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なぜ女が男をでなく、男が女を刺すのか ③

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記憶もないし、「女が男を刺し殺す」で検索をかけたら、「通りすがりに男性刺す。 22歳女を逮捕、広島」がヒットした。日時は2017年7月8日、事件は拙者の地元の広島市内で起こった。武永秋紀は被害男性とはまったく面識がなく、酒に酔って知人ともめていた際、気晴らしに通行中の男を刺したという。「監獄に閉じ込めておけ!このバカたれ女を。ついでに顔でも晒しとく」。

次は2016年11月11日、さいたま市で、交際相手の男性の顔を拳で殴り暴行を加えたとして、飲食店従業員の山崎桃子容疑者(22)が逮捕された。男性はその後死亡した。山崎容疑者はさいたま市北区の自宅で、同居する交際相手の男性の顔を拳で殴り死に至らしめた。警察が駆けつけたところ、男性は部屋で衣服を着たまま倒れていて、その後、死亡が確認された。

で、動機は何?「買い物から帰宅するとドアの鍵が掛かっていたので頭にきて殴った」と山崎容疑者は供述している。動機も動機だが、殴り殺すというのが凄い。この女100キロ超級か?人間の人生ってこんなくだらんことで大きく左右されるのか?正直な感想だ。犯罪は圧倒的に男が多いのは統計上明らかだが、その理由ならびに科学的根拠はどうやら遺伝子にあるらしい。

まずは男性ホルモンの代表格である、「テストステロン」。犯罪に向かう男子は、この「テストステロン」が、「働きすぎる、強すぎる、濃すぎる」のではないかとされているが、「アンドロジェン」という男性ホルモンの影響があるのではないかという説もある。男性の精巣で作られる、「アンドロジェン」は、男らしさを発現させるホルモンのひとつといわれている。

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次に、配偶子をめぐる争いという視点で、これは動物学的視点からみえてくることだ。簡単にいうと、「オスの精子が子孫を残すために、高リスクを冒し、競争に勝つための争いをする」からでは?ということ。さらには、環境やその他の要因があげられる。男は太古から、「狩をして敵と戦い家を守る」、「より多くの子を残す」これらが原始的役割とされていた。

この原始的役割が現在にも大きな影響を及ぼしているのでは?また、脳的・心理学的に、男の脳は女性と違って、周りとのコミュニケーションがうまくとりづらい。それゆえ、ドロップアウトすることが多くなり、孤立しがちで、自暴自棄になりやすい。それゆえに自殺も女性より多い。これらから男に犯罪が多いのは、争うこと、戦うことの宿命を負わされているから?

だからと女に人殺しがいないわけではない。数が少ないだけだ。確かに比率としては圧倒的に少ないが、毒婦といわれる女はいた。1人の女性の周囲で不審死が相次ぐ。数年前、そんな事件が相次いだ。逮捕された被告たちはどこにでもいる普通の女だった。「平成の毒婦」と呼ばれた3人の女は、結婚相談所や婚活サイトを舞台に男性が所有する資産を狙った筧千佐子と木嶋佳苗。

そして、いくつもの家族を巻き込んだ連続殺人事件の主犯とされる角田美代子である。この3人に共通するのは浪費癖だった。浪費がたたれば金が要るのは自明の理である。また、彼女らの殺人の手口は共通しており、いずれも自分の手を血で汚さない点にある。青酸化合物投与、練炭による一酸化炭素中毒、そして殺人教唆。こうした手口は事件が表面化せず、捜査自体も難しい。

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特に毒殺の場合、検視官が見て事故死として扱うと、遺体はすぐに火葬されてしまい証拠が残らない。しかも、東京などの大都市圏以外では、専門家でない医師による検死の場合は立件はおろか、犯罪性すら見逃されがちとなる。「毒殺は直接的な証拠がない限り極めて捕まりにくい殺害方法」と法大越智啓太教授はいうが、筧被告は、事件発覚から逮捕まで11カ月を要した。

男女関係の怖いところは、通常の判断力を狂わせてしまうこと。恋愛は相思相愛が幸せな状態であるが、一方がのめり込んでしまった場合や一方にしたたかな計算が働いた場合、筧千佐子と木嶋佳苗のようなケースになる可能性もある。まして、最初から資産目的というなら女を見初めた男の負け。知り合って間もなく何の疑念も持たず、いとも簡単に金銭を巻き上げられた。

児童虐待・バカ父のなぜ?

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児童といっても我が子である。「我子虐待」の方が正しくないか?ともかく、「百聞は一見にしかず」の習いにそって父親である栗原勇一郎の画像を見た感想をいえば、どこからみても、「よきパパ」である。真冬に冷水をかけるようなバカ親報道から、実際の画像を目にする前はどんな父親かと思ったが、あまりに父の顔は普通にみえた。この顔が我が子を虐待する父の顔なのか?

同じ思いを抱いた人はおそらく他にもいるだろう。これまで我が子を虐待する幾人かの父親の顔を見たが、多くのケースは母親の連れ子だったこともあり、そうした先入観もあってか、彼らはいかにも子どもを虐待するような顔をしていた。本当の父親でない男に対し、つれない態度の子どもの正直さに腹を立てる光景は浮かぶが、継父も所詮は継母と同じものなのかと考えさせられる。

連れ子が可愛くないのは仕方ないことかと、継父の子どもいじめに体を張って守る母もいるにはいるが、強いことが言えぬ母の思いも分からなくはない。しかし今回は実の父親による我が子虐待である。遠方であれご近所であれ、他人の家庭を見聞きするわけにはいかない。どんな風な家庭なのか、あったのかは想像するしかないが、この父親は何をそれ程怒りまくるのか情緒が疑われる。

虐待動機とは、あくまで情緒の問題と自分は考える。共同通信社による新たな報道によると、県警の取り調べに以下の供述がなされている。死亡前日の24日深夜、「娘を風呂場に連れて行ってもみ合いになっって意識や呼吸がなくなった」。父親はすぐに110番をし、到着した救急隊員が心愛さんが死亡しているのを発見した。もみあいだけで意識がなくなり、呼吸停止などあり得ない。

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司法解剖で死因を調べることになるが、咄嗟のショック死の可能性もないこともない。どちらにしても殺人罪にはならず、過失致死である。殺そうなどと思っていなくて、相手が死んだ場合は過失ということになるが、過失とはいえ、人を死に至らしめたという事実は事実である。罪の軽減はなされたとしても、真っ当な親なら我が子を手にかけたことへの悔いは計り知れないものがあろう。

「殺す意図があったか、なかったか」は、法解釈にすぎない。躾を超えた非人間行為がそこにある。虐待とは、「子ども憎し」の感情が露わになった行為であろう。そこが躾と虐待のちがうところだが、頭に血が上った親ともなると、躾と虐待の違いすらも混乱してしまうのではないか。この父親が行ったことをみても、躾というにはあまりに常軌を逸脱した行為といわざるをいえない。

父親はこれまでにも心愛さんに虐待を重ねていたことは、学校のいじめアンケート調査で判明した。そこにはなんと、「父親からいじめられている」との回答があったという。驚いた学校は即座に対応した。市側に、「虐待がある」と報告し、心愛さんは一度は児童相談所に保護されている。児相は心愛さんの対応にあたったことは認めたものの、詳細ついて詳しいことを述べてはいない。

しかし心愛さんは、今年1月7日の始業式から小学校を欠席していたという。父親は欠席理由を学校側に、「家族で沖縄に行っていて滞在する予定」、「曽祖母が体調不良のため(心愛さんが)そばにいたいと言っている」などと伝えていた。一般的にはさほどの関係が深いと見込めぬ曾祖母でもあり、本当かどうかは疑わしい。この辺り、心愛さんをとりまく一切がネガティブに見えてくる。

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虐待死という最悪な結果を前に担当した柏児童相談所の二瓶一嗣所長は、「解除はその時点では妥当な判断と思っているが、その後の対応が不足していた」と述べている。お役所仕事・お役所言葉というのは、いつもながらの自己保身が優先されて抜け目がない。「こういう結果になってみると、解除は妥当でなかった」など口が裂けてもいわないばかりか、下した判断の正当化に余念がない。

捜査関係者からの新たな報道では、「死亡当日は朝10時から休ませずに立たせた」ことも分かった。また、一昨年まで居住していた沖縄糸満市の親族から、「子どもが恫喝されている」との相談も市に寄せられていた。女児の体に残る複数のあざが胴体部分に集中していたことから、警察は父親のが虐待の発覚を恐れ、暴力を振るう箇所を選んでいた可能性も視野に入れて捜査を進めている。

「児童の権利に関する宣言」は1924年に国際連盟に採択され、1959年に拡張されたものが国際連合に採択された。さらには、人権としての「児童の権利に関する条約」が1989年に署名され、1990年9月2日に効力が発生した。この条約は、児童を「保護の対象」としてではなく、「権利の主体」としている。が、日本という国は、「子どもは神からの捧げもの」という宗教的バックボーンがない。

ゆえにか、子どもは親の所有物との意識が強い。子どもは夫婦の宝というが、宝とは何かを深く考える必要がある。自分はこう考える。「子どもがあっても、母となりすぎない妻、さらに父となりすぎない夫。つまりは、子どもをある程度無視できて、それでいて相変わらず夫婦であり得る男女」。無視は放任という自由を得る。自分の経験でいうなら、このことが真の自分を作るものとなった。

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男を立てる女のなぜ? ①

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「夫唱婦随」という言葉がある。「あった」というべきか。民主主義後、近年女性に婦随の意識は少なくなった。自分の周辺においても、「婦唱夫随」型の夫婦が多い。「夫唱婦随」は夫婦がどうあるべきかについての一つの理想形を示しているが、現代の若者夫婦の「婦唱夫随」という形態は、新しい夫婦の形であっても果たして夫婦の理想の形といえるのか。

このような疑問を呈すのも、自分が現代の若者でないこともある。結婚とは男と女の愛情の一形式といいながら、婚姻によって男女の愛情が深まることがないのは、離婚の多さを見ても分かろうというもの。それでも子どもを設け、盤石の家庭を築き上げる夫婦もいることから、婚姻を否定するものはないし、私生児を産むことを考えれば結婚には社会性がある。

一般に新婚夫婦は互いに愛情を信じあおうとの気持ちに満ちるが、次第に色あせ変化を辿るように、恋愛感情ほど激しく移ろいやすいものはない。近年は芸能人などの恋愛や結婚がしつこいほどに取り上げられるが、「一体なぜ?」という疑問は消えない。そもそも愛情の中身も変化も各人で異なる以上、各人にとっては自分というのは、「例外的存在」である。

万人に共通な、普遍的な、愛の法則などあろうはずがない。したがって、男女の愛をいくたび語ろうとも、語りつくせぬ不安定なものを所有する。しかるに他人の不倫や離婚にワイワイ・ガヤガヤ取りつく暇で淋しい現代人たち。頭から袋をかぶり、見知らぬ同士が他者批判に花を咲かせる。他人の不幸をあげつらうことで、自分が幸福であるかのごとく振舞う。

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多くの恋愛を経験したものとして感じるのは、恋愛とは発見であり、発見の喜びである。といいつつ、これらは恋愛に限ったことではない。例えば趣味の将棋にしろ、音楽鑑賞にしろ、絵画にしろ、書をたしなむものにしろ、多くの趣味一切は、「発見の喜び」が基調になっている。だから楽しく、だから熱中し、だから止められない。趣味や道楽を自分はそのように分析する。

「究極的発見の喜び」に宝探しがある。海底に眠る財宝に徳川埋蔵金などは、発見の喜びが情熱となる。異性について様々な不可思議発見とその喜び、それが恋愛というものではないか。金で買う女に発見の喜びなどない。彼女たちは男の性処理道具でしかない。もっとも彼女らから見る男は、束の間の射精に大枚出す哀れな子羊たち。だから商売として成り立つ。

「恋人はこんな下着を身につけているのか?」という発見ですら喜びとなる。売春女の下着などは邪魔な布切れでしかない。過去に一度たりとも女を買ったことがない自分は、女はあからさまな性の対象ではなく、恋愛という内面充実が勝った。自らの行動を確信的に理解することで自分という人間の本質理解に及ぶが、それでも人間は自他について永遠に分からないこと多し。

分かるということもまた、「発見の喜び」である。写真で見る美味しそうな料理は、味わうことで発見の喜びとなる。画像で見る名所旧跡も、訪ねることで発見の喜びに満たされる。これらをみても、いかに人間が知的な生き物であるかを示している。過去に付き合った女の多くは男を立てる女だった。そういう女こそが自分にとって惹かれる対象であり、愛する対象となる。

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自分のなかにある女性の観念像を弁証法的にいうなら、「女は男に従属することによって逆に男を隷属させるもの」である。男にひれ従う可愛さこそが愛の対象となるのなら、双方の幸福であり利益に寄与もする。フェミニズムやフェミニストの存在は、男にひれ従わぬ女の自己主張であり、そういう強い女に憧れる男にとっては、紛れもない女性の魅力ということになる。

男女も含めて人間関係は相対的なものである。相手の何に惹かれ、何を魅力と感じるかは個々の問題で、フェミニストを否定する理由は個人的にはなにもない。ただし彼女たちの多くはなぜか男日照りである。男は従属してくれる女性を可愛い女と労わるが、性根の強い女が男を従属されるケースが近年高まっている。気の弱い男は諦め気分で権力を禅譲するしかないという。

行方不明の女子大生は… ①

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昨年11月から行方不明だった葛飾区在住の女子大生は、日本薬科大1年菊池捺未(なつみ)さんであることが分かった。失踪当時は18歳だったという。捺未さんは栃木県の実家から大学に通うために東京・葛飾のアパートに一人暮らしだったが、失踪から約2カ月。最後に会ったとみられる男の供述で事件は急展開を見せたものの周囲の願いもむなしく遺体で見つかった。

栃木市に住む家族から届け出を受けた捜査1課が行方を追ったところ、スマホの通信記録や目撃情報から、神栖市深芝南2の無職、広瀬晃一容疑者(35)が浮上した。捺未さんが失踪直前、男性に会いに行くことや、その男性とトラブルになったことをLINEで友人に送っていたことも分かった。これらの事実関係を示す報道と、過去に自分が知る事実をもとに事件を推理する。

捺未さんと広瀬容疑者はインターネットの掲示板で出会ったというが、よくある手口として男は自分以外の画像を送りつけるなどしてイケメンに成りすます。ところが実際はあの容貌であるからしても、本来ならばニセ画像を送りつけた場合のなりすましは、当然ながら出会いは御法度となる。が、図々しいというか、人を見くびった男はそんなこともお構いなく会おうとする。

広瀬容疑者の人となりをクラスメイトなどがいうには、無口で大人しくて存在感のない男。実社会で女性を口説くもままならず、内向的な性格の男女にとって、インターネット掲示板は救いの神である。文字会話オンリーなら内気で小心男でさえ、躊躇うことなく会話もでき、疑似恋愛のような気持ちを抱くこともできる。こうした光明は、男だけに与えられた特典ではない。

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実社会で男との会話が苦手な女性はいる。警戒心の強い女性も、モテないことを苦にする女性もいる。思春期時期のそうした彼女たちにとってインターネットは、ゆるぎない出会いの場となっている。文字会話での交流は、自らの経験でいっても、すべての人間はどこか善人に見えてしまう。リアルではくだけた会話の自分だが、文字会話ではなぜか仰々しい言葉になる。

つまり、話し言葉で会話ができないという致命的な欠陥を自認するのだが、その理由は古い世代だからである。相手に電話をかけて留守電が作動した際、伝言を入れたことはかつてない。「ない」の理由は、「したくない」からで、「したくない」理由とは、「できない」が正しい。寡黙な男にして、見えない相手に会話をするがごとく伝言を伝える人間は、まさに奇蹟である。

「なぜそれができない」かをいろいろ思考したりもした。結果として出たのは、「シャイ」ということ。これこそが我々世代人の特質である。「恥の文化」の踏襲者の名残であろうとの自己分析である。見えない相手とは会話ができない、事務的な伝言を入れるくらいなら、不在として後でかけなおす。本来、電話というのはそういうものであった。して、留守電機能は便利と思わない。

長々の釈明だが、不器用で堅物な自分を改善するのは至難である。憧れはあってもそれほどに自己変革を強いる要素でもない。インターネットも見えぬ相手との会話であるなら、同じように口語体で話せない。「変えたい」気持ちはあっても、ブログの文語体文章を変えることができない。それを変えることは自分という人間を変えるということになる。だからこれでやるしかない。

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我々は背負ったものを背負い、背負いきれない物は背負わずに生きていくしかないのだろうと…、「足るを知る」を自らに言い聞かせる。「見えない相手とフランクな会話がやれたらいい」は、手の届かぬ願望である。話がそれたが、几帳面なところも特質だ。さて、ネットの出会い系犯罪に巻き込まれた捺未さんは、不幸極まりないと思ってみても、同情をしてる場合ではない。

幼少期の児童に、「知らない人について行ってはいけません」と学校や親は教え、児童はそれを守る。自己判断が未熟な彼らには命令こそが抑止となる。ところが自我が生まれた思春期に、自己で考え、判断し、行動しようとするのは悪いことではない。では、今回のような不幸の要因は何なのか?相手が悪いのか?それとも出会いを容易にするネットが悪いのか?

自身のこととして考える場合、つまり、自己責任の名において考えるなら、一切は自分の責任である。ネットが悪いといういわれはないし、世の中に悪人が存在するのも、高校生にもなれば周知の事実。「人を見たら泥棒と思え」と慣用句が教える。したがって自己責任とは、誰にも、何処にも、言って行くところのない責任であるが、言って行くところが絶対にないのではない。

警察はそのためにある。が、遅きに失すという場合や状況にあっては、「言って行くところなどない」と同じことだ。助けを求めたいが誰もいないし、逃げ出せない境遇であるなら、そういうところに身を置いたこと自体、自己責任である。果たして人はそこまでの危機管理ができるのか?「できない!」。だから犯罪に巻き込まれる。それを踏まえたうえで、犯罪を防ぐ手立てとは…?

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行方不明の女子大生は… ②

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だから自己責任。すべて一切を自己責任とするしかない。天国ばかりを夢見るでなく、地獄を見るかも知れないとの想像力や、覚悟も含めた行動を自らに言い聞かせるしかない。親切や優しさを相手がどのように受け止めようと、利用しようと、発する側の責任ということだ。相手への親切や優しさが自分の意図に反することになろうとも、一切の責任は自らが負う。

このことを高校時代に坂口安吾から学んだ。ここに幾度も書いたことだがあえて言うなら、赤頭巾ちゃんがどれほどお婆さんに親切にしてみても、結局は狼が化けたお婆さんに食い殺されてしまう。西洋の童話というのは、表層以上に深層が込められている。世の中、男にも女にも狼が化けたかのようなのがいるし、社会という見えない世界とはそんな風である。

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オオカミ相手に対するいかなる親切も優しさも、相手に好都合と利用されたりもする。だから騙され、だから食われ、だから殺される。無慈悲な仕打ちを、「自分は悪くない。相手が悪い」などと言ってみたところでどうなるでもない。「情けは人のためならず」という言葉は西洋にはない、日本人の義理・人情を象徴する言葉だが、これは性善説に殉じている。

「相手に情けをかけると、必ず自分に返ってくる」。半分正しいが、半分は間違っている。そういう期待のもとに情けをかけるなら、見返りがない場合慣用句にに文句をいうのか?良い教えは悪い教えでもある。すべては自身が切り開くもの。だから安吾のいうように、「善を施す場合、その代償として殺されても文句を言わぬ気持ちでやれ!」というのが正解となる。

都合のいい事ばかり考えるのは自らも甘さである。最悪の事態も考慮に入れ、それでも相手に善意を施したいのなら、殺されても文句はいわないという覚悟をもってやる。起こったことは相手が起こしたことも含めて、一切が自分の責任とする。「ウチは悪くないのに相手が悪い」と、少女ならともかく、こんなことをいい大人がいってみても仕方がないのよ。親からの虐待は子どもの責任ではない。

子どもは親からの庇護のもとで生活するという権利が保障されている。ところが、成人になっても親から精神的苦痛を受けるというなら、家を出る選択をすべきだ。成人という親の庇護下にない状況にありながら、親元に留まるのも自己責任。自立をすべき時に自立をしない、それすらも自己責任。同じことは夫婦にもいえる。DV夫は直らない。我慢の継続より即刻別れるのが良策。

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しかし、それでも一緒にいることの旨味があるならら、それは自己責任の範疇である。負わなければ済むことを解決も解消もせず、DV夫の場に留まっって不満を言い続けるのも自ら選んだ生活である。そういう人はいろいろな都合を自分に言い聞かせて離婚をしない妻もいるが、マイナスだけの苦しい日常なら人は行動する。しない人にはプラスとマイナスの相殺がある。それも自己責任である。

奴隷でない限り人間は自らの意志で行動するが、そうできる状況にある以上、現状況は自己責任とみなされる。自分で選んでおきながら自分に文句を言わず、他人の責任にするのは一人で相撲を取っているようなもの。愚痴を女の友というが、男の自己責任主義からすれば、愚痴は最大の恥となる。それでも愚痴を牛のよだれの如くダラダラいう男は、女よりも腐った男というしかない。

「女の腐ったような男」という言い方は女性差別的臭いがあるが、そういう時代に生まれた言葉が今も使われるということで、女は腐っているというではない。男に騙されて殺された若い女性に、「自己責任」を吹っ掛けるのは可哀そうという人もいようが、同じ人間でも自己責任を厳しく躾けられた欧米社会から見れば、見知らぬ人とは公共の場で会うよう親に躾けられる。

報道によると金銭トラブルがあったようだが、ネット交流の相手が近しい関係のような錯覚を抱くとしても、見ず知らずの相手との金銭貸借は絶対に避けるのが鉄則だ。理由は、近しい関係と認識しても距離は遠く、返済をされなかったら相手の居住地まで出向かなければならない。今回はそうであった可能性もある。職場の同僚という関係ならともかく、それでも金銭貸借は罪を作る。

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人間関係を絶縁すべき理由の第一に金銭要求がある。要求とは、「貸せ」も含む。そもそも10歳以上も離れた人間が年下でそれも学生に、「金を貸せ」と要求された時点で関係を切るべきである。これは法則として頭に入れておくといい。むやみに人に金銭要求する人間のどこが非常識でないのか?ネットの出会い如き相手なら、要求時点でまともでないと縁切りをすべし。

自分の財産を脅かす要求に人間性などない。これは自分の他人の見方の基本である。なぜなら、そういう人間はルーズで非常識であるのは経験則でもある。これは金銭貸借に限ったことではない。飲食付き合いにおいても人間性が現れる。自分で食ったものは自分で支払うのが人間関係の基本であって、他人の財布を宛てにする人間は心の卑しさの表出と自分には映る。

お金を貸すのは相手のためにならぬばかりか、自分が自分に罪を作ることになる。貸す時は多少なりいい気分になるかも知れぬが、返済を履行しない相手に対し、気をもんだりするという罪が自分に生じる。何でこんな気分にならねばならぬのか?それ程のバカをしたと自らを強く戒め、責めた方がいい。それからはたとえ明日地球が消滅しても、人にはカネを貸さぬ人間になる。

行方不明の女子大生は… ③

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あまりに当たり前だからか…、つい見落とされがちなことを改めて考えてみる。18年間生きてきて、憧れの女子大生になって、19歳にもなって束の間、見知らぬ男にこれまでの人生も、これからの人生も、すべて奪われてしまった彼女。こんなことがあっていいのか?人の命を簡単に奪ってしまうような、そんな男のところへ、何の用があったにせよ、出掛けて行った彼女である。

画像から受けた印象は、純粋で真面目女性との先入観だが、新たな報道によると二人の出会いは海外サーバー経由のインターネット掲示板という。海外サーバーは取り締まりを逃れる目的で、FC2などの過激なエロチャットサイトが知られている。彼氏持ちであれ、出会い系につかるチャラ女は現代の風潮だが、初対面での金銭トラブルとなると、援交やパパ活の線も浮上する。

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援交、パパ活、どちらも売春スラングだが、誰がつけたのかパパ活とは、単に援交を言い換えたに過ぎない。菊池捺未さん死体遺棄事件の背景が、まさかパパ活がらみとは予想だにしなかったが、海外サーバー経由の出会い系となるとその可能性は否定できない。殺人事件の被害者ということで遺族への配慮もあってか、メディアは控えめに報じているようだ。

広瀬容疑者の「(菊池さんに)あなたのことを拡散しますと言われ、携帯(電話)を取ろうと思ったら騒がれた」という新たな供述を聞いて驚いた。「拡散」が意味するものとは、おそらくと前置きをしていえば、パパ活サイトに登録していた広瀬容疑者を、ブラックリストとして拡散するという意味であろう。これが本当であるなら、捺未さんがやっていたこととは…

カネ払いが悪いとか異常プレー要求とか、「危険男ですよ~。この男に注意して!」と画像入りで知らせ合う、これが拡散であるなら、これをされると致命的となる。パパ活女子がそのように情報を共有し合うのも金銭トラブルが後を絶たないからだ。現時点で菊池さんがパパ活女子大生との断言はできないが、二人の軌跡を辿ると不可解な点は多かった。

 
 ・菊池さんと広瀬晃一容疑者とは初対面
 ・菊池さんには彼氏がいた
 ・わざわざ2~3時間かけて相手の場所(茨城県神栖市)まで行っている
 ・移動にはタクシーを利用
 ・会ってからの移動は目隠しを着用
 ・アパートで会った後、広瀬容疑者はコンビニでお金をおろす
 ・「お金がなくて帰れない」と泣いていた
 ・近隣住民にアパートの場所を尋ねる
 ・友人にラインで「男性と会いに行く」と告げている
 ・(金銭トラブルを)警察等へは通報していない
 
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彼女は「お金がなくて帰れない」といいながら、警察に行かないのは行けない事情があったと見る。当初自分はレイプ未遂からの殺人と思っていた。ネットで出会ってレイプされた話はいろいろネット内で聞いて知っていた。菊池さんが激しく抵抗したあげく、「警察にいうから…」といったところ、前科もちの広瀬容疑者が逆上したと推理したが、確定ではないにしろこの展開は想像外である。

そんなに裕福なお嬢様でもなさそうだし、会ったことない人に金を貸すこともない。援交ならあの風貌男が現れても、どうということはない。最初にコンビニ前に迎えに行き、目隠しして自室に連れ込んでヤッた。帰る際にコンビニで金を降ろして払うからとか言ったが、払わず置き去りにして逃げた。自宅まで目隠しした意図は自宅を知られないようにするため。

置き去りにされた彼女は途方にくれたが、援交では警察に行けない。それでも泣き寝入りは悔しいからと、自力で男のアパートを探し出して談判したがヤッタ者勝ち。怒った彼女が、「あなたのこと拡散するからね!」と脅し、逆ギレされて殺された。この筋書きなら彼女の不可解な行動を含めた多くの謎が解ける。それにしても本当に援交か?女はワカランよ。

レイプ未遂なら同情もするが、パパ活は自業自得。レイプ事件で印象に残るは平成23年、「岡山元同僚女性バラバラ殺人事件」がある。加害者の住田紘一に言葉巧みに呼び出された同僚で派遣社員の加藤みささんは、敷地内にある倉庫で強姦された。その際加藤さんは、「誰にも言わないから命だけは助けて」と哀願するも、ナイフで10回以上刺されて殺害された。

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住田は彼女の現金2万4千円を奪い、車で遺体を大阪市内の自宅近くのガレージに運んでバラバラに切断、近くのゴミ捨て場や河川に遺棄した。社内では加藤さんが勤務中に突如行方不明となり大騒ぎだった。事件から6年後の平成29年、住田は死刑執行されたが、クソ男の速い死刑執行も加藤さんにとって何の関係もない。が、我々はどこか癒された気持ちだった。

「虐待は受けた者にしか分からない」とあったがレイプも同じ。屈辱に耐えた女性を無慈悲に殺し、バラバラにして廃棄するも人間の行為である。人間の善と悪の幅はどこまであるのか理解に苦しむ。捺未さん家族の苦しみはいかばかりか。と、同時に親の知らぬ娘の実体を知ることにもなった。女子高生も女子大生も危険と隣り合わせの行為を楽しんでいる。

社会教育力の一員ながら我々は無力だ。それでも危険な少女たちを諫めたく、願いを込めてブログを書く。少女の被害事例は哀れで話を聞けば胸が痛む。しかし、話を聞けたのは幸い彼女たちが生きていたからだ。出会い系にたむろする男にまともなのがいるのだろうか?援交やパパ活はともかく、王子さまを探す少女にいいたいのは、出会い系に王子さまなどいない。

危険地帯に足を踏み入れる少女ばかりではないが、被害にあって初めて男の醜さを知るのだろう。が、よくよく考えてみるに、ネットという危険地帯で出会いを求めなければ手段は巡ってこないのか?大地に根を張り自ら動くこともなく、風に揺れ、雨に打たれながらじっと蝶を待つ野バラのイメージは昨今の女性にない。少女たちの危険体験を以下に記す。

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クソ男の餌食になるバカ女

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「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」という。同類の者のすることは、同じ仲間なら容易に推測ができることの例え。また、その道の専門家は、その道をよく知っているということの例えとしていわれる。同じ「蛇」という漢字でも読み方が異なるのは理由がある。「蛇(じゃ)」は大蛇、「蛇(へび)は小蛇を指し、大蛇が通る道は、同じ類の小蛇や他の種類の蛇なら容易に分かるという説に由来する。

『仁義なき戦い・頂上作戦』では、2代目天政会会長の武田明がこれをいう。ヤクザがいうなら似合いもするが、世の中はどこまで腐っていくのかと憂える事件があった。まさに『蛇の道は蛇』、どうしてここれほどにあくどいことを思いつくのか。今回の犯罪を一言でいうと、「京都の有名大の男子学生が、女子学生をターゲットに、恋愛感情を抱くよう仕向け多額のツケを負わせる-」となる。

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これでは具体的な内容は分からないので説明するが、先ずは逮捕された京都市下京区のバー経営、岸井謙典容疑者(24)と、同志社大や京都産業大など有名大の学生ら20~25歳の男6人だが、メンバーの総数は20人程度いた。男たちの狙いは女子学生を借金漬けにし、風俗業で働かせることで、その手口はこうだ。メンバーが京都駅や四条河原町などの繁華街、大学キャンパス周辺で女性に声をかける。

連絡先を交換し、その後、食事に誘って交際関係であるように思わせ、岸井容疑者が経営する京都・祇園の会員制バーへと誘い込む。バーの店内ではメンバー同士が結託し、女性にこんな風にたらし込む。「君はいい男を選んだけれど、この男と付き合うには金が要るよ」などと話し、店に複数回通わせるように仕向ける。そこでは酒類などをツケで提供することで、女性に多額の借金をさせる。

そのうえで借金返済の代わりや、男たちとの恋愛関係を維持するためとして、女性を働かせるための性風俗店を紹介していたというのだ。紹介先の性風俗店は京都や大阪、滋賀で計39店に及んでいたという。「若い男の子が客らしき女性を連れて出入りする姿を見た。一緒にいた女性は派手めではなく、ごく普通の感じでした」。と、バーが入居するビル近くの飲食店で働く女性(30)は振り返る。

被害女性らが紹介先の性風俗店で得た収入のうち15%程度がグループにバックされるなど、怖ろしく仕組まれた構図だ。グループは延べ262人の女性を性風俗店に紹介して働かせ、29年6月からの約1年3カ月で約7300万円もの利益を得ていた。府警はまだまだ被害はあるとみている。女性たちは、グループに現金がバックされていることも、自分たちが罠にはまったことすら知らない。

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なぜこんなことに?女性はもう少しクレバーになれよ。「この男と付き合うには金が要るよ」などの言葉をなんで承知する?こうした不幸を同性女性は、「(彼女たちの)気持ちは分かる」となるのか?思慮ない行為に同調するより辛辣な批判をすべし。バーのツケがたまる前に気づけば、262人もの女性が風俗店勤務を強いられることもない。本当にバカげている。

あまりの数が多さに、女性特有の欠陥が見える。そうした欠陥を正さない限り、こうした悪の歯牙にかかる女性はなくならない。しかと自分のなかの女性的弱点を認め、被害原因にもしかと向き合い身を守れと。女性にはもっともっと賢くあって欲しいが、女性は自身の今の境遇を、「何かオカシイ」、「どこかが変だ」と思いながらも肯定するところがある。

周囲の誰の目からみても男に金ズルに利用されていながら、注意を聞こうとしない女性は多い。トドのつまりは、「私の彼氏だからほっといてよ。あなたに関係ないでしょ!」となる。女を財布代わりにする彼氏を疑わないのか、疑えないのか、疑いたくないのか、最終的に利用価値がなくなって男が去って行っても、自分が被害にあったと思わない女性もいる。

彼女たちを支えるものは何かと分析するに、女は今の時間、今の楽しさ、今の幸せをそれでよしとし、それが変わることを極度に恐れるところがある。今とは過去と将来をつなぐもの、ゆえに今は将来の礎となる。幸せな将来を見据え、望むのであるなら、今がどうであるかをしっかり見つめ直さなければならない。が、それができない、それをしない女性は少なくない。

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「今は幸せだからいいの」。こんな言葉をどれほど聞いたか。女性を風俗に売り渡すあくどいやり方の一切を女性が知ったときに、どれだけ自分の至らなさ、バカさに気づくのか。こういう場合に男は、我が身を切り刻むほどに反省し、後悔する。だから成長する。同じ過ちを幾度と繰り返す女性が多いのは自己に甘いのか?反省はするけれど、自身を理性で処置できない。

同じ過ちを繰り返すのはバカである。それが嫌ならもっと自分に厳しくあらねばならない。美味い話、出来た話には必ず裏があるもので、通販などで女性はオマケを喜ぶところがある。決して安くはないのに、オマケに心を動かされる。後で損であったことが判明しても、「自分が選んだから、ま、いっか」と、あまり反省しないのは、自己否定をしたくないのだろう。

今回のバカ男の見え透いた謀略になど引っかかるべきでないが、今回のグループ犯罪は効率的に女性斡旋するため数種のマニュアルを作成していた。「会ってから3日以内に電話をする」、「オーバーリアクションで話す」など、女性を引きつけるためのコツが記載されていた。バーでの働き方では、「灰皿をこまめに変える」など、細かな点まで記載されていたという。

さらにマニュアルには、女性の容姿や性格、勤務できる日数によってソープランドやデリバリーヘルスなど、どの種類の風俗店を紹介するかを決めるための想定問答集もあったという。借金を負った女性が性風俗店で働かされるケースは全国でもみられるが、今回狙われたのは女子学生たちだ。社会に出た彼女たちは、社会の闇に身を汚さぬためのワイズをどう育むか。

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捜査関係者は、「1人暮らしの学生なら親の反対もなし、時間的余裕もある。そこが狙われた?」と指摘する。ならば、「1人暮らしの学生で親の反対に遭わずとも、時間的余裕があろうとも、こんな被害にあわぬためにどうするか」考えるしかない。お金欲しさのため女子学生を食いものにし、彼女らの将来をも台無しにするクソ男から身を守るには、利口になるしかない。

男を立てる女のなぜ? ②

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1830年のフランスで生まれたフェミニズムは日本においてはウーマン・リブ運動として始まった。欧米女性の女性解放の概念は、「結婚は男が女を性的に独占することによる自己満足」と定義した性の解放であるが、日本の女性運動家はそこまで露骨なことは恥さらしとして自制する。日本のフェミニズムの旗手とされる上野千鶴子、田嶋陽子らが、「女性にSEXの自由を」などという度胸はない。

小倉千加子は最初の著書『セックス神話解体新書』(1988年)において、「男女間のセックス自体が男性による女性支配である」という主張を行なっている。また、男女の婚姻に強く反対し、結婚制度だけではなく事実婚にも反対している。少子化の元凶ともいえる発言だが、こういう困り者の人間どもはどこかの農場に寄せ集めて、集団で農作業でもやってもらった方がいいだろう。

個々の発言は自由でも国家形態に支障をきたしかねないネガティブ発言に比べ、同じフェミニストとはいえ性を讃歌する与謝野晶子や伊藤野枝らはいかにも人間的だ。上野や田嶋らは学者としての喰い口を得るためか、過激な性発言をやらない。与謝野晶子の大胆表現は誰もが知るが、大胆なのは表現であって、当時の男女のSEXが控えめであったというわけではない。

晶子が性器にバナナを突っ込んで夫に食べさせた話はあまりに有名だが、これには後日談がある。「ある学者から、『これまでに、何か特異な性体験などなさいましたか?』と問われた与謝野鉄幹は、『バナナを晶子の膣に挿入して、翌日取り出して食べましたよ』と得意満面話したところ、「鉄幹先生、その程度のことだったら誰でもやっておりますよ」と戒められたという。

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男日照りで干からびた女性フェミニストたちは、実は人一倍デリケートな側面を持っている。だから文句を言う事で自分を守ろうとの倒錯心理。フェミニズムの流れというより単に男の弱体なのか、「カカァ殿下は家庭円満の秘訣」という言葉を聞くことがあるが、これを発するのは決まって男。「家庭円満」の論理が明快というではないが、いいたい気持ちは分からなくもない。

1970年代の前半、ピンクのヘルメットとピル解禁を引っ提げた榎美佐子らが企業に押しかけ怖れられたが、日本にウーマン・リブ思想が根付かなかった理由はハッキリしている。女性たちの多くは、過激なウーマン・リブ思想に反感を抱いたのは、彼女たちのぬくもりのある世界を壊さる可能性に危機感を抱いたからだ。多くの女性は、「私たちは可愛い女」と男にすり寄った。

女性たちは、"可愛い女"として男に愛され、母親という資格を得、さらには母親という確かさの中に安住の生活を望んだ。あらゆる困難や危険に立ち向かう冒険や戦いをするより、現実選択をしたのは明晰であった。戦後、男が弱体した原因の一つに給与振込制があるという社会学者の分析があるが、確かに月給袋を渡される時の夫への感謝の情は癒えたかも知れない。

が、複合的な理由として、子を自分のものと独占し、さらには家計の金銭管理一切を妻が取り仕切ることになれば、必然的に妻の力が強くなる。教育と財務を握れば家庭を掌握したのも同然であろう。それに追い打ちをかける男女平等思想が、強いものをより強く、弱いものはさらに弱くなる。本来の平等思想というのは、強気をくじき弱気に手を差し伸べることにある筈だった。

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したがって、平等の思想は戦後教育の中で最も間違ったものとの指摘もある。これは日教組運動の根幹として政治利用されたように、現実に機能したのは、「弱いものの敵」、「強いものの味方」、「真面目なものの敵」、「図々しいものの味方」という側面であった。つまるところ、平等の思想が現実に機能するときは、不平等でしかないというそのことが根本から欠落していた。

一例をあげると、お金持ちのドラ息子と、真面目な日雇い労務者が人間として同じ主張を許されるのだろうか?子どもは自分一人のものと主張する妻と、子育て方針に口を出すことができない夫が、どうして対等の権利を持ち得ているのか。そうした現実から不平等であるものに平等の権利を与えることは、不平等をさらに押し広げる。今の日本は家庭から崩壊してしまっている。

男を立てる女のなぜ? ③

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男である自分は、母と娘の関係の理解はできない。娘が母親をどのように捉えて成長するのかという実体験もなければ、実の娘が母親をトラウマにするようなこともなかったし、「鬼母」本を書くような人の心情は表面的な理解でしかない。ただいえることは、もし自分が自分の意志を封じ込めて、母親に反抗しない順応な人間を演じていたら、同じような苦悩を持ったまま成人になったであろう。

「親は勝手だ!」という声は子どもにとっての共通語である。大概の子どもはそのように感じている。では、親の勝手は子どもにとって許されることなのか?許すに値すべきものなのか?それは個々の判断であろう。自分は許せなかった。「よくもまあ、勝手なことを言ったりしたりするものか、このクソババは」と素直に感じた。子どもというのはそれほどに素直なものである。

今でこそ物事の真実も道理も分かることになるが、子どもというのは、感じることはあっても論理としての理解は行き届かない。「そもそも人はみな自分の勝手な都合で生きている。勝手でありながらも人間はそうしたなかで、親や兄弟・姉妹と関係を営み、友人や恋人と関係を営み、配偶者と関係を営み、職場の上司や同僚と関係を営もうとする。だから問題が起きる。

ここのところが要点である。なぜ、問題が発生し、それについて人が苦悩するかという根本原因がここにある。人が自分以外の人間の身勝手な都合を、自身が解釈できるか? 受け止められるか?ということに解決の糸口があるということだ。人が親に苦悩するのは親だと思うからである。妻が夫に苦悩するのは、夫だと思うからである。子どもに苦悩するのは、子どもと思うからである。

こんなことは、悩み相談の解答を待つまでもない。回答者のほとんどは、「親を捨てなさい」、「(修復が不可能であるなら(離婚を前提に考えなさい」、「息子にしがらむのを止めなさい」と答えている。つまり、受け入れられるか受け入れられないかであって、受け止められないと思ったら、関係を断てばいい。そうすることで問題はたちどころに消滅するだろう。

自分は誰から教わったわけではないが、関係続行が無理と判断すれば即座に関係を断つ。だから、悩む事はない。友人であれ、恋人であれ、配偶者であれ、師であれ親であれ、「これはちょっとどうかしてる」という人間は即座に切る。悩む人間はこれができないからだと思っている。悩み相談で回答者に同じことを言われてもできない。だからいつまでもウジウジ…

なぜ人は親や兄弟、身内との関係を断つことができないのだろう。こんな簡単なことはないと思ってしまう。若貴兄弟を世間はあれこれいうが、世間は関係ない。二人にとってのベストの選択である。関係が壊れるのを気に病むより、むしろ関係が壊れた方が良いケースはいくらでもある。人が本当に知るべきことは、「人と人は完全にはわかり合えない」ということだ。

親子においても旧憲法下に存在した「勘当」というのは消滅したが、バカ息子に対して実質的な勘当といえる絶縁状態の親子はいくらでも存在する。身内・肉親とはいえ、無用な交流の必要はない。身内以外の他人とよい人間関係を保てたりする。血縁やつながりに拘る必要はない、人と人は正しい人間関係を構築していけばいい。物を捨てるように、思いも捨てればいいのだ。

青年期を過ぎて「毒親」と感じるのは遅きに失すが、意趣返しの意味もあろう。親の強権に反抗せず支配された子どもは、「親には天国。子どもは地獄」という親子関係であるが、親にすれば子どもにとっても天国であると信じている。こうした状況のなかから躁鬱病患者がでてくるのだろうか。男を立てる女は、おそらくこのような傲慢な母親環境になかったのかもしれない。

抑圧経験がないから相手に従うことに抵抗感がないのだろう。例えばこんな風である。ショートケーキを二個戴いたとする。「どっち食べたい?」と聞くと、「あなたが先に選んだ後でいい」などという。家を出る際も、どこの店に入る時も、自分の方から先に、ということがない。こういうことが、自然と身についているのを感じさせられる。何かにつけて男に譲る女である。

「なんでだろう?」と思うほどにそういう立ち振る舞いをする彼女が、親から躾けられたということは考えられない。特段聞くようなことでもないから聞きもしないが、女はそういうものであるという認識という風に感じているのかも知れない。自宅で母親のそういう姿から身についたのかもしれないが、あくまで想像である。そうかと思えば、真逆なタイプの女もいる。

何でもカンでもわれ先にでなければ気が済まないばかりか、男に対して一切のことを干渉もする。そういう女は自分の意のままになる男を選ぶだろうし、さもなくば年がら年中言い合いが絶えないだろう。その手の夫婦を身近に知るが、「何で女のいいなりになるのか?」と聞けば、「でなければ喧嘩になる」とお決まりの答えである。「喧嘩くらいせーよ!」と思うが、これが現代のヘタレ男。

学を捨て金策奔走大学生の顛末

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女性が我が身をなぜ金で売り渡すのか男には分からないが、同性女性には理解できるのだろうか?20代のある女性に聞いてみたら、「お金が欲しいからじゃないですか?」という。商売としての売春ならすべての女性はお金のためということになろう。近年売春をする女子大生が増えたというが、家計的に無理をして大学に行くこともあってか仕送りも少ないという。

親世帯の収入が下落したにもかかわらず学費は高騰している現状では、"女子大生は売春をせざるを得ない境遇"にあると、ノンフィクションライター中村淳彦氏はいう。彼女たちは学生生活を送るためのお金が足りない。20年前の大学生が消費できる金額は月に2500円程度だったが、昨今は900円を切る迄にまで落ち込んだ。バイトも効率のよい風俗を選ぶ女子大生もいる。

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さらに節度のない子は売春へと向かう。1時間そこらで数万も稼げるなら、時給1000円のバイトがいかにバカげているかの感覚に陥る。時給1000円は決してバカげた金額ではないが、風俗やバイトの金額と比較すると規準ラインが上がってしまう。こんな風にいう人がいた。「男の堕落に比べて女子の堕落は底なし沼。女子のモラル教育はやりすぎくらいで丁度よい」。

堕落とは安易に体を売ることもだが、男にそんな仕事はない。売春という接客業がどれだけ嫌なものかは想像つくが、最初は抵抗があっても、お金のためだと我慢をすれば慣れるらしい。慣れというのは人間の尊厳をも麻痺させる。人間の尊厳とは何か?お金で自分の魂を売らない、お金で左右されないことを自らに言い聞かせている。分かりやすくいうと、「欲の戒め」である。

お金が嫌いな人などいないし、だから人はお金で利害が左右される。政治家や官僚・役人など、人から頼みごとをされる立場にあると、「袖の下(賄賂)」などに染まりやすく、そうなってしまうことで公務の廉潔が機能しない。それでもカネに卑しい政治家は後を絶たない。人間社会にお金がオールマイティとなれば、世の中卑しい人間ばかり、誰もが自分さえよければとなる。

「お金の奴隷になる」というのは、人間としてもっとも恥とする言葉。だから、「俺はお金では動かんぞ!」という言葉は、なんとカッコイイ響きであろうか。そんな人間でありたいし、だからそうあるべき日常を心がけている。小さな心がけにの類は様々あるが、他人のお金で飲食をしないということも、自らに徹底させている。したがって、それに属するあからさまな人間は批判の対象だ。

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自分の飲食代は自身が支払うは最低限のマナーであり、自尊心でもある。他人批判はさらなる自覚を高めることにもなる。現在は欲しくて買いたいものもなく、日々の生活の中でお金に左右されることはないし、欲を抑えるのは難しくはない。しかし、お金を必要とする若き時代、さすがにお金は欲しかった。それでも他人からの歓待は拒否をした。自分で支払うからこそ食事は美味しく感じるもの。

世界旅行も宇宙旅行も興味がないし、趣味のウォーキングも将棋も、まったくお金がかからない。近年の大学生、特に女子大生はお金が要るのだろう。そこの点は同情するが、かといって自身の尊厳を貶めるような安易な収入に、学生らしさは微塵も感じられない。ただ、自分の今の年齢や境遇で、彼女たちの売春を批判する気は毛頭ないが、「人間の尊厳」については老若も男女もない。

携帯やスマホなどの身近な生活用品お類を見ても、現代社会はお金なくして生きて行けなくなっている。無理して大学に行けど、貧困生活を強いられるのは気の毒だ。だからといって、学生には学生らしい生き方があり、学生らしい収入の得方もあろう。身を売ってまで高収入にありつきたいと望む最大の要因は、「自分は学生なのだ!」という意識の無さに他ならない。

大学生といえ、一見すれば一般社会人と何も変わらぬ大人風情である。が、学生にとって何より重要な生活は、「稼ぐ」ためではなかろうし、そこが社会人との大きな違いだ。したがって、大学生が、「稼ぎ」を主体にした時点で、もはや学生の資格を失っている。こういう時代になったのも、単位だけ取って、「歴」としての大学という存在が、「大学=学問の場」を死語にした。

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先日、京都市内の男子大学生が飲み屋や風俗店と結託、女子学生を手籠めにする事件もあった。これらも、女子学生が売春に染まるなども、大学が学問の場でなくなったことも一因か。殺害後に死体遺棄された菊池捺未さんは母子家庭であったが、それでも、「薬剤師になって親孝行をしたい」などと綴っていた。大学進学の口実として心ない言葉で親を説得する高校生もいる。

薬学部とはいえ、彼女の通うキャンパスに薬剤師コースはなく、マスコミの捏造である。偏差値も30代なら実際は専門学校程度で、ドラッグストアの薬剤販売員にはなれよう。それでも単位習得に苦労をしていたというから、これが今の大学生の現状か。ゲームが趣味なのは悪いことではないが、勉強放棄で、パパ活、援交にうつつを抜かす女子大生に同情の余地はない。

「わきまえる」はホンネに勝る ①

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古い記事にたまにコメントが付くと、「こんなこと書いていたか」と懐かしくなる。他人の考えに異論・反論を述べたいは人の常だが、むやみに披露せず心に留めておく人もいれば的を得ぬ反論をいう人もいる。記事の読みが浅く、真意の理解に及ばぬコメントを読むと、「読解力」がいかに大事かである。「自分だけ分かればいい」とならぬよう、文章はくどいくらいで丁度よいのだろう。

今回のような誰かの行為(今回は樹木希林)を批判すればファンが憤る。あくまで発言の是非の指摘であれど、ファンはそれを許さない。自分は樹木希林という女優を嫌いではない。が、容認できない言動は好き嫌いとは別だ。以前にもオフコース・ファン女性や将棋の羽生ファンと思われし方が、感情むき出しに突っかかってきた。まあ、女性の感情論への対応は心得ているつもりだ。

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穏やかに、遠巻きに、差し障りのない返答が妥当である。以前は遠慮なく、ズバっとホンネで切り返したが今はやらない。今回の女性も感情の抑えが利いてないのは読めば分かるが、女性の感情をなだめるのも男の技量であろう。一緒になってギャーギャー遣り合う男は好ましからざる部類である。文中、高倉健と樹木希林とどちらが大人の対応かは一目だが、希林信者にそれは伝わらない。

ファンというのは宗教のようなもので、だから信者という。高倉ファンならずとも健さん対応を素敵と思う人もいれば、希林さん支持の人もいる。人間の考えはそれほどに幅があるのは長年社会に生きて実感すること。「自分は率直な人間」と書いたように、正しくないと信ずる批判に遠慮はしないが、あくまで当事者批判であり、当事者外の反論にはホンネを抑えた節度ある対応を心がけている。

『バカの壁』で知られる解剖学者の養老孟司は、彼に対する批判に一切口を開かないと決めているという。それが『バカの壁』の著述動機であるらしい。養老氏は議論が得意でないらしく、学生や一般人からやり込められる場面を幾度か見た。その際彼は、「バカには何をいってもしょうがない」というような言葉を直接的にでなく、回りくどく発して自らを慰めているようであった。

論客タイプの学者もいるが、彼は典型的なモグラタイプ研究者。著作に専念し、批判には対応しないと決め込んでいる。反論すれば遣り込められる無様な醜態を案じているのか、男らしいというより臆病人間である。それはそれでいい、彼は自分を周知している。そうした態度が、"他人を見下し自分の世界に没入する"などの批判を生じさせるが、どうであれ無視の態度を貫く養老氏。

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「金持ち喧嘩せず」とは聞こえはいいが、金持ちの類にもいろいろタイプがある。同じ男からみて、やんちゃタイプは物怖じしないが、養老氏のような真面目タイプは臆病人間が多い。小学~中学の同級生などを思い起こせば、この手の分類に該当する者たちが次々浮かぶ。小学校時、どうにもならない悪ガキがいた。一度だけ大きな喧嘩をしたが、その後彼とは絶縁していた。

高校の入学式に遅れたことで二人は偶然に会い、同じクラスであることも分かった。「お前も遅刻か!」と意気投合し、入学式が終わってホームルーム中の教室の前のドアから堂々入ったところ、烈火の如く怒る担任のNから二人はビンタを食らった。その程度で怒り、その程度のことでビンタを食らわせる教師、そんな時代だった。おそらく彼もその教師とは3年間口を利かなかったろう。

企業名は伏せるが彼は現在、資本金250億、売上高4400億円余りの大企業の取締役会長である。入学式のビンタは生涯の思い出だが、現在の彼の存在があの時の延長だったふしは感じられる。もちろん彼の努力もあろうが、生徒会長も努めた彼は、優等生タイプの会長というより、権力・権威批判タイプだった。大学卒業後に現会社に入社し、今では出世頭のトップの元やんちゃ坊主である。

住む世界はまるで違うが、同級生というのは利害関係なきであるがゆえに続くもの。大会社の社長であれ、橋の下で生活する乞食であれ、誰がどんな境遇の現在であれ、同じ学び舎で同じ空気を吸った者同士こそが同級生。彼とはどこで会おうともあの時のビンタを共有するだろう。「憎まれっ子世にはばかる」とはいったもので、「いい人」は成功者にはなれない。

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話が反れ気味だが養老氏の態度は波紋を呼んだ。自ら愛煙家を標榜し、『禁煙運動という危うい社会実験』と題し、「健康至上主義がはびこる一方で、日本では交通事故で毎年五千人が亡くなり、自殺で三万人が亡くなっている。いくら健康に気をつけていても明日クルマに轢かれて死んでしまうこともある。国民の命が大事というのなら、禁煙運動より先に自動車反対運動を」など、極端な持論を展開する。


また、「文芸春秋」07年10月号のタイトルは、「変な国・日本の禁煙原理主義」の中で養老氏が、「たばこの害や副流煙の危険は証明されていない」、「禁煙運動家はたばこを取り締まる権力欲に中毒している」などと発言したことに日本禁煙学会が激怒。「たばこが害だという根拠が無いの根拠を示せ」と、2007年9月13日に公開質問状を出したが、一切取り合わない態度を貫く。

「わきまえる」はホンネに勝る ②

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女性と男のコメントには大きな違いがある。男の言葉にはそれなりの配慮や気づかいが見れるが、女性に特徴的なのは「棘」。花嫁の角隠しという風習が面白い。角を隠して嫁ぎ先のしきたりに従順ということだが、女の言葉に見る棘は角を思わせる。こんな感じの妻なら夫は一事が万事か。率直を旨とし、嫌味とは無縁の世界に生きる男から見た女のホンネは嫌味を含む。

希林さんの発言はホンネというより嫌味発言である。一部に評価の声はあるが女のホンネはなぜに嫌味を伴うのか。「正論はTPOに関係なく発すべし」との意見もあるが、「正論」とは真実・事実ではなく道理において正しいこと。したがって、正論は吐けばいいというのではない。「伝え方を考える」という事を放棄してしまっては、正論吐く人の資質に問題ありとなる。

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「私は何処でも誰にもホンネしかいわない」という人がいる。そんな言い方を自慢げにいうのは結構いたが、ホンネをいえばバカである。なぜなら、考えないでモノをいうのは大人としての適格性がない。やはり、「場」や「状況」は大事であり、それを無視して振舞うのは、ファミレスの廊下を駆けまわる子どもと何らかわりなく、その類の者は案の定大人ではなかった。

「お前はもう少し考えてものをいえよ」などと無知者を諫めるが、考えてものを言うのが大人のたしなみなら、TPOに合わせた対応が大事。「私は何処でもホンネしかいわない」人間は、なぜか嫌われていた。自分も率直であるが、人を傷つける可能性には配慮を怠らなかった。節度やわきまえが育ってこそ社会人だが、芸能人というのは特殊社会に生息する人だ。

目だってナンぼの芸能界と、節度重視の一般社会とは大きく隔たる。「芸能界の常識は一般社会の非常識」といわれるように、芸能人の常識や価値観を我々の一般社会に持ち込むのはいかにも無理がある。一般企業やどこの会社に女装従業員がいよう。オカマがホテルのフロントにいたら気持ち悪いし、トヨタのディーラーがオカマを雇わないのをみても乖離がある。

しかしながら希林さんの暴露発言は恨みあっての所行か自己満か。いかに彼女がホンネを隠せない人間であれ、場をわきまえずに人を怒らせたり傷つける発言は、自分の常識からして非道である。「人前で晒されて恥じる方が悪い」というのはあまりに他人事。もし、自分が隠して置きたいことがあって、それが天に恥じることであっても公衆の面前で晒されてどう思うのか?

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自分に置き換えてみればわかるだろう。他人の所行を不道徳と謗るものがどれだけ道徳であるのか?誰にも分からないのをいい事に、人に石を投げつける人間を偽善者といわずに何といおう。どこの世界に完全な人間がいよう。互いが傷をなめ合ってこそ人の社会ではないのか?正論なら許されるというではなく、言い方が悪ければいかなる正論も暴言となろう。

公然と他人に恥をかかせる希林さんの批判は当然で、たしなみはホンネより圧倒的に優先する。他人を傷つけてまでホンネをいう意味がどこにあろう。「(希林さんを)底意地が悪いと思うのは、まだあなたが若くて世間体重視の未熟な方…」との批判は、いかにも女性ならではの棘である。見知らぬ他人にホンネを返す必要を感じないが、もしホンネを要求されるなら…

「私を若いというあなたは百歳の老婆?」くらいはいうだろうか。「二人で朝までホンネで語り合おう!」そういうホンネは良いとして、他人をあげつらうようなホンネは理由の遺憾に関わらず賛同できない。ましてや女性の棘発言は同性には普通と思えても、男からみれば、「底意地の悪さ」、「性悪女」としか例えようがない。一部の男に理解されようと人の思いは人のもの。

同じ人間であれ、場を和やかにする人間もいれば、場の雰囲気を険悪にする人間もいる。後者の人間を望む者がいるのだろうか?人間は社会的な生き物だが、「人騒がせな女」は迷惑をまき散らす。いかに迷惑であるのかは、実際その場で被った者にしか分からないだろう。「底意地の悪さ」と定義するのは、自身の体験者としての実感であり、倫理観である。

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人と人との関係には機微がある。その場、その状況から自分をどう律し、どう振舞うのが正解かを見つけるのが社会人としてのイロハ。見つけて行動するのが大人、見つけられないのが子ども。自分がホンネや正論をいうときに留意することがある。それがどんなに正しいことであれ、相手が求めていないなら、ホンネも正論も何の意味をなさないし、労力の節約にもなる。

いかに価値のある言葉であろうと、耳に入れる能力もない者を前に、昔の人はこのように例えている。「馬の耳に念仏」、「猫に小判」、「豚に真珠」。出来すぎた言葉だけに実感が伴う。実社会なら場なら洞察をもとに振舞うが、そういう場に遭遇せずともこうした書き物を通し、自己の主張を述べている。目にして気に障るのは仕方がないが、その責任は負わない。

自分のブログである以上遠慮はしない。ただし、公人については率直な批判をし、ゲストコメントには回りくどくはなるがホンネを控える。それが自分のスタンスである。「自分はホンネしかいわない」などと威張りくさった人間は山ほどいたが、多くは自己満でしかない。そのために無慈悲に他人を傷つけるなどは、いじめの論理と何ら変わりようがないし、許容はできない。

男に女は分からないが、永井路子に『歴史をさわがせた女たち』という著書がある。女性が女性を批判する視点は、男が読むと細やかで面白い。数十人の名だたる女性が列挙されている。「歴史」というだけにいずれの女性も樹木希林など足元に及ばぬ猛女である。が、そんな目立つ女より、市井の片隅でひっそり生きる名もなき女こそが果報者…、そんな読後感であった。

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「わきまえる」はホンネに勝る ③

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樹木希林が他界して5か月になる。過去に書いた記事が蒸し返されるのもファンが目にしたことが発端と思われるが、2013年3月15日だから6年前の記事である。6年前だろうが10年だろうが、記事が残っている限り目を通す人もいようし、読後感としての批判もしくは共感を書き手に伝えるのも、ブログのシステム上許されており、誰もが自身の思いを述べる自由はある。

が、あえていうまでもないが、インターネットといえども発言においては実社会と同じマナーやルールが存在し、それはサイト(ブログ)の運営や利用についても同じことだ。これらがキチンと守られるのが理想であるが、実社会でもマナーやルールを守らない人がいるように、ネット社会にもそういう人は存在する。が、問題の本質はネットの方が実は大きいのではないだろうか。

イメージ 1理由はインターネットの匿名性であろう。実社会では口数も少ないような大人しくて蚊も殺せないようないい人であれ、架空の自己を作ることは可能で、これは大なり小なり多くの人が演じていると思われる。気持ちが大きくなれる、普段はいえないようなことでもネットならいえるなどのメリットは、自己変革したような感覚に陥るため、性格の大人しい人にはメリットとなろう。

インターネットの初期にニフティなどがユーザーを増やす一環として、当時はパソコン通信といわれたがネット上に様々なフォーラムを設けて決して多くはないがパソコン通信愛好者の語りの場となっていた。政治・経済・国際・国内・社会問題などのジャンルに分かれて、我こそは論客を自負する議論好きが世を徹して語り合ったりと、現初期当時のフォーラムは活気にあふれていた。

今から約25年前くらいだから90年代初頭である。仕事でパソコンを操る女性ユーザーも5%くらいはいたが、男が話題にしたい政治や社会問題フォーラムに女性は少なかったし、たまに来ても熱い議論について行けなかった。男同士の白熱した議論であっても、絶対に御法度としたのは人格批判であり、これはディベートの最低限のルールでありマナーと誰もが認識していたのだが…

心ない女性は追い込まれるとこういう発言をする。そうしたマナーを許さぬ論客たちは「でて行け!」と追い立てる。もちろん自分も遠慮も容赦もしなかった。論理を戦わせるディベートに人格品を持ち込まないはイロハの「イ」である。素性が分からぬことをいい事に何をいおうが相手から殴られるなど、直接攻撃されることはないが、斯くの人間は言葉で追い出した。

自主規制がなされていたのは、ネットユーザーの多くはディベートの何たるかを知るインテリたちだったことも規制無用の大きな要素だったろう。マナーやルールというのは法規制以前に自主規制の世界。ところが近年は誰もが気軽にネットに参入できることで、webサイトやブログに共通するマナーやルールが軽んじられ、他人を傷つけたり、法律および公序良俗に反する発言も多くなった。

これら一切は、気軽さ・安易さがもたらせた負の遺産である。ネットで最大限に注意すべきは、顔を突き合わせて話す実社会の会話とは異なり、相手から受け取れる(伝わってくる)情報が少なくなることも問題の本質である。つまり、喜怒哀楽をつかみにくいことで、心ない発言が醸されることもあるが、他人を傷つけることを拠り所・気晴らしにする意地汚い人間もいる。

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これらはスパム行為として確信犯である。ただし、他人を傷つける発言、あるいは怒らせる発言は、故意であってもなくても、受け取る側には同じこと。どちらであるかは関係ないが、社会体に多くの人間を熟知するとそういうことも分かってくるし、幅を持った対応も可能となるが、ヒドイ暴言を吐かれてネットから退散した人は実に多く、話を聞くと同情の余地もある。

時おり、「心ない発言コメントは当方の一存で削除させていただきます」というのを見かけるが、自分は過去においてその経験はない。どんな意地汚いクソコメントが来ようと、吐いた唾をのみ込ませて追い返す自信もあってか、刺激も含めてそれらを楽しんだフシもある。「二度と来ないよう!」の言葉を用意したこともあった。が、それらは超絶無作法な類であった。

が、年を重ねると、そういう行為をする自分ですら醜いと思うようになった。これを「金持ち喧嘩せず」と言い換えるなら、もっともっとお金持ちになる必要がある。さらには、「人の口に戸板を建てられない」の道理を周知し、発言に目くじらを立てるものでないのも分かってくる。マナーやルールの規制はあれども、本音を正当化する身勝手な発言も無知者の類である。

そうであると分かっていれば、「マナー違反・ルール違反」などと形骸化されたものを持ち出し、腹を立てても仕方がない。要は自身のキャパシティの問題だ。「マナー違反・ルール違反」を無神経な口にしてどうにかなるものではないし、それが誰でも参入可のネット社会。「目には目を」では喧騒になろうし、至らぬ者(子ども)をあやせてこそ大人、こうした大きな視野が大事である。

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「わきまえる」はホンネに勝る ④

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女性が人格批判する理由の何故は男にも分かる。女に生まれなくとも想像力があるからだ。だから体験しなくても分かる。女性は感覚的だといわれ、論理的思考がおぼつかないから追いつめられると論理で返せない。それで感情的になり、相手を罵倒し人格批判で身を守る。そんな体験は数えきれないくらいあった。それもあってか、女が嫌味や悪口表現に長けているのも理解する。

「私も樹木希林さんを支持します。」というのはいい。自分の書いた樹木希林批判記事に賛同する必要はないが、彼女を支持するなら自分の彼女への言動批判を批判すべきであって、「希林批判のあなたは若く世間体重視の未熟者」などの人格批判はタダの悪口にすぎない。自分は彼女の言動を論理的・具体的に批判をしたのだから、争点を明確にしてこそ正当な反論となる。

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それなら説得力も生まれよう。私を批判したからといって、希林さんの評価があがるものでもないが、女性の反論が悪口や中傷になるのは脳構造に問題がある。他の人の希林さん支持に背中を押されてコメントを書いたと察するが、丁寧に具体的に書いた記事にもかかわらず、彼女への評価コメントには読解力を疑った。ならばと、さらに丁寧に具体的加筆の必要性を感じた。

誤解なきようあえていうが、自分は樹木希林という人間一切の人格批判が目的ではなく、彼女の公益性のない自己満的言動が許されるものではないと感じたことへの批判記事である。以前からいじめ問題への強い意識を持っており、少年・少女を死に至らしめることになるいじめは卑劣極まりない。なのにいじめはなくならないばかりか、ここ数年でいじめ件数は増加している。

これまで学校がいじめを隠匿していたのを、報告することになったことで数字が増加したようだ。「いじめはよくない」、「いじめはやめよう」などと、これほど言われているにもかかわらず、いじめがなくならないのは、いじめを行為する者たちが、「いじめ制止」の声に素直に耳を傾けないからだろう。いじめ側はいじめを正当化する独善的理由を自らに、勝手に、つけ足している。

こういうひねくれた人間こそがいじめを増長させる。理屈と鼻くそはどこにでもつくが、樹木希林を批判したにもかかわらず評価コメントついたとき、「こういうことだからいじめも正当化されてしまうのか」と憤懣やるせない思いがあった。彼女が賞に無頓着だからと、賞の権威を貶める発言はすべきでないばかりか、人を祝う会の席で当事者の不道徳を晒す樹木希林は、目立ちたがり屋のバカ女。

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そうした席でなぜそんな発言を?場の状況すらわきまえぬバカ女に加え、自己満的お騒がせ女である。にもかかわらず彼女への賛辞のコメントがあったが、自分はあくまで樹木希林批判すればいいことであり、思考の浅い意見に対する露骨な批判はすべきでないのスタンスは守った。しかし、腹の中ではこんな奴がいるからいじめも正当化されるとの憤りはあった。

そして今回、そうした樹木希林評価に勢いづいてか、「私も希林さんを支持します」という人間が現れたのには、うんざり感満載であった。よくないことはよくない、正しくないことはただしくないと、底の浅い意見には遠慮することなく記しておけばよかったと悔いた。「批判対象は主たる公人で、在野の一般人を批判の標的にすべきではない」の正誤について考えた。

いつまでたってもいじめがなくならない。差別もなくならない。これはいじめ側、差別側に独善論があるからだが、誰もが素直に、「いじめはよくない」、「差別はよくない」と感じ、行為を断てばいじめも差別もなくなるはずだ。人の考えは自由だし、他人が制止させる必要もないが、正しくないことには毅然と反論が必要であり、正すべきであったが、やはり緩かったのだろう。

それでも、「希林さんの行為は確かに歪んでいる。正しいことではない」という共感を得た人は少なからずネット内にいたと確信する。その数は分からぬが、黙して樹木希林への怒りを生じさせた人たちはいたはず。賛同コメントまでは望まぬが、批判コメントは望むべくもなかった。「他人の口に戸板は建てられない」が、愚直な意見には戸板を壊して反論しておくべきであった。

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あれだけいじめ撲滅の声があがりながら、それでいじめがなくなることはない。人間というのは歪んだ心を持つものである。我々は社会教育力の一員として、いじめをなくすために何ができるのか?せめて、大人を範とすることで、他人を傷つけるような人間には批判を加えるべきである。その人がどのような功績があろうと、よくない行為はよくないとすべきである。

「人を傷つける権利は誰にもない」。「人を怒らせ喜ぶ底の浅い人間はいる」。だから、嫌味女、底意地の悪い女と批判をするが、本人に届かずとも、間接的な排除に寄与すればよいが、今回は反感を買った。底意地の悪い女は底意地の悪い女を評価するのだろう。「類は友を呼ぶ」などという。が、そんなこと知ったことか。底意地の悪い女は消えてもらいたい。

ホンネとタテマエの交叉

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「ホンネとタテマエ」はいい意味でいわれないことが多い。もっとも、世界中どの民族・人間であれ、服を纏って生きている以上当たり前の行動と思われます。ホンネだけで世の中を生きて行ける筈がないし、タテマエだけで生きると自己分裂をきたすのではないか。自分も若いころは、「偽善への反発」もあってか、ホンネ主義だけが正しいと考えていた。

しかし、年齢を重ねるにつれ、これまでホンネでどれだけ人を傷つけたかなどが思い出される。あの時もそうだった、あの場合もきっとそうだったと、当時は考えもしなかったことを考えるようになる。苦悩する人を見て、頼まれもしないのに、激励したりすることも多だあった。一茶に誰でも知るであろうこういう句がある。「痩せ蛙負けるな一茶これにあり」。

どういうところから生まれた句かは知らぬが、痩せ細った蛙を見て、頑張れと応援する様子が伺える。おそらくこういうことを正しいという見方が一般的だろうが、別の見方をすれば、「正しいことをいういやらしさ」という感じもないではない。現に人からこんな言葉を投げかけられ、「同情も応援もいらない。ほっといてくれないか」という人、感じる人もいるだろう。

アメリカのある黒人指導者はこういった。「腹の立つことは山ほどあるが、白人どもの慈善行為ほど腹の立つことはない。あれは信心ぶった偽善行為だ。彼らは『私は正しい信仰をもっているが、お前にそれはない。可哀そうだ。私は幸福だがお前は不幸だ。私は立派な人間だがお前はグレている』彼らは自分の立場、自分の優越と幸福と差別を実証し、それを楽しんでいる」。

そしてこう結んでいる。「おれたちは、あいつらの慈善行為とやつらの優越感を満足してやるための『贖罪のヤギ』――スケープ・ゴートじゃない。おれは自分で生きていくんだ」。なるほど、この言葉の真意が分かる人は幸福であろう。なぜなら、偽善に頼らぬ慈善を模索し行為するであろうから。愛とか正義とかは正しいことだが、正しいことをいういやらしさも現実にある。

同じように、ホンネはタテマエに勝るというが、すべてにおいてそうはならない。ホンネを言える人間が羨ましいという人はいる。なぜ言えないのかは、ホンネがいえる人間には分からぬが、憧れる以上は近づきたいのだろう。自分はむしろタテマエをいうのが好きでないし得意でない。だから、タテマエをキチンといえる人間になりたいと思うようになった。

それもあってか、「ホンネとタテマエ」を自分はこのように解釈する。「ホンネのいえる人間はタテマエを、タテマエしかいえない人間はホンネを」。これを努力目標に掲げればいい。どれほどホンネに憧れる人間とはいえど、相手が自分にホンネでズキズキものをいえば嫌に決まっている。人が人にホンネをいうのは支持するが、自分がいわれるのは嫌だ。

だから、ホンネがいい、タテマエが悪いということもない。一切は頭を使って使い分ける必要がある。友人・知人は別にして、交友関係のない相手には滅多なことでホンネをいうべきでないと自分に課しているが、それほどに気をつけていないと自分は遠慮をしない。人に嫌われて、それでもホンネは正しいと信じて生きてきたことで、そんな自分になったのだろう。

が、人間は人生の途上でいろいろ変わるものだ。昔いいと思ったことが良くないと思うこともある。食べ物の嗜好が変わるように考えも変わるものだろうが、絶対的に封印できるものなどない。全面善としたことが全面悪とならぬように、人間には臨機応変な生き方が求められる。タテマエを上手く使えるように努力目標を掲げながら時にホンネで怒るも大事である。

ホンネは怖ろしくもある。節度をもって使い分けるべき。自分にとってタテマエとは、ホンネを抑える大事なもの。ホンネという怒りを抑える重要なもの。人間はタテマエで怒ることはできないし、ホンネを排した怒りを怒りいわない。だから怒りはホンネであろうが、小さなことに怒ってばかりはいられない、だからタテマエの効用である。双方上手く使い分けることが求められる。

エッセイ 「旅と道」

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ふと、エッセイなるものを書いてみたいと思った。エッセイ(仏: essai, 英: essay)とは、随筆・随想のことでエッセーともいい、自身の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想や思索や思想にまでのぼりつめた散文をいう。エッセイは文学における一形式だが、文学的であらねばということもない。文学である・なしは才能の問題ということになる。

人は人から遠ざかりたいために旅に出ることがある。自己を忘れたいために旅に出ることもある。時に人は孤独を求めるのだろう。時に人は過去の自分を埋葬したくなるのだろう。人は母胎から生まれただけでは人間にはなれない。もう一度生まれ変わること、つまり再生が人間の生なら、旅はそのための受胎なのだろう。行く宛のない旅は、自殺の代用となることもあろう。

家庭は宿舎でなければならない。生活に疲れて旅立つ人の憩いの場は家庭以外の宿舎かも知れない。いつもとちがう宿舎にて、いつもとちがう寝具に身を纏うとき、不思議な解放感を味わうことがある。小さな駅の田舎町の小さな宿舎も疲れた旅びとの憩いの場となろう。旅びとをいたわる習慣というのは人間の習慣の中で美しいものではなかろうか。それで旅びとはいっそう癒される。

「田舎町の小さな駅が好き…」。都会人から耳にする。急行列車も止まらない、黙殺されたそんな小さな駅の、ペンキの剥がれた小さな柵が旅びとに不思議な趣きを与えてくれる。柵のない線路の中に入って、ほんの近くから列車をながめながら乗客に手を振った。乗客もまた手を振って返す。通り過ぎる列車の車両の数を数えるのも何気ない子どもの遊びだ。

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私の記憶に今もかすかに残るのは、馬が荷を曳きながら道路をカポカポと歩く、そんな時代だった。馬にはなぜか鈴がついていて、カポカポ歩くとリンリン鈴の音が鳴る。そんなシーンはまさに劇場のようである。「心を起こしたいなら、まず身を起こせ」という言葉がある。旅とはなにより身体を動かすことだ。身体を動かすことで心は方向を得るし、形も与えられる。

旅の一義的目的というのは、身体を動かすことなのかも知れない。そのことで思想の蕾が膨らむのか。人生を旅とみなし、人間を旅びとと見ることがある。確かに人生とは長い旅かも知れない。人生の重要な観念は「道」であろう。フェデリコ・フェリーニに『道』という作品がある。旅芸人のザンパノは芸の手伝いをする女が死に、姉妹であるジェルソミーナを買い取った。

買い取ったといってもただ同然だった。粗野で気の荒いザンパノ、ジェルソミーナは頭が弱いが素直な心の持ち主。そんな二人は旅回りの道化を披露して生きている。ジェルソミーナはそんな新しい生活にささやかな幸福さえ感じていたが、ザンパノの態度に嫌気が差して街へと逃げていく。そこで陽気な綱渡り芸人に出会う。綱渡り芸人はザンパノと旧知の仲だった。

綱渡り芸人はのいるサーカス団に合流するもザンパノとちょっとしたことでいがみ合い、ザンパノは逮捕される。綱渡り芸人はサーカス団から追放され、ジェルソミーナから去っていく。後日、自動車を直す綱渡り芸人を見つけたザンパノは、彼を撲殺する。綱渡り芸人の死に放心状態となったジェルソミーナは、泣きがら彼のそばから離れようとしなかった。

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ザンパノは役に立たなくなったジェルソミーナを見捨て、置き去りにして去ってゆく。数年の時が流れ、見知らぬ海辺の町に立ち寄ったザンパノは、耳慣れた歌を耳にした。ザンパノがたずねると、ジェルソミーナと思われる女が、しばらくその海岸を放浪していたが、誰にも省みられることなく死んでいったという。それはジェルソミーナがよくラッパで吹いていた曲だった。

海岸にやってきたザンパノは絶望的孤独感に打ちのめされ、ひとり嗚咽を漏らす。ザンパノの後悔とは何なのかを考えさせられる。難解な作品で知られるフェリーニの描くザンパノは悪の化身のような男で、愚かな行いを繰り返すことで残酷な結果を突き付けられて傷つき汚れながら歩んでいく。道を進むとは、そういうこと以外になと、ザンパノの背中がそれを語っている。

ザンパノのような人間ですら人の人生である。そんなラストシーンの肯定感は衝撃的。まさに、「後悔だけが人生」である。後悔なき人生はない。ザンパノも、ジェルソミーナも…、おそらく。ジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナは、フェリーニの愛妻だ。ジュリエッタはインタビューなどで、「気難しく気性が激しいのは、監督ではなく自分です」と、フェリーニを庇う語り口が印象的。

1992年にアカデミー名誉賞を贈られたフェリーニが、永年の伴侶、妻ジュリエッタ・マシーナに感謝をささげる光景がテレビに映し出されていた。半年後、フェリーニは世を去り、ジュリエッタも5か月後にあとを追うように亡くなった。映画とともに、ニーノ・ロータになる名曲の誉れ高い、「ジェルソミーナのテーマ」のトランペットの乾いた音色が、脳裏に鳴り響く。

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さらば橋下徹。君はガキだ!

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頭脳明晰にして論旨明快、意志強固にして行動的。笑顔もいいが毅然とした顔も精悍である。とは、自身の橋下評だが最近は陰りが見えていた。ファンとかフリークとかではないが彼を好人物と慕っていたのだが、最近彼はやたら噛みつき男に成り下がっている。村本大輔、百田尚樹、高須克弥、ホリエモンに女性ではフィフィらが、お決まりのイッチョ噛み人間の類。

好人物とは、気だてのよい人。善人。お人よし。(デジタル大辞林)他にも、有徳者、人格者、誠実な人間、品格のある人間なども当てはまる。仏さまのような人物というのもあるが、事あればなにかと噛みつきガメの如く小言をいいに出てくるさまは好人物の類とはいえない。それでも自分にとっては好きなタイプの男の一人だったが、小物ぶりの近況に嫌気がさし始めた。

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社会の出来事や問題について何かをいうのは悪いことではないが、毎度毎度の同じ人間ばかりがちょこまかでてきての自説披露は、甚だしき目障り人間と化してしまっている。なぜ決まった人間ばかりお出ましになる?単純な理由としては、目立ちたがりやで何様的な自己顕示欲と察するが、小高いお山に駆け上って旗を振って喜ぶそんなガキ大将気質もあるのだろう。

彼は政治家時代からいち早くTwitterを利用・発信していた。情報を端的に短く発信するTwitterが、時代にマッチしたツールとして愛用されているが、自分はTwitterが好きでない。なぜ、好きでないのかを考えることも、考えたこともなかったが、ふと、スマホ嫌いとどこかリンクしているのではと、そんな気もあってか、スマホ嫌いの理由を改めて考えてみた。

嫌いなものに理由などない。嫌いなものは嫌いだとそれも確かに一理ある。特に女性などが口にする、「生理的にイヤ」という言葉にそれを感じる。自分は納豆が嫌いでセロリが嫌いでオクラが嫌いで山芋が嫌い。といえば、ネバネバしたものが嫌いという共通要素があって、人はそのように言ってくる。しかし、ネバネバしたものが嫌いという囲みは自分にはない。

嫌いなものがネバネバした物だった。何ごとも囲んだり、決めつけたりの人はいるが、自分にとって男も女も一人一人が異なっている。囲み込みや決めつけは便利だが横着な考えだろう。人間が自分を一番分からないのは、自分を掘り下げて考えないからで、他人についてはいろいろ考える。最近は少しづつだが、「自分とは〇〇だ!」と確定できるようになった。

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スマホを持たない、好まぬ理由は別の機会で述べるとして、橋下は『たかじんのそこまで言って委員会』のレギュラー出演者だったころは、目立つ存在ではなかったが、2007年5月27日の放送で光市母子殺害事件の弁護団に対し、「あの弁護団を許せないと思うなら、一斉に懲戒請求をかけてもらいたい」と視聴者に呼びかけをしたのには番組を見ていた自分も驚いた。

これに対して光市母子殺害事件弁護団のうちの弁護士4人は業務を妨害されたとして、橋下に対して1200万円の損害賠償を求めて広島地方裁判所に提訴した。この辺りから橋下の名は一気に広がりを見せ、同年12月12日、大阪府知事選挙に出馬することを表明。翌2008年1月27日投開票の大阪府知事選挙では183万2857票を獲得し当選した。以後の経歴は省略する。

今回、彼を見切った理由は、自著『沖縄問題、解決策はこれだ! これで沖縄は再生する。』を批判したインターネット放送の番組でキャスター水島聡氏に暴言を吐いたことだ。彼は頭に血が昇るタイプなのは知っていたが、自著批判に怒るところが大人げない。読者が誰であれ内容に批判する自由はある。なのに、「いい年こいて、威勢だけよく、頭の悪そうなこの男は何なんだ? 

日本だ、保守だと喚く連中に限って、日本人としての礼節を知らない。人のことをバカにした批判をしておいて俺が反論したらこれだ。手前らの活動なんて、日本国民のほとんどは知らねえよ。身内だけで満足してるんだろうが。そこまで偉そうに言うなら、政党作って国会議員の何人かでも誕生させてみろ。一人も誕生させることなどできないだろうが。

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俺に偉そうに言う前に、お前らもこんな役立たずの番組なんか止めろ」と、これが彼のいう礼節である。人格批判まがいの感情むき出しな物言いに呆れた。こんな橋下を好きな人物などと冗談じゃない。著書批判は水島氏だけではない。読んではないが、amazonのレビューでもメッタメタに切り捨てられている。「沖縄を利用したパフォーマンス。最悪の沖縄問題解説本」との意見もある。

品のない物言いは、橋下の他に堀江貴文がいる。彼らの本質は驕り昂ぶりであり、だから幼稚な印象をもたれる。公な発言をするのに、なぜに相応の言葉を使わない?なぜに理性に訴えられない? 反論はいいが、喧嘩腰になる人間の心理は、他人への怖れと定義される。自己への強烈なナルシズム人間は他人から学ばない。いずれにせよ自分の中から橋下徹は消えた。

「スマホはいらない」その理由

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ツイートの言語的な意味は、《小鳥がさえずる》であるらしい。それがツイッターにおいて、ごく短い文を投稿することに充てられる。または文そのものを指すの意として使われたが、日本語版サービスの提供開始時には、「つぶやく」という言葉が充てられた。一日に何度もツイートする人がいる。やりたい人の勝手、やりたい人の自由であるが、こういうことは際限なく可能となる。

早いものでブログを始めて13年と4か月になる。今は日課の一つとなっているが、ブログをやることで決めていることは、一日一投稿を頑なに守っている。記憶の限りでは一日二投稿が一度だけあった。何か大きな事件だったか、その時も一日一投稿を自ら破ることにかなりの抵抗があった。人間は自ら決めたルールを自ら破るなどは簡単、誰からも咎めを受けないが自分はそれを許さない。

自ら決めたルールを自らが守らなければどんな理屈を持ち込んで正当化されてしまい、結果的に自分を甘やかすことになる。自分に甘えてしまうことが自分に許せない点である。他人の拘束を受けるのを嫌う自分である。ゆえに、自らで自らを拘束する必要がある。自らの都合で簡単に破る規律など規律とは言えない。それを自らに課している。それが自分の望む人間だからだ。

ツイートが嫌いなのは、自分には小言のように聞こえるからだ。小言で連想するのは母親である。彼女の小言は毎日毎日うるさくて仕方がなかった。よくもまあ、ああしたことが毎日いえるものかと。ツイートが小鳥のなく声の意であれ、小鳥の囀りはうるさく耳障り。だから小言の羅列ごとき他人のツイッターは覗かない。橋下徹のツィッター引用も他人の引用を拝借した。

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「男は小言などいわない」。というのが自分の男観であり、小言をいう男は好きでない。大事なこと、ここぞという時に身を乗り出すことはあっても、普段はピーチクパーチクとヒバリじゃあるまいに、だから男は寡黙でいい。自己の批判と他人批判は別だが、ともすればそうなりやすい、だから他人の自由を束縛せぬよう気をつける。人は自らの善を全体善とする傲慢さが隠されている。

同じように自分の悪が全体の悪となりやすい。それらを思考し、分離しておく必要がある。さもなくば、人に物事を押しつけがましい傲慢人間となろう。若いころの自分はそんなだった、だから反省の意味もある。スマホを持たない理由など考える必要性はなかった。単純に不要だからで、それが十分すぎる理由。スマホに限らず携帯電話も家族の連絡用にと贈呈されたもの。

外出時には持ち歩かないので時折家族からお咎めを受けることがある。大した用事でもないのだからと、お咎めは聞き流しているが、唯一最大の失態は、叔父貴の突然の訃報連絡を受けられなかったこと。葬儀には間に合ったが、心から慕っていた叔父貴だっただけに残念であり失態と感じた。スマホを持つことなど、自慢でも何でもない当たり前の時代の昨今である。

持っていないことが珍しいのか、「なんで持たない?」などと問われることもままある。携帯を不所持だったころもよく言われた。当時は持たない理由を、「行方不明になれないから」などと返していたが、叔父貴の訃報は行方不明が祟ったのだろう。今回も孫に、「じいちゃんは何でスマホを持たないん?」と聞かれ、「スマホの奴隷になりたくないから」と答えた。

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これは9割くらいはホンネ発言である。孫には言うが他人にいわない理由は、スマホ所有者に対して失礼極まりないと思うからだ。自分が持たない理由は、自分だけが所有すればいいことで、棘になる言葉を他人にいう必要はない。「スマホは便利だよ?」と所有者はいう。「どこが便利?」と聞くと、「外にいてもカープの中継が観れる」と、ご満悦カープファンは少なくない。

ファンにとっては便利だろうし、自分も広島県民的カープファンであるから試合結果も試合状況も気にはなる。が、自宅にいる時はかかさず中継は観るが、外出時は観れなくて残念ということはない。外出中は観れなくて当たり前の意識でいる。その不便さを解消するのがスマホであって、スマホを持つ合理的理由は理解する。ただし、不便と思わぬ自分である。

だから便利を持ち歩きたい欲求はない。ない物がないのは自然なことと受け入れ、だからないものねだりをしない。日常生活では無意識に便利なものに頼って生きているが、不便を楽しむところもある。都会の喧騒から逃れて田舎暮らしをする人の基本はそうであるという。長崎旅行中の10日、将棋棋王戦第二局のネット中継があったが、在宅なら終日観戦をする。

が、自分は旅行中なので観ることはできない。それが自分にとって自然なこと。帰れば結果を知ることはできるから、情報を急いで得る必要はなく、そんな昔の生活に不満を感じない。情報は早い方がいいのだろうが、待てないこともなく、待つ楽しさというのもある。現代人は急ぐことばかり頭にある。「スマホの奴隷になどならない」と孫にいった本当の意味は、「情報の奴隷になりたくない」である。

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ツイッターは悪口道具!

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学者を「学者バカ」というのは、「専門知識はあるが一般知識のない学者」のことを揶揄していうのだろうが、こんな言葉にむかつく学者は研究熱心な学者ではないのかも知れない。ひたむきな学者にとって、「学者バカ」という言葉は、気にすることもなければ傷つくことも、何の痛手もないものだろう。興味のないことにかまけていられないのがホンネだろう。

学者ではないが自分にもそういうところは多分にある。興味のないことは100あるうちの1すらも知らないことはある。例えばスマホについての知識はゼロ。ツイッターについても同様だ。これらは一般常識といわれるものかも知れぬが、どちらについても自分はバカである。携帯カメラを一度も使ったことがない。使おうとはしないのは、デジカメを所有するからだ。

携帯でメールを打つようになったのはほんの数年前だった。今でも必要なとき以外携帯メールはやらない。「スマホはパソコンを持ち歩いているようなもの。それくらい便利」などというが、パソコンを持ち歩きたいと思ったことがない。携帯電話も持ち歩かない。「時代遅れ人間」は「学者バカ」と同じ意味であっても、時代に遅れても何にも困らないのは楽でいい。

パソコンは自宅の所定の位置に、電話も同じようにそこに置いてあれば何にも困ることがないのは、携帯やスマホを必要とする活動をしていないということだ。もはやこの年で活動範囲なんか狭くて充分である。高齢者が新しい物オンチであるのは時代の常だが、それで困らないのも年寄の特権である。情報なんかに左右されても脳を無理強いするだけだ。

知らないことを恥じることもない。時代オンチであるのを引け目も感じない。どちらも楽しめるもの。ネガティブなことを楽しめるならそれはポジティブである。貧乏なら貧乏を楽しめばいい。アラフォーであれ、アラフィフであれ、独身を楽しむ、バツイチを楽しむ、何でもカンでも楽しむことはできる。そういう人間で在るべきではと思うが、楽しめない人は引け目を感じることになる。

難しくいうなら、「自己の主体性をどう貫くか!」であり、それは人間性を貫く喜びでもある。宗教や文明の利器に惑わされず、自分なりの生活感覚を持つことでそれが可能になる。人は何のために生きるかを模索し、見つけ、それを人生の意味などという思想家もいるが、無理に従うこともない。思想家より、自分の考えで楽しむ方が断然幸せならそれでいい。

誰に背こうとも、自らに背かぬ人間こそ、「(自らを)生きた!」といえるのではないか。して、人間にとっては、「自らを生きる」が何より大切ではないか。自分くらいの年になってやっとこ辿りついた境地である。それでも升田幸三の言葉を借りるなら、「辿りついて未だ山麓」である。この言葉は、彼が当時の将棋のタイトルをすべて手中にしたときに発されたもの。

「地位や名誉のために生きるのではない」と、そのように解釈をしてみた。やはりというか、人生は楽しむためにあると、凡人なりの生き方を見つけたのかも知れない。好んでというより、なるべくしてなった凡人なら、凡人らしい、凡人に合った生き方があり、それを見つければ余生も楽しめよう。「もっと前から…」はできないが、どの年齢にあっても大事なのは未来である。

ブツブツと文句をいいながらも結局は、慣れた安易なことをするのが人間だ。ならば、せめてブツブツ文句はいわないでおけばいい。さらに気をつけておくべくは、自分のやっていることを立派であるとか、道徳的だとか、何とかだとかいうのだけはやめたいものだ。フィフィがツイッターで失態を演じたようだ。彼女が悪口ツイッター好きなら予想された事象である。

無芸タレントの彼女が、ネット世論に受けることを芸能界に生き残る手段にしているとみていた。フォロワーを従え、私の客観的な意見って鋭いでしょ?すごいでしょ?との自己満に浸るも、いってることは薄っぺらいただの傍観者が上から目線でしゃべってるだけというのがありありだが、彼女を正義の使者、御意見番の権化みたいに崇める信者こそが底の浅い人間である。

今回で呪縛が解かれるならいいが、若者は人の尻馬にばかり乗るのを止めて、自己の主体性を確立させて欲しい。フィフィはローラが政治的発言をして騒がれた時、「批判があるのも覚悟で発言すべきだし、何よりそれだけの影響力を自負して発言をするならば十分に勉強した方がいい」などと、口幅ったいことを言っていたが、自分には化けの皮をかぶったサルに見えた。

あれほどのデマを拡散させておきながらこの醜態は見苦しい。あたかも正論に酔う人間にありがちな、「自分は間違わない」という自己の驕りが、誠実な謝罪すらもできない。あげく、「凄いファンレターが届いた…30枚くらいあるけど、すべて読ませて頂きますね。応援ありがとうございます」。などと信者を拠り所にする発言も醜い。なんという浅ましくも羞恥な人間であろう。 

主体的に生きる

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2月9日~11日の3日間、九州・長崎へと家族で旅行した。家族といっても自分と妻と長女と孫(長女の長男)の4人で、ハウステンボスから始まり、グラバー邸やらランタン・フェスティバルから世界遺産の軍艦島。帰りは佐賀県・吉野ケ里遺跡を巡って博多から新幹線で帰路というコースだった。が、長崎は今日も雨、人も多すぎた。名所旧跡は行けば行った、行かねば行かずでどうということない。

現に地元人が地元の名所旧跡に訪れることはない。早いもので孫は今年の新学期から高3となるが、人が成長するほどに自分は物故に近づいている。この時期男の子は親と会話をしなくなるものだ。ところが親は、乳幼児期~学童期の可愛い盛りの思い出が消えることはなく、いつまでも子どもに纏わりつきたい、役に立ちたい、必要とされたいの気持ちが消えない。

だから子どもに迷惑がられる。子どもの成長と共に子ども時代の小さな服やランドセルや教科書などの学用品などは不要なものになってくる。普通は捨てるが執着心の強い親は残しているという。それもどうかと思うが、いらなくなった物はドンドンと捨て、同様に過去の思いも捨てる。そうすることで、子どもの成長に合わせた正しい寄り添い方ができるのだ。

母親というのは、自らが産んだ子どもとの連帯感がどの程度のものか、男親には分からないものだが、無用な執着心や連帯意識は自立の妨げになろう。人間が人間に対する善い事とか悪い事とかは、天が決めたことではないし、人間が決めたことである。だから当然ながら善悪は人間によって異なる。依存を善しとする親も、依存を善しとせぬ親も、個々の親である。

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親は子どもとの関係において、もっとも抑制をせねばならない。そのためには、子ども一辺倒から離れ、子どもを生きがいにせぬことが抑制ではないかと。こんなことは分かってはいてもそれができない、それが母親というものなら、子と親の断絶は目に見えている。子どもにとって日々の行動が自分の生である。遅く帰ろうが徹夜で何をしようが自分のしたい事。

それに口を挟む親がどれだけ子どもにとって迷惑なことであるか。「子どもをよくしたい」、せめて、「世間並みの子どもに」と願うことで、母子はどんどん乖離をしていく。母親の、「良心」などは子どもにとって無用でしかない。親の子どもに対する、「良心」というのを別の視点でみると、妬み、嫉妬、やきもち、欲というものの別の表現ではないかと思われる。

家族の良さはホンネ世界にある。こんな風に孫にきりだす。「万引きしたことはあるか?」、「ないよ」、「なぜやらないんだ?欲しいものが目の前にあるだろう?」、「欲しくても万引きまではしない」、「友達でしたやつはいるか?」、「いるよ。自分の目の前でやった奴もいた」、「そうか」、「でも、返させた」、「そうか。そいつに恨まれなかったか?」、「恨まれない。そんな奴じゃない」。

「お前が止めろっていって止めたのなら悪い友達じゃないな」、「悪い奴じゃないよ」。「お母さんはお前の友達について、あれこれ口出ししたりしないか?」、「しない。そんなこといわれたことない」、「それならいいお母さんだな。爺ちゃんはいわれまくったからな。でも、仲良くするなといわれた奴とは余計でも仲良くしてやった。親の決めることじゃなかろうという反発だ」。

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「男は主体的に生きた方がいい。まだ死なないけどこれが遺言だ。主体的って分かるか?」、「何となく」、「自分の運命とか将来とかを親や他人まかせにしないこと。自分が自分の責任者になるということ。何事も自分で決めて自分で責任をとる。世の中はそういう仕組みよ。人を殺せば死刑にもなる。何十年も監獄に入れられる。そうしたいならすればいいのよ」。

旅行の良いところは移動中の時間に相手といろいろ話せるところ。特に家族旅行というのは、会話をする大切な時間であるが、「スマホなどをいじくりって親と会話をしない子が多い」という声がある。それは仕方のないことだ。スマホ依存症なんてのは子どもに限らない。電車に乗り込んだかというように大人がスマホを出す光景をみるに、何がしたくてそうするのか事情がよく分からない。

携帯電話が市場に出始めたころに驚いたことがあった。それは若者が吉野家で牛丼を食べながら携帯で話す光景だ。こいつらはメシを食いながらでも電話で話したいものか?日本家庭は食事中に喋るなどを行儀の悪いこととされたが、欧米の食事は団欒であるから、会話が飛び交うのが普通だった。しかし、携帯は食事中の会話を可能にし、それが今は当たり前になった。

携帯はクソをしながらの電話も可能にした。かつてはあり得ない異様な光景(といっても目にするわけではない)だが、今は隠すどころか平気の塀座で、「あたし今トイレにいるんだけど」などという。恥も外分もない言葉というより当たり前の会話である。「当たり前」というものが、いかに時代とともに変容するかだが、人には変えたくない「当たり前」がある。

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