「千里眼」という言葉(能力)がある。1里が約3.9kmで千里は3900kmだから、これは沖縄から北海道を往復する距離。そんな先を見て何の役に立つのか?奇妙な、"たとえ"であり、もっぱら超能力や透視能力と解されている。人の腹を読む能力もそれに類するだろうが、千里眼というのも変で、読心術という言い方がされている。読唇術は聴覚障害者特有の能力である。
映画『2001年宇宙の旅』で宇宙船内のコンピュータHAL9000が読唇術をする場面は不気味であった。動きのある唇よりも、見えない人の心を読むのは難しい。それでも読心術なる用法は、如何にしてなされるのか?正に見えないものを見るわけだから、単に能力というにはあまりに凄すぎる。それで超能力と言ったりするが、よく当たる占い師を超能力者と言わない。
自分は占い師を信じない。「有名な占い師」と言うワードで検索すると、占い師ってのはこんなに多いのかと驚く。いるわ、いるわの「わんさか占い師」状態である。これだけいてよく食っていけるものだと、つい要らぬ心配もするが、パートも行かずに本業一本で食って行けるというなら、それだけ需要があるのだろう。それにしても彼らのコスチュームには笑ってしまう。
いかにも占い師らしい衣装ってのがあるようで、ハッタリだろうと冷ややかに笑っているが、それを着ると"いかにも"占い師である。下手な釣り人がバシっと釣り人コスチュームで決めると釣り名人に見えるように、外見は人を騙す効果が高い。騙すというと御幣があろうが、「東京都内で占い師として有名な先生達をまとめました」というサイトもあり、運営者は不明だ。
おそらく"やらせ"だろう。皆がカネを出し合って作った一種の自演にも見える。「東京都内で驚くほど良く当たる占い師」、「東京都内で凄く良く当たる占い師」、「東京都内で超当たる凄すぎる占い師」を紹介、というワードならどれも同じサイトに飛ぶ。「古本屋の高く買います」と「よく当たる占い師」はウソとの世評があるが、そんなものかと思っている。
よく当たる占い師というが、「当たる」とは何が当たるんだ?犬も歩けば棒に当たるが、「当たる占い師」でトップの占い師の紹介欄に、「人気占い師で唯一ただ1人、すべてのTV出演を断った事で、芸能界、経済界、スポーツ界、同業者(占い師)がお忍びで通う人が続出した隠れ有名占い師。現在も断り続けている事で有名。」と、まるで子供騙しのような記述である。
まあ、雰囲気もコスチュームも凄いのって、占いを信じない自分が書くとバカにしてると誤解を受けようが、正直、「占い師」の需要があること自体、信じられない。人に人の未来が分ってたまるかであり、起こっていない事は分るというより予測だろう?それなのに占い師には分るといい、メシの種にするところがウソっぽい。なぜなら人を見抜いて何でカネをとるのか?
過去が当たった、当たったと大喜びする人もオメデタイ。それが自分の人生に何の役にたつ?人の見えないところで行動した過去がなぜ見える?お前は箱の中に入った物を当てられるのか?まして将来はこれから作るものではないのか?作っても(起こっても)いない将来が、どうして人にみえる?いい加減なことを言うな!腹を立ててるわけではない、茶番と笑っている。
上京して驚いたものの中に「新宿の母」がいる。新宿・伊勢丹横で占いを続けるおばさんの俗称で、長い行列ができていた。並んでいるのは女ばかりである。なぜ女は占いが好きなのか?その答えは言うまでもない、女性は感情で物事を捉えたり、考えたりするからだ。感情と言うのは細く、揺れ動くもので、女は自分の感情の支えとなってくれる存在を常に探し求めている。
それが親であったり、友人であったり、恋人、恩師、占い師による占いの結果もそうだ。男がすべてとは言わないが、自分に関していえることは、"人に人の事が分ってたまるか"であるから、占いなどまったく興味もないし、出すぎたことをいえば、あんなのはインチキくらいに思っている。まあ、何を言っても占いを信じる人が減るとは思わないが、鑑定料が高すぎる。
「新宿の母」は10分で5000円、時給にすると3万円だ。時給800円であくせく働くパートのオバちゃんも多いご時世に、おなじオバちゃんにしてこの稼ぎ。10分で5000円も出せる女は感情的動物加減をこれにみる。占いというのは、職業ジャンルで分けると接客業だからサービス業となる。そういえば医師はサービス業といわれている。かつて「医は仁術なり」と言った。
「医は算術」と儲け主義を揶揄された権威主義時代もあったが、昨今は「医はサービス業」という考え方が主流である。「医はサービス業」談義が盛んになったのは、規制緩和、市場原理主義がこの国を席巻していた頃で、公的規制を緩和し、サービス提供を市場原理に任せれば、競争原理が働いてより良いサービスが、より安く提供されるようになるという考え方であった。
しかし、この考え方に異論を示す医師は多いようだ。サービス業は、サービスを売り、その代価をお金で頂く仕事である。そうであるなら、たくさんお金を払う人には、たくさんのサービスを提供すべきだし、お金を払えない人にはサービスを売る必要はない。 医療機関がそうであってはならないはず。という倫理立てで、「医はサービス業」を否定する医師もいる。
どころが膀胱鏡検査をしたら、医師が失敗してしまい出血してしまった。その医師は正直にしくじってしまい、身体を傷つけてしまいました。念のためあと1日入院して安静にしておいてくださいと願いでて、患者の退院は1日延びた。翌日、退院となり、病院から発行された請求書を見ると、なんと1日余計に入院した分も請求されていたのだという。
医者の過失によって入院延長となったのだから、その分は病院側が負担すべきではないかということだ。車の修理に出し、修理工場が誤ってつけた傷の分の修理代までこちらが負担をするかといえば、答えはノーである。それと同じ理屈であるが、病院側は折れなかったという。理由は、「治療は車の修理とは根底が違う」というわけの分らぬ理屈で押し通した。
患者は医療側ともめて喧嘩になったが、医者の感覚とはまだまだそんなところが実際なのだという。車の修理と人間の治療は、本質的に何も違わないはずだし、いってみれば、病院も医者もサービス業という発想は、時代の必定である。だからそういう発想がない医師は危険といわれるのだ。医者も病院も厳しい選択競争にさらされていることを認識すべしであろう。
そのことを医者や病院はわかっていない。ある医師はこう提言をする。「医療ってサービス業なんですよ。同じサービス業の、例えばデパートだって日曜日に休むデパートってないですよね。そうすると、同じサービス業が日曜日もやっているのに、最もつらい立場にある病人に対するサービスが、比較的自由な日曜日にないというのはおかしくないですか?」
我々は医者や病院を選ぶ事はできるが、医者の心を見透かす事はできない。占い師はいい病院を知ってるのか?いい医者を判別できるのか?バカをいうな。彼らは商売でない事はしない。転んでもただで起きない人たちである。別にそれで構わん。占いは営業だから客にならねば済む。「医はサービス業」と最初に言った人は誰だろう。自分は日野原氏と思っていた。
日野原重明氏とは聖路加病院の名誉理事で御年103歳の高齢である。彼は最初に診察室に入った時、患者の顔を見て挨拶をしないような医師はダメという。勿論のこと、お金を払ってサービスを受ける我々患者側が医師に遠慮したり、ビビる必要はないのです。が、そうはいって命を預ける怖さがある。それが医師を傲慢不遜にした時代があったのは事実であろう。
また、医師にとっては One of themにすぎなくても、患者にとっては Only oneとなる。聞きたいこと心配なことは要領よく診察時に簡潔に聞けば、まともな医師なら快く答えてくれるはずだ。「自分に任せておけばいい!」とか「詳しく説明している暇はない!」と横柄な態度をとる医師や、インフォームドコンセントをおざなりにするような医師は信用できない。
日野原氏の言葉に「医はアート」というのがある。「医はアート」って?まさか医師にアートネーチャー使用者が多いといってるのでは?日野原氏は医学と音楽はとてもよく似ているというのだ。優れた演奏には、いわゆる楽理といわれる音楽の理論的解釈と、作曲された楽譜、そして質のよい楽器が必要だが、それだけでは聴く人を感動させることはできない。
いちばん大事なことは、それらをもとにしてどのように演奏者がその音楽を奏でるかという演奏のパフォーマンスであろう。つまり、演奏家のアート(技=わざ)は、音楽理論と楽器・楽譜を高いレベルの技術で統合して演奏することによって人を感動させることができる。優れた診療も、深い医学知識と質の高い検査データ、そして治療のための高度な医療機器が必要。
であるけれども何よりも大切なのはそれを適用する医療者のパフォーマンス、つまりアートであるというのが日野原氏。医療者の行うアートとは、医学知識や検査データ、そして近代医療を統合した上で病人にタッチして癒すパフォーマンスである。医師によっていろいろな考えはあろう。我々はどういう理念をもつ医師から恩恵を預かるかを考えればいいことだ。
人は見えない。だから見誤るのが当然であろう。人を見誤らない人はいないが、占い師だって、100%当たるとは限らない。そんな程度の確率で時給3万円とはな。医療も高いが元手がかかっている。占い師なんざ~、中卒でもやれる商売だ。先日男に捨てられた女のことを書いた。が、自分なりに結論を出したが、豚に真珠だった。やはりと言うか女の相談は結果を求めていない。
上に書いたように、女は自分の感情の支えとなってくれる存在を求めているのである。占い師も結果を出すような事は言わない。「明日あなたはこうしなさい」という占い師もいるのだろうが、するもしないも本人の自由。した方がいいといっても、本当にいいという答えが用意されているわけでもなく、しなかったからといって、不幸になるわけでもない。それが占いよ。
「愛ってよくわからない。私は彼とずっと一緒にいたかった。すごく大事な存在で、だから本当かどうかは別として、嫌なところを言ってもらえなかったのがすごくショックで、そんなことも言えないような関係だったのかって、全てをさらけ出せる関係じゃなかったんだってショックで。まだ今別れてるわけじゃないんだけど。もう彼に嫌われちゃってるから未来はないし。
話し合って付き合い続けても、私のショックは消えないし。そんな人のことをスッパリ嫌いになれない自分が嫌で腹立って、同時に私の気持ちを理解してくれないの?って彼に対しても腹立ってきて、自暴自棄になって彼のこと好きでも他の人とセックスはできるしそんな自分に吐き気がする。もう嫌だ…。私はそばに居てくれる男の人だったら誰でもいいのかな、自分のこともよくわかんないし。」
という、彼女のメールはうんざりんこ。理性的にまとめられた文ではないし、感情ばかりが湧き立っている。女の相談は相談ではないなと実感するばかり。自分の思考とはまったく相容れないし、彼女の言葉もちぐはぐで、これ以上何かをいうべきでないと感じた。感情の拠り所を求めているだけで、それが大方の女のホンネだろ。真剣に恋愛に向き合う女もいるのだろうが…
男の理性など女には無用である。理性的に何かを言っても、受け取れないんだな。自分は感情で彼女を癒す気はないし、だから「あなたの思うようにしたらいい」で終わった。結論なんてこれっきし求めていない。解決なんてのも、彼女なりの解決がある。当たり前だ、人は自分を生きる。しかし、あんなことを言われても大事な人って、バカじゃないのか?この女…。
セフレっぽいな。男のナニを求めてるんだろう。そう考えると「おすきなように…」である。別段、捨て鉢な言い方ではなく、関われない相手だ。セックスフレンドなら、いちいち人に相談するなであるが、それがまた女なのだ。まあ、自分がまじめに受け止めたのがいけなかっただけだ。女は自分が相談する男を女と思って相談するのがいる。このタイプはダメだ。
中には、「男の人はズバッと言ってくれるから、本当に困ったときは男の人に限る」という女もいた。それ以外の女の相談はお遊びである。適当にあしらっておくのがなにより親切なんだろう。「軽い気持ちで相談したのに、めっちゃマジになって困ってしまった」みたいな事は結構あった。あったけれども、相談を受けた時点で軽くあしらおうなど自分はできない。
人生相談はレジャーではない。本当に困ったこと、難解なこと、そういう人は確かにいる。自分もそうであったから分る。『若きウェルテルの悩み』ではないが、青春期の壁は大きい。その壁の多き事が活力になった。だから、自分のことを人に委ねた事はない。なぜって、自分のことだから…。解決を提示してくれる人は、自分より有能であっても、行動するのは自分だ。
如何によい方策を聞いても、実行(行動)しなければ屁にもならない。悩みを突き詰めて思考してみたとき、答えの多くは簡単だった。有能な人に答えを求める必要はない。カネを出す相談も…。簡単な答えとは、「行動」する事。結局、人は行動できないから悩む。人に相談して背中を押してもらうのはあってもいいが、行動力を授けてくれる人などいない。
占い師が本当に悩みを解決してくれるのか?気休めだろ?多くの女は気休め料を払っている。それは自由だし、気休めが欲しいなら占い師を儲けさせればいい。その点、男は一人で解決する楽しさがある。人に相談することもしないし、ましてや占い師など屁のツッパリにもならない。そう思う事が大事で、そう思うから何事も自分でやろうという力が備わる。
思うに悩みの多くは、行動によって解決できる事がほとんどである。「行動できたら悩まないよ!」こんな戯言、腐るほど聞いた。なぜ、答えが分っているのに実行しない。本当に悩みを解決したいなら、行動しろよ。できないなら、解決したいなどと言うべきでない。永遠に悩んでいるがいい。面倒くさいので、人に言わず、一人で悩め!