今回はフォントを大きくしてみよう。どういう効用があるか、ないか…
「夫」を「オット」と表記するご時世である。女のやることに意味を求めるのも無理からぬことだからいいとしても、「妻」を、「ツマ」表記するような夫は見かけない。いないとみるがとりあえず、「妻をツマ表記する夫」で検索を入れてみたところ、「オット、ツマ表記が死ぬほど気持ち悪い。夫、妻でいいのでは」がヒットした。
となると、「ツマ」と表記する夫がいるのだろうか?「ツマ」なんて語句は、刺身のツマくらいしかないが、妻をツマと表記することで何が満たされるのだろう。いろんな男がいるからこれとて構わんが、意味のないことを思考し、分析しても答えはなかろう。カタカナ流行に乗っかったということか?自分は目にしたことがない。
夫による妻への呼称は妻以外に、「嫁」、「ヨメさん」、「奥さん」、「ワイフ」、「女房」、「かあちゃん」、「つれあい」、「鬼嫁」などを目にする。これらは一般的表記で抵抗はないが、「ツマ」とわざに表記する夫には理由など聞いてみたい。カタカナが多いと顰蹙を買う小池百合子であるが、男にカタカナ言葉はどうだろ?
女性でやたらカタカナ表記が多いのは、おそらく、「才」を意識してのことだろう。女がやることの少々を自分は批判をしないが、ブログは掲示板ではないのに舌戦を挑んでくる女性も何人かいた。舌戦というには程遠いつたない発言が多く、茶化しで終わっている。女性に限らず男のくだらん書き込みにおいても無視を決めている。
他人のブログに、「オット」と記すのを気持ち悪いと思うなら見なければいいだけのことで、強制的に見せられるわけではあるまい。それを批判たらたらとあえて記述するは、女の底意地の悪さとみる。ほっとけばいいことだろうがそれができない。書き手側に立てば、コメント欄を設けている以上、発言には対処し、処理する必要はある。
書き手の自由、読み手の自由、返信の自由ということだ。「コメントが怖い」というブロガーがいた。ネットやブログでヘイトをまき散らす、「荒らし」には、ビビるよりも社会勉強と鷹揚に構えた方がいい。舌戦を挑む相手には、「ここは掲示板ではないので、コメントに返答はいたしません」がよかろう。それで聞かない奴は無視。
答えない自由もあるのにせかす側が悪い。ネットユーザーの「荒らし」率は5.6%とうy数字データがあった。低い数値なので心配はいらないだろうし、変なのが来たら正月が来たくらいに思うがよかろう。つまりは、オメデタイ相手なのだと…。他人に苦痛を与えて刺激を楽しむ倒錯者は、必ずしも悪人ともいえず、適宜放って置くのがいい。
日頃の鬱積や不満を人に絡んで晴らそうとする幼児体質だと理解しておけば、ムキになる事も腹が立つこともなかろう。相手はむしろ、こちらの困惑や狼狽を楽しんでいるようなしがない奴だと、こういう場合こそ上目線でいるから無視ができる。他人の不幸を求める人間の相手はしないこと。人間の集まるところにケンカはつきもの。
あい変わらずネットでは、炎上や罵り合いは絶えない。悪意のない失言ひとつに大量の人間がむらがり、一方的な非難や罵声を浴びせるために殺到する。果ては、「クズ」、「ゴミ」、「死ね」といった人格否定にまで進む光景は、他人の不幸は蜜の味といわんばかりである。ここ数年のツイッターはケンカの発生率が高くなっている。
うかつな発言を恐れて鍵アカに引きこもるユーザーも激増するなど、現代のSNSは「修羅の国」と成り下がっている。こうした時代背景にあって、こうした問題に取り組む研究者も増えてきた。ネットでケンカを起こす人たちの傾向を探り、科学的な対策を提案する機運も高まった。一例が、2016年4月に出版された『ネット炎上の研究』である。
これとは別の、学者三人による「荒らし」の性格的研究(被験者1200人)によると、「荒らし」を好む性格特性と、「ダークテトラッド(Dark Triad)」の関連性を調査した。ダークテトラッドとは、ナルシズム、マキャヴェリズム、サイコパシーの3つの負のパーソナリティ特性の総称で、それにサディズムを加えた性格特性である。
難しい事はさておき、「荒らし」は無視に限るが、コメント欄を開けている以上人を選べない。「荒らし」かどうか分らぬが、女性同士の罵り合いは何度か目にした。感情むき出しの女の喧嘩は面白い。女性が感情的になる要因の一つに、「自分の意見を言う=相手の意見に反対する」。これはつまり反対意見=相手を敵に回すことになる。
それを的確に認識できるのが理性であり、「できない」、「したくない」、と突っ張るのが感情である。自身の間違いに気づいたなら素直に認識することも一つの成長である。成長しない人間というのは、自分の非を絶対に認めない。一人床に入って己の非を認めることはあっても、批判をされた相手への恨みを増幅させるのは問題だ。
「誰にいわれた」ではなく、「何をいわれた」が大事であり、いわれた中身について思考すればいいが、「坊主憎けりゃ袈裟まで」という感情が災いすれば、相手の言葉を素直に聞けない。それが感情というものならどうにもならない。女性の感情的になりやすいという一面にフォーカスするなら、ビジネス面では相応しくないことが多い。
ただし、感受性が高いという一面においては、女性ならではの面もたくさんあり、そこに照準をあてれば十分にビジネスで活かせることになる。仕事で大事なのは、相手を憤慨させてはならないこと。そのためには自分を抑えることで、それが必然的に相手の尊重となろう。一連のことで、林真理子は死んでも人には負けたくない女に思える。
本来言葉は、「正論」的にいえば、読み手・聞き手があってのもの。話を聞いてくれる相手や文章を読む多くの人に、歪な表記は考えものだ。「おや?」と思わせるカタカナ言葉は再考し、不特定対象相手に違和感のない表現を用いたい。「カタカナの鎧」などという独善を排すれば、円滑でさりげないコミュニケーションが可能となる。
20代の頃、極度に批判を嫌がる女性がいた。「批判されると辛いので、できたらナシで願えませんか」と公言するのは余程の重傷と感じた。付き合うことになったその日に、「私の至らないところ、気づいたことがあったら教えてください」という女には驚きもし、そのままの性格だったが、「批判拒否」の女性は、精神が脆弱であった。
おそらくパニック障害のような、精神障害を持っていたと推察するが、長くは続かず自分から遠ざかっていったので不明である。批判を受け入れる理由は、長いスパンで自身を考え、向上させたいという気持ちである。批判を嫌がる人間は、その日、その瞬間が堪えられないだけであって、批判は将来的な自分にプラスになると考えない。
そこが問題である。批判は誰であれ耳に痛いが、いわれた批判を自分なりに改善しようと努力する前向きさが欠けている。「今」だけを考えて行動するショートスパン人間は、感情の塊りであり、毎日が何事も起こらぬことを願っての生活を夢見ている。あきらかな短絡思考であるからして、「良薬口に苦し」がない人間に成長は望めない。
自分の成長を長期的スパンで思考し、「批判は将来の肥やしになる」と自らを変えるしかないが、40、50歳になっては苦難であろう。批判を拒否する人間というのは、10代の頃に起因しているのがよくわかる。「他人の批判(注意)は素直に聞く」などは誰も耳にしたはずで、「言ってくれるうちが花」をしかと肝に命じておく必要がある。
さて、夫は妻を、「ツマ」などと表記しないというのは男としての自分の達観であるが、な、なんと妻自らが、「ツマ」と表記するのを見つけた。夫自らが「オット」と表記するのも傑作だが、妻がツマとはさすがに女のやることだ。批判と言うより意味が解らん。ツマと妻を交互に使用しているが、本人以外には不明の理由があるのだろう。
サレ妻という造語は、「浮気サレ妻」の意味であろう、どういう意味合いで妻とツマの用法なのかが見えてこない。やはり、「ツマ」は今の現実の自分、物体的で無機質な自分という用法か、妻は世の中の一般的で平穏で幸せな妻の総称か?それとも刺身のツマをもじったものか?あれはクッション替わりで自分は食べない、見るだけのもの。
昔、「パセリの女」などと言った。パセリとは、料理の飾り用のミドリで、見るだけで誰も手を出さない。そういう女を隠語で「パセリ」といった。上記の女が妻を(刺身の)ツマとみたてた表記か否かは分からぬが、「ツマ」表記が異常なら、「オット」表記が普通というのは独断的な言い草である。妻でよく夫で文は自然に生える。