この世は広い、人はイロイロだ。を体感する事は多だあるが、面白い考えに触れたので取り上げる。「人は自分がされて嫌なことは相手にもしない」というのが、人間社会の鉄則であり、これを守ればよい人間関係を築ける。なぜなら、人がされてもっとも嫌な事は、「殺人」であり、人を殺す前に、「殺されたら嫌だろうな」と考えるだけで殺人は減るかも知れない。
減るけれども、なくなる事はないだろう。なぜなら、常軌を逸した人間はまともな考えで行動をしないからで、だから精神鑑定と言うのは必要だ。「キチガイに刃物」とは、非常に危険なもののたとえだが、精神異常者の殺人が罪とならないのは、「人間」と見ないからである。人間が人間を殺傷するのは犯罪だが、「人間として見られない」なら、罪は問えない。
さて、取り上げる考えというのは、「私は自分のされて嫌なことは相手にしない、という教えに反対です。」というある女性の書き込みで、論旨明快な書き込みなのでとりあえずはキチンと読む事ができた。言葉じりを捉えて、「何を言ってやがるんだい、このアホんだら」というのもアリだが、論理には論で対抗するのが誠実である。先ずは書き込みから…
「私は自分のされて嫌なことは相手にしない、という教えに反対です。教えと言いましても、もう20才なので、誰かに教わったわけではないけど、そういう風に言う人が多くあると思います。反対理由は主に3つあります。
①自分のされて嫌なことが相手にとって嫌とは限らないから
②むしろ、自分のされて嫌なことじゃないことは、実は相手にとってはものすごく嫌なことかもしれないから
③自分がされたら嫌だからしないということでは結果的に、相手を嫌な気持ちにさせたくないというより自分がされたくないからという身勝手に聞こえるから
です。他にも見返りを求めて人を救うのも、後々自分が苦しくなったときに助けてもらいたいだけで、本当にその人に苦しい気持ちから解放してあげたいと心からその人を救っているとは思えないです。」
この考えを独善的と指摘する様々な反論は浮かぶが、こういう短絡的な思考に難しい応酬はしない方がいい。相手のあげた③つの理由を覆せばよいだろう。そこで、①自分のされて嫌なことが相手にとって嫌とは限らないからについてだ。確かにそういう事はある。自分と人が違うように、自分の嫌と相手の嫌は大きく異なることは珍しくないし、当たり前というほどにある。
例えば、自分が人から施しを受けるのを嫌いであっても、人は大好きだったりする。そういう場合、自分が嫌だから相手にしないというのは間違っている?いや、間違ってはいないと考えるべきだ。であるなら、「自分のされて嫌なことは相手にしない」という行為は、問題提起した女性の言うとおり、間違いとなる。なるほど、彼女の主張は正しいのか?
残念だがそうはならない。最も、彼女は自分の主張を正しいとしていない。「私はこの教え(考え)に反対です」と言っており、反対というのは正しいから、正しくないからとは別に選択と考えることもできる。もっとも、何が正しい、何が正しくない、を決定づけるのは難しく、Aには正しく、Bにはマチガイ。日本では正しく、アメリカではマチガイというのもある。
キリスト教では正しく、イスラム教ではマチガイ、男にとって正しく、女にはマチガイなど、「正しい・正しくない」は腐るほどあるが、何が正しいというのは控えなければならない言葉であろう。学校では教師が正しい、家庭では親が正しい、とは言い切れず、校則や門限もタダの決め事である。「なぜ守る?」と、問われた教師も、親も、「決まりだから守れ」というしかない。
世の決め事は立場が変われば「正誤」も変わるとあっては、本当に正しい事はないことになる。が、それでは社会の秩序は保てないし、だから法や決まり事を作って人を従わせ、守らせようとする。作った以上は守る義務があり、守らない場合は罰を与える。こうでもしないと、人を統制する事はできない。が、罰なくして守らせるものがあるならそれは素晴らしい。
これが宗教である。宗教は神の命であるから、神は罰するために直接手を下さないが、それでも人は罰を恐れるところに宗教(神)の権威がある。新興宗教の教祖は神ではないから、教義に反したものを罰したりする。除名とか、強制退会とか、「幸福の科学」や「創価学会」などにはそういうケースがあった。人が寄って集って神輿を担ぐ宗教の本質はそんなものだ。
話が複雑になったが、「正しいこと」など絶対にない。あるのはモラルや道徳や決まり(法)であって、「真理」以外は戯言であるが、その「真理」とやらはあるのか?人は普遍的に正しいモノを探すし、それにもっとも近いのが「宗教」である。上の書き手は、「自分のされて嫌なことは相手にしない」、を"教え"と記している。親か、教師か、書物か、誰かの教えであろう。
教えに反する事はマチガイではない。発した側はマチガイというだろうし、世間の多数がマチガイと賛同しても、自分がマチガイと思わなければマチガイではない。誤解なきようにいえば、自分が「正しい」のではなく、「マチガイ」ではないということ。決定権はあくまで自分にあるということ。それで周囲からどう思われようが、嫌われようが、自分の生きる道だ。
人から嫌われたくない、後ろ指を指されたくないなら、付和雷同に生きた方がいいが、それを好まぬなら、赤を黒というのは自由である。自由主義者も社会主義者も、宗教者も無神論者も自由である。人から「勝手な奴だ、付き合えん」と思われるのも自由である。自分は上記発言者の考えを否定はせず、「されて嫌なことは相手にもしない」は人間社会の鉄則とした。
「鉄則」はまた願望である。人が人を思いやって築いて行く社会の方が住み易いという「願望」であり、そのことに一抹の不安はない。よって、コレを正しいとするのは多数派であろう。自分の嫌=相手の嫌とは言えないも事実であっても、これを否定する事にはならない。なぜなら、「嫌」=「迷惑」ではないからだ。そう言う事は結構あるし、一例をあげる。
「お前が嫌かと思って○○しなかったんだ」、「そうなんだ、別に嫌じゃなかったけどな」、「そっかー、配慮したつもりだけど悪かったな」という相手に対して、「何でオレを外すんだよ、無視するなんてヒドイじゃないか」、「いや、前にお前は○○は好きじゃないみたいにいってたので」、「そんなこと言ってないぞ、仮に言ったとしても、前は前、今は今だろう」
という人間もいる。善意も仇となり、配慮もお気に召さぬという事例である。こういう場合、どうすればいい?「善意」と思った側が謝るしかないが、それでも「オレは悪くない。謝らん」という人間もいたり、とかくこの世は問題が多い。人によって変わる以上、正しい答えというのは流動的である。この手の問題には、小さな責任を認めて詫びるしかない。
「オレは謝らんぞ、悪くない」というのは100%責任がない場合にいうべき言葉だ。が、100%責任がないというのは、そのように見ない自分の独善であろう。だからこういう人間も、無視されたと怒る人間も、その人の持つ基本性格が災いを起こしている。自分の何かに気づかねば、人は誰でも自分が正しい。さするに、人は自分の正しさを補強するために嘘をつく。
少しでも誤りや間違いやミスがあったと気づいたなら、居丈高にはなれないはずだが、自分の過小なミスを認めたくない人間の弱さ、その弱さを「業」と呼ぶ。分っていながらすっとぼけたり、隠匿するのは悪人レベルであろう。人が悪人になるかならないかの差は、自分の過小な責任に目をくばせるかどうかではないか。さて、小保方さんはどっちであろうか。
イロイロな可能性はあろうが、科学と言うのは地道な作業の積み重ねで、ファンタジーではないのだし、科学者というのは自らを疑うことのできる人をその資質とするなら、彼女は役者であっても科学者と言わない。刑事事件に相当する故意の何かがあったか否かは緻密な捜査を必要とするが、ハッキリ言えることはああいう女を傍において置きたくないということ。
人は人の心を正しく理解して付く合うのは不可能だから、予断と偏見がどうしても人の見方に影響する。予断はよくない、偏見はマチガイといっても仕方がない。長く付き合ってみなければおおよその事は分らないが、付き合う段階ではそれはない。偏見といっても、血液型であるとか、長女であるとか、一人っ子であるとか、末っ子であるとかの類である。
そういったものを心に秘して人を正しく判断していく時間を必要とする。先に書いた「人の心を見定めるなら病気をしろ」ではないが、ある意味正しい。また、「人はみな役者」というのも、人の言葉をすべて真に受けないための手法である。疑心暗鬼にならない程度に、相手の腹を読むという卓越能力は、何と言っても感受性の高さからでる洞察力であろう。
あとは人間関係の経験もモノをいう。これらが重々備わってない若い段階で、人とくっつく以上、離れる事はむしろ当然で合ったりする。現代のように出会ってから結婚が早いと、離婚の可能性が高いのは自明の理であろう。互いの弱みを晒せてからの人間関係だが、それだから安心というわけにもいかない。真の人間性や人間関係の発露はその先にある。
「自分のされて嫌なことは相手にしない」に異を唱えるのは、仮に相手が自分と違ってそうではなくても、相手に配慮がない点で間違っている。コレくらいのことで自分は傷つかないから、相手もそうだと思えばいじめになる。自分はコレくらいなんとも思わなくても、「もしや相手は気にするかも知れない」と、視点を最少に下げて行為する方がよい選択だ。
何も分らない状況にあっては、最悪のことを考えた行動の方に配慮がある。相手の性格云々は、後に分る問題であり、それを先にするのはマチガイであろう。「己の欲せざる所は人に施す勿(なか)れ」という慣用句は、自分が好まないことを他人に無理じいしてはならないと言うことだが、それをして相手が怒ろうとも、「自分はされて嫌だからしなかった」で理解をえる。
人との関係はそうでありたいし、もし逆に「自分はこれくらいは何とも思わないから、人にもするよ」は、強者の論理である。強者が傲慢になりやすいのは、こういう独善に気づかないからだ。弱者に視点を置くのも大事であるし、分らない相手には最大限の配慮で接することで、いずれも被害を被ることはない。やさしさは心の余裕であり、ゆとりであろう。
暖かい人にやさしさは所有されている。やさしさを演じる人もいる、過剰な親切をする人もいるが、愛に飢える人は騙されやすい。"③自分がされたら嫌だからしないということでは結果的に、相手を嫌な気持ちにさせたくないというより自分がされたくないからという身勝手に聞こえるから"については、真っ当な考えに思えるが、筆者の心にやさしさは見えない。
なぜなら、「自分がされたら嫌だからしないということ」は結果的筆者のいうように、自分を差し置いての行為ではないからだが、心にやさしさのない人は斯様な気持ちを隠し持っている。こういうニヒルさが、現代人の特徴である。「オレもしないから、お前もオレにするな」というのが、人と人との付き合いのスタンダードになっているのではないか。
筆者がこの言葉を添えた時点で、彼女の真意が理解できた。相手を無条件で労わる喜び、やさしさをどうやら彼女は社会教育から得ていない人のようだ。自分の行為には裏があり、よって相手の行為にも裏がある。現代の若者にはこういう考えが規範意識にある。自分がされて嫌な事は相手にはしないのに、もし相手にそれをされたら、自分は損をしたと思うのだろう。
確かに自分が相手を配慮しているのに、相手は配慮などしない無神経な人間はいる。仮にそうであったからといっても、自分の人に対する配慮を止めていいものだろうか?「くっそー、こっちが気を使ってるのに、相手も使えよ!といいたくなる」と、こういうケースはしばしば耳にするし、自分も若い頃はそのように思う事が多かった。で、今は?思わない。
相手へ配慮は、相手からの対価を求ないでする。気を使うではなく、気を配るのは配慮であり、気を使うはしんどいだろう。相手が同質でなくとも、こちらは相手をコントロールできない。松井秀喜も同じようなことを言っていた。そういう場合、「仕方ないねー、相手の性格だから」と目くじらを立てない。相手がどうであれ、のべつくまなく相手への配慮はする。
人(のため)にするのではない、自分がしたいからする。自分の信ずる生き方であるからする。まあ、「仏の顔も三度」というように、あまりに無神経で攻撃的な相手なら、さっさと付き合いを止めた方がいい。物分りの悪い人間と付き合うのは多少はしんどいが、分からせられたら…、という希望がある。が、こちらに危害を企てる人間と付き合うなどは論外!