愚痴を言わない、言い訳しないことで人は強くなれる。強くなるとはすべてを背負うということ。他人のせいにしない強さ。悪事をするなら覚悟を持ってするという強さ。露呈したら逃げずに責任を取る。それが強さの看板だが、女には向かない。女は愚痴と言い訳の動物である。巷に聞く女の愚痴は、夫は構ってくれないし、子どもも巣立って淋しいなどという。
なって見なければ分らない女の情緒だ。男にもいないわけではない。愚痴や言い分けを、牛のよだれのごとくたらたらいう男は、見ていて(聞いていて)気分が悪い。そばにいれば決まっていう言葉は、「男が言い訳なんかするなよ」である。女はいいのか?いい悪いを置いて、そういうものだと思うから腹もたたない。女の愚痴は聞いてはいないが、耳に馴染んでいる。
男の愚痴はなぜ戒められるのか?前にも書いたが、愚痴は物事を解決するものではないし、愚痴で物事が解決したためしがない。愚痴の字を愚者・痴者とすれば人間の愚かさの代表格とまで自分は思っている。確かに愚痴は建設的でないし、聞く側も疲れるから他人にも迷惑である。「ねえ、愚痴を聞いてくれない?」、「いいよ、聞いてあげる」と女同士が言い合っている。
もし男が、「ちょっと愚痴を聞いてくれないか?」と言えば、「聞きたくない、愚痴なんか。壁に向かっていってろ」というセリフを何度いったことか。女は愚痴を聞いてくれる彼氏(夫)はやさしいというが、そんなには自分の都合で言ってるだけだ。愚痴を聞く男はやさしいとどこの辞書に書いてある?まあこのように、女は自分の都合で人の良し悪しを決めるもの。
黙って聞けと言われれば聞くし、聞いた事は腐るほどある。が、聞いてどうするも何もない。相手は「愚痴を聞いてもらってスカッとした」などという。そんなものか?そんなものみたいだ。なぜ、愚痴を聞いてもらうとスカッとするのだろう?想像するに、心に溜まった鬱憤を吐き出せるからだろう。溜まったウンチを出してスッキリしたのと同じことかと想像する。
同じ糞でも鬱憤である。糞は一人でするが、鬱憤はどうしても相手が必要のようだ。行為と言語の違いだろう。言葉は人に発しなければ独り言になる。独り言で鬱憤が解決できるとは思わない。だから人の迷惑を考えずにだれかれ捕まえては愚痴を言う。女でも愚痴を聞かされるのは息苦しい、心苦しい、それでも愚痴を言われるとこぼす人、ネットの書き込みは結構ある。
そういう人も、ネットにそう書いて鬱憤を晴らしているという、その構図が面白い。「愚痴は言うまい、聞くまい」というスローガンなども目にするが、「立ち小便禁止」と同じで、そんなもの何の役にもたっていない。「愚痴がなぜそんなに悪いの~!」なども結構言われもし、耳にもしたが、言いたいものは拒否されると困るのだろう。だからそのように言う。
愚痴がなぜよくないかを考えようとしないのが愚痴好きであろう。人は自分のしたいことの反証を考えないものだ。言い換えると、人は自分の行為を正当化したいものである。愚痴を言うだけ言った後に、「愚痴は本当はよくないんだけどね」という人もいる。これに似た言い方は多い。子どものためによくないと知ってやる事を後で、「親バカなんだよ」も同じ。
何でも人のせいにする親を見てると、自然に子どももそうなる。学校でも「ぼくは悪くない。誰かがなんとかするべきだ」と考えてしまう。自分に罪はない、自分以外のものが悪い。学校のせい、先生のせい、友だちのせい、とにかく何でも自分以外の責任にしてしまう。たとえ自分に責任があっても他人の責任にしようとする。そういう大人は結構いるから注意だ。
こういう人間は、また平気で嘘をつく。先日「セビロ屋」で体験したばかりだが、おそらく親が、「しょうがなかった、お前のせいじゃない。悪いのは先生だ」などという家庭のように思う。親は子どもを慰めてつもりだろうが、これでは子どもを嘘つきに仕立て上げるようなもの。「責任逃れ」と言うのはよくないが、現実に心弱き人は責任逃れをするものだ。
「責任逃れ」に関していえば、言葉は非常に便利だ。「責任逃れ」の言葉もあるが、「責任を取る」と言葉は簡単に言えてしまう。口に出して言ったからには責任をとるのかといえば、結局口だけ。人間は言葉の動物だから、自分にとって都合のよい、様々な言葉の用法を編み出している。哲学者や偉人・賢人は、そういった人間による言葉のまやかしを戒めている。
「美言は真ならず、真言は美ならず」
「言葉は我々の無知を覆い隠す曇硝子である」
いくらでもあるのでやめておくが、こういう言葉があるにも関わらず女性は美しい言葉に騙されてしまう。言葉が悪いのではなく言葉に美意識を感じて反応する己の心に問題がある。問題があるといっては御幣がある。美しい言葉と普通の言葉と汚い言葉があれば誰だって美しい言葉をいいと思うだけのこと。美しい言葉を吐かれると、自分が美しくなった気がするのだろう。
「民子さんは、まるで野ぎくのような人だ」というのと、「民子さんは、まるで野ぐそのような人だ」では、どっちについて行きたくなる?これはまあ、冗談半分の極端な例だが、言葉で女性を口説く場合は真実より脚色がいいのはあたりまえのこと。ブサイクな女に、「あなたは何てブサイクな人だ、ボクはブサイクな女性が好きなんです」で喜ぶ女がいるはずがない。
ではブサイクな女を「美しい」と嘘をいっていいのか?ダメに決まっている。そんな言葉は嫌味に取られて返って逆効果。それではなんて言えばいい?形容するのが難しい人に形容詞は使うべきでない。率直に「ボクはあなたが好きだ」でいい。なんでもカンでもシェークスピア劇のようにやる必要はない。ブサイクな女でも性格が可愛ければ、すべてが可愛いと思えばいい。
そうしたら、本当に容姿も可愛く思えるし、「君は可愛い」は、何が可愛いかを特定していないけれど、相手にいろいろ含みを持たせることになる。作った虚言はなかなか伝わらないが、ブサイクを本当に可愛いと思ったら案外伝わるもので、発する言葉や顔が真実に溢れているのだろう。自分には見えずとも相手には見えるのだろう。このブログでは頻繁に愚痴を戒めている。
自分は愚痴が大嫌いなのは、母が毎日愚痴を言い続けていたのも大きな理由かも…。母の愚痴にはうんざりだった。それから思うに、愚痴をいう性格はまずは小心者であろう。次に、見栄っ張り、次に悪口大好き人間、次にジコチュウ人間…。とここまで言うと言い過ぎか?専門的かどうかは分らないが、愚痴をいう心理として以下の3つが提示されている。
(1)相手から「ストローク」を受けることで、欲求を満たせる
(2)感情を打ち明けることで気持ちが楽になる「カタルシス(浄化)」が得られる
(3)ひとに話すことで、自分の頭のなかが整理できる
(2)感情を打ち明けることで気持ちが楽になる「カタルシス(浄化)」が得られる
(3)ひとに話すことで、自分の頭のなかが整理できる
「ストローク」とは、人間はいつも誰かに「自分の存在を認めてほしい」と思っている。心の奥底で、「わたしのことを理解して」って望んでいる。心理学では、そういった心の動きを「ストローク」と呼ぶ。これを軸とし、愚痴にはその他の欲求も叶えるメリットがあるから、思わず愚痴ってしまう。これは解毒の一種であり、自分の心に向き合えば愚痴は言わないで済む。
http://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/48035683.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/47557005.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/46479876.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/47557005.html
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女優三船美佳(32)が、高橋ジョージ(56)に離婚を求めた裁判の第1回口頭弁論が3日、東京家裁で行われた。ジョージは出廷したが、三船は代理人弁護士が出席した。三船が出廷しなかったことには「都合でしょうから」と理解を示すも、「彼女はインタビュー(1月17日の記者会見)の中で、何回も(離婚の話し合いの)場を設けているって言っていますけど、それは嘘です」という。
そうして、「不可能に近くても、不可能ではない。(三船と)2人で幸せになる道を探したい。戻れる可能性はあると思っている。僕は最後まで努力するつもりです」とし、三船には、「じっくり時間をかけて療養というか、気持ちを整理していただきたい。最高に愛しています」と彼女への思いを語るが、自分が聞くに、これはもう袖にされた男の悲しい愚痴であろう。
大体において未練がましいのは男であり、女が気持ちが冷めたらテコでも動かないのを高橋の年代として知らないはずはない。それでもこのような言葉をマスコミに言わなければならない情けなさ、覚悟のなさは気の毒と言うしかない。さっさと諦めて20歳前のファンの女の子を見つけ、また調教した方がいい。が、おっとどっこい今時の20歳なら、逆に調教されるかもだ。
男の醜態は見たくないが、これは彼自身の問題だ。世間の冷ややかな目にもこうしてプライドを捨てて三船にエールを送っている彼の実の性格がよく分る。女は環境に順応しやすいが、男はなぜこうも未練たらたらなのか?従来、女は弱いといわれてきた。この弱さというのは積極的な意味においての弱さである。言葉を変えると、何か事業を始めるとか、ひとつの仕事を成し遂げるとか。
そういう意味(積極的)においての弱さである。反面、女は消極的な意味においては男より断然強いし、そういう消極的な意味においての強さが女の美徳であった。それを忍耐と表現してもいい。女は辛抱強い忍耐の持ち主であった。ところが、時代の変遷と社会変化によって、女の忍耐が美徳と言われない時代になった。そうして女は積極的な意味で強く、消極的な意味で弱くなった。
女が堂々と男に愛を打ち明け、SEXを要求するなど、様々な面においてすこぶる積極的になったのが現代の女。それは家庭の維持にも現れている。家庭を作る能力と、家庭を維持する能力と言うのがある。前者を積極的な強さ、後者は消極的な強さとする。そう考えると女は家庭を維持する消極的強さが失われている昨今だ。辛抱しないでさっさと離婚する女性が増えたという。
女性に耐えるという美学がなくなったのだろう。忍耐は昨今の女性にとって、美徳でもなんでなくなった。社会的抑圧からも解放されている現代女性が、離婚の多さに寄与している。日本のフェミニズムは責任をとらずに権利主張ばかりと書いたが、法律で男女平等になり、女性上位と言われながら、その実、女性は男の心を次第に失い出したと言う事もいえる。
男の本質的性分は支配欲であるから、まあ、そのように育てられなかった脆弱男子はともかく、男の本能を失っていない男子なら自己主張、同権主義の強き女性には馴染めないだろう。以前にも言ったが、女性は可愛くあって、そのように男に愛され従属することで、逆に男を隷属させている。明晰な女性はそういう本能的資質を絶やさない。田嶋陽子の口癖はこうだ。
「かわいかわいい、いいこいいこして、男に媚びてそれで家庭円満幸せだよーなんて、虫唾が走るよ。わたしはそんな女になんかなりたくない」。いいんじゃないか?そうなってるだろうし、だから寄ってくる男もいないし、一人で好き勝手できて幸せに生きている。だれが、田嶋陽子の生き方を批判するものがいよう。田嶋を見習うも批判もない、女性は独自で生きている。
フェミニストの思いあがりで、「この指止~まれ!」と言っても誰も止まらない。最近はフェミニストの看板を下ろしているようだが、看板下ろしたところで男を卑下する姿勢は変わってない。男を必要とするから、男が女を必要とするのに、男を卑下して何で「田嶋さん、アイシテま~す」となろう。彼女はフェミニストの端くれとして一人で生きて見せればいい。
田嶋の立派なところは、男がいないことの愚痴を言わないことだ。まあ、それを言っちゃ~フェミニストが廃る」というものだろう。男の前で可愛く振舞うことが、なぜ男に媚びていることになるのか、田嶋の言い分も分らなくもないが、あの面で男に媚びても不似合いだというのを自覚しているのだろう。フェミニストといえばブサイクが多いが、自己防御で男を排除しているのかも。
引き合いの多いモテモテ女が、「男なんか毛虫同然で、キモ~い、いらな~い」とはなっていない。需要があれば必然、そのように生きるのだろう、それが自然というものだ。どうもフェミニストたちの動機に疑問が沸くのだが、男拒否の動機が、自分が求められないことの腹いせなどとは、死んでも言わないだろう。が、そのように感じる男は多い。ひょっとしたら同性にも?
そういえば関西出身で美人フェミニストに遥洋子ってのがいる。この人はWikiにも年齢不詳ってあるが、まさかのアイドル気取りか?今どきのアイドルは年齢不詳も詐称もしない。情報化社会だし、偽ってもすぐにバレるのがおち。まあ、遥洋子が美人と言っても30年前の話しで、今はくたびれたフェミニストである。彼女の頭の程度もどうやらオカシイようだ。
フェミニストってのは偏り思想だけに、大脳も偏ってしまうのか?彼女のバカっぷりは同性からの指摘も多く、同性に嫌われるような女ってのは確かに共通するものがある。いずれにしても遥洋子はべちゃくちゃうるさ過ぎ女。