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せんとこ~バレンタインデー

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誰だって子どもの頃に、「○○と遊んではいけません」と言われた経験はあろう。そういう時に「なぜ?」と不満に思ったはずだ。「付き合ってはいけない人間」は確かに存在する。~と、昨日書いた。本日は『バレンタインデー』という特別な日であるらしい。何が特別かといえば、気持ちが特別になるのか?この日に愛する彼氏に対して、気持ちが高揚するらしい。

「するらしい」としたのは、女でないからよく分らない。が、高揚したらチョコを贈りたいのは実は違うと思っている。高揚したからチョコを贈るのではなく、『バレンタインデー』だから贈っている(と思っている)に過ぎない。なぜなら、高揚したときにチョコをあげたいと普段は思わない、そう言う事をしない。単に風習であろう。風習を否定しないが、好き嫌いはある。

「我は我、人は人にてよく候」と、これも昨日記した。人は人なのよ。自分は興味も関心もなくても、全国的に「お盆」や「正月」みたいなものだから、他人を批判をすることでもないし、自分は自分を批判をすればいいのだが、それでも『バレンタインデー』にチョコを贈りたい女の気持ちを無視し続けたことに対して、時々の彼女に「お悪うございました」と言っておこう。

イメージ 3社交辞令である。基本は自分で、嫌な事はされたくないのだ。相手が嫌でも自分はしたいというのは良くない、正しくない。「どうしてこんなつまらない彼氏なんだろう」と思われても構わない。なぜなら、『バレンタインデー』を嫌がることで、自分の何かを否定するような短絡的な女ではなく、自分の奥底にある何かを見つけ出して肯定し、理解してくれる女の方がいい。
「正月は嫌だ」、「お盆は嫌だ」というつもりはないし、それと同様に『バレンタインデー』を嫌がっているのではない。決まった日に、決まった事をするという国民的行事が嫌なのだ。このブログを立ち上げて8年4ヶ月になるが、『バレンタインデー』に関する記事を書いた記憶は無く。"死ぬまで生きよう "バレンタインデー"で検索いれると2本ヒットした。

一件は、2012年5月2日の記事で、"バレンタインデー破局をブログに綴った長谷川理恵"、もう一件は、2014年1月24日のタイトル『友人論』である。なぜ、記してないかは興味のない事だからで、少しその理由に触れているが、今回は徹底的に「興味のなさ」について書いてみよう。「興味のある」ことについての理由があるように、「興味のない」ものの理由も書いていい。

自分の心にどれだけ正直に書けるか、への挑戦でもある。世の中、確かに『バレンタインデー』商戦やそれから派生する『ホワイトデー』商戦の移行というのは、特に後者は商業主義に毒された日本人の「バカさ」、「浅ましさ」だと思っている。いかに世間の流れだの風習だのといわれても、そんな風習は腐臭として取り合わないでいれるかどうか、は人それぞれだ。

が、自分はそれができる。ケチだと言われようが、言われて幸いくらいにしか思わない。そういう目論見で贈るチョコなどハナから腐っているのだから、もう止めたら?と暗黙の進言になっていいと思っている。何かを充てにするために何かをするということを根本的に嫌うのが自分流である。従ってそういう相手は自分的に「付き合ってはいけない」人間の筆頭である。

こういう書き込みを見た。ここまで書くことの驚きというのか、それを超えて自分には愚かな人間にしか思わないが、バレンタイン~ホワイトデー商戦と言うのは、こういう愚かな人間を作ることに寄与してとも言える。となれば、そこは問題であろう。これはもう企業の社会に対する使命を逸脱した行為であり、。即物的思考の蔓延を憂慮せざるを得ない。以下その書き込み。

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「30代独身女です。年甲斐もなくバカなことしちゃいました…。婚活で出会い、付き合い始めて半年の彼氏に、バレンタインデーの希望を聞いたら『ケーキ』と言われたので、一生懸命ガトーショコラを手作りし、他にも手作りランチをいそいそと準備してお迎えしました。ガトーショコラは喜んでくれました。で、ホワイトデー。何もなし。話題にすら上らない。これって振られたってこと?

私は全くどうでもいい存在?モノグサな父親でさえ『パートさんへのお返し何がいいかな?お前だったら何がほしい?』など聞いてきたし、ホワイトデー過ぎると母親に、『ホワイトデー何もらったの?』と聞かれ、なんとなくみじめで閉口してしまいました。私は何も高価なプレゼントなど期待していないのです。一応ホワイトデーを意識してくれている気持ちが伝われば、少しは安心だったのです。

彼も色々忙しいのは分かるので、いい歳してホワイトデーを期待するなんてバカだとは思いましたが、愛情をはかる一つのバロメーターみたいに思っていただけに少しショックでした。クリスマスも誕生日も素敵な演出をしてくれたのに…。なのでホワイトデー後2回目にデートした時に、ついに『ホワイトデーなかった…振られちゃった(プクッ)』と、冗談めかして言ってしまいました。

彼は苦笑いした後、近くのドーナツ屋でドーナツを買ってくれました。『これホワイトデーね』、『うん!(嬉)』でも今思うと自分から催促することの空しさ・恥ずかしさ・浅ましさ・情けなさと言ったら…。こんなことで『大切にされてない』なんて思うのは子供ですかね?なんだか色々とやる気なくしました」。羞恥と言いながら羞恥を行い、はたまた羞恥を書き晒す。

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これを羞恥の認識とするかといえば、そうは思わない。これが今の世の人よ。人間のあまりの種類の多さを知らされる。これも女性の心理なのだ。すべてとは言わないにしろ、こういう女性が『バレンタインデー』商戦、もしくは『ホワイトデー』商戦を守り立てているのだ。少なくとも欧米人のように『ホワイトデー』を冷ややかに見るように、日本もそうあって欲しい。

は、この国では成熟した女性を望むのは間違っている。上の女性は、「バカなことをした」、「子どもなんですかね」といいつつ、決して自己断罪をしていない。言葉と心が裏腹ないかにも日本人的様相を示している。『ホワイトデー』的見返りがないのは、大切にされていないと思うところに即物的文化の餌食になっていると思わざるを得ないのだ。

昔ある女性の言った事がある。「もらって嬉しいものって何だと思う?」と、これは問いかけの様式を見せてはいるが実は問いではない。普遍的な答えを提示しているのだが、女性がその答えを気づくかどうかは定かではない。自分が指摘したいのは、もらって嬉しいのは「言葉」という回答だ。それも「心のこもった…」という形容詞が大事である。そこが互いの共通であれば…

なぜに「物」なのか?この言葉を掲げて、それでも「物」なのか?であるなら人間とは一体に何なのか?と、これが自分の人と人との命題である。これを掲げ、教え、諭すのが自分の理想とする関係である。が、批判は構わない。心のこもった言葉以上に大事とすべきものがあるなら、つまりそれが「金銭的な譲渡であり、物である」と主張するなら持論を述べればいい。


自己の価値を主張して相手に理解を求めるのは大切だ。互いが理解しあうよう努めるのが先決だが、どうにも理解し合えないこともある。自分が引くことで相手を立てるか、退いて去っていくかの選択となる。無理をして一緒にいっても将来的に遺恨を残せば、破局は目に見えている。映画『追憶』はそのことを教えてくれた。愛国主義者の夫と社会主義に傾倒する妻。

水と油である。二人はそれぞれに努力をしたが、結果的に離れざるを得なくなった。ラストの場面で、相変わらず該当でチラシを配布する元妻に遭遇した元夫は、彼女の生き生きした様子に安堵する。無理を封じ込めて生きる事は自分を生きたことにはならない。結婚は妥協というが、妥協が良かったか悪かったかを人は知るときがくる。悔いとは未来でしか確認できない。

そこはどうにもならないこと。今する決断が「悔いを残さないものか」、「悔いをすることになるのか」そこは分らない。が、分らないことを決断しなければならないのが人間だ。だから、そういう時に占い師に相談したり、いろいろ手立てをするが、それが藁であっても頼ってしまうのが人間。決断の怖さ、苦しさは、それを強いられた経験者なら分ろうというもの。

人間の苦しさは、自身が真に望んでいるものでさえ隠そうとするところにも現れる。現代人が自己の深みにまで自分に到れないのは、やはりどこか自分にウソをついているからだろう。自分に正直に生きる事はそれほどに難しいことなのだ。背負っているものが多すぎる、大きすぎると人間は苦悩する。身軽な人間が生き生きと、伸び伸びして幸福そうにみえはしないか?

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すべてを棄てて身軽になれるならそうするのがいい。苦悩からも介抱されるが、自己を押し込めると行き場がなくなり、自らの命を絶つことにもなりかねない。多くのものを背負った人の失敗は、しがらみの中で正しい対処が見つからない。佐村河内は死なず、笹井は死んだ。二人を雑草の強さ、エリートの脆弱さと見る事はできる。そればかりではないのだろうが…

小保方?あれは女のしたたかさであろう。女の強さは自殺の男女比にも現れている。日本で男性の自殺者は女性の2.5倍である。現在のように中高年の男性自殺者が急増する前はだいたい2倍だったが、男性が女性の2倍というのは世界的に見ると小さい。米国では男は女の4.2倍、英国は3.6倍である。これを見ると、日本では女性の比率が高いことがわかる。

男にとって命は借り物に過ぎないが、女は全身が自分の命である。地位や位階や勲章もらって無邪気に喜んでる男とは根源的に違う生き物である。女の依存はある種のズルさであろうが、いざ一人で生きることになったときの逞しさは男の非ではない。男は理性の奴隷であるから希望や目的を失った男は生きることを止めたがるが、女の生命力は希望や目的などヘタレの戯言だ。

チョコを贈る女よりも義理チョコを貰おうとする男のバカさを問題にすべきかもだ。「今年は土曜だから職場で"義理チョコ"もらえず、収穫はゼロ!? 」などの言葉があった。確かに本日14日は土曜日だが、こんなことをいう男はもはやヘタレ以下、ただの「屁」であろう。ヘタレというのは屁を垂れる物体だからまだしも、「屁」はただの空気でしかない。

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分らない。義理チョコを貰いたいという心理は分らない?チョコが食いたいなら買って食えばいい。貰うことにどういう意義(意味)があるのか、とんと分らない。分らない事は想像するしかないが、自己顕示欲?それくらいしか浮かばない。チョコが食いたいわけではなく、女子社員に貰うことの優越感?そういう奴は、お返しする『ホワイトデー』も自己顕示披露の楽しみ?

子どもが物心つく前から、「誕生日、父の日や、Vデーなんかしなくていい。そんな事は余計なことで、貰って嬉しくもない」と申し渡した。理由はいくつかあるが、お決まりの日に、お決まりごとを申し合わせたようにするバカバカしさ、それを期待する自分の心のやましさ、期待しているにも関わらず、それを秘し、何事もなかったような不意を突かれたような顔をする。

そういうワザとらしい事が嫌なのだ。別の生き方をするなら、「明日はVデーだ、期待してるよ」と言う方がまだムズがゆくはない。が、子どもの少ない小遣いからチョコなんかどうでもいい。ネットに書き込んでいた上の女は、「ホワイトデー過ぎると母親に、『ホワイトデー何もらったの?』と聞かれ、なんとなくみじめで閉口してしまいました。」などと書いている。

正気でこんなことを思うものかと、読むのも恥ずかしくなるが、人間とはこしたものでもある。ホワイトデーに何ももらえなくて、人間の何がみじめというのかと。「お前どうかしてるんじゃないか?」とそばに居たらバカ呼ばわりしたくなるセリフである。「人は人」といったが、こう言う事を「みじめ」というなら、自分にとっては看過できない「みじめ」という言葉の用法だ。

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「みじめ」というのは、こんな風にも使うのかと。もし人間が、人から戴き物がなければ、相手の気持ちが伝わらないというなら、何と不幸なことであろうか?気持ちを物に置きかえて、物をもらえない事が不幸であると感じる人間の心のさもしさ。そういう人は一体何を信じて生きていくのだろう。貰って最も価値のあるものは言葉といった。「真心ある」という形容詞つきで…。

が、それより上に位置するものは、言葉を戴かなくても感じる幸福であろう。「言葉」も「物」も所詮は「代用の具」であろう。「目に見えない心を形に…」というデパートの歳暮用のキャッチコピーに翻弄されるほど愚か者にあらず。見えない心を感じとれることこそ、本当の価値ではないだろうか。他人がどうであれ、世間がどうであれ、自分はそういう価値を生きていく。

期待をしていながらすっとぼけ、「おお!チョコレート、ありがとう」などとクサイ演技のムズガユさ。『バレンタインデー』ハナで笑って無視でいれる恋人、夫婦は、その「愛」に確かなものを抱いているか、もしくは「愛」を喪失しているか、いずれかだ。冷え切った心で暖かい言葉を贈られる位、言葉を受け取る人にとっての不幸はないが、人は役者、後ろめたさでそれをやる。


きれいな心で、それこそ純粋に『V-day』や「B-day」を待ちわびる女もいるだろう。少女のようなけなげな心で…。反面、そうではない女もいるだろう。どちらがどうか、真意のほどは分らない。女の演技を見抜ける男などそうそういない。一番確かな事は、『V-day』以外の日常で、いろいろと、しっかり判断することだ。まやかしの臭い香る『V-day』は、その意味でも不要である。

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