高1のときの担任Tが釣り好きで、ときどき釣りの話をした。餌がどうの、場所がどうの、小船まで買って休日に沖合いに出かけるとのことだが、生徒を誘うわけじゃなし。生徒を私的に誘う教師はいないだろうが、随分前だが、地元のバカ高校の女生徒が教師と関係を続けてると聞いたときに、その学校に連絡してやろうと思ったが、よくよくバカバカしいので止めた。
なぜバカバカしいと思ったのか、その生徒が教師との関係を無理強いさせられていたのではなく、自分から仕掛けて以降楽しくやっているなら、その教師を指弾する必要もなかろうと思ったからだ。陰で不倫理、不道徳なことをやってる人間なんて、教師だろうが警官だろうが、宗教の教祖だろうが、そこらのおっさんだろうが主婦だろうが、所詮は人間のやることだ。
見つからなければよいし、見つかれば非難や責を負えばいいし、第三者が他人のアンモラルな行為に関心を持つこた~ない。その学校に我が子が通っているというならすぐに問題にすべきだが、他人の子だから日和見主義ということでもなく、他人のことに関わればあれもこれもでキリがない。何かを知って善人ぶる前に、自分のことはどうなんだと、それもある。
自分のページを他人にめくられて、何もないなどあり得ないが、自分でページをめくれば飛ばし読みもするだろう。巷にあっては印象的な事件は数多しだが、他所で起こった事件を我々は報道で知るしかない。報道は事件の細部を、あらましをキッチリ見せてくれるわけではなく、そういう不満は仕方ない。ところが映画だと、まるで事件の現場に居合わせたようだ。
フィクションとはいえ印象的な映画も多い。今村昌平監督の『うなぎ』は心に残る一編だ。夫は釣りの好きな無骨者。無骨なだけに一途な愛妻家だが、妻もやさしい笑顔と愛想を絶やさず、夫の夜釣りの弁当を作ったりの内助をみせる。が、それは表の顔である。一見貞淑な妻が、夫の夜釣りの合間に男を自宅に引き入れる情景をお隣さんに知られている。
お隣さんは夫に妻の行状を手紙で知らせる。通勤帰りの電車の中で夫がその手紙読む場面から映画は始まる。映画を見終わった後でこのお隣さんの行為について思考をめぐらせた。「趣味は何ですか?」、「思考です」と、分けの分らない回答で相手を煙に撒くのだが、「思考は趣味か?」と言う奴もいたが余計なお世話だ。自分が趣味と思うなら趣味なのだ。
何事も世間の枠でくくりたい、くくろうとする人間がいる。世間の枠はマジョリティとして「常識」と名を変えるが、枠に嵌まらない、あるいは枠からはみ出す者を非常識と断罪する。ブログやソーシャル・ネット ワーキング・サービス(SNS)といった個人が情報発信するメディアはすっかり定着し、それらの動きを伝えるミドルメディアも存在感を増している。
こういう場では多様な言論を生み出し、ネット上の出来事がミドルメディアを経由し、マスメディアに取り上げられる昨今だが、こういうことは、基本的に良い方向だろう。マスメディアによる限られた視点だけでなく、多様な議論を生み出す可能性があるからだ。ところが、ネットとマスの共振がひとたび牙を剥くと、「炎上」という攻撃に転じることにもなる。
あるブログのある発言が何か問題になったとすると、どこからともなく、どこの誰かさんがちょびちょび攻撃に現れるというのだ。ブログやSNSによって誰もが自由に発言できたはずなのに、気に入らない発言にそうやってちゃちを入れ、いつの間にか大勢が「お前は屁をしたろう」、「屁をしたろう」と、みんなで指を差しあうような状況になって行くのである。
集団イジメという言い方もできるが、「私刑」という状況だ。つまり、個人がメディアを持ったことによって、誰もが「私刑」を実行できるようになったといえる。そこに怒涛の人間が押し寄せて、「屁をこいた』、「屁をこいた」と吊るし上げるのだから、たまったもんじゃない。自分がされたらどんなに嫌で煩わしい事だろうが、罪人の如きに攻め続ける。
膨大な攻め手に対応しきれず、ブログの閉鎖を余儀なくされるが、これをネット用語で「炎上」という。誰が命名したのか、面白い言葉だ「炎上」というのは…。煙を立ててもうもうと燃えるわけではないが、そういう雰囲気が感じられる。ネットで生まれた言葉が世間をリードしていく時代である。これまで「新語」というのは、マスコミが主導していたのだ。
やっているうちに、鼻くそを取り出す奥儀や合理的な方法を編み出すことにもなりかねない。極めようと意図するなら立派な趣味である。ただ、必要にかまけてやるだけなら趣味とはいえまい。「趣味はオナラ」という人間がいた。彼のオナラは臭気はないらしいが、多彩な音色と、7色の音階をこき分けるというからして、趣味が高じて特技にまで昇華した事になる。
書いて字の如し、「味わいの趣」あらばそれが趣味だ。世に変わった趣味の保有者は多く、芸能人伝説によると、原田知世の趣味はスカトロであるらしい。キューバの首相のファンではない。あれはカストロだ。原田知世スカトロ説を追ってみる。彼女のファンで、かつてつきあったこともある吉川晃司によると原田のスカトロは、ちょっとサドも入っているらしい。
つきあう男に自分のウンチとかを喰わせるらしい。”私のこと好きなら食べれるでしょ”って...。吉川も、念願かなって原田とおつきあいすることが出来たが、付き合って少したってからこれをやられたらしい。吉川がどう対応したかは不明である。そんなは性癖だろう?と、他人の目にはSMもスカトロもそうであっても、本人が趣味というなら趣味である。
人前で公言できない趣味の類だから、彼女にインタビューでこのことを聞く者もいないし、答える道理もない。他にも変わった趣味でいうなら、「野草マニア」、「生き物観察」、「献血マニア」、「コスプレ」、「古携帯収集」、「河原の石ころ収集」、「鉛筆の芯彫刻」、「屁の音階で作曲」、「自己啓発」、「資格マニア」、「心理学」いずれも趣味といわれる。
趣味らしくない趣味というのも当てはまらないが、かつての趣味といえば、読書、音楽鑑賞、映画鑑賞などが履歴書の定番であった。こんなものは趣味といわずとも誰でもするんじゃないか?で、趣味という以上回数(量)が多いということか。読む側も突っ込みを入れることもなかろう。女性の釣書に記入する趣味といえば、お茶、お花、俳句…、ほんまかいな。
「趣味はパチンコだ」という奴はいる。別にどうも思わないし、履歴書に趣味はパチンコと書けない時代でもなかろう。多少、躊躇う者もいようが、数十年前ならパチンコ、競輪、競馬といえば「穀潰し」の定番であった。「穀潰し(ごくつぶし)」とは、これまた死語であって、ただ、飯を食うだけで定職もなくぶらぶらと遊び暮らす者。のことをいった。
いまではこれを「ニート」というのか、それにしても、「あの男は近所でも評判の穀潰しだ」の方が迫力がある。穀とは、米や味噌など食事一般の意味で、それを潰してしまうということ。昔なら、「この穀潰しめが、お前なんかとっととこの家から出て行きやがれ!」と親から追い出されたものだが、最近はそういう意味でも甘い。ニートにせっせと食事を運ぶ親。
近所の兄ちゃんが、「何もせずに一日中家にいるなら、川で夕食の魚でも釣って来い、このバカたれが!」と父親に言われているのを子どもの頃に聞いた事があった。自分の父親も釣りを愛した人である。しかし、あのような母だから、釣れないときの言われ方は、「釣れもしないのに、餌代ばかりつぎ込んで、ほんまに腹の立つ!」などとヒドイ言われようである。
言っておくが、釣りは趣味である。夕食の食卓に並べるために行くのではないが、実入りがないと餌代云々を言いたくなるのが台所を預かる女の言い分のようだ。散々嫌味を言われても寡黙を通す父親に、幼児期の母を柱に縛り付けてた当時の面影はなく、ここまで言われてなんで一言言い返さないのか不思議であったが、今に思えばヒステリー女から得た教訓だろう。
映画『うなぎ』で浮気場面を目撃した役所広司が妻を刺し殺すシーンは、人が犯罪(殺人)を犯す動機に理解を得るほどに生々しいが、監督の今村昌平は、それほどに妻の貞淑さと淫乱さの一面の対比を際立たせている。今村昌平の人間観は以前にもここに書いた記憶があるが、誰ばれ捕まえては「おい、人間観察をちゃんとやっているか」と声をかけていたという。
『日本映画学校』を主宰していた今村は学校の理念をこう定めている。「人間とは、何と胡散臭いものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものかを真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい…」。今村のいう人間観察者の真意とは何か?
人が職場を辞める大きな理由は人間関係だ。仕事がキツイとか給料が安いとかより人づきあいにおける悩みの方がその人には甚大である。犯罪の動機とて同じこと。思わずカッとなってとか、他人の仕打ちを恨んで引き起こされる事件の多き事なり。男女の色恋沙汰もほとんどがそうであろう。男は女がたて突いたときに血が昇り今村昌平、女は男の寝込みを襲う。
女が非力ゆえなら寝込みは妥当だが、役所広司が妻を刺すときの鬼気迫る演技、自転車で口笛を吹きながら興奮を押さえ込もうとするところ、その足で警察の玄関をくぐり、住所氏名を名乗っって、「たった今、妻を殺して来ました」の場面のアッケラカンさは、人殺しという犯罪は、まるで鬼が島の鬼退治をして凱旋した桃太郎の如き正義感に溢れていた。
が、役所演ずる山下は、妻の愛くるしい笑顔と裏にある別の顔触れて逆上したが、以後、極度の人間不信に陥って対人関係を避けて生活する。悪事を善人面で行う人間を、今村は滑稽と捉えているのだろう。誰でもそういうものだし、何事もなかったかのようにすましてオナラをこく女が、浮気をしていながら何事もなかったかのような顔を繕うなど、朝飯前だろう。
今村はそれを面白いと称している。20代だったある日、部屋ですかしたオナラの臭いが漂ってきたときに、そばにいた彼女に言った事がある。「なんで、そんなオナラをしていませんという顔をしてお前は屁がこけるんだ?」、「えー、そんな、オナラなんかしてないよ」と来たもんだ。が、これはダメだ。オナラは二人しかいない場合、絶対にホシは判明する。
自分でなければ相手に決まっているのに、なぜに逃げ失せられると思っているのだろう?こういう嘘はあまりに無理があるし、100%判別できる嘘をつくものではなかろうに。どこかの場所で人を殺して、「殺ってない」というのと訳が違う。彼女はどんなに咎められても屁をしていないという性格なのだろうが、もし、女にオナラを吹っかけられたらどうすべきか?
二人が絶対に自分はしていないと言い張れば、相手に対する不信感は増すが、とりあえず放屁犯はうやむやにできる。しかし、どうしてもとっちめてゲロ吐かせたいならよい方法がある。あるけれどもそれをすべきではないとの結論に達した。「オナラ南下していない」と強情に言い張って、もし、確たる証拠を突きつけられたときの極度の羞恥心から未然に自殺を防ぐため。
だから、とっちめない方がいい。で、結論をいえば、「女にオナラを吹っかけられたら、自分だと言って上げることだ。」相手がトボけたら即座に、「悪い悪い、したのは自分だ」と言った方がいい。が、そういう自白をもってしたとしても、真犯人は動かない。つまり、してない方が「した」と言ったとしても、実際の放屁犯の屈辱はさらに増すだけであろう。