「神戸プレジール本店」 厚澤宏行料理長
JA全農兵庫への腹立ちは行為よりも処理の仕方にある。故意にやったことを、「内部調査で発覚した」と嘘をつくのは、故意では言い訳ができないからである。悪事をしておきながら悪事を隠そうとするのが人間で、そこの点は、犬猫に劣る動物である。神戸牛のブランドを守り、美味しさを広めなければならないJAのやることか!信頼失墜の責任は非常に重い。
料理長の独断とJAはいうが、クビにならない限りは嘘とみていい。それにしても嘘というのは何と醜いものであろうか。JAが純朴なお百姓さんたちを手玉にとってきたのは今に言われることではないが、農家を仕切り、君臨・支配してきたことで多大な既得権益も生んだ。そのむかし、農協というところは農家を支える善意な協同組合だと思っていたが立花の本で一変した。
農協に限らず、信用という暖簾を勝ち得た大企業は、驕り高ぶることでモラルを失って行く。未だ耳に新しい三菱自動車のデータ改ざんや、東芝の不正経理、商工中金のの不正融資に神戸製鋼である。神鋼悪辣なデータ改ざんでボロボロ、言い訳するもできない。言い訳が出来るうちはまだいいという錯覚させられる。決してそうではないが、神鋼はあまりにひどい。
神戸牛に神戸製鋼…。神戸という名は1800年の歴史を有する古社生田神社の神を守る神戸(かんべ)に由来する。その程度の知識くらいしかなうし、神戸には実際に行ったこともないし、神戸牛を食べた記憶もおそらくない。神戸牛は等級にもよるが、通販でグラム2000円も出せば購入できるが、JA全農兵庫が偽装をやったのは、安い値段で確保できなかったからだろう。
庶民にとって垂涎の神戸牛は、これまでも今後も一度も口にすることはなかろう
安く仕入れて提供するのは商売の原点であり、「安かろう=悪かろう」という言葉にあるように、安いが粗悪品であってはかえって信用をなくす。むかしのユニクロがそうで、ボタンの糸はすぐにほつれてくる。同じように、無印良品も粗悪品が多かった。同じものなら安い商品が喜ばれるが、JAというのは産直のイメージがあり、安い事はむしろ信頼感であった。
それがインチキであったのは罪が重い。信用や信頼は得るまでに時間を要すが、JA(農協)は協同組合として地域を支えるために生まれ、地域社会に貢献してきたことで確かな信頼と信用を得ていたが、バカはどこの世界にもいるように、今回のJA全農兵庫は信頼を逆手にとり、利益を上げるための悪事といえる。本物の神戸牛を仕入れれば安い価格設定ができない。
いいものを安く提供するJAの本分が損なわれることになる。カーライルはこんな言葉を置いている。「レストランで不味い料理をだされても、文句を言わない方がよい。料理を残して即座に店を出て、二度と行かないことだ」。英国人らしい皮肉に満ちた行為と見受けるが、彼の多くの名言には頷かされても、それを実行することこそカーライルの遺産となる。
「雄弁は銀、沈黙は金」もカーライルの言葉であるが、上の行為はまさにそれである。彼の言葉は心に響くが実践してこそである。上の言葉は誰にも経験があろうし、人間はできることを速攻でやらねば、しないで終わること多し、ディランは食事中に浮かんだ詞を紙ナプキンの裏に書いた。「いつかやる」、「いつかできる」という先延ばしは、「できない」を意味する。
ナプキンに伝言?とはいえ、ここまでやるとさすがにバカ!
信頼と信用を得た企業であっても、それを動かす人間が変わればバカなことをやるのは歴史が示す。再建の土光さんが、石川島造船から東芝に迎えられて立て直したが、後の歴代バカ社長によって、名を失ってしまった。暖簾を持つのはいいが、暖簾の上には驕りがあり、謙遜の下には卑屈がある。自信に墜ちることなく、謙遜に満ちない。経営者はかくあるべし。
これは普通の人間にも言えることで、誤った自己肯定が人間をダメにする。「ネガティブよりポジティブ」、「自己否定より自己肯定」なる言葉を金科玉条如く信奉するのはいいが、ポジティブ思考で状況を変えていった成功者の発想法というものは、「ネガティブよりポジティブ」となどの標語的単純なものではない。お題目だけ捉えるのは、「しない」より危険が潜む。
自己肯定に生きる人は、自己否定が生み出す幾多のマイナス面をどんどんと変革し、積み上げ、あげくに肯定に至るのであって、バカがバカのままで何も取り入れようともせず、変革もせず、自己肯定をすれば、何もしない時以上のバカになってしまう。自分の知る限り、お題目を唱え、信奉する人間にこのタイプが多い。真の自己変革者は自己肯定の在り処を疑っている。
誰もがポジティブシンキングを、「良」とする時代であるが、こうしたお題目に隠された裏の面の危険性には気づいていないようだ。人間なら誰にでも備わる感情には、「正」の感情、「負」の感情がある。前者は、「嬉しい、楽しい、幸せ、安心、好感」などで、後者は、「悲しい、怒り、不安、苦しい、嫌悪」などがある。つまり、ネガティブな感情もあってこその人間といえる。
最近の精神学ではポジティブシンキングすぎる人は成長ができないと言われている
単純にポジを楽観的、ネガを悲観的とし、楽観的を善とするにしても楽観的であることのマイナス面もあり、逆に悲観的であることのメリットもある。巷いわれることに、「計画を立てる時は悲観的に」、「計画を実行する時は楽観的に」というのがある。未知においては何が起こるか分からないことから言えば、多少は悲観的に考えたほうが、「備えあれば」の準備となる。
こうした事前の想定をリスク管理といい、楽観派にはあまりない。代わりに悪い結果であれあまり気にせず、再度トライをする。将棋棋士が悲観的なのは、局面を楽観視するとミスが出やすいからで、逆説的に言えば、悲観的思考の人間は、決して悲観人間ではない。なぜなら、悲観的に考える利点は何もないし、いかなる状況であれ、悲観的に考えるメリットはない。
という思考は悲観的とは言えない。したがって、悲観的な思考をする人間は悲観的というより、冷静・沈着だったりする。悲観的思考もいろいろあって、物事を常に悪い方に考えるというのを悲観的というなら、その根底には、「良くしたい」という心の強さが見える。そういう強い気持ちや信念もなく、ただ単に臆病であったり、自信のなさだったりの悲観人間もいる。
何事も一筋縄では行かないように、お題目にも様々な動態がある。自分は楽観的人間であるといったが、好きな小説・ドラマ・映画のジャンルは苦しくも哀しい悲観的なものばかりである。「寅次郎シリーズ」などは観る気も起らない。当ブログの映画書庫で取り上げた作品をみても、バルザック的人間喜劇より、シェークスピア的な悲劇こそ人間的と感じるからだ。
人間のネガティブな内面を深く写し描く作品から多くを学ぶことが多い。『スター・ウォーズ』などの痛快活劇映画は、まさにスポーツと同じ世界で、心に残像として残らないその場限りのものである。人には好き嫌いがあり、自分は学びたい派。坂口安吾は『FARCEに就て』の中で、悲喜劇にくらべてFARCE(笑劇)を低くみるべきでないという。彼は事物を肯定する人間であるのは知られている。以下は同作品の一節。「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。(中略) ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、なにいってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだを肯定し…
つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない」。という面白い文章であるが、「道化」は人間の本来的性質として人智と共にその歴史は古く、決して軽蔑すべきではない芸術のジャンルとして賞賛すべきと彼は述べている。
道化といえば道化師。サーカスのピエロがは猛獣や危険な芸の幕間を癒してくれている。レオンカヴァッロのオペラ『道化師』は、マスカーニの、『カヴァレリア・ルスティカーナ』と並び、ヴェリズモ文学に刺激を受けたヴェリズモオペラの代表作である。フェリーニの代表作『道』は、至高の作品であろう。映画がここまで人間を描くなどは、まさに奇跡である。
道化役を演じるジェルソミーナと彼女を捨てるザンパノ。あのラストシーンこそが映画の奇跡である。絶望的な孤独感と男の嗚咽に、勝手気ままな男の自戒が感じられる。映画を観終わった率直な感想は、女の幸せは男によってもたらされる。なぜに男は女を古びて欠けた茶碗のように捨てるのか?骨董価値を持つ古い家具のように大事にすべきという問題提起を抱く。
女という生態の悲哀は、『道』のジェルソミーナであり、少女の悲哀なら、『禁じられた遊び』のポーレットだと思っている。『禁じられた遊び』という邦題は映画の内容にそぐわないようだが、実は映画の原題名『Jeux Interdits(ジュ・アンテルディ)』を直訳したとものであってやむを得ない。ジェルソミーナやポーレットに共感を抱くのは、彼女たちのリアルな演技による。
「ミシェール」の声に心揺り動かされたポーレットが雑踏の中に消えて行くラストは映画史に残る
珍しく表題を記して書く記事であるが、気づけば中身は映画である。無意識に心に惹かれるものがあるからだろうが、惹かれるのはつい感情的になるからだ。喜怒哀楽は感情の世界である。但馬牛を神戸牛として食した人は、「現実が仮想であった」との思いが深めている。騙され、余計な金額を支払わされた憤りを、「レジのレシートを持って来い」では到底収まるまい。