愛知第7選挙区で834票という僅差で辛くも当選した山尾志桜里。当選者の多くは、「選挙民から支持を得た」というが、支持を得て落選した候補者もいるわけで、この程度の差で大手を振って支持を得たというのははしゃぎすぎというもの。山尾は選挙前と当選後でまるで顔が変わった。実質トヨタ系労組の後押しが功を奏したが、一般人の批判票が僅差という形になった。
「疑惑にさらされ、抗弁しきれずにいったん身を引く。だが、選挙で当選すれば禊(みそぎ)は済んだと強弁し、あとは昔話。そんな政治文化をいつまでも残していては、恥ずべき不祥事はなくならない」。という新聞記事は固有名こそ伏せているが、自民党の甘利朗(神奈川13区)のことを取り上げた発言であるが、これはそのまま山尾志桜里にも当て嵌まる。
当選後のはちきれんばかりの笑顔に釈然としない国民は多いだろうし、自分がもっとも嫌う点は以下、民進党幹事長の内定を受けたその日、祝杯を挙げる相手は夫でもなければ後援会長でもなければ、いわゆる不倫疑惑のあったその人であり、最も喜び合いたい特別の相手とホテルに宿泊しながえら、政策の打ち合わせをしていたなどと、見え透いた嘘を押し通す。
選挙は禊にあらずという評価もあるが、彼女の倫理観の欠如を支持されたわけではなかろう。地元密着型の小選挙区では、「政治家」というのは、かつての、「おらが村の先生」に代表される、利益誘導や善悪利害に蹂躙されたまことに不思議な人種としか言いようがなく、地元とか基盤とか呼ばれる地域共同体が、"こうした"政治家を育てていることになるのだろう。
この世から消えてしまった愛すべき人物は多いが、野坂昭如もその一人である。『火垂るの墓』の原作者といえば若い人にも伝わろうが、昭和20年の敗戦前から、戦後の22年、23年あたりにかけて食糧難時代には、主として生物的に弱い、子どもや年寄りが食いもの不足で飢え死にした。飢えというのは、空腹なんて生易しいものではなく、生きるか死ぬかである。
『火垂るの墓』という実体験を持つ野坂には、『農を棄てたこの国に明日はない』という著書がある。「昭和十六年、ぼくは十歳。この年の四月から主食、砂糖、マッチなどが配給となる。(中略)配給のはじめは米。それまでは各家庭に米屋が配達していたのだが、やがて配給通帳が作られ、その帳面を持って、米屋に買いに行く。1人1日2合3勺。当時の日本人には少ない量。
食糧不足が進み、買い物するのに行列が当たり前となっていく。中学一年で授業がなくなり、勤労奉仕が登場。弁当を持って現場に向かうのだが、おかずは貧しいものの、皆の弁当もまだ白いご飯だった。勤労奉仕は田おこしや、麦刈りに始まり、疎開荷物運び、家屋解体など。この解体作業がぼくは最も嫌だった。_____終了後はコッペパンが一つ支給された。」
大正10年頃から昭和15年頃まで、安城を中心とする碧海郡一帯は「日本デンマーク」と呼ばれていた。その理由として、①明治30年中頃、町農会、農林高校、農事試験場が相次いで開設され、農都としての発展の基礎が築かれた事。②山崎延吉をはじめ良き指導者と明治用水の豊富な水資源に恵まれ、米麦を中心に畜産、そ菜、園芸など典型的な多角経営農業が行われた事。
③農民の協同意識が強く、農産物の販売や肥料などの購入を共同で行うなど、産業組合の普及&活動が特に盛んだった事。④零細貧困状態の農業を何とか引き上げようとする勤勉な精神を持っていた事。などなど…、それにちなんで造られたのがデンパーク。5歳程度の子どもにはいいが、それ以上になると見向きもされないしょぼさだが、どこの地域にもそういう施設はある。
野坂は参議院議員だった1983年12月、議員を辞職して第37回衆院選に金権政治を批判する意味で田中角栄元首相と同じ新潟3区から出馬する。ところが、選挙運動中に暴漢に刃物で斬りつけられるなどの被害に遭い、以後の選挙運動を見送らざるを得ない状態となる。当時の新潟3区は現在は廃止された中選挙区制で、定数5であったが、野坂は次点で落選する。
参議院バッヂにマッチで火をつけて燃やし、田中角栄の後援会である越山会幹部を訪ね、200万円の現金を机の上に置き、「これで選挙事務所を開いてくれませんか」と申し出る。腰を抜かし気味の幹部は、「越山会のおらたちが、そんなことできないこっつぉ、先生、勘弁してくださいよ」というのがやっとで、野坂人間は、どこかしこ、「物議を醸す」人間だった。
別の表現を借りれば、やる事なす事、「いかがわしさのカリスマ」で、誰もできないことを平然とやる肝が据わっていた。まだまだたくさんあるが、自分にとっての、「選挙随想」においては、野坂の新潟3区からの立候補がもっとも印象に残る。さて、今回山尾のことを書くに至ったのは、彼女が自身の政策顧問に弁護士の倉持麟太郎が就任するという記事である。
これについて外野の反応はけたたましい。彼女の裏読みはおそらくこうであろう。「疚しいことがない故の人選である」しかし、これは真っ当のようで子供騙しでである。誰が彼女の思惑通りに理解するだろうか?とりあえず外野のことはいいとしても、普通なら互いの配偶者や子どもへの配慮として、たとえ疚しさがなくても避けるのが、人間のとる態度と思われる。
こうした一連の行動も含めた全体的な一貫性から抉ると、彼女が何をいおうが行動しようが、1点の曇りのない潔白な関係なら、民進党離党する必要はなく、「ざっけんじゃないよ、ありもしないことを書きやがって文春のバカタレどもめが」と火花を散らして闘うべきである。それができなかったのは、誤解を受ける行動を押さえられたからであろう。そして今回の行動だ。
自分の読みは、彼女は自分にかけられた、「誤解を受ける行動」についての汚名を晴らすためだと思われる。というのも。「なぜ倉持氏?」という世間への挑戦態度からうかがえるのは、「疑惑」は勝手な推察で、我々はこうして同じ相手を避けることもせず、正々堂々しているのだと。疑惑があったからと尻込みするより、疑惑などは所詮取るに足りないものと茶化している。
以前も今後もお好きなように、「疑惑」と言って結構です。と言いたいのだろう。こういう態度は強気で気丈な性格がもたらすが、真っ向挑む姿勢には謙虚さの無さがありあり。社内で上司との不倫を噂された女子社員が、根も葉もない無言の圧力に耐えかねて辞めて行くケースがある。それとは別に、実際に関係のある場合には、開き直って退社をしないケースがある。
事実でないことを証明するのは難しく、事実であった場合は隠すことに躍起になる。どちらも噂の類であっても、耐えると隠すという対応の違いから精神的な負担は違ってくる。事実でない場合に立つ噂は男には屁でもないが、女性は辛かろう。事実であった場合でも噂は苦痛という女性もいようが、事実を隠して開き直る方が断然楽かも知れない。当然、山尾は後者であろう。
山尾はあった事実をなかったように見せるかに躍起になり、説明責任を果たさなかった。あげく今回の、政策顧問登用という挑戦的な態度は、さらなる疑惑隠しと、自己を強靭にするめのバネに利用しようとの魂胆み見える。軟な人間にはとても出来兼ねるしたたかさだが、政治家にはこの程度のしたたかさは当然で、彼女はそれをさらに磨き上げることに邁進する。
転んでもただでは起きない資質を見込んだのか、AKBと同様単なるミーハーなのか、「山尾志桜里を総理にする会」を立ち上げ、神輿を担ぐ小林よしのりはこのようにいう。「政治家だから問題なわけで、幹事長を降ろされたり、重要な役職をすべて避けられたりして、出世できなくなる。しかも現在の世相は恋愛スキャンダルより、不倫スキャンダルの方が厳しい。
貧困層が増えているから、不倫なんて既得権益者の特権と見られるのだ。わしにはその特権があって当然だと開き直れるが、政治家は違う。中間層の下位部分と、貧困層の支持を失ってしまう。山尾志桜里は、"事実無根"を決め込むしかない。認めたら家庭が崩壊してしまう」。男なら誤魔化しは通じないから、小林は、「事実」を、「無根」とせよと言っている。
その理由が家族が崩壊するからと、その程度の理由で彼女を総理候補に立てているところが小林のミーハー度であろう。彼はAKB熱が冷めたのか、今度は年増に鞍替えしたのは、年齢的に賢明であろう。いつまでも小便くちゃい女の子を追い回して、それがおっさんのノルタルジーなどは晩節の問題かなと。もっとも、少女は若さの買い戻しであろうが…。
今回の山尾の行動は、事務所内にベッドを持ち込めばホテルに行く必要がないなどと、下世話な想像をする者もいないではないが、かつて山尾が、「疑惑」で出世を閉ざされた事への恨み辛みを、「疑惑」に挑戦することで晴らしたい、その執念深さと読む。男はカラッとしたある種の潔さがあるが、「女の意地」というように、女の返報感情の凄まじさを自分は理解する。
表題の、「感覚指数」には、「多」、「少」もあれば、「虚」、「実」もある。人間が人から受けた被害指数の落差について、山尾如き優等生タイプは、一番が二番である屈辱が耐えられず、エネルギーに変換される。勉強ができるタイプは、勉強が好きという以前に、こうした二番煎じ的屈辱感が、途方もないエネルギーに変換される。それに加えて彼女は女性である。
女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することで、これが昇華すると、本人すら訳の分からぬ事、ありったけの事、思いつく限りを速射砲のように言いまくるが、こうした言動をヒステリーと自分は捉えており、女のヒステリーには耐性と対応を所持している。世間があっと驚く今回の疑惑弁護士のブレーン登用も、ヒステリー的反動症状と自分は見る。