚なのかも知れない。人間は誰でも夢を持つし、若い女性は結婚に憧れを抱くものだが、男にとって結婚は日常との意識は強いのだろう。結婚に夢を抱いたところでその通りにはならない。

結婚後にあるのは厳しい事実であり、否が応でも現実が畳みかけてくる。そもそも「思いのままにならぬのが人生」なら、結婚とて同じことだ。だからといって諦めるのではなく、よりよい方向に改善すべきことは改善すればよい。人間を不幸にする原因の一つは貧しさだけではないし、自己に対する過大な空想も不幸の原因だ。多くの若き女性はこの種の不幸を担って人生に出発する。

イメージ 3

結婚前に広大な理想を描いていた女性の一人として頭に浮かぶ西川史子。彼女の告白記事を読んで感じたのは、夢と現実に打ちひしがれた女性の哀しさであった。若くして医師免許を得、ミス日本にもなるなど天国気分の只中にあった彼女が、結婚生活のなかで地獄体験 (彼女の言葉) を味わったといい、「旦那が家を出て行った」と、レギュラー番組の放映中に泣きじゃくった。

満身創痍の様相は見るに忍びない。人には毅然とした発言をするが、自分のこととなるとまるで少女のようである。「お互いに人と暮らすのが得意じゃなかったんだと思います」と離婚理由を自ら分析した。そういうことも結婚に影響するなら、何を基準に選んだところで、結婚しなければ分からぬこともある。前回述べたようにその意味において、結婚は冒険であろう。

女性は冒険を好まない。結婚が冒険であるなど思いたくはないが、冒険的なところは否定できない。恋愛から結婚に進み、これまでとは違った男女の共同生活がスタートする。起居をともにし、働き、生活不安と戦いながら生きていくことになる。結婚1~2年後は恋愛感情も残っているが、やがては平凡な生活の日々となる。互いの人間を丸出しにするから夫婦喧嘩も絶えない。

結婚当初、「理想の相手を見つけた」と、女性はのろけ微笑む。「理想の夫」や、「理想の妻」を射止めながらも結婚後に、「理想の相手」ではなかったというのを耳にするとき、「理想の夫」や、「理想の妻」たちは、本当に自分の描く理想を持っていたのかだろうか?さらには、自分のことは棚にあげて相手にだけ、「理想的であれ」は虫が良すぎたのではなかろうか?

イメージ 4

Viewing all 1448 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>