ずいぶん前に『トゥナイト』という番組で、「まじめな社会学」というコーナーがあった。担当は山本晋也監督である。番組の街頭インタビューで、「女性は見かけの美しさか?内面の美しさか?」という質問をした。そのとき、全員が内面の美しさと答えたという。そこで監督は一計を案じ、カメラを止めて「本当はどっちなの?」と聞いてみた。さて、結果はどうだったか?
「やっぱり、外見よね。」が、100%であった。山本監督はテレビのウソをカメラを止めることで正しい「社会学」を披露したことになる。人間は美しい言葉を好む。心にもない言葉を人前では避け、美しい言葉を並べるのはお行儀のよい日本人に多い。顔じゃないと言いながらも「外見」、おカネじゃないといいながらも「金」、勉強ばっかりではといいながら「学歴」である。
「人は中身か外見か?」の問題に結論が出る事は永遠にない。結局どちらも必要だから、「両方大事」に行き着くし、「表裏一体」的な二者択一に誰が結論を出せるというのだ。あるいは、誰が出した結論を正しいといい切れるのだ。時と場合によって、外見に心を奪われたり、やはり中身の大事さに気づいたり、常に揺れ動きながら人間は成長していく。
成長した暁にどういう結論が待っているでもないが、ある時期、どういう相手を伴侶として選んだかというのはその時の状況もあったろうから、自分は結婚相手は絶対に中身だ、いや、絶対に外見だ、といってはいてもその通りになったわけでもあるまい。一度に両方選べないから、どちらかを選んで上手くいかなかった場合は、次には違う価値観になったりする。
恋人にイケメンばかりを選んでいた女が、結婚相手に野獣を選ぶ事は何ら不思議ではない。男の場合も同じ事が言える。容姿が結婚と言う日常生活に何ら寄与しないというのが分ったのだろう。せいぜい友人や近所で「素敵な旦那さんですね」といわれて、気分をよくするくらいで、結婚生活での実用性はなく、所詮は自己満足の世界なら経年で廃れていくはずだ。
男においても周囲の羨ましがる美女を伴侶としても、「百年の不作だった」と後悔する事もある。中身か外見かは"ない物ねだり"の世界なのかも知れない。外見で一緒になったら中身を問題にし、中身で一緒になったら隣のイケメンのご主人を鼻高々に自慢する奥さんに嫉妬したり、そういうものかも知れない。近隣にイケメン御主人がいなければ、そうまで思わなかったかも。
これを「身近な問題」という。遠くにありてならさほど気にしないことでも、身近な問題となると話は違ってくる。いいと思って結婚した夫との生活に何ら問題があるわけでもないのに、隣のイケメンご主人のせいで今までなかった劣等感に苛まれるのは浅はかなことだ。が、浅はかといっても現実である。こうなる理由は、妻の夫への愛情欠落の序章とみなせられる。
かつて韓流ドラマがブレイクした時、世のおばさんらが"ヨン様フィーバー"にうつつを抜かした。あれほど熱心に韓流スターに憧れるなら、亭主への愛情が薄くなって行くと言う事だろう。「結婚は現実よ。韓流スターは夢なのよ」というが、妻の見境ない鼻息の荒さを見せ付けられると、男とていい気持ちはしないし、妻への愛情が冷める夫もいるだろうな。
ハシカみたいなものだと静観する夫もいるにはいるが、客観的にみれば身の程知らずの入れ込みババァである。そんなことに感情を支配されない明晰な主婦から見れば、「おバカな人たち」となろうが、入れ込んでる人は他人目などなんのその。人様が何をやっていようが放っておけばいいし、「おバカな人たち」も心で思うこと。人の自由に口出しは禁物よ。
どのような方便・言い分けをしたところで、自分の亭主と韓流イケメンスターを比較しているのは紛れもない事実。結婚と言う安定にあぐらをかき、「夢を追って何が悪い」という妻につける薬はない。そうやっていられるのも、夫の稼ぎがあるからという感謝も忘れてはしゃいでいる女をバカと言わず何と言う。「バカ」にも種類があるから、「かわいいバカ」としておこう。
自分が言うのは、節度・限度の問題で、テレビのブラウン管の前で憧れのスターに投げキッスをし、CDやDVDを買ったりで思いを巡らせるのと、頻繁に家を空けて韓国ツァーに行ったり、コンサートにいったりとでは金銭的負担も異なる。そもそも電柱体型の妻、土左衛門体型夫に成り下がった結婚生活は「愛」より「惰性」であろう。だから刺激を求めるのだ。
夫は年甲斐もなくAKBに入れ込み、妻はジャニオタでファンクラブ会員と言う状況でありながらも、中睦まじい夫婦もいるし、これをユニークな夫婦といっていいのかである。互いが好き勝手な生活を夢見ながら、それでいて絆は深い「同床異夢」的夫婦であろう。屈託のないネアカ夫婦である。批判の余地もない楽しさ万点夫婦である。夫婦に決まった型はないのである。
「悪妻に一般的な型はない」で始まるのが坂口安吾の『悪妻論』であり、文中彼は次のように言っている。「思うに多情淫奔な細君は言うまでもなく亭主を困らせる。困らせるけれども、困らせられる部分で魅力を感じている亭主が多いので、浮気な細君と別れた亭主は、浮気な亭主と別れた女房同様に、概ね別れた人に未練を残しているものだ。」
安吾の『悪妻論』の本意を理解するのに相当の年月を要した自分である。つまり、悪妻そのものが魅力として亭主の心を惹きつけるなら、悪妻は良妻と結論づける安吾は、「女として何の魅力もない女こそ悪妻である」という。男女の性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを創案できない頭の悪い女は、問題である。
数学ができる、語学ができる、物理ができるなどの才媛と呼べる女は、学問はあっても人間性という省察なき秀才、知性なき才媛は野蛮人、非文化人と辛辣に言う。確かに人間性の省察こそ真の教養といえるものだ。いかなる知識やいかなる書物を読破したところで、それらは人間性の省察に役立つものであるべきだ。それほどに人間理解は難しいといえる。
一見ノー天気風な夫婦にこそ全人的交流があるのも頷けるが、問題は陰でコソコソ立ち回る夫婦であろう。と言っても、浮気をするなと言うのではなく、浮気は陰でコッソリやるものであるからして、そうではなく、陰でコッソリやるべきことでない以外のものに心を通わせられない夫婦は問題だ。浮気はコッソリやるのが相手への配慮という点において美徳である。
若い頃に、「あばたもエクボ」という言葉を知った。"あばたもエクボに感じられるようになってこそ、二人の愛は成就している"という言葉に頷かされた。異性関係や人間関係で目指すべくは、「あばたもエクボ」と悟る。が、いまは違う。それらはまやかしであることに気づいたからだ。補足するが、「あばた(痘痕)」とは、疾病によって皮膚にできたくぼみのこと。
エクボとは笑顔にできるくぼみ。どちらもくぼみであるが、あばたは汚いもの。エクボはかわいいもの。そのあばたもエクボのように思えるようになれという教えである。言い換えると、短所も長所として感じろ、ということだが、あばたはあばたと知りつつ、エクボと同じように大切であるべきで、あばたがエクボに見えるのは短所が長所に思えると同様に幻想である。
無理やりそのように思い込めば、あばたもエクボに見えることは可能である。同じように、自分の子どもだから何でもよく見えてしまうという、いわば「親バカ」も真の愛情ではない。子どものよくないところをよいと感じるのが「親バカ」というなら、親はバカにならなければ子どもの劣っている点を愛せないといってるようなもの。したがって「親バカ」は真の愛情ではない。
我が子が他人より劣っていても、親がバカにならずに愛せるのが真の愛ではないか。劣っている点は重々承知の上で、この子は誰よりもかわいいと思えることである。他人と比較して優れていることがなくても、かわいいと思えることである。比較をし、引き算から得たものが多いほど子どもを愛する親は、何かの価値基準でもって兄弟(姉妹)を比較している。
比較することで愛情などは生まれない。それは自己満足であり欲である。子どもの与えてくれるものの大きさによって満足するような親は子どもの心を離していく。幸いその子が親に与える大きなものをもっていたとしても、手放しで喜ぶ親に一抹の虚しさを覚えるだろう。「愛とは何か?」という本質的命題を子どもに供与せずして子どもは親から愛を学ばない。
愛されて育てば人を信じれる人間になるが、成績の上下で情緒を乱すような親を持った子どもは、真の愛を知らずに育つ。ひいては人を信じられない人間になるだろう。家庭環境というのは怖ろしいまでに子どもの全人格に影響する。即物的に無関係に愛されているという実感が、子どもの情緒によい影響をもたらせる。いわゆる無償の愛が、子どもの心理的安定を育む基礎である。
「お前のために頑張って働いてやっているのだ」と口にする親と、黙した親の後姿から学ぶ子どもとは大違いであろう。恩着せがましい言葉の羅列で責められた子どもに心の安らぎはない。どう見たところで子どもは家庭内において心理的に受身であるから、だから「愛され」、「守られる」必要はもちろんだが、「愛されている」、「守られている」を感じることが大事。
子どもに純真な心を持ち続けさせるよい方法は、子どもの周りにいるすべての人が純真なものを尊重し、愛することかもしれない。純真さとは、たとえばこの世に新しい人間として生まれた赤ん坊を抱いてその目を見ると、赤ん坊のエネルギーを感じるが、そのエネルギーは赤ん坊が全くの白紙の状態から出ていることの驚き。これ以上に純粋なものがこの世にあろうか。
純真さ…、即ちピュアな心が何をもたらすのか?自分を愛し、他人を尊重する心であろう。尊重も愛であろう。愛する能力を持つ人は、人を愛することによって、その人を自分の価値ある存在におしあげる。人を愛するから人は自分の価値となる。さらに愛は安らぎとなる。自分自身の弱みや不始末があっても、相手を失うことがないと感じるのが信頼感である。
相手の弱点や短所に気づいても、それによって相手を見捨てる気持ちにならず、むしろ愛おしさが増すのが愛であろう。まさに赤ん坊に与えるような無条件の愛が、ピュアな愛であろう。それをどうやって持ち続けるようになるのか。人と人を比べたりしないのもいい。愛とは比較を完璧に無視するもの。比較しているうちは愛ではなく、比較されてるうちは愛されていない。
他に素敵な男がいようと、強い男が、逞しい男が、やさしい男がいようとも、目の前の男に心を惹かれて尽くしたいと思う女性が、人を愛する能力をもった女である。女の過去に拘り、汚らしくよごれているとか、悲惨な体験をしたとか、それで気持ちがさめるのは、その女性を愛していないことになる。文字にすれば簡単な様でも、人生体験のいることかもである。
これは「外見」か「中身」かの選択にも通じる部分もあるが、中身重視=愛情、外見重視=ミーハー、と世間では捉えられている。確かにその一面はあるが、イケメンと付き合ってみて、もてるから浮気に悩まされてもうコリゴリということもある。ハッキリ言えることは、外見重視が悩みの種だったとなる。では、性格のよい女と付き合って苦労したというのはあるのか?
「ある」とか「ない」より、ちょっくら思い浮かばない。性格のよい女はコリゴリで絶対に結婚相手は悪女に決めているというのもあり得ない話。そういう点から「外見」と「中身」を判断すると、外見<中身と言う事になる。確かに若いうちは何事も物の表面しか見えない近視眼状態というのはある。見た目がよければ中身もよく見えるというのは商売の基本でもある。
商品の包装や、同じリンゴでも見た目のいいものは美味しそうに見えるし、世の中のセオリーが見た目重視であるのは疑いがなく、だから人間も同じように見た目がよければ中身もよく見えるのだ。あとは、いろいろなことを経験し実体験から見た目に騙されないという事を学んでいく。すなわち、見た目重視が悪いのではなく、そこに人間の弱点をみることだ。
さするに「人間は中身」と言い切る人に、自分自身の中身に自信があるかと言えば、それは別の問題であろう。「人間は外見だよ、そりゃあ」という人が顔に自信があるというわけでもないだろう。心理学的考察では、ブサイクほど外見に拘るとなっているし、前回も言ったように「外見」は何も容姿・容貌に限らない。身なりや服装、話し方、言葉使いもその範疇だ。
こうして、結論の出ない(結論などない)ことをグダグダ言うのも世の中の常。何も結論だけを求めて生きているのではないし、一種の遊びである。「人間は、中身」を真に実感してる人間が、「人間は見た目」派をどれだけ時間を割いて話しても納得は得ないものだ。その人がいつの日か、「やっぱり人間は中身だ」と変節するかも知れない。ないかも知れない。
どちらも持ち合わせてる人間はいるからだ。美に執着、見た目に時間をかける女は中身の悪さを隠すためではない。女は、永遠に「美」に憧憬を抱く動物である。化粧もしない、身の回りを構わない女性もいる。実は、自分はそちらの女性が好みである。「さあ、出かけるぞ!」と言って、「ちょっと待って!」と壁塗り1時間は待ってられん。そんな理由?そんな理由だ。