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鳴くまで待とうホトトギス

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ホトトギスの季語は夏。春告鳥がウグイスなら、ホトトギスは夏告鳥であろう。文部省唱歌『夏は来ぬ』では次のように歌われる。♪ 卯の花の匂う垣根に 時鳥(ホトトギス)早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ 。初夏の五月に南方から渡ってきて日本に夏を告げる鳥。雪月花に並ぶ夏の美目でもあるホトトギス。昔は初音を待ちわびた。

初音を待つのはウグイスとホトトギスだけである。夜、密かに鳴くときは忍音といった。日本では古来から様々な文書に登場し、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑など、漢字表記や異名が多い鳥である。上に記したホトトギスの異称の中で、「杜宇」、「蜀魂」、「不如帰」の3つは、中国の故事や伝説にもとづくものである。

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長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し、自ら帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、「望帝」は山中に隠棲した。望帝杜宇が死したとき、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるために鳴いた。

杜宇の化身したホトトギスの鳴き声は鋭かったという。また、後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身であるホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず=帰りたい)と、血を吐くまで鳴いたという。ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。ホトトギスの激情的なさえずりは、和歌に多く詠まれている。

また、夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重された。『枕草子』ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれる。平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多く、これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りと考えられ、芭蕉もこの字を用いている。

子規をホトトギスの異称であり、正岡子規は結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えた。日本近代文学の師である正岡子規。この人の生き方は凄まじい。俳壇を確立した人物として有名だが、彼は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場した。子規は評論「芭蕉雑談」の中で、芭蕉の高名な俳句を次々と批判している。

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芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、正岡子規の志は、ニッポンという国の先頭に立って、新しい世界を切り拓くことにあった。芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれ、詩としての純粋性が欠けている点を問題にし、それまで認められていなかった蕪村の俳句を、技法的に洗練され、鮮明な印象を効率よく読者に伝えていると高く評価した。

喀血した自身をホトトギスになぞらえたことに象徴されるように、子規の文学は病とは切り離せないものである。乳児のころの子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。体質虚弱で背も低く、内向的だったことでいじめられた。 幼少時代からの友人秋山好古・真之兄弟とともに、時代の荒波に果敢に挑んだ青春時代の姿は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にもある。

子規は、志半ばにして病に倒れ、絶望の淵へと沈んでゆく。彼の強さは、絶望の淵に在ってなお、志を貫き続けた強靭な精神力にあった。肺結核から脊椎カリエスを患った子規の晩年は、自ら床を這い出ることもままならなくなる。結核は当時は死病と恐れられた伝染病であったが、子規の元には何十人もの仲間達がやってきては、病の床の子規の手当を買って出た。

死病のやまいびとにあって、大勢の人々を惹きつけた子規の魅力とは、何だったのか?一瞬々々を疎かにしない生き方だったに違いない。彼はその作品『仰臥漫録』あたりから人間が変わってゆく。諦めから離れ、生きるための全力投球を始めるのだが、ダメもとの開き直りの強さというのか、覚悟が定まってからの子規の生き方は、とてつもない迫力に満ちている。

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仏教言葉の「縁起」とは、自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており、したがってそれ自身の本性、本質または実体といったものは存在せず、空であると説かれる。 つまり、「悟り」を求めるものだが、決して「楽」を求めるものではない。平気で生きることの厳しさであり、その厳しさを持つ者であるが故に、人の心を打つ人格の輝きが生まれる。

自分の死からさえも逃げずに生きるということの激しさと情熱を、私たち日本人は、どこに置き忘れてきてしまったのか?五体に不満があるわけでもなく、体の奥深くに死の病巣があるわけでもなく、それなのに我が命を捨ててしまう人が、毎年3万人を下回ることはない。「縁起」は読んで字の如し、「他」との関係が縁となって生起することである。

死と向き合っているからこそ、今この瞬間を生きることに全力を傾ける。本物の生命の輝きを正岡子規にみる。「縁起」に生きる人に死の寂しさはない。「死ぬまで生きよう」ブログのタイトルさだ、死ぬまでどう生きるかに触れていない。が、正岡子規の「平気で生きることの凄絶さ」に目をくばせるとき、『当たり前」とか「平然」とかの難しさを実感する。

難しい事はやろうとするが、当たり前の事が出来ないエリートの存在というものに驚かされたりするが、彼らは表を見せるけれでも、決して裏を見せない人たちなのだろう。それがエリートの弱さである。学問は頭を秀逸にするが、決して心を強くはしない。傷つきやすく壊れやすいガラスの心を持ったエリートは、学問の書もいいが、心の書を読む暇はないのだろう。

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生きることに正面から向き合うことが難しいのは、簡単なことを難しくしているからだ。学術書の折にふれて、良寛の書の真意を知ることである。良寛は独自の書法を編み出した人。それは、上手に見せようとするのではなく、「一つの点を打つ」、「一つの棒を引く」その位置の僅かなズレが文字の命を奪う。そんな際どい瀬戸際に筆を運んで良寛の書は出来上がる。

彼は子どもたちから凧文字を依頼されたとき、好んで「天上大風」と書いた。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、難しい説法を民衆に対せず、自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。詳細はNHKの『美の壷』のホームページにて。

良寛という人もまた、生きることに正面から向き合った人物だった。五合庵に隠棲する良寛の最期を看取った弟子の貞心尼が、良寛忌の際に贈った句が残っている。「生き死一致しない状況が長く続くと、「心」が置き去りとなり、 やがて「心」は疲れます。にの さかい離れてすむ身にも 去らぬ別れの あるぞ悲しき」。返歌がある。「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」。良寛辞世の句だった。「うら」も「おもて」見せれたのはお前のおかげだと。

「心のままに生きる」というのを人はどう捉えているのだろうか?人のことは分らないが、「心のままに生きたい」という言葉はしばし耳にする。自分なりには、発する言葉と心の言葉をひとつに合わせるということだ。言葉と行動が一致するのを「言行一致」というが、心と言葉と一致しない状況が長く続くと、「心」が置き去りとなり、 やがて「心」は疲れてしまう。

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女の子の決まり文句でよく耳にする言葉、「言えないよそんなこと。だって嫌われるし…」これをどう見る。女の子らしい、かわいさとみるのか?ズルさとみるのか?処世術とみるのか?自分はこういう場合、「無理をしてまで好かれたいのか?」、「無理は長く続かないだろ?」というが、その場限りで対処する人には、どうやらそうしか出来ないようだ。

1ヵ月後、3ヶ月後のスパンで会話をと言っても無理だろう。男も女もモテないタイプに共通する特徴としての「好かれたい」という気持ちであろう。誰でも嫌われたくはないが、「好かれたい」が強すぎると、卑屈なまでに相手に迎合することになる。「体ばかり求められるし、断ると嫌われそうで」という女の子の言葉は、女ゆえのやぶさかのない言葉なのか?

こういう男にどうすればいいのかは、誰にも言えないことだろう。自身の利害に合わせて自身が決めるしかないし、他人には何の利害もなく、まして当人の利害の程度はわからない。ひとつの提案として、「好かれようと思わない」態度を見せることだ。よそよそしい態度を取れではなく、「好かれよう」とするのを悟られないようにするのがよい。

あきらかに「ポチ」的な態度を見せると、相手は図にのってしまう。相手に「好かれよう」としている態度を悟られることは、暗黙の強制と同じこととなる。実際にモテる人間を観察してみるといい。決して媚びることなく、遠慮なくものを言うのになぜか好感を持たれる。理由はいろいろあるが、こういうタイプは、相手の方が好かれようとすることになる。

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つまり、こちらが好かれようとしないなら、相手が好かれようとする。理由は、ズケズケいうのが好感をもたれるからだ。有吉やマツコのづけづけは他人ことだからいいが、彼らとて自分が好かれたいと思う本人を前にしては、あんな風にはならないだろう。ところが、嫌われたくない本人の前でも終始、自分の態度を変えず、思うところは遠慮なく言う人間がいる。

そういう人が好かれる理由は、正直になりたい。この人なら自分も正直にいれそうというものが高感度になっている。つまり、良寛のいう「おもてもうらも見せれる関係」ということで、昨今は女性とて制約のない楽な関係を求める志向が強い。そもそも誰でもかれでも、前後の脈絡もないのに「人から好かれたい」と思うこと自体、どうかしてるし、オカシイ。

自分が自分らしく生きて、その姿を相手が好感を持ち、「いいな」、「こんな風にいきれたら」と思われるのが、真に好かれることである。それをふまえていえば、異性に好かれるコツは、「相手に好かれようなんてハナから思わない」にある。媚びてデレデレしてるばかりの男に対する女の触感は、表では愛想をしても、腹では見え見えの下心と思っている。

だから、見え見えの下心も感じさせないでいると、相手の方が他の男と違うし、こういう正直な人からみると、自分には魅力がないのか?といささか不安になったりする。ならないなら、ハナから気がないわけだから、デレデレしたり、媚びたりするち逆に嫌われるだけで、何の得もない。そこは相性の問題と諦めるしかないよ。先ずは嫌悪感を与えず、それからだろう。

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ホトトギスの話はどこに?であるが、ホトトギスといえば天下人3人の例のアレが頭に浮かぶ。「鳴かぬなら…」、「鳴くまで待とう」、「鳴かせてみよう」、「殺してしまえ」が家康・秀吉・信長の性格を表しているというが、自分に当て嵌めるとどうだろうか?「鳴かぬならバイバイするわホトトギス」だな。どのくらい待つだろうか?いいとこ20分程度かも知れん。

家康はどのくらい待つのか?秀吉はどうやって鳴かせるのか?信長は焼き鳥にするのか?などと、「それを言っちゃ~オシメ~だよ」。後人によって作られた比喩なんだから…。そういえばあまり知られてはないが、「鳴かぬなら 逃げしてしまえ ホトトギス」と、これは前田利家である。賤ヶ岳の戦いで利家が柴田勝家を裏切って逃げ出したことによるもの。

ホトトギスの鳴き声はカッコーもそうだが、オペラ歌手ごとき響きのよい声量があり、火がついたような、なにかをしきりに訴えるような迫力のある甲高い声で鳴く。フクローのような夜間も鳴く習性がこの鳥を有名にした。夜の静寂のなか、他に鳴く鳥も少ないことで注意をひき、昔の人の夜に対する特別な気持ちと相まってこの鳥を強く印象づけたのであろう。

鳥の声は文字に表わしても実感が出ない。昔の人はホトトギスの声を「テッペンカケタカ」と聞きならしたという。最近では「特許許可局」との聞きならしである。確かに「特許許可局」と聞こえ、とちることもない。「特許許可局」は早口言葉の代表である。聞いたままを文字にするなら、「キョッキョ、キョキョキョキョ」または「キョッ、キョ、キョキョキョ」となろう。


ホトトギスにちなんだ句や歌は多く、真っ先に浮かぶは、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」という句で、作者は山口素堂という江戸時代の俳人である。目にも鮮やかな「青葉」、美しい鳴き声の「ほととぎす」、食べておいしい「初鰹」と、春から 夏にかけ、江戸の人々が最も好んだものを俳句に詠んだ。作られたのは鎌倉で、当時鎌倉は鰹の名産地であった。


「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」というのもあるがこれは間違い。正しくは「目には青葉~」である。初鰹の美味しさは格別で、かつて江戸っ子が女房と娘を質に入れても食べたいもの、と言うほどの人気だった。素堂は、延宝3年(1675年)、江戸で初めて松尾芭蕉と一座し、深川芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に退隠し、芭蕉の門弟としてでなく友人として親しく交流した。

当時は初物を食べると寿命が75日伸びるという話もあり、そんな時代の庶民の生活を活写した名句である。1969年に小沢昭一、永六輔らと共に、「東京やなぎ句会」を発足させた演芸評論家の江國滋(1934年8月14日 - 1997年8月10日)は、俳人として俳諧味に溢れた軽妙な作風で知られ、殊に挨拶句の名手として知られ、長年日本経済新聞の投句欄「日経俳壇」の選者を務めた。

その江國は、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句を、「この句のほんとうの季語は、青葉でもほととぎすでも初がつおでもなくて『季節感』なのだ」と評しているが、「季重なりもいいところだが、(中略)こういう手法は商売人(俳句の専門家)の手口であって、アマチュアがまねするものではない」と釘をさしている。(『俳句とあそぶ法』 朝日新聞社巻)

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