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成人息子を「ちゃん」と呼ぶ母 ①

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姑が息子を、「ちゃん」づけで呼ぶってどうよ?「どうよ?」といっても、誰にどうかはイロイロだ。考えられる対象は、①嫁、②孫、③本人、④舅、⑤親戚縁者、⑥他人などなど。先ずは⑥として自分の主観をいう。自分の母親がそんなことを言おうものなら、激しい嫌悪感に見舞われるだろうし、「止めんかそういうの」と、最初に一撃食らわせて止めさせる。

それでもしつこく止めないようなら、柱にしばって猿ぐつわでもしておくか。それは冗談としても、父が昔、母を紐で縛り上げていたのを思い出す。平然と、「ちゃん」づけで呼ばせる息子がいるらしい。この目で聴いたことはないが、いるらしい。「ちゃん」と呼びたい母親、「ちゃん」と呼ばれて嫌ではない息子が存在する。息子が本当に嫌かどうかは分からない。

が、それを拒否せず許している以上誰も嫌とはみなせない。そういうものか?そういうものだ。こんな母子関係を嫁はどう思うだろう?、孫はどう思うだろう?舅はいいにしても、誰からも何も言われない姑は、「ちゃん」のどこが悪いの気持ちで続けるだろう。誰かが言うべきか、放って置くべきか?言うなら誰が言うべきか?舅か息子か、それとも嫁か?まさかの孫か?

イソップ物語の、「猫につける鈴」を思い出す。「あるとき、ねずみたちが敵の猫から自由になる方法を話し合った。少なくともねずみたちは猫がいつやって来ても、逃げる時間があればいい、その方法を話し合った。いろんな案がでたが、どれも十分とは言い難い。「やはり、ダメか」と暗礁にのりあげていたそのとき、若いねずみが立ちあがってこう言った。

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「とても単純なかんがえだけどうまくいくと思うんだ。猫の首に鈴をつるせばいい。鈴が鳴っているのが聞こえたら、猫がやってくるとすぐにわかる」。ねずみたちは思いつかなかったその考えにとても驚き、感心し、納得もした。「それはいい考えだ」と、みなでいいことを思いついてよかったと大喜びしている最中、年寄りのねずみが立ちあがって言った。

「確かにいい考えだ。だが、一つ聞きた…。一体、誰が猫に鈴をつけるのかね?」この話は、「こうすべき」という考えと、「実際に行うことは別だ」という教えである。どこの国にも同じ諺はある。「It is one thing to say that something should be done, but quite a different matter to do it.」我々はこの話から論理を学ぶが、行動しなければ絵に描いた餅。

どんないいことを沢山知っていても、できなければ意味がない。果たして猫に鈴をつけられるねずみがいるとしたら、おそらくジェリーであろう。ジェリーは頭がよくて勇気もバイタリティもある。さて、現実的な話に戻すが、誰が思慮ない姑を分からせられるだろうか?舅か?息子か?嫁か?孫か?架空の話だが、自分は誰でも可能だと考える。強い意志があればだが…

自分が舅ならこういう。「いい歳とった息子に子どものような呼び方なんか止めんか。お前はいいかも知れんが、家の恥だ!」。自分が息子ならこういう。「そういう言い方は絶対に止めてくれ。妻にも子どもに自分の威厳がなくなる。どうしても止めないなら別居する」。自分が嫁ならこういう。「………」と、残念ながら嫁としてのリアルな想像力は浮かばない。

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自分が孫ならこういう。「おばあちゃん、お父さんにそんな呼び方せんといて!気持ち悪くてもどしそうになるから」。一つの例だが、姑の人間性や性格によって言い方は千差万別である。言い方が他種あるというのは、その人に物事を分からせるという意味での他種であって、ただ言えばよいではなく、どういえば実行してくれるかでなければ言う意味はない。

したがって、物事はいろいろ考えた方がいい。考え、考えて、考え抜いて次の一手を放つべきである。言うことを効かない子ども、部下や生徒はいよう。無能人間は必ずこういう。「言ってもダメなんだよ、聞いてくれない」。何とも虚しい言葉であろう。自分はこういう言葉は死んでも吐きたくないが、言っても無駄と思う相手には、分からせようなどの考えは起こさない。

何もいわないでおく。勿論そういう相手は、自分の生徒でも子どもでも部下でも友人でもないという関係であるがゆえに、まったくいう必要を感じないが、中でも愛情を抱き、言えば解りそうだなという相手はその限りにない。が、過去の経験においても、善意が仇になる事はままあった。人は、自分で気づいていることを他人からとやかく言われたくない自尊心を有す。

自分が相手に苛立つとかではなく、相手のそんな言動であっては、多くの人が嫌悪するだろう、迷惑を抱くだろう、ましてや本人のためにならない。捨て身で自分が鈴をつける役を買って出る。と。そういう意識が高かった。「捨て身でもいい」というある種の思い上がりが、自分が公益性と感じて行為を生む原動力だった。鉄腕アトムや月光仮面世代の名残かもしれない。

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一としとると、そういう考えから離れるようになったのは、いろいろな理由がある。決して臆病風が吹き纏うのではなく、人の人生はどう転んでもその人のものだから、時々に乗じて土足で入り込むのはよくないと感じるようになった。人が人にどのように関わろうとも限界があり、責任も取れない。我が子のように、責任の一端が自分にあるというのと、他人は違う。

相手にどう思われても、思う気持ちがあれば嫌われることは苦にはならなかったのは、それが愛情や正義と過信していたこともある。言葉でいう愛情・正義がどれほどのものかと考えるようにもなった。若い頃はどうしても美辞麗句に惑わされる。そういう若さも純粋であるが、物が解り過ぎる年齢になると、行為の純粋性は希薄になっていく。そういう年齢ならそれでいい。

落ち着いてどんな言葉にも動じないさまをあらわす、「泰然自若」という言葉ほど経年者に相応しい言葉はなかろう。人に影響を与えられるなら、路傍に石でさえ価値があるものだが、若い事はそういう気持ちが充満する。利己的より、利他的という行為に心を奪われるものだが、よくよく考えてみれば、人のためも自己満足の世界であるのに、欺瞞を隠している。

利他的という利己に気づかぬ人は多いが、それに気づいた人はむしろ他人に冷たくなれる。いい子ぶらないという正直さが自らに反映されるからだろう。人がどれほど人のために尽くせるであろうという疑念にも気づかされる。20代の頃、「ヒューマニズムは欺瞞である」という言葉を疑っていた。その言葉が許せなかった。が、今は言葉の意味はよく分かる。

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人は自分さえよければいい」とは思わず、それが正しいとは露とも思わぬが、結果的に人は自分のために生きればいいのであって、そのために大切なのは、決して自分の殻に閉じこもらず、広く門戸を開放し、沢山の何かを得ようとする気持ちが大事かなと。それなくして、無能・無知のままに自己肯定すると、何も学ばない幼稚な人間のままでいることになる。

「冬彦さん」現象という言葉が、あるドラマをきっかけに生まれた。自分は一回も見ていないが、社会問題化すれば自然と耳にも入ってくる。いわゆる、「マザコン現象」であるが、根底にあるのは、「依存心」である。子は生まれながらに親に依存するもので、そうでなくば生きてはいけない。ところが、自我の発達とともに、「自己」を作っていく。そのために必要なのが親離れ。

動物は本能でそれがなされるが、いつまでも子に餌を捕って与えるのはむしろ人間である。それがまたニートや引きこもりを生む。親の使命とは先ずは、子の親への依存心を立つことに傾注すべきだが、それが本能でない以上、意識をしなければ叶わない。よって、親は意識的に子離れして共依存から脱することだが、マザコンとは子離れできない母親の醜態である。

親が息子を、「ちゃん」づけで呼ぶということの悪害を様々な例えで記したが、普通なら分かりそうなものだが、それすら分からない盲目的な母親がいるということは末恐ろしい。経済が発展し、先進国型社会になると、人間形成の崩壊を来しやすいという、「経済成長と人間崩壊の因果関係」は納得させられる。何事も便利になると子どもに手をかけないで楽をしようとする。

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子育ては、「力仕事」という基本が損なわれていく。動物の親は、本能の定めによって、我が子にプラスとなることしか行為しないが、人間の親の、「我が子にプラス」というのは、実は、親の見栄や欲であったりする。それらを含めて人間は、我が子にとってかえってマイナスな、ダメにしてしまう愛情をもっている。それも愛情か?持ち主は、「親バカ」と肯定する。

確かに、「発達心理学」では、親の愛情を受けないで育った子は問題を抱えることになる。が、そうした愛情は、「育児」と呼べる期間のものであって、育児という言葉は、中学~高校になった子には適用しない。子どもとしての大事にすべき時期と、大人の準備をすべき時期とでは、必然的に親の子への対応や愛情のかけ方は変わってくる。そこに気づかぬ親が問題である。

端的な言い方で、「成長しない親」である。子どもはどんどん成長するのに、親が成長しないで、どうして子どもが成熟するだろう。親は子とともに成長し、成熟すべきだが、こと成熟という面において親は、「地」というものが災いして難しい。子どもの成長過渡期にはまだ、「地」というものがないが、親にはこれまでの成長過程で育んだ固有の、「地」がともなっている。

その、「地」の善悪によって、子どもの性格が左右されるのはとても怖い事である。したがって、自分は自分のつたない、「地」を捨てて、自分が親として理想の掲げ、親を演じることにした。それで幾分成功した部分もあるが、それをしないで、「地」のままの自分が親であったら、「この親にしてこの子あり」。つまりはヒドイ子どもに育ったかも知れない。

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