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上位者は演技であれ、自制が必要

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指導的立場に必要な自制心なら、「親は親を演じるべき」が持論。役者になって役目に徹する利点は、演じることで客観的な理想の親像を描いて行為できる。従って自分には、「親バカ」という考えはまるでなく、「親バカ」は戒めるべくことでしかなかった。ましてや、「バカ親」とあっては、子どもが哀れとしかいいようがない。バカ教師が担任なら教師は文句をいうだろうし、同じこと。

教師も、「地」を捨てて理想をもち、良い教師の理想を演じればバカな自分をカバーできる。客観的な視点とはそういうものであろう。政治家も医師も宗教の教祖も経営者も野球のコーチも監督も、人の上に立つ人はそれがいい。もちろんこれは凡人に向けたもので、人間的有能さやな美徳を持った人もいる。そういう人は演じる必要はなく、「地」でやってよい人たちである。


どうなんだろうか?教師がいろいろな不祥事で警察沙汰になっらりするが…。児童買春(含淫らな行為)あり、万引きあり、不倫あり、生徒への暴力(暴言)行為などなど…。この中でもっとも多いのが買春事例のようで、もっともこれは男性教師だが、そうした教師は後に生徒や親の評判がいいことが多い。逮捕されて驚きもし、「あの先生が…」などと言い合う。

だれもが言行不一致の二重人格教師と思うだろう。が、よくよく考えてみるに、二重人格だからよい教師であったのでは?よい教師を演じていれたのでは?買春教師とは言え、生徒を手籠めにするわけではなく、プライベートにおける気晴らしであり、ストレスの発散である。脱法行為である以上誉められたものではないが、我々部外者は報道でエロ教師と判断するしかない。

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実際に会って話してみると、案外と好感のもてるさわやかな教師かもしれぬが、やったことからすればスケベ教師と批判される。確かに教師の児童買春事件は多いが、おそらくそれは教師がロリコン趣味というわけでもないだろう。教師は毎日子どもと生活を共にする。学校という閉鎖社会で、同世代の一般女性と口を利き、交流する機会は、残念ながらない。

皆無といっていい。そういう教師がどこかのサークルなどに入って活動する時間もなければ、かりにそうであっても女性を口説けるような素養をもった教師は少ないだろう。学校関係者なら教師同士の校内不倫の多さを知っている。噂も含めてだが、蛸壺教師といわれるように、狭い社会の中で異性といえば、同僚教師、もしくは保護者、あるいは生徒となる。

同僚教師であれ保護者であれ、不倫はいけないと断ずるなら別だが、教師が子どもにも人気があり、しっかりした教育理念をもった良い教師は、そんな不倫などするはずがないという考えは味噌も糞も一緒の考えで、まったく別である。自分もそれはそれ、これはこれという視野を広げた考えをする。友人に高校の事務長がいたが、教師同士の不倫は多いと聞いた。

狭い社会だからの必然と、狭い社会であるがゆえにすぐにバレてしまう。自分の知る教師は、大学の教職課程から新採で中学の英語教師として赴任した学校で、新任教諭の指導を担当する主任教諭と不倫関係になった。逐一相談を受けていたので詳細を知るが、相手の妻にバレた時に日々の嫌がらせ電話に困憊していたが、律義に電話に出て、妻の腹いせを聴くしかなかった。

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内容はほとんど脅迫に近いものだったが、女の逆恨みだから仕方がない。男は妻の浮気相手よりも、妻自身に矛先をむけるが、女はむしろ夫の浮気相手の女性に恨みを晴らそうとする。なぜかを考えたことがある。いくら男の誘いがあったとしても、妻に貞操観念がしっかりあればそうはならないと男は考えるからだろう。ところが、女は口説くのは男の習性と見るのか?

妻子持ちと知りながら、男(夫)の口車に乗った女を恨みのターゲットとする。他にも理由はあろうが、女は女を許せない、男は妻を許せない。が思考した持論である。「女の敵は女なり」、「男の敵は(妻)の貞操観念なり」。昨今はどこの学校も女性教師が多い。特に初等教育には顕著である。採用試験の勉強は女性の方がマメにやるからとある校長が言っていた。

詳細は控えるが、教職関係者には知人が多かったこともあり、以下の事が女性教師の合言葉となっていた。初等過程を目指す女性教師志望は、赴任したら何より早く独身男性教師に目星をつけなければハイミスになる。これが先輩から後輩へとまことしやかに伝わっていた。まあ、先輩の助言ということもあるのだろうが、結婚以前に性を持て余す独身教師が不倫の餌食になる。

学校の事務方職員にはそれが手に取るほど分かるのだ。女性教師はその立場もあってか、先生らしくしておかねばならず、大学時代は緩い下半身を教授から戒められる。教師たるや自制、自制とばかりに、目立たず派手にならずと、それが教師たる本分と大学で植えつけられる。そうした品行方正さも教職課程に企てられているが、自制心を要求させる職業ゆえに仕方がない。

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下半身と行い(仕事や諸活動)は別である。先般の選挙で、豊田候補を秘かに応援し、山尾候補の落選を願ったと書いたのも、山尾の不倫(疑惑)を問題にはしていない。問題は事後処理であって、誰一人として完璧な人間などいない。だから、過ちを犯したときの処理の仕方で人間の本質が見える。自分はそこを重視する。腹を割るか、誤魔化すか、信用できるのは前者である。



「色を好むは真の情」は江戸時代の儒学者林羅山の言葉であり、疑う余地は微塵もない。ただ、あまりに肯定的発言を控えるのも人間のたしなみだが、昨今の若い女性にそれは希薄のようだ。虐げられていた女性の性が解放されてどのくらいになるか、自分には定義できないが、アバウトで30年近くなるのではないか。インターネットの普及が女性に頭から頬被りをさせてしまった。

SNSは不倫の温床となっている。テレクラが生まれたころは、「いかにも」といった抵抗はあったが、SNSを通じてなら既婚であれ、自然に不倫相手を探せるという。不倫が目的というより、潜在意識程度にでもあれば、目出度く(?) ゴールは可能だ。ウォーキング中でも坂や階段を買い物袋をもって歩いている奥様に声をかけても立ち話から、公園に誘導くらいはできる。

後は、男の腕次第ということだ。近ごろの浮いた世情のせいもあってか、初対面の女性でも、「不倫するならエッチの相性が合う人がいい」などと臆することなく口に出す。男が躊躇っているようではむしろ非礼である。極めつけのナンパ師が、「女性に声をかけない方が失礼というもの」というが、声をかけるのはまさに善意であって、内心喜ばぬ女性はいない。

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「取って付けたような優しはなくとも、話が面白くても、気が合ったとしても、体の相性が合わなければ恋の終わりも早い」。女性がこういう品定めをする時代になったのは、男などいくらでも見つけられる時代だからで、出会う切っ掛けの少ない時代には、つまらん男でも後生大事にしたものである。『すべて男は消耗品である』を村上龍が書いたのは1990年だった。

面白いと思ったが以下の意見に似たのは聞いた。「こんなエッセイを読んで他人を批判しても、自分は何もしていないことに気づくからだ。何のリスクも負わずに、安全地帯からブーブー言っているだけで、村上のような実績も無い。最後の山田詠美の解説で、ボロクソに批判されているのを読んで、はあと落ち込んでしまう弱い心を持ち主がこの本の読者なのだろう」。

自信もなくメンタルの弱い男は批判への耐性がない。いつだか将棋仲間に気に障ることをあえていい、おそらく彼は自分を嫌っていると感じていたので、ある時、「ぼくはね、たとえ〇〇さんが顔もみたくないほど嫌いと思っていても、〇〇さんは嫌いじゃないから」と言ってみた。「うるせー、気持ち悪い事いうな!」と、彼は言ったが、最近、「飲む?」と缶コーヒーを差し出された。

〇〇さんの事は批判はしたが、批判は愛情から出たもの。〇〇さんが、心無い他人からバカにされてはいけないと思ったから、つい言ってしまった。普通は言わないところだが、余計な一言を自分に言わせたのも、彼の人柄である。男と男は、遠慮をせず、しかと向き合えば分かり合えるが、女は違った。批判した相手は生涯許さないなどと顔には出さないで根に持つ。

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「自分を批判する人は敵。話したくない。関わりたくない」という女性を山ほど体験したのは、批判を憎悪と感じるからだろう。彼女たちが敵と味方をキッチリと色分けするのは自己愛からで、女の本能的ナルシズムである。何気ない言葉が心の琴線に触れると、些細なことで情緒が乱れる。男には理解できない部分だが、そこの点は女に生まれなくてよかったである。

反面、さっぱり感があって、根に持たず、大らか(のように見せるではなく本当に)な女性もいる。棘がないので安心して会話ができる。根に持つ女性は自らに自信がないのが一般的だが、大らかな女性が特別自信アリとは見えない。そうした物事に拘らない大らかな性格は育ちなのか?大らかな両親の家庭の中で、自然に大らかさが育まれたのでは?と推理する。


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