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普通の子が不良になる

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素行に取り立て問題のない中1の孫だが、どんな不良の子であれ問題のない時期はある。自分は子どもが不良になるのは100%親の責任と思っている。親8割、友人関係2割などの言い方もするが、どっちが正しいわけでもない。大事なのは確たる気持ちの所在である。悪友に確たる気などない。子どもが揺れ動く思春期である以上、確たる気は親が持つしかない。

「不良って何で不良っていうか知ってるか?」、唐突に孫に問う。「何で?わからん」、「不良は不良品のことよ」、「なんだ、そっか…」、「商品は機械で作るが、何個に一個は不良品がでる。不良品は使えないから捨てるしかないだろ?人間の不良も一緒で、社会にでてもどこも働かせてくれん。だからフラフラするんだよ。お前はそんな人間になんかなるなよ」

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「ならんよ、ボクは不良なんかに…」、「でも、みんなそう言って不良になるんだ。不良になりたくて不良になる者はいない。ほとんどの不良は気がついたら不良になっている。何でかわかるか?」、「多分、その子が弱いから?」、「正解!その通り。弱いから不良になるんだよ。不良ってのは強そうに見えるが、自分をそうみせていきがってるだけの弱ったれよ。」

「そうかもしれん、強い人は刀を抜かんって本にあった」、「昔、韓信といって中国で一番強い武将がいた。彼は冷やかしを受けて。股をくぐれといわれてくぐった。何でかわかるか?」、「強いからじゃないん?」、「いや、強ければやっつければいいだろう?」、「強さを隠しておくとか…」、「それは本当の理由じゃない。本当はそこで喧嘩して、もし相手を殺したら?」

「そっか」、「そうそう、捕らえられて監獄入って、それで一生終わりだろ?そんなバカなことにならないために無駄な争いを避けたんだな。我慢は悔しいけど、勝つ自信があるから我慢はできるんど。」などと、話しておけば不良にならないと言うものでもない。誰かの何かの言葉が、何かのときに頭をかすめる事があるかもしれない。それは爺の言葉でも親の言葉でもいい。

英雄豪傑の言葉でも行為でもいい。その子の中に留まって、何かのときの抑止力になればいい。ならぬかも知れぬが、なるかも知れない。自分がまだ小学校に上がる前から祖母は口癖のように自分にこういった。「どんな事があっても、人様のものに手をかけんように…。お前が欲しいというなら、どんなことしてでも婆ちゃんが買ってやるから…」一つ覚えの祖母の教えである。

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祖母は教えなどと毛頭ない。気持ちを正直に表したものであり、孫が警察の厄介にならぬよう、祈りを込めた言葉である。この言葉は、事あるごとに自分を支配した。だから万引きも含めて、人様のものに手をかけるような事は、自分の脳裏や心の中には目糞ほどもなかった。人は自らだけで善悪を考えるものではない。人からの言葉や何かを心に仕舞う従う場合が多い。

そこを考えると、「今言わなくても、いずれ分る」という言葉に信憑性はない。そういう考えもあるが、就学前から善悪を自分に言い続けた祖母の執拗さには感嘆する。「今言わなくても、いずれ分る」というのは男の理性としてよくわかる。が、年端もいかない孫に善悪を言い続けたのは祖母ならであろう。祖父や父の口からは出てくるはずのない女の願いであった。

その時分らないことも経年で分ることは多い。その時は「ウザイ」と思ったことも大事であるのが分る。であるなら、「分らない時期には何を言ったところで意味がない」というのは間違っている。連呼の大事さとは、頭では理解できなくとも体で覚えさせるのだ。体に染み付いたものになる。同じようなことをプロ野球の名匠といわれた、元近鉄の西本監督が言っていた。

選手には小さいミスをくどくど言う。相手が嫌な顔をし、「うるさいおやじだなと、モロに顔に出てもいい続ける。そうこうしているうちに、人間は言われるのが嫌になるから、言われる前にやっとこ、言われないようにしよう、と思うようになる。そこが狙い」。なるほど、名匠というのは卓越した采配や、秀逸な野球理論ばかりではない。こういうことも名匠なのだと。

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人に何かを言うのはしんどい、メンドイのは、相手が言われるのを嫌がるのが目に見えているからだ。人にいうくらいなら自分でやった方が楽。こういう人間は多い。性格だから仕方がないが、典型的に管理職には向かないタイプである。そういう人間は"自分は管理職になどなりたくない"と思っている。が、別の能力があれば管理職に抜擢させたりで様子をみる。

変わらない人間もいるが、「地位が人を変える」と言うように、変わる人間もいる。今まで対等の仲間が、役職になったかというように別の人間になる。「何だよあいつは、役がついたからって偉そうに」といわれたりするのを怖れて遠慮深そうにするのが一般的だが、役職には役職としての別の仕事があるんだ。今までと同じようにやっていてはいけない。

そう思うのが正しく、実際にそうにすべきである。そのためには上司からの言葉のサポートはプラスになる。「帝王学」とまで言わないが、上に立って下を眺めたり全体を把握するための視点を養う立場に位置するための、「帝王学」なる教科はある。学問以外の部分も大きいが、帝王になるのは大変である。高校時代の友人で超有名企業の社長がいる。

二年間社長を勤め、創業者の孫に社長を譲り、現在彼は会長である。何十年も疎遠になっているが、彼が社長であるのをテレビで知って驚いた。そうしていろいろな事が頭を過ぎった。なにせ、小学校、中学、高校も同じで、高一の入学式後の初ホームルームに二人は遅刻し、一緒に教室に入った同士である。いきなり、教壇の前で二人は担任からビンタを食らった。

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遅刻でビンタを食らったというより、遅刻して教室に入ってくる態度が担任のカンに触ったようで、確かにフザケていた。当時、高校生にビンタは普通であったが、彼も自分もこの一件でこの教師が大嫌いになった。15歳の感性はそういうものだ。彼は胆の座った物怖じしない性格で、生徒会長も勤めた秀才派というより、頭のキレがいい人間であった。一を知って十を知るような。

小学生時は、札付きの悪学童で、人相もよくない典型的生意気小僧である。先輩からもよく小突かれたが、気が強いから刃向かっていく。そこら辺りも彼には大会社社長の資質があり、彼の社長を知ったときは驚かなかった。あれほどの会社なら役員賞与は数億をくだるまい。が、彼を知る者なら何ら不思議でない。彼がその会社でどう立ち回ったか頭に浮かぶ。

「上にへ~こら、下においコラ!」がダメ管理職の典型だが、彼にそれはない。媚びるというより力で圧していくタイプだ。時価総額7000~8000億円企業のトップともなれば、上を制する迫力は必要であろう。今だからいうが、小学校時代の彼は不良になってもおかしくない感じをもっていた。悪事で警察沙汰という不良ではなく、周囲を圧倒する力を所有していた大将気質。

趣味も趣向も違う彼となぜウマがあったのか不明だが、社会見学や行事などの写真には必ず彼と写っており、どちらともなく関心を抱いていた。「憎まれっ子世にはばかる」という慣用句は、まさに彼のための言葉に思えてならない。高2でクラス替えがあり、以後彼と会話する事はなかったが、大学卒業後に彼が現在の会社に入った事は友人から聞いていた。

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トップになるような人間は、やはり普通の人間ではダメだ。普通でないとはどういうものだ?と言われると難しいが、小学生時の素行だけを見ていると、不良になってもオカシクない奴が中学~高校とよい風に変節したということ。「学問」にも目覚めたろうし、持ち前の度胸と行動力がプラスされれば充分ふつうを超えた人間だ。反面、不良に落ちていく人間も見た。

思春期辺りから不良に堕ちていく人間の特徴は、勉強から逃げるタイプかもしれない。当時は学習塾のない時代だから、勉強の目的は上の学校を目指すとの目的意識がハッキリしていた。中学辺りから家庭学習をみっちりやらないと、高校で成績が上がらないし、大学も目指せない。ま、そういう時代であって、今のように勉強が嫌いでも大学行く(行かされる)などあり得ない。

川崎市の多摩川河川敷で、中学1年の上村遼太くん(13)が殺害された事件はやるせない。不良の喧嘩ではなく、18歳が13歳に目くじらたてて殺害するというような事があっていいものか?33歳と38歳ならそれほど違う意識はないが、13歳と18歳というこの世代にあっては、大人と子どもくらいの差を感じるはず。誰でも思い出せば、中1からみて高3は別世界の人。

逆に18歳からみれば13歳など鼻をタラしたガキであろう。そういう子どもを憎しみを込めて殺すという無慈悲さをどう理解すればいい。ちょいと反抗しただけで、「生意気な野郎だ」とか「ぶっ殺すぞ」とか、マジギレしたり、腹を立てたりというのは、18歳の側の情緒に問題がある。18歳の容疑者の父親が息子を庇うコメントをだしているが、それ自体は悪いことではない。

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父「犯人には相応の罰を受けてほしいと思います。ただ、息子は上村くんの殺害とは無関係です」

が、話の内容が、「うちの子に限って、まさか…」の域を出ていない。逮捕前に父は息子に確認したら、「自分は殺ったいない。無実だ」とそりゃあ、そういうだろうよ。だからといって、親子が真実を語っているわけではない。「私は息子を信じる」のはいい。信じると事実は無関係だから、じっと捜査の行方を見守って、事実が判明した上で所感を述べるべきだ。

誰だって自分の子どもを信じたい、信じるだろうし、そんな言葉は出さずともいいのよ。世間へのアピールだろうが、捜査に影響しない。誰が見ても我が子を贔屓目に見るだろう親がアレコレいっても仕方あるまい。親の知らない真の息子の姿を知って驚く親は多いが、それは親の無知ということ。だから受け入れるしかない。自分の知る息子が本当の自分などあり得ない。

「親は子に完全無知である」、そう考えて多角的に眺めておくことだ。「まさか」など思ってどうする?「まさか」よりも「もしや」という疑いが重要だ。子ども時代に親に本当のことを言った人間がいるか?それを思い出せ。子どもは人をいじめていても、いじめられていても、親にその事を隠す。なぜって、大人だって隠すだろう?そういう複雑心理が人間なのよ。

親は子どもにとって、もっとも近いようで、実はもっとも遠い存在だったりする。親子は対等ではないし、だから親に弱みを知られるのは嫌なのだ。逆にも言える。親だって子どもに弱みを知られたくないだろう?お互いが弱みを晒せる対等な関係ではないのよ。もし、親が本気で「子どもには何でも相談して欲しい」と願うなら、親も子どもに自分の悩みを相談することだ。

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相談されても答えられない。それでいいのだよ。相談というより親が弱みを見せれば子どもも見せるだろう。それなら親子は何でも言い合える関係になろう。いじめられてることも、いじめてることも、親にも知られたくないのは、知ってもらうメリットがないからだ。いじめを受けてる子が親に言って解決すると思っていない。子ども世界では親を出すのは卑怯なりの部分がある。

だから、親にいうと仕返しがくる。「ちくった」ということになり、さらに陰険な精神的に耐えがたきいじめに移行する。追い詰められた子どもは死ぬしかなくなる。大人が子ども同士のいじめを、何の問題なく解決するのは難しい。上村遼太くんは18歳の少年に暴行を受け、警察沙汰になった時でさえ、「もう仲直りしたので大丈夫」と警察に説明している。

親はおろか、犯罪を未然に防止する警察にさえウソの供述をするのが子どもの世界。また、上村くんを助けようと、上村くんの友だち有志数人が、18歳の少年宅に謝罪を求めて押しかけたという。この義憤が仇になって、上村くんは仕返しをされたのだ。こういう状況を考えると、上村くんを18歳の少年から引き離す方法はなかったのではないか?何という虚しさであろう。

笑顔のかわいい上村くんだが、彼の笑顔の裏にある苦しみやSOSを、いったいどの大人が受け止め(警察もふくめた)解決できたのだろうか?なんとも虚しさだけが漂う事件である。解決できないから犯罪は起こる、起こった犯罪者を収監して閉じ込めておかない限り解決できないとするなら、人智を超えた解決法をなんとか思考し、最善策を見つける以外に手立てはない。

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母「事件の日の夜、一度は外に出かけようとするのを止めることができたのだから、あのとき、もっともっと強く止めていれば、こんなことにはならなかったと、ずっと考えています。顔や体の酷い傷を見て、どれほど怖かっただろうか、どれほど痛かったかと思うと涙が止まりません。」

母親の言葉は今となっては虚しいが、子育てというのは"力仕事"でもある。「あのとき強く止めていれば…」、確かにそうだろう。が、それで遼太くんの死が防げたか?別の日に同じ事になったかもしれない。母親の後悔は事件をその日、その時間に限定したもの。そうではなく、もっと以前から、遼太くんへの感応・対応がなされていなければ、あの日の外出は止められない。

躾は生半可なものではなく、体を張るパワーがいる。だから"力仕事"なのだ。結果がすべてであり、あの時○○したら…という後悔は、やはりパワーが希薄だったのだ。遼太くんが学校に行くより前に母親が出勤し、遅い時間に帰宅するので子どもの把握ができなかったのは事実であろうが、これを母子家庭の悲劇とくくるのは、他の母子家庭の手前もある。

さまざまな母がいて、さまざまな子がいて、さまざまな環境があるからして、母子家庭だのと、何かにくくるのは間違っている。最新の脳科学研究によって、思春期に不良になる原因が解明されてきた。思春期の不良化は、精神病になる一歩手前の状態で、ここで信頼できる友人や大人に恵まれず、十分なケアが行われないと、依存などに悪化して行く。

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犯人とされる18才の少年は遼太くんに依存し、遼太くんは当初不良仲間に依存した。お互いがいかんともし難い孤独感に悩み、苦しんでいたのだろう。孤独や孤の要因は、親の愛を実感しなかったと推察するが、淋しさを紛らわすために、打ち込む何かを見つけられないのも不幸である。「すべての犯罪は人間が孤独でいられないところから起こる」といわれる。

今、遼太くんの母親の後悔は分るし、想定外の大事が起こったといえなくもない。自分が「あり得ない」の言葉が嫌いなのは、ほとんどの事は「あり得るべくして起こる」の考えに立つ。「結果」には必ず「原因」があると、そのことを頭において常々親は危機感を持って子どもに接するしかない。



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