「あなたは女性差別主義者ですね」と言われたことがある。言われたからそうとは言えず、言われなくても差別者はいる。言った人間はそう感じたから言ったのだろう。今、同じように問われたら何と答えるだろう。おそらく、「そう見えますか?」と問い返すだろうな。現実に差別は存在するし、差別的な言い方もするが、根本的に人を見下すのは好きではない。
差別主義者は意識的であるが、気づいてない無意識者も多い。意識・無意識の比率はわからないが、「意識にないから違う」というのは正しくない。「あなたは女性差別主義者ですね」と言われた理由は、「女はバカだ!」みたいなことを言ったときである。固有名詞を出し、「田嶋はバカ!」、「上野(千鶴子)はバカ!」と言えば、女性差別者に聞こえないらしい。
が、「女はバカだ!」とくくっていうと、差別主義者と思われる。「田嶋」、「上野」という個人名を出したから補足をするが、彼女らはフェミニストといわれる人だ。自分はフェミニストの行動や思想を「頭が悪い」と思う事が多い。さらには「頭がいかれてる」と感じることもあるし、これらを率直な言葉で分りやすく言い換えると「フェミニストはバカ」となる。
なぜそう思うかは、彼女たちは男を攻撃して飯を食ってるからだろう。根っから男が嫌いとまでは思わないが、フェミニストは商売(職業)に思える事が多い。職業以外に男を嫌ってる部分もあろうが、どの程度ホンネで男を嫌っているかは本人以外には分らない。「嫌い」には段階やランクがあるだろうから。異性を求めるのが本能習性であるなら異性の否定はどういうこと?
二次被害や幼少期のトラウマは聞いたことがある。男から暴行や姦淫を受けたという事例がそのようになるのは理解に及ぶ。女性がフェミニストになる理由もさまざまだろうが、「頭のいかれた」フェミニストはともかく、フェミニズムとは、性差別を廃止し、抑圧されていた女性の権利を拡張しようとする思想・運動、性差別に反対し女性の解放を主張する思想・運動をいう。
男女同権運動との関わりが深い列記とした思想であって、田嶋や上野などの発言に見る極端な男性卑下者ではない。したがって、フェミニスト=頭が悪いのではなく、頭の悪いフェミニストが多いだけの話。フェミニストたちが(正しく)指摘するのは「父権制」の否定であり、どうして男に「不当に高い価値を賦与する」か?フェミニストは「男に価値がないから」と言う。
だから男にのみ選択的に与えられるすべての価値は「不当に高い価値」という原理をフェミニストたちは提唱する。これが飛躍した論理であるのは頭のよい人間なら直ぐに判ろう。なぜなら、逆にもし女性のみが実質的に権力の中枢にいる場合に、男性に不当に高い価値を賦与するか、それこそ疑問であるとフェミニストは攻撃するのだろうが、正当な攻撃はかまわない。
が、どうして男に「不当に高い価値を賦与する」のかの理由が、「男には価値がないから」という論理は本末転倒で、こういう反証はズレを超えて、妄想好き女の科目と言った方がいい。だからこういうことをいうフェミニストはバカである。仮定の話が悪いとは言わないが、もっとマシな仮定話はないのか?「男に価値がない」なら「女だけに価値がある」というのか?
男を無価値と退け、女だけを高価値というのは自己妄想も甚だしい。女の価値は女が提示するものもあれば、男が提示するものもあるはずだが、男を無価値と断罪=女が高価値というのはフェミニズムなんてものではない。「男はバカだから」と言う事で女の地位を確立するのが田嶋陽子的思考だが、こういう風だから彼女は女性に嫌悪されるんだよ。
「田嶋はバカ」は、男より女の方にその思いが強く、彼女は同性までも敵に回して卑屈になるしかない現状である。「自分が一番」の彼女は、人の意見が聞けないのは誰の目にも明らかで、そこに気づくことは、彼女を無存在にすること。彼女はその事が怖いのであろう。偉そうなことをいうのはいいが、人の意見に耳を貸さないで議論もできない彼女から得るものはない。
男はやさしくなければならない。なぜなら男は強く、逞しくあるべきであり、やさしさとは強さ、逞しさから派生するものであろう。重い荷物を持つのは女性をいたわるやさしさであろうが、ハンドバッグを持ったり、車から先に降りてドアを開けたりという物理的、外面的やさしさは日本男児のやさしさとは違う。そう言う男は映画の見すぎか西欧人の真似をしているのだ。田嶋陽子は、やさしい男に出会う機会がなかったのではないか?男の本当のやさしさが何かは、一緒に暮らしてみれば分る。もし、女が男といっしょにいて、「素直になれる」、「安心できる」、「躊躇うことなく心を開ける」、「くつろげる」という気持ちになれたら、その男はきっとやさしい男であろう。田嶋や上野は残念ながら男のやさしさに触れた事がないと感じさせられる。
好きなタイプの男性でナンバーワンの座を不動にする「やさしい男」であるが、なぜ女性は「やさしさ」に弱いのか?多くの女性は男に表面的にでもやさしくされると即座に男にほれてしまう。が、それも間もなく本質はやさしくないと分って「別離」を繰り返すのであろう。女が男にやさしさを求める理由は、女が本質的にやさしい生き物でないからであろう。
「悪女」、「魔女」、「鬼婆」、「角隠し」などの言葉があり、「般若」とは、「嫉妬や恨みの篭る女の顔」としての鬼女の能面である。女のやさしさは男を捉まえるための演技である事がほとんどであろう。それに気づかぬ男はバカというより、場数を踏んでいない事もあろうし、男の女体への憧憬が男が女に騙される要素であるなら、若い男は女の餌食になって当然である。
女は本来はやさしくしてもらいたい動物であり、男が女にやさしさを求めること自体"ないものねだり"である。男が女にもてたいならやさしく振舞うことだが、とはいえ、もてたいために振舞うやさしさってそんなのは見せかけに決まっている。なぜなら"意図"した行為であり、そんな簡単に本質的やさしさが身につくか?女にもてないなら嫌われる要素を改善すること。
文字に書いてはいるが、「女にもてたいためにどうする」という行為の羅列は抵抗がある。そんなにもてなければいけないのか?もてるために○○しなければならぬのか?がオカシイ、不自然、ワザとらしい行為であるから、男がそんなクサイ演技などはすべきでないというのが根底にある。もてる男は意思をしないで自然に、地で、生きていて女にもてるのではないのか?
作った行為(要素)は単にメッキであり、それでも女にもてたい男はいろいろ考えるようだ。アレコレ考えないでもてるならそれでいい、もてないならもてる事をあきらめろ、ではダメなのか。自分はそういう意図的行為をしたことがないから、する人間の心象はわからない。あえていうなら、①威張る・自慢する、②ケチる、③しつこい、これが女に嫌われる要素に思える。
社会的地位が高い、富裕者、高学歴、高面(イケ面?)など、それなりに自慢する(威張る)要素を持っているなら、事実だからそれでよいし、威張ると感じる相手が妬みや卑屈であったりする。しかし、自分は思う。それなりのものが備わってるなら、むしろ威張らぬ方がよい。せっかく優位な立場であるのに、なぜ威張る必要がある?そういう人間は逆に愚かに見えてくる。
ケチは女が大嫌いなもの。その理由は、自分に尽くしてくれている誠意が疑われるからだ。女がどれだけ自分勝手で短慮であるかは、男は自分だけにケチでなければ、他人にはいくらケチでもいいと思っているからしても分る。ケチかケチでないかの判定は自分では分らぬが、女にケチと言われたからケチではなく、その女の勝手な都合だと解した方がいい。
まあ、自分は女に好かれたいために見栄を張る事はしない。あくまで自分の相手に対する自然な気持ちを大事にするが、それをケチと罵るような女に自分の気持ちが入ってはいないだろうし、だからケチと言われて何とも思わない。去るならとっとと去れよと思っている。男をケチだという女は、男が心に秘めているものが分ってない、物欲まみれ女の戯言だ。
しつこい男も嫌われる強い要素である。女はナルシストであり、ジコチュウ、ワガママであるから、自分が求めているときに相手がいくらしつこくでも文句はいわない。が、自分が求めてない時の"しつこい"を嫌う。顕著なのがSEXであろう。人間には発情期がないとはいえ、生理周期による気分の高揚や、情緒の浮き沈みはある。それが女で、男はそこを理解しておくべし。
とモテない三要素を書いてはみた。ダメなものを改善すればよくなるのが一般的だが、威張らなくて、ケチでなくて、しつこくなければもてるのかというとそうはいかない。それでもてる保証はどこにもない。もてない三要素とは別のもてる三要素も加味の必要があろう。だ、先にいったようにすぐに身につくものではない。①強い、②やさしい、③信頼感が漂う、である。
やはり女は生物学的に言っても男に強さを求める。肉体的強さだけでなく、へこたれない精神的強さ、これは男の魅力であろう。優秀なサッカー選手、野球選手などの技能保有者は、どれだけ精神力があったかを如実に感じるように、料理人やデザイナーや多くのジャンルで女を凌駕しているのは、脇見も振らず、一心にひとつことにすべてを傾注できるからであろう。
将棋の有名棋士が、始めて女性の弟子をとるときに、多くの注文を出した。派手な洋服で身を飾らない、派手な化粧をしない、有名人・芸能人と交流しないなど多項目に渡る「将棋道」に邁進させるための覚悟を説いたものだ。「女性は周囲から自分が見られているを意識したときから"道"をはずれる」とその棋士はいいもしたが、思春期の女性にそれは難儀だったようだ。
AKBに恋愛禁止を言ってみても、サカリのついた少女に効き目はないと同じこと。②のやさしいは、男に限らず人間すべてに求められる普遍的要素である。しかるにやさしくない男は「強くない・逞しくない」点において欠陥人間である。外面的やさしさは属にいう化けの皮が剥がれるとの言い方で、これは女について言う言葉だが、男にも「皮」かむりはよくない事情がある。
上っ面のやさしさは人間関係を損なうし、本当に心の底からのやさしさでなければやさしさとはいわない。③の信頼も大事で、女は庇護を求める生き物だから、いっしょにいて不安を感じるような男はダメだ。別のいいかたで「頼りない」という。もてない三要素にもてる三要素を羅列したが、これが真に身につけばないよりはもてる。が、そうまでしてもてたいかは個々の問題だ。
「あなたは女性差別主義者ですね」という女性のパターンは決まっている。気が強く口うるさく、負けず嫌いで男とはあらゆる点において対等でありたい女。それ自体は別に構わないが、そういう女に限って掃除や片づけをしない。料理もしない。なぜなら、それがどうして女の仕事か?そういう方便を用意する。自分の嫌いなことにはチャーンと言い分けを用意する。
そういう女に「差別主義者」といわれても片腹痛いだけで、「お前に女の領分はあるのか?」と腹で問うている。口に出さないのは出してどうなるかが見えるからだ。というように、これが差別主義の本質であろう。差別主義者は露骨に言葉に出さず、腹で相手を見下す怖さを本質的に有している。そうならないように、感じたこと、思ったことを言葉にするようにはする。
「差別主義者」と言葉尻を捉える者が、差別主義が何かなど理解していない。だから、そういう相手には黙って言わせておく。本質の分らぬものに本質を提示するのは徒労である。自己弁護でする気はないが、自分は男と女を根本的に区別している。あえていうなら、「区別主義者」であるがそんな言葉は存在しない。差別とは、差をつけて区別することを言う。
区別に差をつけようがつけまいが、区別に差があっても不思議ではない。男と男の差も、女と女の差もある。能力差もあれば、容姿のような先天的差異もある。能力差については努力もあり、大いに言及するが、先天的容姿についてあからさまな差別感を自分は有さない。同性差別も異性差別もあって当たり前というスタンスだから、あえて「差別主義者」といわれても返答しない。
が、そういう時にいう差別主義者は烙印である。男女の性差を否定する方が無理があるのに、平等論者の多くは性差を認めない。「カラスは黒い、白鳥は白い」といって、差別主義者といわれるなど何とも思わない。男女に格差があっていけないとはまるで思わない。その差を尊重して別の価値で異性を尊重しあい、互いの価値を高めて行くのが真の男と女のあるべき姿であろう。
田嶋のように「男に価値はない」という女は、逆に(男から見て)「女は無価値」と言っているのだ。無価値と無価値が喧嘩してどうして価値が生まれよう。ハゲとハゲの喧嘩なら「土どちらも怪我(毛が)なくてよかったね」となるが、無価値同士の言い争いは便所の落書き程度の言葉しか生まれない。まあ、何でもカンでも平等に扱えというなら、「女性専用者」は廃止だ。
男子校に女子、女子校に男子を入学させる。妊娠・出産の特別扱いも止め、戦争になったらアラブの女性兵士のように日本も女性を招集する。トイレの男女差別、公衆浴場も混浴にすべきだ。このように差別論者は単に違いを差別と認めるだけで、そこに歴然と存在する上下の君臨と従属の差を認めようとしない。だから無理があり、無理が出るし、そういうところに気づいてない。
当たり前に気づくべくところに気づかないのを世間では「バカ」という。出来る、出来ない、する、しない、以前に気づかないのは、どうしようもない「バカ」というしかない。逆DVという言葉が流行りのようだ。流行と言うより現実であり、社会問題化している。そのうちこの国も女性の男性差別主義者が圧巻、「男性差別反対!」のプラカード行進が始まるのだろうか?