最近、ブログの記事を後で読み返すことが多くなった。理由の一つに間違い探しがある。書いた後にチェックをしないのはなぜだろうか?自分のことなのに分からない。チェックが嫌でなければするだろうが、書き終わった後にすぐに読み返すのが嫌なのか、それともせっかちなのか、その辺も分からない。確かに書いた直後に読み返しをせず時間が経って読んでみる。
あるわあるわ、誤字・脱にへんちくりんな文体の数々…。一応はそれらがないように書いてはいるつもりでも、人間というのはミスをする生き物のようだ。自己過信はないのに最近とみに誤字ミスが多い。これが老化現象か?知らず知らずのうちに人は老いていくのをこうした形で発見する。ミスの少ない自信はいつしか遠くに去り、ミスの山を築いているこの頃だ。
誰もそうだろうが、文を書くときは主観で書いている。客観的な視点という主観で書いている。が、書いたものを読む時は客観的でいる。主観で書いて客観で読む、その対比が面白い。まるで自分で書いた文でないような気持ちで読んでいる。すると、書いているときの主観的個所に異論が湧いてくる。面白いもので、主観は客観であり、客観的というのも主観である。
あることを、「客観的に見た」などというが、これは自分の見方という主観であって、客観的というのは嘘、もしくは間違っている。「利他的も利己的のうち」なら、「客観的も主観のうち」と捉えられる。だから、「的」を使うことになる。多くの客観は、客観的であろう。「意識」とは何なのか?「考える」とは何なのか?それらの具体的説明とは何であるのか?
それすらもないままに漠然とその概念を捉えているだけの状態で、「意識」、「考える」などの概念を形式論理によって分析しているだけである。したがって、結果的に事実に基づかない宙に浮いた論理となってしまっていることが多い。論理とは何なのか?すぐに頭に浮かぶのが、「三段論法」である。が、これはカビの生えたいささか古びた論理学といえる。
論理とか論理学とかを日本では使い分けるが、外国ではロジック(logic)という言葉一つで両方の意味をあらわしている。これは即ち、人間の思考の法則のようなものといわれてきた。法則である以上、そこには、「力学」的基本法則のように、常に、不動とする法則もあるが、物理法則や自然淘汰法とはちがう、論理の法則や道徳法則は、我々の努力目標としての法則は存在する。
論理や道徳法則は、明らかに現在そのままで機能するではなく、我々の努力なしにはそのとおりいかないということだが、これら二つの違いは、単に一つの「程度の差」に過ぎないようでもある。四季というのは自然の摂理、自然法則であるが、四季のある国においてであって、厳寒の国も常夏の国もある。ならば、四季が自然法則なのは一部の国であって、普遍的共通性はない。
自然法則と言われるものであっても、力学の法則どおりの事が実際に行われているわけではなく、空気の抵抗であるとか、その他の物理的な影響が加わり、それこそ教科書に書いてあるような法則どおりに事象が生起するようにするためには、ノイズの排除が必要となる。自然法則には、ノイズの少ない事象とそうではない、確率的、統計的な法則にしたがうものがある。
ノイズを考えるとき、人間社会や人間の思考という領域を例にとればいい。これも自然のなかの一つの現象と考えられるが、人間社会や人間の領域には非常に複雑な雑音が多く存在する以上、明晰に論理的に思考すればするほどノイズに悩まされる。様々な問題からくる影響、あるいは感情の起伏などから生ずる妨害を排除し、純粋に、論理的に考える努力は必要だ。
難しいがそこを求めるのは、「論理」である。語には「語の論理」、文には「文の論理」、記号には「記号の論理」が存在するが、いずれも目に見えない思考の法則を目に見える、あるいは耳で聞くことのできる、つまりは我々が観察可能に、言葉というものを通して、その言葉のなかで捉えて行こうとするするのが、アリストテレスによって生まれた最初の形式論理学である。
さするに形式論理学の欠陥は、人間の言葉の中に現れたすべての思考法則を掴むには狭い見方でしかなく、やがて廃れ、現代の新しい論理学へと移行して行く。論理学の事ゆえに難しくなるが、近代論理学の始祖たるデカルトは、自らの思考の方法論として有名なコギト・エルゴ・スム、「我思う、ゆえに我あり」という、疑おうにも疑いえない明晰判明な公理を生み出した。
「我思う、ゆえに我あり」は、言葉の意味としては平易である。いろんな人にこの意味を問うと誰もが一様に、「思考するから人間だ」、「人間は思考すべきである」などという。窓に見る風景一つとっても人によって変わるし、世の中で、「こうだ」という絶対を証明する存在はないとするも、そのことを考える自分という、「絶対的な存在」という事実をデカルトは提起した。
パスカルは『パンセ』の中で、「人間は考える葦である」とした。人間なんて、クマやライオンと闘えば一たまりもない。だから武器を発明した。ウィルスや結核菌という目に見えないバクテリアにさえやられる。だから、抗生物質やワクチンを発見した。 パスカルは、自然の中における存在としての人間のか弱さであるが、思考する存在としての偉大さを言い表した 。
ニーチェは、「真実などない。あるのは解釈のみ」とした。真理を求める宗教者と哲学者の対比が現れている。彼はまた、「人間は考えなくとも、黙って神に従属していればいい」というキリスト教を批判している。自分の宗教批判は、死んであの世や極楽浄土という考えが発端だった。現世的幸福を求めない教えは、貧農や下層階級者に生きる希望を見出したのは事実。
彼らにとって生きる希望とは死ぬことの賛美でもあった。が、自分は来世を信じない。現世を生きる以上、現世的幸福であるべきである。現世とは現実そのものであり、現実を受け入れることこそ「悟り」である。確かにこういう考えは快楽思想・享楽思想につながりかねない。現実の肯定は、「修行の軽視や否定」になり、人は堕落するという批判から江戸期に廃れた。
現実一切を受け入れなくて、何を受け入れろというのか?善くも悪くも現実であり、現実意外に人の居場所はない。悟りというのは、現実の意味を知り、現実を受け入れるという考えを進めればいいのであって、現実逃避が観念世界に足を向けると考える。現実逃避はまた、死という安寧の世界への旅立ちでもある。社会生活には、社会集団の一員としての苦悩もあるのだ。
例えば、「ルールが先か、自身の生活優先か」について考えてみる。我々が実生活の中で遵守するルールとは、「生活が起こる前にルールがあった」なのか、「まずは生活があり、その中にルールが出来て行ったのか」、これのどちらが正しいのかという疑問が湧く。江戸時代に貝原益軒なる朱子学者がいた。彼は朱子学に疑問を提示した妙な朱子学者であった。
朱子学では、「すべての物質に貫かれている大宇宙の秩序法則である「理」を、本体形のない「無声無臭」の存在と説明するが、形のないものゆえに、「無極にして太極(大きさも形もない存在)」である。益軒は、「そんなものがあるのだろうか?」と疑問を呈す。この世の事物は「気」が集まり、「気」が働いている。これは事実だが、朱子学は違っている。
「気は理に支配されている」と説く。「この世の事物を支配するのは、無極にして太極の理である」と朱子学はいう。ところが益軒は、「事物(気)の動きそのものに理があるとするのが正しいのではないか。"理が上位で気が下"ということではなく、"気の中に理"というのが正しいのではないか…」と考えた。これは朱子学の根底を成す「理気二元論」の否定といえる。
益軒がこういう考えに至ったのは、彼が理系肌であるからだ。医学や植物などに詳しく、即物的、実証的に目の前にある事物を中心に思考する。であるがゆえに、「目に見えない理というものがすべてに最優先」という、朱子学の観念的思想を素直に受け入れられなかった。こうした益軒の疑問こそが、ルールと実生活の関係に似てはいないだろうかと考えた。
益軒の批判からすれば、生活が先であり、ルールは後であり。生活を無視したルール作り、絶対的なルール厳守は主体性を損ね、人間社会を集団主義化する恐れがある。しかし、組織を統制する現場では画一的なルールを用いる方が指導を行い易い。あくまで、「行い易い」であって、指導側にとっては楽であろう。欧米などではしょぼい校則などなくとも教師は対応している。
吉田松陰は、「松下村塾」を創設した際に、塾則を書くには書いたが、机の引き出しにしまったまま陽の目を見ることはなかった。ルールを守る人は正しく、守らぬ人は変人である。スティーブ・ジョブズはまさに変人であったが、ルールをきちんと守るひとより、素晴らしい仕事をした。クリエイティブな仕事に旧態依然として保守的で踏襲的な人間は不要である。