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社会や子どもについて、考えるべき事

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ある奴があることを出来ないとき、どうしたらさせられるか、説得でなく本人が納得できるには、どういう言葉が適切であるか。そういうことをいろいろ考える事は多かった。本来は本人が考えるべきことだが、行動しない(出来ない)人間は、「行動できない」というが、「できない」は「しない」であり、しない人間は「すべき」の思考がなされないというのが自分の結論である。

友人と膝を突き合わせ、朝まで語り合うこともあった。なんでそこまで…、相手が友人であるからである。友人の利益になることを考え、言ってやるのは友人の義務であろう。物質的利益、精神的利益のためだけに人は生きていないところが、人の人たる不思議なところ。人は自分に損害になることであっても、立ち上がらないことは多く、理由も分っている。

人が自ら行動するのは大変なのよ。だから、人にいわれてしぶしぶやる事が多い。禁酒や禁煙、薬物治療も自主的にやれる人間は、相当の意思の強さがいる。意思に委ねるか、医師にに委ねるか、後者の方が楽だろう。それでも医師の指示に従わぬ人間は多い。行動できない人間は「すべき」の思考がなされてないといったが、「してはいけない」、「すべきでない」思考も同じこと。

勉強しない人間の多くは、「勉強が嫌い」と言うのが大きな理由だが、「勉強なんかして何になる?」というのを自己正当化として隠し持っている。例えば、社会的に高い地位や、それに類する職業につくためには勉強しなければならず、そういう思考を持って勉強をするわけだ。思考ナシにするはずがない。やらずして逃げる人間も同じこと。「やったからといって○○なれる保証はない」と言う。

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そんな当たり前のことをいうか?保証なんか誰にもないに決まってる。保証があることなら「やる」、ないことは「やらない」なんかバカの戯言だろ。そういう言葉に耳を貸すものはいないのに、何事もやらない人間はそのように言って逃げる。逃げるというのは不安というプレッシャーを避け、楽に生きようとする。誰も人の生き方に文句も苦言も必要ない。自分の人生は自分で決めたらいい。

ところが、行動することで起こり得る失敗を極度に怖がったりする人間は、そういう自らの心理を覆い隠すことで、「何かをやっても実らない」とネガティブな結果を出す。失敗が先行するので行動を怖れる。そういう結果重視の人間にはプロセスの重要さを気づかせてやりたいし、それが友だちである。どうでもいい人間に、そんなことをするのは相手も迷惑である。

相手の迷惑を考えるのは友だちでないということだ。ニーチェは「友人には柔らかいベッドになるのではなく、寝心地の悪い堅いベッドになれ」といった。相手を癒すのも友だちなら、苦いことをいうのも友だちだ。時々で対処すべきであろう。過去を思い出せばいろんなことがあった。いろんな相談も受けた。解決に到ったことも多いが何ら解決できないこともあった。上手く行く事も行かないこともある。

勝負というのは勝ったり負けたりをいう。勝ち続けるならそれは勝負ではない。なのに、「勝ち組」だの、「負け組」だのと枠に嵌めるバカがいる。そんな言葉、あるわけないだるろうに。流行語に敏感で、すぐにそんな言葉を使う奴は多い。「温度差」が流行ればすぐに使ったりするが、自分の言葉で話せないんか?大衆迎合派というのか、流行言葉など恥ずかしくて使う気にならない。

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使うといいかな?と思う場面もなくはないが、拒否反応の方が強い。「ジコチュウ」という言葉が生まれる以前は、「自己中心」であった。「ジコチュウ」は、「自己中心」を単に縮めたもので抵抗なく使っている。「ジコチュウ」は「ワガママ」とニュアンスは違う。「ワガママ」はどちらかと言うと「自分勝手」に近い。「ジコチュウ」は自分の立場ばかり見て、他人の立場を見ないろいう視野の問題に思える。

こういう言葉が多く使われる昨今は、以前に比べて他者軽視・軽蔑をいとも簡単にするようになったのだろう。そんな他者との関係の捉え方が、自分自身の捕らえ方にも影響を及ぼすまでになっている。他者を見下したり、軽視することで、無意識に自分の価値や能力に対する評価を高めようとする人間の多いこと。巷で言われる「負け組」になりそうな人が、社会を生き抜くためにも必須の所持品だ。

他者を低く見ることで自身の評価を吊り上げる人間に出会う事が多くなった。自分の過去の経験には何ら左右されない思い込みの自己評価であるのを本人たちは分っていない。他人をカスといえば自分がカスでないという単純な論理。他人をバカと言う事で自分がバカでないを逃れている言い方であろう。自分も他人に対して「バカ」という言葉を多用するが、そういう意識で使う事はない。

目も当てられない「バカ」に、手っ取り早いので「バカ」という。説明する事もあるが、目も当てられない「バカ」に、説明は不要のことが多い。自身の自尊感情をひけらかすために他人を「バカ」という人間はよく分るし、あまりいい気持ちはしない。人によっては「人が人をバカということ自体がいい気持ちがしない」という人もいる。そういう人のために説明は必要だろう。

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が、そう堅いことをいいなさんな。善人面もしなくていい。賢いという言葉の対語として馬鹿があるわけで、バカは人の状態であもあるが、人に向けていう言葉でもある。また、バカがバカに向けて「バカ」という事もあるので、そんなに目くじらたてることもないのよ。関西には似た言葉(似て非也ともいう)で、「アホ、ちゃうか?」というのがあるが、どうもこの「アホ」というのは親しみこもった言葉らしい。

関西人でないからよくわからないが、関西人はそのように使っている。したがって、自分などは正しい「アホ、ちゃうか?」は使えないので、使った事もないが、そういう関西人でも関東や他の地域では「アホ、ちゃうか?」は使えないという。やはり双方が関西人であることが必須のようだ。自分を卑下する言葉を「自虐的」と表現する事がある。「腐女子」などはその好例だろう。正に腐った女の意味。

自身を「腐女子」、「おバカ」というのがカワイイという時代らしいが、それだけではない。自らのことを腐女子と表現する背景には、相手から「腐ったような女子」といわれる前に、自分から表明して侮蔑を回避するという「居直りのレトリック」であろう。そこまで考えていない、といってもそれが無意識の心理学だ。自らを「負け犬」、「負け組」と呼ぶ女性は増加した。

イメージ 4人から何かをいわれて傷つく前の予防線と理解すれば、弱い人間なんてそんなものだろ。だから、そのこと自体、責められない。自らを心から「カス」だの「バカ」だの言う人間は、自尊感情を有する人間としてはあり得ない。自らを「賢い」、「偉い」、「有能」などという必要がないとどうように自らを「カス」は必要ない。すべては相手が判断することだ。
人間は多面的であるから、ある一部分が劣性であるからとすべてがダメな事はない。自分がフェミニストの極端な言葉を「バカ」というのはその点をいうだけで、人間性を否定しているのではないが、近年の若者傾向は、自己の「仮想的有能感」が強いだけに、他人においても「一事が万事」的な視点が増殖しつつある。他人を見下さなければ生きていけない時代なのだろうか。

自分に自信のある人間は、他人を見下げなくても問題なく生きていけるが、我々の世代人には分らない、殺伐とした世知辛い世の中なのかも知れない。「子どもたちの感情はどのように変化してきたか―教師の目から見た特徴―」(名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要、心理発達科学)の資料によると、近年の子どもたちの感情は著しく変節しているという。

「怒り」、「悲しみ」、「喜び」、「恐れ」、「驚き」、「面白さ」という項目に関して、昔の子どもと今の子どもと、どのようにその感情をもっているかについての調査・研究だが、「怒り」に関しては今の子どもは20~30年前に比べて増大・表出も多くなった。他方、「悲しみ、「喜び」、「恐れ」、「驚き」、「面白さ」に関しては昔よりも感じやすさが後退し、表出も少ない。

つまり、「今の子どもはすぐに怒る」である。まら、「むかつく」、「最悪だ~」、「サイテー」などの言葉で怒りの心情を表現するというが、昔の子どもはそういう言葉もなく、怒りは内に閉じ込めていたものだ。研究分析によると、今の子どもは「自己中心」でありたい、「王様気質の子どもの増加」、「情緒が不安定」、「我慢ができない」、「忍耐力がない」となる。

セルフコントロールができていないようだが、何故にそうなのか?感情自体の現象なのか、感じてはいても表出しないで抑制なのか、そこは定かではない。前者は明らかに社会動向に対する変節で、後者は子どもが素直さを失いつつある。昔の子どもは「素直だね」と言われて喜んだが、今の子どもは「素直」を評価ととらない。「素直じゃないです」反発する。

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世俗社会はもはや平成生まれによって動いている。昭和20年代生まれの我々にとって、圧倒的に手に届かないところで動いている。だから、我々は若い人と率先して言葉を交えていく必要があるが、そこに断絶があるのではなく、若い人は若い人の中にある自分と言う意識で発言し、行動する。それが我々にとって異質に感じられるのだろう。となると…

我々は若い世代に何を発言すればいいのか、そこが見えない。見えないと言うのは答えを模索しているというのでもない。人はその時代を生きるし、その時代しか生きていけないのだろう。我々の青春は、ああいう時代であったから、あのように生きて来たのだ。それでもあの時代に、大人と我々には確執があった。大きな価値観のズレがあった。それは今も同じだろう。

世代観格差というのは当たり前に存在し、それをいち早く体験するのが親子だろう。どう考えても20~30の開きがあるのが親子である。が、同じ家庭に同居することで、子どもは生まれながらにして親の価値観に染まって行く部分はある。順応する部分もあるが、自我形成は反抗期という形で現れる。子どもは同じ世代の子どもたちの中で生きているので、そちらの価値観の影響を大きく受ける。

子どもが友人から受ける影響と、親から受ける影響の質差は、思春期時期に顕著に現れる。この時期に親がどう対処するかが親の試練で、親の資質のあり方であろう。ほとんどの親が間違いを起こすが、取り返しのつかない間違いを起こす親が問題であろう。親の必需品である、「自分たちの子どもの頃は○○だった」この言葉、この考えに固執すると危ない。

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子どもは自生まれてない時代を知らない。「今いくよくるよ」が美人だった時代を知るはずがない。昔と今を生きているのは親だけ。そう考えると、子どもたちの時代をしっかり学ぶのは親の方で、学んで今の時代に対処するのが正しい親である。学ぶのが面倒臭いなら、昔のことを基準に今の時代を考えない事だ。それはボブ・ディランの歌詞に現れている。


The Times They Are A-Changin'」 (時代は変わる) 

Come mothers and fathers
Throughout the land
And don't criticize
What you can't understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is
Rapidly agin'.
Please get out of the new one
If you can't lend your hand
For the times they are a-changin'.


(和訳)
いいか、国中のお父さんお母さんたちよ
じぶんが理解できないことを批判するな
あんたらの息子や娘たちはもう
あんたらの言うとおりには、ならないんだ
あんたらの来た道はどんどん古びている
もし、若い奴らに手を貸せないのなら
せめて奴らのジャマはするな
時代はいま変わっているから

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親子関係に先験的に愛はない。もし親子にも先験的な愛があるなら、どうして惨めな親子関係があるだろう。親子の愛は育てていくものだ。親が主で子どもが従の時代もあるが、そんな親子といえども、子どもが成長し、成人すれば人間関係でしかない。互いが尊敬しあうことによって存続するもの。夫婦関係にしたって、互いに尊敬がなくなったらそれは形の上だけの夫婦。

親が子どもに「善」を教えるのは難しい。「悪」を子どもに教える親はいないが、親の日々の言動から子は善も悪も学んでいる。子どもの人間関係の問題に親が影響を与えるのはさらに難しい。家の中ではよい子が、外ではまるで別人であったりする。本当は別人なんかではなく、同じ子どもだが、親が子どものことに無知であると言う現実がこれだ。

「神戸連続児童殺傷事件」も、「大津市中2いじめ自殺事件」も、「佐世保女子高生殺害事件」も、その他多くの少年事件の子どもは、家では"借りてきた猫"のような子どものケースも多い。「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」、「秋葉原通り魔事件」、「附属池田小事件」は少年事件ではないが、起こってみれば親はただただ驚き、腰を抜かす。家族で自殺者も出る。

ゲーテの『ライネッケ狐物語』は、森の王様ライオンは正義を愛し、慈悲に富み、おかげで森の生活を他の動物も楽しんでいた。ところが悪賢いライネッケという狐が、ライオンの忠実な家臣である動物を、悪意があると嘘の密告をしてライオンに殺させた。最後にはライオンまで殺して自分が森の王様になるという、「悪人栄えて善人滅ぶ」話。こういう話はできるなら子どもに聞かせたくない。

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子どもに聞かせたくない話として本当に避けるべきなのか?臭い物に蓋で、済ませたい親はいるが、それで済ませられるのか?ならば現実にどう向き合い、どう子どもに教え、どう友人に教えていくのか…。そのためには深い考察と知識も必要となる。これについてはルネサンスの思想家マキャベリが、著書『君主論』の中で以下のように述べている。

「狐とライオンの二役を演じることだ。善人で慈悲深いライオンは、であるがゆえに罠にかかるし、狐はどうしても狼に食われざるを得ないので、狐として罠を見抜き、ライオンになって狼の度肝を抜くことが必要となる。マキャベリは「清濁併せ呑む」重要さを説いている。善人だけで生きてはいけない。悪の素養も必要となる。善人は騙されてばかりであり、それをバカといわれても仕方がない。



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