「親の言うことを聞いて、自分なりに真面目にずっと生きてきたつもりでいた40歳まで。それまで、自分に嘘をついてずっと生きていたので、いつの間にか考えていることが、自分の考えなのか、他からの影響なのか分からなくなり、今思えばとてもわがままで許されることではないのですが、そのときの生活が続けられなくなり、40歳で離婚して、子供達も置いて家を出ました。
その後、もちろん女一人で、しかも専業主婦をしていたので、仕事らしい仕事をしていなかったので、仕事をするということも分かっておらず、まわりから叩かれながら仕事をして(今思うと仕事してというより、みんなの足をひっぱていて、叩かれて当然です)でも必死で生きて50歳をこえました。いろいろ経験すると、離婚前はわがままで、周りに迷惑ばかりかけていたことを理解しました。
取り返しが付かない連続で生きてきた、最低の人間だと気付いて呆然としました。なんというか、あまりのことに頭が動かなくなるというか、言葉で言えば呆然としてなのですが、分けが分からなくなり、これからどうすればいいのか、心の奥にずっと問いかけました。で、結局あまりにも当たり前の答えに反省もし、今の自分からできることから変えていくでした。
始めてみると自分の中が汚くて、何かことあるごとに、ワット醜い自分勝手な自分に反吐が出ます。今まではこれを当然と思い、自分のわがままが通らないのは理不尽と考えていました。何でそんな風に考えられたのか。どうしても、脳の回路が永いこと使っていたほうに動きがちですが、実際の行動には落とさず、親切な自分を目指して利他的に生きられるようにがんばってます。
他人を環境を変えるのではなく、自分の内側を綺麗にするため、いろんなことが起こっていると理解して、そのことから、自分を磨く行動をとれるように、そして、相手には与えることを続けられるように、生きて生きたい。死ぬ時に自分の心の奥の良心に恥じることのないように生きて生きたい。残りの人生はそのように…」(文は一部修正)
これは自分のブログの履歴にあったある人のブログ記事の全文である。本人に断りなく引用したが、このブロガーさんはこの書き込み(2014年6月)のみで以後の記事はない。過去、他人のブログ引用はないが、これは読んでいて身につまされ、感動もあったのか、紹介の意味もあってコピぺした。短い文ながらも自身のことや離婚後の生き方について素直に書かれている。
「親の言うことを聞いて、自分なりに真面目にずっと生きてきたつもりでいた40歳まで。」書き始めのこの一行にインパクトを感じ、「自分に嘘をついてずっと生きていたので~」以降を読むと、過去と、離婚と、その後の未来の三章において、ドラマチックな女性の生き様をみる。他人と上手く生活できなかったことが離婚の要因であると、自身のわがままを断定してる。
これほどに自身を客観的に見つめる目を持つことに何故なったかは不明だが、「いろいろ経験して、いろいろわかってくると、離婚前の自分がもう本当にわがままで、周りに迷惑ばかりかけて生きていたことを理解しました」(原文まま)とある。離婚の全面責任の表明であり、子どもを置いて家を出たというくだりは、女性にとって身を切られる思いが発露の自己断罪であろう。
自身の責任をこれほど真摯に言及する女性は稀有であり、読んでいて清々しい。それほどに女性は、言い分け・自己正当化が一般的である。匿名とはいえ、彼女がこの一文を世間に晒し、自己を断罪をするに到った動機は分らない。よって想像するよりないが、自己をごまかすことをせず、正面から向き合うことで、自己変革の決意表明と自分は読んだ。
人間はコレくらいの断罪なくして、自己変革などできるものではない。自分の醜悪さを徹底嫌悪し、かつての自己と断絶する気概なくして自己変革は難しい。世間に自己を晒す女性の覚悟をみた。社会に順応する苦悩も正直に書かれている。幼少時代の記述はないが、「親の言う事を聞き、真面目に生きてきた」から想像するに、いわゆる"よい子"ではなかったのかと…。
いわゆる"良い子"の苦悩は、ここでしばしば取り上げるが、自分と言う存在の無さ、つまり自己不存在感及び実在感の無さに苦悩するといわれている。自己という実態がありながら、自己不存在感や、実在感の無さの苦しむみというのは、精神分裂、精神崩壊をきたすことからしての苦吟のようだ。"いい子"を自演する人間は、自己のアイデンティティを持つこともない。
彼女自身も自演による嘘は見抜いており、認識している。その嘘によって周囲からの高い評価を得てきた。そういう生き方が人生の悲劇になるなど、思いもよらなかったろうし、自分も子どものころ「人生が悲劇」などと思ったことすらない。将来は夢と希望に満ちあふれていた。昨今は、夢も持てない、希望も持てないといわれるが、我々の時代は幸せであった。
「人生は悲劇」のシェークスピア、「人生は喜劇」のバルザック、同じ人間でありながら考え方が違う。フランスのモラリスト、ジャン・ド・ラ・ブリュイエールは、「人生は、それを感じる人間にとっては悲劇であるが、それを考える人間にとっては喜劇である」と言っている。おそらくこれは、「人生は感情的になれば悲劇、理性的になれば喜劇」という意味であろう。
中国の有名な故事に「人間万事塞翁が馬」というのがある。これは悲劇も喜劇も予測できないといっている。「量子力学」的考えであろう。悲劇のときもあれば喜劇のときもあり、人生を二つに断定するのは間違っている。どちらが多いかの問題でもなかろう。苦もあれば楽ありで、「苦は楽の種、楽は苦の種」という慣用句が言い得ている。自分に問われれば何と答えるか?
「人生は喜怒哀楽なり」と無難に答える。無難というか、そうしか思わない。大事なことは悲劇にどう対応するかであろう。喜劇の対応は笑ってさえいればいいが、悲劇の対応はそうはいかない。なにはさて置き「我慢」でしかない。人間は我慢なくして生きてはいけないし、悲劇に対応する力は我慢であって、明晰なる親は子どもの悲劇への耐性から、我慢を教えるしかない。
欲しいものがあるのに得られないというのは、何も子どもに限ったことではない。大人でも苦しいことだ。そこを考えると、子どもの欲しい物をすぐに買ってやるのは間違っている。親はそこまで考えないし、一時の感情に左右される。親バカとさえ言って置けば免罪されるのか。「親バカ」親の自己肯定言葉だから、よくないと分っていながらする行為は、親の欲望である。
親が自身の欲望に耐えられない行為である。だから自分は「親バカ」はダメと言っている。親が子どもを甘やかすのは、親の身勝手というしかない。上の女性も親の身勝手の被害者と推察する。自分の親も半端ない身勝手な母親であったが、時々の被害はあったし、苦しんだし、泣くこともあったし、やるせない少年期を過ごした。こういう親の舌にいることを呪った。
時々のことはともかく、トータルでいうと悲劇という人生ではない。「親の言うことを聞いて、自分なりに真面目にずっと生きてきたつもりでいた40歳まで。」という事はまったくないからだ。親の言う事を聞いたのはせいぜい小学3年生くらいまでであったろう。もし、40歳までそうであったなら、屁にもならない人間であったろう。屁が下品なら雲散霧消と言い換える。
彼女はいわゆる"よい子"で、おまけに専業主婦だから社会性が希薄であった。「専業主婦をしていたので、仕事らしい仕事をしていなかったので、仕事をするということも分かっておらず、まわりから叩かれながら仕事をして(今思うと仕事してというより、みんなの足をひっぱていました。叩かれて当然です)でも必死で生きてきて、50歳をこえました。」
大変な思いで社会を体験されたようだ。短い記述であるが、原体験のなさがもたらす社会体験の苦労が手に取るように分る。彼女は専業主婦を引退し、社会にでてからというもの、足手まといの人生であったのだろう。親が原体験をさせなかったようにも思う。温室で純粋培養されて成長したのだろうか?しかし、40歳からの彼女の生き方には見るべきものがある。
「40の手習い」ではないが、必死で生きてきたの言葉が示すように、叩かれながらも果敢にできないことに挑戦していった様子がわかる。人間やればできるんだよ。「必死」と言う言葉は最近見ないし、聞かないし、だから新鮮である。こういうひたむきさに秘かにエールを送ってしまう自分である。人が何かに向かって一生懸命であるのは美しいものだ。
自分がダメな人間と分かる事は余程の思い上がったナルシストでない限りさほど難しくはないが、ダメな人間と分った時に、それでどうするかとなると人によって天地の開きがある。ダメでもダメなりに生きていける時代であるのは、ニートや引きこもりを見ればわかろう。ニートや引きこもりが何故ダメなのか?現代社会は多様である。多様な社会は多様な人間を生む。
「なぜ働かなければいけないのか?」と真面目に問う若者がいるという。どうしてそういう事が分らないのだろう?仕事についてはいろいろな考え方はあるが、基本的な考えで言えば「手段」である。「手段じゃない、生き甲斐だ」という人もいるし、いろいろな考えはともかく、「手段」というのはすべての仕事の基本にあること。では、何の手段であるのか?
「生きていくための手段である」。「命を長らえるため」とも言える。命を継続するためには食べなければいけない。仕事をしないで、ゴミ箱をあさり、残飯を食って生きる乞食はいるが、仕事をしたくないというなら、乞食になるか死ぬかどちらだろう。「ニートでも生きていけるよ~」という声もでる?「確かに、君の言う事は正しい」と言って欲しいのかな?
その程度の会話ならそれも会話だ。世に中にはニートを養う親が数十万人いる訳だから、「仕事をしないでも生きていけるよ~」というニートに話の続きはないし、ニートを出すまでもなく、仕事をしたくない人は乞食になるか死ぬかどちらかだ。自分的に、ニートという選択はない。乞食はともかくとして、働く意味、仕事をする意味の明快な答えであろう。
到底承服できないニートについて言葉を添えておくが、ニートをもつ親は何故ニートを解消しない?我が子がニートであることを満足しているようにしか自分には思えない。何とか解決したい、解消したいと思うなら、ニートは必ず解決できる。親の世代は、「働かざる者食うべからず」と言われていただろう?ニート解消するためには、親が感情を捨てて理性的になること。
ニートに限らず、物事を解決する基本としてまずいいたのは、自分の気持ち(感情)によって動く人は物事を解決できない。たとえその気持ちがどんなに人間的なものであったとしても、自分の気持ちで動く人間はダメ。なぜなら、問題を解決するということは、自分の気持ちを押さえると言う事である。貸した金を返金請求できないのも、自分の気持ちに負けている。
気持ちを無視し、相手に気を使う必要もなし、貸したものは返させる、借りたものは返すという、当たり前の法則で簡単に解決できる。ニートも同様に考えればイイ。ニートの子どもがかわいいなど考えるべきではないし、一般的にいえば、ニートの子どもを所有するのは恥じであろう。親がその考えに立てば別の考えも生まれてこよう。それが解決の第一歩である。
物事を解決するときに、手前勝手は無用である。解決できない人は自分が邪魔をしており、だから邪魔者を無視すればいい。「人間は感情の動物だ」とか、そんなことを言っているようではダメだ。理性的になって自分の感情以外の考えを持ち出し、客観的に判断し、行動する。ニートは身内に迷惑をかけているのではないのか?我が子だから親は迷惑でないのか?
迷惑などと思わないなら解決しない。本気で解決したいなら、善か悪かで思考するしかない。なぜ、働かず、家でダラダラする子どもにせっせと食事を運ぶのか、さっぱり分らない。悪態つかれて文句も言わず、まるで我が子の召使いだ。家族、親族に迷惑をかけていながら、「自分も人間。生きる権利がある」と大口開いて発言するニートがいたが、呆れたバカだろ。
お前が迷惑をかけてる相手も人間なんだぞ、と言って分かるのだろうか?ヒューマニズムとは、人道主義とは、自分のためにも、相手のためにもしっかりしようとする人間の思想である。甘えた人間は、ヒューマニズムの世界では抹殺されてしかりである。甘えるということは、他人に迷惑をかけるということであるからだ。ヒューマニズムは同情ではないのだと。
親に甘やかされた子が、親の期待に添うために親に媚びて嘘の自分を生きる。そうしていればわがままも聞いてくれるし通用する。そんな自分を40歳でハタと気づいて、自己変革に邁進した。必死で生き抜きぬいて50超えの彼女言葉には、どことなく充実感が漂う。彼女は40で人生をやり直したが、やり直した人生に新たな光を見出したのではないか。
「脳の回路が永いこと使っていたほうに動きがち…」と言う。40年の長きにあって、新しい脳の活性化もままならぬ。「親切な自分を目指して、利他的に生きられるようにがんばってます」。わがままに生きた反動、償いか?「自分を磨く行動をとれるように、そして、相手には与えることを続けられるように、生きて生きたい。」との前向きな態度は、驚くべき感覚の変容である。