"「学ぶ力」か「学力」か、滋賀県知事と県議、教育めぐり白熱 "という新聞記事だが、滋賀県の三日月大造知事と県議の一部で「ぶ」をめぐる議論が続いている。新年度からの教育政策で三日月知事が「学ぶ力」の重視を打ち出しているのに対し、一部の保守系県議らが学力テストの点数アップに直結する「学力」を前面に打ち出すよう求めているからだ。
県は新年度予算案に「学ぶ力」向上に向けた新規事業を盛り込んだが、一部の県議らが「『ぶ』は不要」と、教育観をめぐって県議会議論が白熱しそうだ。これって"「重箱の隅」のほじくりあいか?3人の子どもの父親でもある三日月知事は、「テストの正答率で比べることを学力と呼ぶなら、学力を高めるために学ぶ力を高めよう」との持論を述べた。
しかし、県議からは「『学ぶ力』ではなく『学力』でいい」と厳しい批判が出た。背景には、滋賀県が全国学力テストで低迷を続けている実態がある。文教委員会では「(学テの)成績が下位だから県民はいらいらしている」と注文がついた。ある県議は「教師や周りの大人が本気になって取り組まないと意味がない。県民に分かりやすい名前の方がいい」と話す。
一見、どうでもよいような論争をしているようにも思えるが、実は重要な議論であるというのはハーバード大学院国際教育政策専攻修士過程修了、東京大学工学部システム創成学科卒。1男2女のイクメン父として、独自の子育て論も展開する本山勝寛氏。彼には「学びの革命」をテーマにした多数の著作がある。何がそんなに重要なのかについて、本山氏はこのように言う。
「学ぶ力」と「学力」。本来は同じ意味を指すはずだが、「学力」の場合は「学力テスト」のみと紐付けて考えられることがしばしばある。三日月知事がこだわる「学ぶ力」とは、学校の教科のみならずあらゆる場面、あらゆる事柄から自らが主体的に学ぶ力と推測する。「学ぶ力」とは、物事への好奇心や探求欲を持ち、自ら学ぶ方法を身につければ、「学力」は自然と身につく。
本山氏には、『「東大」「ハーバード」ダブル合格 16倍速勉強法 』なる著書がある。なにやら怪しげなタイトルだが、一連の記事は自著に関心を引き起こさせるためでもあろう。「東大」、「ハーバード」を出ている事は素晴らしいが、問題は彼が今何に従事してその頭脳や学問から得た知識を役立てているからだが、彼の経歴の記述があまりにも稚拙で笑ってしまった。
東京大学工学部システム創成学科卒業、ハーバード教育大学院国際教育政策専攻修士課程修了。日本財団広報担当。1981年生まれ。 大分県出身。小学生時代、集英社の『学習漫画日本の歴史』シリーズを暗記するくらい全巻熟読し、社会科の成績が常にトップ。 高校でテレビアニメ『お~い!竜馬』をきっかけに司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み始め読書にはまる。
持ち前の読書力をいか し、高3春の「合格可能性なし」の判定から、塾にも通信教育にも頼らず独自の勉強法で成績を上昇させ、東京大学へ現役合格。 大学時代4年間で、歴史、思想、政治、科学、経済など1000冊以上の本を読む。その後、韓国留学を経て、ハーバード大学院に 留学。その国の言語で本を多読することで、独学による語学力の劇的な向上に成功する。
というものだが、「小学生時代、集英社の『学習漫画日本の歴史』シリーズを暗記するくらい全巻熟読し、社会科の成績が常にトップ。」と、こんな経歴は必要なのか?何のためにこういう記述がいるのか?東大・ハーバード大を出ている人間なら、大学卒業後の経歴を重視すべきなのに、上のような小学校のマンガのような経歴を書くなど、普通は羞恥の極みではないかと。
東大・ハーバード大以降の経歴に特筆すべきものがないのだろう。それでも東大・ハーバード大は光る経歴になるというなら、自己満足である。いや、「凄い」、「羨ましい」と思う人がいるから本が売れるのだろう。東大もハーバードも出ていない、小卒の土建屋のおっちゃんが総理になり、その本がジャンジャン売れたのも、小卒以降の経歴が人の目をひいたからだろう。
悪口を言いたいわけではないが、東大を出た人間が、"こうしたら東大に入れますよ"なんて書いているようでは、現在の状況が推測できる。茂木や堀江のような東大出身者が、「東大なんか屁だ!」という方が、現実的で面白い。世の中には経歴依存で生きる人間と、実力で生きる人間がいて、世の親と言うのは子どもに経歴を持たせれば安心という親心はあろう。
しかし、東大を出ようが、ハーバードを出ようが屁にもならないのが現実社会だし、ゲイツやジョブズのように「ハーバードなんかに居て何になる」、「スタンフォードなんか出ないでバカでいろ」という人間の書籍の方が読む価値がある。肩書きで仕事をするのではない、力(能力)が大事あるのに、肩書き幻想を親が抱くのは、肩書き=成功、あるいは肩書き=能力という錯覚だろう。自由にさせておけば、その子がどれだけ花を咲かせたか分らないが、無理強いした事でつまらぬ人間、あるいは犯罪者に陥った不幸な子どもはいた。親は子どもを幸福にしなくてもいいから、不幸に落とし込むような言動は慎まねばならない。『「東大」「ハーバード」ダブル合格 16倍速勉強法 』には、"誰でも今から実践できる"と書いてあるが、当たり前だ。
実践なら乞食にだってできる。実践と成果を混同しないように、この本を読んだ人間の何割が同様の成果を得れるのかという幻想を棄てることだ。幼稚園からフィギュアスケートを習っても、全日本や世界大会に出場できる選手になるのは目糞を潰して顕微鏡で見るくらい、もしくはそれ以下の粒である。将棋の県代表クラスでも、プロ棋士になるのは東大入学より至難という。
昨年将棋の初タイトル「竜王位」を取った糸谷哲郎竜王を幼稚園の頃から知っており、その当時に2局対戦もしたが、どう考えてもそこらの子どもではないのが印象的だった。将棋の強さではなく、全身すべてが同年齢の常人とはかけ離れた得意な性格である。羽生や森内は普通の小学生だったらしいが、糸谷少年には大人を餌食にしたいとする鷹睨みの凄みがあった。
そんな彼が12歳で棋士養成機関である奨励会で辛酸を舐めていたころは、4段になれるのだろうか?ひょっとして3段にも上がれないのではないか、そんな気さえした。彼の奨励会全成績を見ると、ダメなときはてんでダメ、しかし火がついたらとてつもない強さを発揮するのが現れている。苦労は最初だけで、5級に昇級するやアレよアレよの間に三段に昇る。
三段リーグも3期・勝率.722で突破した。これは一例に過ぎないが、経歴も肩書きも不要の実力社会に生きる人間の在り方だ。もう一人、同じく広島県出身の今泉健司氏は41歳にして念願のプロ棋士となった。一般的に40代はプロ棋士でも棋力が衰えてくると言うが、「年齢は意識したことがない。諦めずに努力していけば、必ず道は開けると…」と彼は言う。
今泉氏は二度の奨励会を経験したが、棋士への夢は実らず、挫折を繰り返しながらも定跡外れの人生で夢を掴んだ。山に登るにはいろんな道があるように、彼は彼の道で極めたし、人生なんてのは挫折といったところで命まで取られるわけじゃない。志半ばで命を絶った人の弱さには相当の理由がある。チヤホヤされて生きて来た人は周囲はみんな味方と思うのだろう。
それが、何かの理由で敵に感じ、終には八方塞がりになる。無理して人に嫌われることはないが、「好かれてないな」と思うのも大事なこと。自分を認めてくれる人はこの世の中にたった一人でも居ればいいじゃないかの気持ちでいい。何もみなから拍手をもらうこともない。仮にそのようであっても、心からの拍手とは限らないし、皆は自己中心に生きている以上、妬みもある。
周囲に多くの人をはべらせている人は、一見して多くの人に好かれているようだが、相手にとっても「利」のあるつながりであろう。「利」が人を繫ぐことが悪いと思わないが、「利害」だけで繋がってる人間は侘しい。誰からも好かれたいからと多くの人に囲まれて自己満足に浸る人は、その数を自慢したいのだ。本当に理解し合える人間となら毎日話などはない。
「心の友」が本当の友に思えたりする。「心の友」とは、会話がなくとも時々思い浮かべる相手である。「今、どうしているのか、何をしてるのか…」それを心に浮かべられる相手のことだ。「学ぶ力」と「学力」が問題になるのは、木を見て森を見ずのどうでもいい問題に思う。「学ぶ力」が学力に、「学力」は「学ぶ力」から輩出されたではイカンのか?
それとも、「学ぶ力」ナシに「学力」を向上させたい意向なのか?レンジでチンの時代ではあるけど、学力レベルの全国平均値の低い滋賀県が、レンジでチン的な学力向上を早期に実現させたいならそれも良かろう。となると、「学力」とは眉唾的な気がする。「学ぶ力」の結集や成就が「学力」に反映しないなら、「学力」そのものに意味がないように感じるのだが。
いずれにしても、「そんなに時間をかけてられない」という短絡的な発想からの応酬であろう。先の本山氏は「重要な問題」と言うが、滋賀県議会の議員のレベルもお粗末である。「知力」とは「知識力」だけではなく「考える力」も測るものだ。もっとも、考えないで知識だけを仕入れる事は可能である。これを「詰め込み教育」といい、それは弊害と言われている。
いかに知識があれど、考える力のない人間は話しててつまらん。知識はあらゆることと縦横無尽の関係にあるが、断片的に遮断した知識はクイズの回答のようなものだからである。知識を交えたいろいろな話ができる人と、ただ知識だけがつまっている人との違いである。知識があっても知恵のない人間がつまらないように、「学力」だけ充実した人間もつまらない。
「学ぶ力」抜きに「学力」を上げたい滋賀県議の体面意識、どう折り合いがつく?文科省は学習指導要領のなかで『確かな学力』という言葉を使っており、これは基礎的な知識や技能だけではなく、学ぶ意欲や思考力、判断力を含めた幅広い学力を育てるという定義である。普段、何気に「学ぶ」とか「学力」とかを我々は使うが、殆んどは習得になっていないか?
何かを得ることだけが「学ぶ」ではなく、「学ぶ」の本質、「学んだこと」の意義は、「何かが変わること」だ。言い換えるなら、人は何かを変えるために学ぶわけだ。学んだの証しはただ一つ、何かが変わることである。「学力」は「人間力」につながるものであるから、人間的魅力のない高い学力保有者は電子計算機でしかない。電子計算機が古い?ならばコンピュータ。
学力、学力、学力と、まるで受験のためだけに学力は必要とされている。確かに受験に学力は必要だが、中学~高校と勉強をせず、それでも大学へ行こう、親も行かせたいと、あわてふためいて必死に外注で即席学力をつける。こんな時代にいつからなったのか?自身の学力に頼るしかなかった時代、早い時期から大学に照準を当てて勉強をしたのである。
切羽詰って予備校のない時代では早期目標を掲げて学力を向上させるしかなかったのである。今のような駆け込み寺で即席に付けた学力がどういう結果をもたらせているか、大学の幼稚園化であろう。まあ、幼稚園化と言うのは比喩であるが、講義は中学レベル、入試は「同意」で合格という昨今の大学の低レベルに、文科省がついに「ダメ出し」をした。
文科省は今月19日、講義内容や運営方法などに不備があるとして、改善を求める大学253校を公表した。新設された大学や学部を昨年度から調査を始めており、対象となった502校の約半数に問題が露見した。多くは学生の定員割れや、教職員の高齢化などであったが、大学としての"適格性"が問われそうなものも少なくなかった。大学の"適格性"とは何だ?
一部の講義での"レベルの低さ"が問題視された千葉科学大(千葉県銚子市)を例にとると、たとえば「英語1」の講義。同大のシラバス(講義計画)によると、冒頭から「be動詞」、「過去形」、「進行形」と、中学校レベルの内容が並ぶ。「基礎数学」の講義でも、割合(百分率)や小数、四捨五入とは何か、から教え始めるという。これが昨今の大学である。
つくば国際大(茨城県土浦市)でも、「化学」の講義が元素や周期表の説明から始まったり、「生物学」では光合成やメンデルの遺伝法則を一から学ばせたり。そうしなければ次の段階に進めないからである。なぜこのようなことになるのか?中学、高校で勉強しないバカが、就職するのが嫌だから、高卒では将来の嘱望はないからとの理由で大学に行くからである。
「行く」は「行かせる」から、、「お前みたいな勉強が嫌いで遊んでばかりいる奴はさっさと社会に出て働け、そして人の役に立て!」と、海援隊の『母に捧げるバラード』のまんまのセリフである。「知恵のない奴は汗をかけ」と言われた時代だが、この言葉はことによっては「差別用語」となりかねないご時世である。バカでも即席で学力が作れる時代なのだ。
こういうバカが大学に行くから上のようなカリキュラムになるのだが、こんな大学が必要かの前に、親も、進学率の数字をあげたい学校も、根本から考えなければならない事態だが、その前に社会が本当に大卒を求めているのかどうか?高卒初任給と大卒(短大)初任給に格差を設けているのを止めたら、ネコも杓子も大学に行こうとしなくなるのではないのか?
企業は何のために初任給に差をつけているかといえば、大卒=良い人材ということなのだろう。専門知識も身につけているというのは、確かにある。マクロ経済や工業系の知識を多少なりかじっているというなら、企業にとってプラスになるという具合。ところが、百分率や小数が分からない大学生がこんなにも溢れる時代である。その事は数年前から言われていた。
ある大学4年生がスーパーの閉店間際、298円の30%引きシールでいくらになるか計算できないのを知って驚いたが、「レジで計算してくれるから必要ないでしょ?」と真顔で言うのにも驚いた。便利さが人をバカにしているし、頭を使わなくても不便を感じない時代の弊害なのだろう。これって弊害か?弊害と言わない時代はもうそこまで来ているようだ。
バッターが10回打席に立ち、ヒット3本打った。このバッターの打率はいくらか?と聞いたとき、「打率って何?」と返され驚いた。「だって、野球に興味ないもん」と、自己正当化された。なるほど、それなら自己正当化させないよう、問いを次のように変えた。サッカーのAチームとBチームが10度戦った。結果はAチームの7勝3敗となる。Aチームの勝率は?
「サッカー興味ないから分らない」とは言えないはずだ。結果はいわずもがな、勝率の意味すら分かってない。こういう大学生を企業は雇用するなら、日本の将来は一部の有能者にかかっている。小・中学から勉強しないと大学には行けない時代にすべし。それより大学をもっと減らすべきだが、それだと「うちの子どもの行ける大学がない」と親は嘆くのか。