世の中には相手が気にしたり傷つくような事を、平気で口にできる「口の悪い」人間は多い。そういう言葉を子どもの頃からとっちめないで、言わせ放題にした親にも責任があるが、原因はそれだけではない。口の悪い人間には以下の要素が当てはまる。①無神経、②自分が偉いと思っている、③物事批判的、④相手より優位に立ちたい、⑤何も考えてない(頭が悪い)。
こういう口の悪い人間にはどう対処するべきか?口の悪い人間と悪口好きの人間は区別をされるが、「悪」とつく以上、よい要素はない。「お前は口が悪いな」と返せば、「自覚してる」と開き直る人間の多きこと。長年それでやってるなら、あちこちで指摘もされるし、当然自覚もあろうが、それでも直さないのは、直すのが大変だからだ。ただし、口が悪くても悪気のない奴もいるから見定めも必要である。
「ちょっと口が悪過ぎないか?何をいうのもいいが、聞いてて気分が悪いから他で言ってくれ」といえば、反省する奴もいる。これは性格が正直すぎる反動で、ありのまま、感じたままを言う人に多い。「ありの~ママに~」は流行りのようだが。言い合いを避け、喧嘩を避け、面と向かって悪口を言わない事が付き合いのコツというが、一概にそうとは言えない。「雨降って地固まる」という。
悪口がやめられない理由は、言って楽しく気分すっきり、おまけにストレス解消になるからだろう。「私は性格悪いよ」という女が居た。「お前よく自分で"性格悪い"と言えるよな?オレなんか、自分の悪いとこも、いいところも良く分らんし、人がアレコレ言ったり、指摘してくれて判るものだと思いが、その"性格悪い"とやらは、どういう部分を指してそう思ってるんだ?」
というと、「私は嘘をつくんです。無意識につく嘘も、意識してつく嘘もあるし、でも人から信頼されてない。だから性格悪いと思ってる」、「なるほど、嘘つきは信用されないのは当然だな。お前は嘘をつくことで自分の身を守っているんだろうし、他人は嘘をつかれない事で自分の身を守る。だから、嘘つきの言葉を信用しない他者は当然の自己防護だよ。で嘘をついたときってどうなんだ?」
「そりゃ、気分はよくないですよ。ああ、またやっちゃったみたいに、あとはどうやってこの状況から逃げるかしか頭にないし…」。まあ、そうだろう。嘘をついていい気分ならんし、ついた嘘を守るためにまた嘘をつかねばならず、1つの嘘がどんどん嘘の連鎖となって行く。整合性をとったり、矛盾を調整しなければならぬが、、「そこまで考えてない。嘘をついて逃げるだけ」という。
頭のいい人間なら嘘の連鎖を緻密につないだり関連づけてごまかすが、常人の嘘はついて逃げて終わりだろうし、女のつく思慮ないその場限りの嘘は、あまりに幼児的で話にならなかったりする。悪口というのは人のいないところで言うのがスジだが、嘘は人がいるところ、つまり人にいうものだ。誰もいない部屋で一人、自分につく嘘というのがあるのだろうか?
「自分を偽る」というが、それは人に対してでなく自身に対していう。自分に嘘をつくということか。部屋の掃除を自分のためではなく、やってくる人のためにする人がいる。そういう人に本当の友人はできない。普段は掃除も片付けもしない人が、人が遊びに来るときに限って掃除をするのは、部屋の汚いのを見られたくないし、普段は掃除をしないのにきれいに片づいた自分を見せようとする。
部屋に来られるのを嫌う女がいる。理由は聞かずとも分る。「汚いけどいい?」という女もいる。女の子がこんなに汚くしているのを見られたくないということだが、常時は汚く、あくまで来客用にきれいにする。やりたいだけの男に部屋のきれい、汚いはどうでも良く、屋根と仕切りがあればいい。ラブホと違って銭もいらない。その程度の男ならブタ小屋でもやれる。
息子の嫁が「汚い好き」(キレイ好きの対語として自分が用意する言葉)で、ゴミ屋敷と思うと行く気にならない。部屋に行くといえば片付けの大騒動が予想され、来てもらいたくない⇒来なきゃいいのにと、招かれざる客となろう。こちとら罪はないが、「汚い好き」からみれば、自分たちの平穏な生活を乱す侵入者となろう。そんな所に行く気は起こらない。
足も遠のく。姑(自分の妻)がひっきりなしに掃除にいってるようだが、いつまでそれを続けるのか?言うべきか、注意して片づけさせるべきか、妻は後者を選ばない性格だ。自分はどちらも選ばない。きれい好き、時間の厳守、几帳面な貸借関係とかは「観念」の問題だから、言って直るものではない。言われて直す人間もいなくはないが、向上心の強い人間であろう。
高い向上心を持てば人間的に伸びるが、それなくば人の言葉はウザイだけ。それを知る自分はバカには近づかないようにしている。汚い部屋を見て気分を害す、小言をいいたくなるなら最初から避ける。自分は君子でも賢者でもないが、『君子危うきに近寄らず』を踏襲する。これを孔子の言葉と思ってる人も多いが、これに酷似した言葉は『論語』にない。
教養があり徳ある者は、己の行動を慎むもので、危険なところには近づかないという意味だ。嫌なところには行かない、嫌な相手とは付き合わないと決めている。それがストレスを生まない方法であり、ストレスゼロで長年生きている。誰だって子どもの頃に、「○○と遊んではいけません」と言われた経験はあろう。そういう時に「なぜ?」と不満に思ったはずだ。
「付き合ってはいけない人間」は確かに存在する。親の価値観で「付き合うの止めなさい」というのも問題はあるし、自分はそういう親に従った事はない。昔の人間だから朝鮮人や部落民などを蔑む親の世代である。他人を否定的に見るか、どうかで人の見方は変わるが、自分は価値観を押し付けたり宗教の勧誘をしない限りは特に問題を感じない。自慢したり威張ったりする人間にはむしろ同情をする。
若い頃に比べて「嫌な奴」の類が圧倒的に少なくなった。話してみて嫌な性格所有者に出くわすことはあるが、上手く対処できるようになった。それでもあまりの奴にはガツンと食らわす事もあるが、自分が怒るとか腹を立てるというより、「バカかお前は!」的お土産である。若い頃から徹底して避けたのは口うるさい女で、嫌な女の最高位にランクされていた。
心が安らがない、そういう女は。口数の少ない女は無害である。無用なことは喋らない派で、女の好きな世間話など無用の長物と思うからか、ブログにどうでもいいことを書く気も起こらない。どうでもいいは、日々の日記であろう。日本は中国や韓国と仲良くすべきと言うのも世間話ならこちらを好む。お隣さんだから仲良くしなきゃいけないという理由はどこにもない。
「遠交近攻」という言葉があるが、中国・韓国は近攻遠交のお国である。江戸時代の陽明学者、熊沢蕃山は、「我は我、人は人にてよく候」といった。これが人づきあいの最善であろう。相手は間違っているかも知れないが、彼自身は、自分が間違っているとは決して思っていないのである。だから、相手を非難しても始まらない…。と近年はすべてがここに帰結する。やはり、「人は人なのだ」と。
簡単で当たり前のことがどうして若い時分に分らなかったのか?若さとは自己中心で、自分が絶対に正しいという無知の極致である。また、若さとはなにより自信に満ちあふれ、その自信の根源とは実は自信の無さからもたらされている。自信があれば鷹揚に構えていれる。自らを振り返って思うに、若者の自信とは、無知と、思い込みと、自己中心思考であろう。
20歳には20歳の考えと経験しかない。20歳の思考と経験しかないものに、50歳、60歳の人間がアレコレいってみたところで理解できるはずがない。自分が若い頃とて同じであっただけによく分る。人は誰も自分の現実を生きているから、他人の過去を聞いたところで意味がない。また、人が現実に生きてることと、人はどう生きるべきかというのも、かけ離れた問題だ。
かつて若者にこれ見よがしに自己の経験を語ったが、今は、そんな恥知らずなことはしない。経験というのはあくまで自分のものであり、人に言って聞かせる代物ではない。同じいうなら、成功談より失敗談の方が笑えるだけに勝る。親に反抗した話をいくらしてみても、反抗できない子には伝わらない。なぜなら、反抗するより従っているほうが楽という場合が多い。
善か悪か、得か損か、面白いか面白くないか、楽か楽でないか…みたいな二元論で物事を判断するほ人間力を欠いたご時世だ。損を承知でやる事もあるが、楽な方だけになびけば、楽に生きる人間になろう。辛抱や苦痛から得るものなど考えもしない。失敗から何かを得ようとする人間と、失敗したら「もうダメ」と挫折感を抱く人間にとでは天地の差がある。
面白いか面白くないかではなく、ためになるかどうかの視点も選択肢に入れ、美味しいものだけを食べるだけではなく、人体にいいか悪いかの視点を欠かない食生でないと、ジャンク体になろう。ダイエットをするからと、炭水化物を排除すればいいのは誰でも知識はあるが、炭水化物は心筋などの運動やエネルギーをつかさどる重要な栄養素でもある。
極端なダイエットはその意味で危険であり、拒食症から命を落とした人もいる。適度な運動は脂肪の燃焼効果はあっても、心拍数や拍動を急激にあげる運動も危険である。自然の法則に逆らうのはよくないし、人間関係においても自分に無理をし、調子こいて暴言吐いてもスッキリいかないもの。久々に泰葉の記事が紹介されていた。彼女はうつに苦しんでいるらしい。
落語家の春風亭小朝と結婚前、交際中だった小朝の援助を受け1988年4月、小沢征爾や中村紘子らの母校桐朋学園大音楽学部に入学したものの、寝坊癖が直らず音大の出席が困難となり、3ヶ月ほどで中退。同年6月小朝と挙式するも、2007年11月に帝国ホテルの宴会場での金屏風離婚会見となる。夫への"金髪豚野郎"発言も話題になり、夫婦生活を綴った『開運離婚』なる著書を出す。
泥沼離婚の後も、やることなすことハチャメチャの我がまま泰葉は開運離婚はできたのか?久々に見る泰葉のおババぶりに驚く。うつ病でめっきり口数も減り、人と会うことを避けるようになった彼女の口から、「ちょっと、走りすぎた」という言葉が出る。当時は過激発言を面白がられたマスコミにいたぶられ、一人になったときに自我と格闘するやるせなさ…、こういうタイプが自我崩壊をきたす。
「私の体は穴だらけで、考えがどんどん外に漏れていく。だから私の考えは周りのすべての人に周知され、『あんな恥ずかしいことよくやるよ』と笑われ、『あんなひどいことやったんだ』と非難されたり、なのに体中の穴はどんどん大きくなっていく、今では電波という光の速さに乗って、世界中に私の考えていることが知られ、広まって行く…」。一例だが、これが初期の統合失調症患者が持ちやすい妄想。
イメージの中で「体」に穴が開いており、実際「心」ないし「自我」が穴だらけで崩壊寸前となる。さらには、自他の境界さえ崩壊しつつで、自我崩壊は人間が人間でなくなる事で、放心状態の日々が続く。周囲や世間の反応も怖れず顧みず、ムチャクチャやるのはいいが、吐いた唾をみんな飲み込まされるという恐怖から自己喪失感に至る。自己愛性パーソナリティ傷害人間の行きつく末路だろう。
暴言や放言は相手を傷つけるが、自分さえ傷つけてしまう。それが分らず、その場の気分と勢いで好き勝手を言う人は、暴言に対する周囲の呼応に押しつぶされる。心の弱い人間は死ぬまで悪口をいい続けなければ、自我崩壊の恐怖に怯えてしまうのだ。一度自我を崩壊させて新たな自分にリスタートするのが治療的にはよいとされる。本人にも、周囲にも…
「自己愛性パーソナリティ傷害の人物に対しては完全否定を続け、"誰も相手にしてくれない"という状況に追い込み、本人が認識した途端、自我崩壊となる。ここまで追い込まれるとうつ状態、パニック状態になる。自己責任として、そうでもなってもらわないと周囲がやってられない。どうでもいいから事を荒立てるのは止めてもらわないと、他人の生活に影響をきたす。
昨今の自分の母親の現状で、15年以上口を閉ざしていた自分に擦り寄ってきた。「この人を相手する人間は居なくなったのだ」と自分は理解した。妻に言わせると、毎日どこの誰かに電話をし、妻や息子らの悪口を言うのが日課だったらしいが、そうは言っても、聞かされる人もうんざり感に襲われたかで疎遠になったのだろう。自らが神ごとき人間は最後に孤立する。
甘えた人間というのは依存性の高い人間である。自己に甘え、他人に甘えるうちはいいが、他人がうんざりで放りだされると、新たな依存相手を探すが、それも尽きてくる。人は早期に依存を止めて自立し、不満も愚痴も自らに押し込んで解決を図らないと楽に生きることはできない。人は社会的動物だが、社会の一員として自立がされていなければ、正しくも全うな協調関係は望めないものだ。
お互い「持ちつ、持たれつ」という言葉が示すように、相手を従えさせ、半分は従う気構えが大事。神は人を従えるだけで、自ら従うことはない。それでも人は文句も言わずひれ従うのは神だからである。「さすがに神」と言うしかないが、穴だらけ、欠点だらけの人間にそんな大役が務まる道理がない。よって、人をひれ従わせようとする人間ほど、人間界ではバカの代名詞ということか。
人間関係はどう転ぶか予測がつかぬ以上、「当たって砕けろ」である。最初から他人の目を意識してやっていてはダメだ。子どもの素行に対する親の苦悩も、相手は人間関係のイロハも経験もなければ、習得もない子どもである。何事もまずは経験させて分るという前提で望めば、親自らがその機会を奪うことは戒められる。親の過保護、過干渉、自己イメージの高さがこの自立を阻んでいる。
ニートについていえば、「もう大人だから独立して一人で暮らせ」と家から叩き出すことだ。そうなればイヤでも食っていかねばなるまい。働きたくなくとも働かざるを得ない。自分は「学歴がない」、「気が弱い」、「一日中ゲームしていたい」などという寝言などいっておれない。"成人した子の面倒はみない"という最良の処方箋が分らない親がニートを生む。それくらい分らぬ親が親である悲劇。