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5月5日の性くらべ

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実家の隣に居住するなおみちゃんは同い年、おててつないで保育園に通っていた。が、しばしば保育園から互いの家に「まだ来てない」と連絡があったという。自分の親となおみちゃんちの店員が付近を捜すと、河原で遊んでいたり、神社のお堂の中にいたり、材木置き場周辺にいたり、まあ麦畑にはいないし、いかがわしいことなど何もしていない。

就学前の幼児だから、異性を意識しあうということなどない。が、自分とは異なる人間というのは幼児にもある。行方不明ではなく、登園時間が数時間遅れる程度というのがわかると、もう探さなくなったと当時の園長先生から懐かし話を聞いたものだ。それが慣れっこになり保育園にきてなくても、そのうち来るだろうというのも二人に信用があったということ。

新一年生ともなると児童会の一員として並んで登校だが、遅刻も欠勤もない自由な保育園にくらべて、学校はいろいろ決まりや制約があった。なおみちゃんとの二人登園も分断され、我々は組織の一員となった。それでも二人は学校から帰ると保育園のときと同じように、彼女の家の商品倉庫(衣料品店だった)でよく遊んだ。遊びはいつも彼女が「~しよう」と決める。

男の子にままごとの主導権はない。男友達とは鬼ごっこなどで走りまわるが、商品倉庫で多くやった遊びは「殿様ごっこ」と記憶する。彼女は自分をお殿様に見立て、侍女のように振舞うのが好きだった。座布団を敷き、アイロン台を脇息にし、時に自分の部屋から布団を持ち出し、自分を病気にさせて介抱するのだ。病気になったときのやさしさに心は潤む。

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♪幼なじみの想い出は青いレモンの味がする~の歌詞のとおり、異性を意識しないまでも先天的に二人は異性であった。思春期にありがちな接触欲というものがまるでなく、それでも心の奥に男と女が存在していたのは間違いない。男の子は女の子の本能的なやさしさに心が息づき、女の子は男の子の世話をすることでの母性の本能を開花させていたのだろう。

最近の若い男がSEXに対する興味が薄れているのは、数年前から言われているが、一般社団法人「日本家族計画協会」がまとめた「男女の生活と意識に関する調査」によると、若い男性の「セックス離れ」は特別深刻なものではなかったという結果。調査は昨年9月、全国の16~49歳の男女3000人を対象に実施し、1134人(男519人、女615人)から有効回答を得た。

2002年から隔年調査で昨年で7回目。その中でセックス経験が50%を超える年齢について、14年調査で男性20歳・女性19歳と、若い男性の「セックス離れ」は事実でなく、男性29歳・女性28歳という誤った報道が、「セックス離れ:若い男性、性の『絶食化』」(毎日新聞)、「セックスレスの既婚男女増加=若年男性『草食化』も」(時事通信)などと報じられていた。

男性の草食化が進んでいると言われたころの分析によると、異性との関わりを面倒と感じたり、結婚に利点がないと考えたりしている男性にその傾向が強かったという。「相手との関係を築くには相応の時間とお金と労力がかかるなど、セックスに至るまでのコミュニケーションを難しいと感じる男性が増えているのではと懸念する。難しいは、面倒に連なって行く。

イメージ 3一般的に男性は相手より優位に立ちたいと考えがちで、これは本能的な闘争心でもあるが、学歴や収入面で同年代の女性に負い目を感じれば、結果的に関わりを避けることもあるのではないか。また、40年前、50年前と比較していうなら、昨今は性の氾濫が何らかの影響を与えてるように思う。未知の「秘密」の箱を開けてみたい、「禁止」は欲望を増幅させる。
昨今、「性」のどこが秘密じゃ?「禁止」も絵に描いた餅のご時世である。我々の時代は女性そのものがミステリアスであって、昨今は羞恥心の欠片もないほどにあられもない肢体を晒す女性に「パンドラの箱」は喪失した。かつてあった「裏本」は消滅、すべてが「表本」である。取り締まりも厳しく、女性を知るはナマで見るしか方法がなかった。

ネットの掲示板で男を誘うために、性器画像を貼り付ける中高生や小学生も珍しくない。そんな時代に生きる男の心情とはいかなるものかは古い我々には理解を得ないが。想像するに女性の秘所など珍しくもなく、そこら中に散らばっているのは事実である。セックスの興味は、まずは異性への興味である。老人が性に疎くなるのは異性への好奇心が薄れるからだ。

異性への興味は性器への興味でもある。若い男にとって女性器は閉じられた天の岩戸であり、お目にかかるにはそれなりの努力を要した。それが昨今は鮮魚店に行けばパック入りアワビのように簡単に目に触れるほどに価値を喪失した。滅多に性器を露出しないからこそ女がミステリアスな生き物であったはずが、これはもう「秘所」という言葉が死語といっていい。

こんな時代にあっては女性も憐れではないのか?海のナマコは海の中に居てこそ違和感のない姿を晒すが、そのナマコが家の生息し、ニョコニョコ壁に張り付いて動いていたら、誰もナマコを食したくなくなるだろう。それほどグロテスクな醜態だ。女性の性器とて、ある種の興味と好感を抱かなければ、露出された人間の体の部位であれほどグロイものはない。

正確には露出されてはないが、口腔も同じ意味での粘膜のグロさである。厚い表皮に覆われた生物は、より薄い粘膜の接合で相手と接触を叶えたい、それが口腔であり性器である。服を着たまま抱擁するのと一糸まとわぬ姿で抱擁するのと違うようにだが、女性に比べて早い時期からAVなどの画像や動画に触れる機会の多い男に、もはや女はパンツを履いたエテ公か。

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性に限らず、何事においても低年齢化は避けられないが、大人が児童を性的興奮の対象とする問題に関連しては、児童の福祉に反するという考えは維持・継承すべきであろう。これらは一般に性犯罪および児童虐待として扱われるべきものだ。子供の性の研究における最も有名な2つの研究は、フロイト及び、アルフレッド・キンゼイによるものである。

自慰及びオルガスムに関しては、1950年代のキンゼイの報告が有名である。キンゼイによれば子供は5ヶ月の年齢からオルガスムを感じることが可能であるとし、3歳まで少女が少年より更にしばしば手淫を行うことに気付いた。腟の反応は、成人女性のそれと類似した状態で性的に刺激された少女に観察された。これに対して少年は精液生産年齢が大きく関わる。

それまでの少年は射精を伴わない性的興奮の絶頂(ドライオーガズム)を経験し得る。精通が無く、精液の分泌が出来ないとあっては必然的にドライオーガズムとなる。子どもの性の問題は研究であって、市井的な理解に及ばない。また、医学的分析より、社会学的分析をすべきである。「男性の女性に対する学歴や収入面での負い目説」という分析はどうなのだろう。

これは医師であり「日本家族計画協会」理事でもある北村邦夫氏の分析である。同じ負い目説でも自分の社会学的考察によれば、女性の言葉の率直さに傷つく脆弱男が多い昨今ではないかと見る。「お殿様ごっこ」を幼児の遊びとして好んだなおみちゃんのような、女が男をごく自然にリスペクトする文化が廃れたのかも知れない。これは男女同権を否定するものではない。

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それは社会形態のあり方というのか、また、動物的生態学からみてメスよりオスが体型・腕力の優性を率直に認めていたのかは分らないが、両性の体格差はオスがメスを守る役目を負うからである。もちろん種による個体差もあるが、ライオン、ヒヒ、トドなどのハーレム型の配偶形態を営む動物は、性的二型(性によって体型が異なる)が大きく、雄の方が圧倒的に強い。

腕力・筋力などの体力、攻撃力についての強さとは別の、生命力についていえば女性の生きる力は強い。持続力(?)というのは男の領分だが、これも個人差によるものだ。自殺の男女比は圧倒的に男が多い。女性の自殺者は心神耗弱の精神的疾患、路頭に迷って死ぬのは男である。それと人間の場合は、体力差、腕力差以上に精神力(肝ッ玉)の差が強さに影響する。

メスが骨格上も筋量も平均的にオスに劣るのは、出産と哺育の機能を身体に備えているためであるから仕方がないし、その分オスがメスを保護する任を負う。ほとんどの哺乳類は優位な筋力面が力の強さとなるからか、オスとメスとで争う機会は少なく、そこはメスも自己防衛本能が働くからであろうが、人間はオスとメスがしばしば争ったりするのはなぜ?

それは言葉があるからだ。神はメスに筋力の代わりに言葉を与えたようだ。これでオスをやっつけなさいと…。人間は神の創った最大の失敗作というが、もちょっと設計の段階から考えなかったんかいねー?神もたいしたことないよ。三流設計士が設計した高層住宅なら壊して作り変えるしかないが、キリスト教のアルマゲドンも人類滅亡に向かっているという。

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「黙示録」は人類が「救われるか、滅びるか」の大問題を扱っている。救世主キリストの再来による救いと滅びであり、「清く分かたれた選びの民の救いと、悔い改めようとしない不信仰者の滅亡」という両者の明暗を分かつ。こういう考えは非キリスト信者にとって、極めて独善と偏見以外のなにものでもない。よってキリスト教会は一致した解釈を出せないでいる。

宗教の話はともかく、昨今の女性は男に守ってもらいたいのか?それとも家に悪漢が忍び込んできた時、夫を充てにせず自ら戦おうとするのか?東北大震災のときに、妻子をおいて我先にと逃げ出した夫に愛想をつかした妻による「震災離婚」が問題になった。まあ、自分に言わせればダメ男はともかく、日頃から夫をリスペクトしてその気にさせるのも女の技量である。

男を生かすも殺すも女次第というと御幣があるが、男の脳細胞は意外と単純に出来ている。『葉隠』は武士の指南書だが、こういう記述がある。「人の心を見定めようと思ったら病気をしろ」という教えだ。単純だけど、困ったときの親身度を測るには、病気になってみるのが一番と言うことか。「お殿様ごっこ」で病気でやさしくされるのはよい気分であった。

よい気分にしてくれる女性を身を挺してでも守るというのが男気であろう。本能と言うべきだが、本能も環境によって変わってくるように、人間の本能というのはそれほどにあやふやなものらしい。母性本能という神話が崩壊し、男の庇護本能さえも女によっては本能とはならない。あえていえば、男の守護本能をくすぐる「なぜか放っておけない女」は間違いなくいる。

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再度言うが、「男は単純である」。男と女に限らず、人と人が良好な関係を維持する上で大切なのは「初対面のつつましさ」で付き合うことだ。「つつましさ」とは何ぞや?「つつましさ」とは、自分の弱みを自覚するところから発露する感情である。互いが自分の弱みを分っていれば、相手に対して尊大な態度をとることはない。新婚当時の妻はつつましく、夫にやさしい。

夫婦関係が上手くいかなくなるのは、そういうものがなくなっていくからだ。ばかりか、相手の弱みに攻撃を与えようとするなど、これでは人間関係は壊れて当たり前だ。もはや初心を忘れた夫婦には修復しがたい感情の壁ができあがる。良かったときの互いの意識とはなにか、障害になっているのは何か、自分の価値観だけを信奉し、優先していないか?

こういう風に幅広い視点で考えられる人間は、すぐに行きすぎの何かに気づくし、つまりそういう障害を排除することを考える。子どもの進路についての妻と夫の隔絶した価値観も、様々な問題を思考して答えを出すことだ。なまじカネがあるだけに、金銭教育をしようとする親は多い。おカネがあったらよい教育ができると錯覚するのだろうが、それは本筋ではない。

①親の子に対する教育愛、②美しい自然環境、③ある程度の貧困。これが子どもの教育に大事であるとの考えを自分は信奉している。逆に考えてみるといい。①子に対して無関心、②乱雑な部屋など汚い環境、③裕福金満家庭。これが悪い弊害というよりも、思考ナシでいるならよい事はない。おカネもちが非難されるのではなく、カネにモノをいわせる短絡さが問題。

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長く同居して互いに遠慮がなくなるのはいいけれども、人は互いに弱みを持っているし、それを見せ合うのが夫婦であろう。長く一緒にいれば、それは必然的に見せ合い、出し合うことになる。つまり、弱みを晒すというのは信頼関係の表明であるし、こちらが出せば、「実はわたしも…」と偽った過去の経歴を訂正したりもありうる。弱みを見せ合うことで対等になる。

それが関係を急速に深めたりは往々にしてある。が、人間関係の難しさはここから始まるといっていい。「弱みを見せたらダメ」という言葉は、寝首を掻くような相手、裏切るような相手なら自分の弱みはすべて相手にとっての攻撃材料となる。弱みを見せた側に勝ち目はない。夫婦といえどもこのような危険性はある。だから夫婦はならないようにするのがいい。

一度たりとも、披露した相手の弱みを攻撃しないこと。これが弱みを晒した同士の大鉄則である。ところが、思慮浅く、喧嘩や言い合いの際に、口が過ぎる事がある。欧米人は感情のぶつけ合いの喧嘩や言い合いはするが、自分が言いすぎた言葉、超えてはならない非人道的な罵倒などをしたと気づいたら、「言い過ぎた、ごめんなさい」と謝ることが多い。

宗教的なバックボーンからか、許しの言葉を乞うと許すの国民性があるが、日本人の謝罪下手というのはどうしたものか。相手の弱みを攻撃するのは犯してはならない夫婦の大鉄則だと思う。「だから母子家庭の女は…」、「学歴のない男って…」、「背の低い男って…」、「貧乏育ちの女はカネ使いが荒い」、「安月給の男のところに嫁ぐんじゃなかった…」

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まだまだ、沢山ある。夫婦が所有する弱みとは、庇いあうものであって、絶対に攻撃材料としてはならない。相手のことだけではない、相手の家族、親族を攻撃材料にするような人間を「性悪」というのだ。人の悪口、弱みを突くことで自分がいい気分になるような夫婦は、この世から消えてなくなりやがれ。喧嘩で勝ち負けを争う相手なら大いに利用すべきだが。

それでも限度というものはある。耳の聞こえぬ相手に「つんぼ野郎が」というのも、チビ、デブ、ハゲというのも、喧嘩の下手な人間はすぐに相手の弱みにすがろうとする。喧嘩にルールはないが、遺恨を残す喧嘩にするか、その場の鬩ぎあいにするかで口の聞き方も変わってくる。まあ、言ってはみたが、頭に血がのぼった人には無意味な戯言だ。

激しくも乱暴な言葉以上に、気持ちが削がれ、離ていくのは、上の2画像のような陰な物言いの女であろう。本人は気づいていないのだろうが、どんだけ美人であっても巷のブサイク女の方が可愛く感じるようになる。心が離れ、愛情も薄まり、アレもやる気がしなくなる典型タイプだ。チンがチーン!




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