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嘘つきが言う、「これは本当」は嘘。

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嘘つきが言う、「これは嘘」は本当。これは有名なパラドックスで、嘘つきは必ず嘘をつくし、だから嘘つきとなるが、嘘つきも本当のことを言う事はあろう。が、自分の知るある嘘つきの言葉に本当はない。もはや信頼もゼロということで、こういう嘘つきの被害から逃れるためには、言う事すべてが「嘘」だと思うこと。そう思っていさえすれば被害は免れる。

自分がまだ小学生の低学年だったころ、世の中の「嘘」に慣れてもないし、まして身近な親がそんなに嘘をつくなど思っても見ない。ところが先天性虚言癖の母に嘘ばかりつかれて頭を悩ましていたときに、我が家に奉行していた職人さんがこういった。「お母ちゃんの言う事はぜんぶ嘘だから…」、この言葉に活力を得た自分は母のいうことを信じなくなった。

兄ちゃん(そう呼んでいたし、自分が生まれた頃からいた職人で、本当に兄と思っていた)は、その言葉のおかげで母から言われぬ仕打ちを受けたようだ。母の言う事は何かにつけて「嘘だ!」と口に出していうようになった。母が「嘘じゃない」と言った時には、「お母ちゃんのいう事はぜんぶ嘘だと兄ちゃんがいってた」と言ったことで兄ちゃんはひどく恨まれた。

子どもはそのようになるとは思わないし、自分が母を信じなくなったのは兄ちゃんに聞いたから、というのは子どもにとって正当な論理である。根拠でもある。嘘などついた事のない、信頼できる兄ちゃんの言葉を信じるのは当たり前だ。が、「お前が余計なことをいうものだから、子どもが言う事をきかなくなったじゃないか!」と責め立てる場面を幾度も見た。

母はしつこく、執念深い性格だから、同じことを"これでもか"と何度も繰り返す。一度言えば済むことという観念がない。しつこい人間はそういうものだし、自分の頭に支配的にある言葉はいつもいつも口から出易いのだろうが、言われる者の身になったら溜まったものじゃない。「うるせーな、1回聞けばわかるよ!」という言葉を吐かずにはおれなくなろう。

ところが、雇用者が雇い主にそのような言い方はできないし、兄ちゃんは毎日拷問のように母からその言葉を突きつけられて苦悩したと思われる。兄ちゃんはある日突然、自分の前から消えていた。学校から帰ったらいなくなっていた。「辞めた」という感覚が分らない。幼児のころから添い慕っていた兄が突然いなくなることの淋しさで胸が張り裂けそうだった。

自分に言う言葉などなかったのだろう。今となっては喧嘩して出て行ったのかも知れないが、当時はそう言う事を考えることもなかった。母は人をキツク責める性格で、そこに遠慮も気づかいもない。自分の思いをストレートに発散させるだけの思慮なき人間だから、多くの人が迷惑を被るし、孫の仕事先、仕事中でも容赦なく電話をかけるという、稀有な性格である。

どう、分析していいのか理解に苦しむが、単純にいえば人の迷惑より、今の自分の何かを解決することを圧倒的に優先させるのだろう。つまり、自分にふりかかる問題しか頭になく、時間を置くとか、少し相手の状況とかを考えることをしないほどに短絡的な性格というしかない。社会に身をおき、真っ当な社会生活が出来ない人間である。「超自己中人間」といえば分り易いか。

人の配慮をしない人間の頭の中を見てみたい。現実にこういう人間がどうして輩出されるのか、親のせいなのか、それは分らない。母の父(自分の祖父)はたいそう厳しい人だったようだ。明治生まれの気骨に溢れた人である。一言も逆らうことの出来ない親に育てられた反動なのだろうか?あれほど自己に自由に奔放に生きる人間を羨ましいなどと思わない。

常時接する身内の心理や性格分析などはあまり意味がない。そんなことよりも、毎日ふるかかる現実にどう対応すべきかが最重要課題であるから、ここで自分が他人の心理をアレコレ言うのは、身内の爆弾からすれば暢気な言い草である。我が家には母という爆弾の導火線が、一体何十年間燃え続けるのだろうか?反抗したのは自分と三女しかいない。

現在はおっとりした性格の妻が無言の反抗を続けているようだが、昨日15年ぶりくらいに母と話した。長女からの依頼で、「もうどうにもならないから、何とかして!」と言われ、「あの人(母)と話す気はないし、声も聴きたくないから」と断ったが、「おばあちゃんがどうしても電話番号を教えろってうるさいので、何とか話してみてよ。向こうも話たいんだし」と言う。

「こちらからはしたくないが、電話番号を教えて向こうからかかるならいいよ」と告げると早速かかってきた。15年ぶりに聴く母の声だが、瞬時に過去の様々な確執が思い出す。(長い間争ってきたのは紛れもないこの声である)。そういう事も抹消したいので、できることなら互いが棺桶に入るまで、母の声は聴きたくないと念じていた。開口一番母はこういった。

母 「千加ちゃん(妻)が金庫のカネを盗んだので警察に言ったら、家族でよく話してくれと言われたから…」

自 「それで自分に何を言いたいわけ?」

母 「家にドロボーがいるのはやってられんし、警察に言うからといったら、"好きにしてください"というし、"あんたは手錠かけられて監獄に入って、それでもいいんか?”と嫁にいったら、"ドロボーなら罪だし、与えられた罰を受けます。だから警察に言ってもらって結構です"というんだ、この女は…。警察にいうのは身内の恥だし、そういう事はしたくないし…」

やれやれ、また自作自演かい。何かをやろうという気もないのに、架空の事象を自分の中に描き、それで相手を脅したり、スカシたり、やる事は50年経ってもかわってない。妻は以前もドロボウ呼ばわりされたと聞いたときに、「警察なりどこなり、気の済むようにしてください。私は何をされても構いません」と言えと指示、彼女はそのようにしている。

脅してひれ従わせようとする側に、脅しが効かないなら困るのは目に見えている。が、今度は「好きにしてください」と言うのが気に入らないと文句を言う。アレがだめならコレ、コレが効き目がないなら、とどんどんやる事がなくなって行く。そうすると脅しが効かないことの不満が増幅するという、まさに堂々巡りである。コレを一人芝居といわず、何という。

嘘にも種類やレベルがある。母の嘘は自分の友人を巻き添えにしたものが多く、そこがやるせない。自分と母との問題なら言い合で済むが、他人が巻き添えになると家の恥になる。今は妻が最大の被害者である。「このお金を自由に使っていい」と気前のいいことをいわれ、使ったら、「金を取られた」といわれたらどうか?殺人はこのレベルで起こるのだろう。

母の脳細胞は昔から幼児レベル以下である。が、それだけに話が通じない難しさがある。だから「お好きなように」というしかない。妻も就寝中の夜中にいきなり部屋に入って来、あることないこと吠えられたらやってられない。人を刺し殺すそんな勇気も度胸もない人間だからいいものの、ヒステリーで見境がつかなくなったら、と思うと心配の種は尽きない。

確かに夜中に部屋に入って来られる怖さはある。近所の人、銀行員など出入りの業者に妻の悪口を言うくらいなら我慢もできとう。そういう姑の行状と思えば別に腹を立てることもない。「お前が腹を立てる事はない。すべてはバカの所業と見下していればいい」と、コレがバカの対処法であり、妻は心神耗弱状態から「もう口を利きません」といえるまでになった。



「お母さんから、金庫と鍵を貰った。好きに使っていいといわれた」と聞いたときは、こんな母相手に長年の苦労がこれで実ったと安心していたのに、やはり母は一筋縄では行かない人間である。「好きに使っていいと、鍵を渡して言ったから使ったのに、言葉を返されたら、やってられんだろう」というと、「足腰立たなくなったら使っていいと言った」という。

「だったら、何で証文書いておかないんだ?後になって"足腰立たなくなったら"というくらいなら、始めに言っておけば使わないだろが。いや、足腰立たなくなってから金庫と鍵を渡せばいいのに、何で先に渡したのか?それで、"足腰立たなくなったら…"と言っても、警察も裁判所も認めるわけがない。あんたはそう言ったというが、証拠にない言葉は、言わないと同じ。」

「証文などと、そんなことをする身内がどこにある?口で信用するのが普通じゃろが」、「バカをいうんじゃない。証文はあんたを守るために書いとくもんで、足腰立たなくなったら使っていいと確かに言った、その言葉を守るためのものだろが。相手が悪人なら言った事も聴いてないというし、だから自分を守るために証文を書いておくべきだろが」

と、こんなことを言っても分るはずがない。「そんな女だと思わなかった。あの女は大嘘つきだった。騙された」と罵るだけで、何かを解決する意志はまるでない。とにかく、家にドロボーがいるというなら、警察に突き出すか、家から追い出すか、どっちかしかない。どっちでも従うといってるんだから、どっちか決めたらいいだろが、文句ばかりで何が解決する?」

もっとも母が何か結論を求めていないのは重々承知。結論を求めない愚痴や罵りあいに自分は参加する気はない。そこで母には三つの最終提案を突きつけた。①ドロボーの被害にあったというなら妻を警察に突き出す。②ドロボーを家にいるとの不安なら妻を家から追い出す。③妻は年寄りを置いて家を出れないといっているが、勝手にしていいとお墨付きを言い渡す。

「コレのどれかを決めること。自分の気の済むようにすればいいし、あんたの決めたことには誰も文句を言わずに従う用意がある」。こういう風に、物事の解決を図る気もなく、愚痴や不満ばかりいう人間には、何かを決めることを進言し、相手にしないようにすべし。愚痴や不満を聞くのも辛いが、辛い以前にそれは罪だろう。所詮は他者の悪口に加担していることになる。

憎き息子でも、嫁がさらに憎しとなれば、こうしてする寄ってくる節操のなさに加担するほど自分は無節操ではない。最後に母にこのように引導を渡した。「嘘つきは人を嘘つきというもので、この世にあんたほど嘘つきはいない。オヤジが死んだときに、相続放棄の用紙を送りつけ、"すべてはお前のものになるが、今は放棄をしておいてくれ"と言ったのはどこの誰だ?

それが、自分の意のままにならない、息子が言う事を聞かないと、息子にはカネをやらんと親族近辺に言いふらしたのは誰だ?自分は妻にいった。全部お前にやるから、我慢して一緒にいてくれ。見せ金で息子を意のままにしようなどと、そんな腐ったカネなど屁でもないわ。嫁に盗られたというなら半分は息子のカネだと思うこと。すべてを独り占めしたバチがあたったのよ。」

その言葉を受けて母はいった。「そんな作り話をいうのか?人が死んでいるときに、遺産がどうとか、放棄とか言うはずがない。」、「人が死んだから出てくる話を、綺麗ごとで片付ける、だから大嘘つきっていうんだろ。これ以上、不毛な話はしない。さっさと結論をだすことよ」。嘘つきとは、「言ったことを言わない」、「言わないことを言った」という人間をいう。

だから、嘘つきとは話の筋道が通る道理がない。言ったことを忘れたというのは、嘘ではないといい、嘘ではないから罪はないというが、忘れることの罪は思いといわなければ責任の置き場はない。したがって、「忘れた」という人間は、覚えている人間の言いなりになるしかない。それが「忘れた」人間の「覚えている」人間に対する誠実さであろう。

「忘れた」ことを正当化すべきではないのよ。「忘れた」ことで免罪されることではないのよ。忘れていても覚えてる人間には頭を下げるべきなのよ。「お前は小学生のころ、オレが親切に貸してやったものを嘘をいって自分のものにしただろう?」、「そんなこと覚えてないな~、いいがかりじゃないか?人から借りたものを盗るなんて、そんなことはしないと思う」

そう言われて、「そっか、なら仕方がない」と覚えてる側は言うのが正しい。が、本当に忘れていたか、とぼけていたか分らない。どちらにしても、そのような突っぱねは間違っている。往々にして、忘れる側より、覚えてる側の方が正しいと思った方がいい。それが人間性というものだ。したがって、数十年も前の事件を本当に忘れている場合は、以下のようにいうべきである。

「そういう事があったんだ。申し訳ないけど覚えてない。が、覚えてないが君のいうように、やった事は子どもといえども非道だし、今ここにこうして心から詫びさせてくれないか。お前の立場において考えると、謝罪の言葉もないし、地べたに頭を擦り付けても足りないほどだ。許して欲しい、本当に済まなかった」と、地べたに座して謝りたい気持ちになるだろう。

どれだけ、相手に同化できるかが、人間の思いやりの深さである。自己正当化して罪を逃れようとする人間と、たとえ記憶の隅から消滅したとしても、もしそういう事実があったならの前提で、相手に同化して謝罪できる人間の、「人としての差」であろう。こういう違いはどう育まれるのか、そこは分らない。が、ニーチェの言葉は常に頭の中央にドッカ!とある。

「人間の"生"の目的は、人への愛と謙虚さを身につけることだ」



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